夏の行方

Written by Eiji Takashima

第十五話 ひとつの風



そして僕達は再び歩き始めた。
バス停のところからずっと綾を背負って歩いていた僕だったが、しばらくして綾はそれを辞し、自分で歩いた。
僕にとってはともかく、綾にとっては半ば儀式的な代物だったのかもしれない。
ともかく、綾を背負いながら肩越しに交わした会話は、二人にとって大切なものだったと言うことには変わりがなかった。

二人で並びながらも、会話はあまりなかった。
釣瓶落しに沈む夕日が、僕達の気分さえも明るい昼のものから静かな夜のものへと変える。
しかし、不安はなかった。
まだ行き先すら定まらぬ僕達だったが、先へ進むと言う明確な決意がそこにあったから……。

いくつかのバス停を過ぎた。
歩く途中、バスに追い越されたりもした。
でも、そんな時はただお互いの顔を見て笑うだけだった。
確かに歩くのは疲れるけれど、僕達にとっては今、バスは帰る為の乗り物となっていた。
だから車窓から覗く乗客を物欲しそうな目で眺めたりはしない。
僕達は今、自らの選択によって歩いているのだから……。




「――何だか少し、景色が変わってきたみたい」

しばらくして、綾がふとそう呟いた。
僕も改めて見回すと、綾に応えて言う。

「そうですね。畑よりも民家が目立ってきましたし……」
「泊まるとこ、あるかな?」
「ええ、あるといいんですけど……まあ、季節外れではありますけど、この辺は冬はスキー場になるみたいですから、大丈夫だとは思いますが」
「スキー場があるんですか、この辺って?」
「ええ、確か。何でも東京から一番近いスキー場とか言って、一時期話題になったりもしたんですよ」
「へぇ……って、今は夏ですけどね。それに私、スキーとかしたいとも思いませんし」

笑ってそう言う綾。
僕も綾も、お互いに運動は嫌いだ。
まあ、スキーなら楽しいかもしれないけど、それでもあまり自分からしたいとも思わない。

「ですね。ともかく冬にはこの辺も賑やかになるんでしょうけど、ほら、今はこの有り様で……」
「まあ、しょうがないですよね。でも、設備はあるんだから……」
「おっしゃる通りです。多分、旅館とか、やってるとこはあると思いますよ。一応夏季シーズンにも入りますしね」
「じゃあ、ちょっとこの辺で探しましょう。あんまり遅くなると、問題もあるでしょうから……」



そして、僕達は泊まる場所を探すことにした。
この辺りは高地とは言ってもまだ山の中と言う訳ではない。
綾にはスキー場の話をしたものの、多分スキー客の為のホテルなどは、もっと登ったところにあるに違いなかった。
しかし、スキー場があればその近辺が栄えるのは事実で、もっと下ったところにもなにかあるかもしれなかった。

「あっ、見て下さい、潤。いい景色ですよ……」

気がつくと、僕達は見晴らしのいい場所に出てきていた。
ついさっきまでは右も左も畑だったが、今では左手が斜面になっており、下方には遠く沼田の城下と思しき街が見えていた。

「あっちは沼田かな? 結構知らない間に登ってきてたみたいですね」
「ええ……」

綾は僕の言葉に応えながらも、半ばそれも上の空で遠くの景色に見入っていた。
でも、それは仕方ないと思う。
本当にここは、いい景色だったから……。

しかし、ふと思う。
こうして景色を眺めると言うのも、しばらくなかったと。
高崎ではしばしそのような時間を持ったとは言っても、沼田に来てからそんな覚えはなかった。
それはきっと、僕が他のものに見入っていたからだろう。
そう、僕の隣でこうして遠くを眺めている綾に……。

「何だか遠くに来ちゃいましたね」
「ええ……」
「ほら、沼田の街並みがあんなに小さく……」
「本当にそうですね。全然気がつきませんでした……」

歩みを止め、景色に見入る。
昼から夜へと移り行くこの時、この一瞬が、僕達に何かを与えてくれる。
それが本当に刹那だからこそ、価値がある。

この景色はいつ見ても変わらずに存在するだろう。
しかし、今見ていると言うことが大切だった。
また再び綾と二人でここに来たとしても、同じ景色は絶対に見ることが出来ない。
僕はそう思うと、綾の隣で、同じ視線で眼下の街並みを見つめていた……。



「あっ、あれ……何でしょうか?」

だが、そんな静寂な時を乱すかのように、突然綾が声を上げる。
僕は何事かと思い、綾の指差す方に視線を向けてみた。
すると……そこにはこんな場所には不似合いな、SLの車両が見えた。

「SL……ですよね、あれ?」
「ええ……そうですよね。でも、どうしてあんなところに?」
「行ってみます? 丁度僕達の行く方向と同じみたいですし……」
「そうしましょう。何だか面白そうですしね」

そして、綾の表情に再び元気が戻ってくる。
しばらくずっと少々神秘的とさえも言える表情をしてきただけに、久方振りに見る綾の好奇心旺盛な笑顔は、
夕焼けに映えて本当に魅力的に見えた。

併せて僕達の鈍ってきた歩みにも元気さが戻ってきた。
明確な目的があるのとないのでは、やはり違うと言うことなのだろう。
ここは見晴らしがいい為、ずっその件のSLが見えている。
近くに来ないと何とも言えないけれど、こんな駅もないところにどんと置いてあるところを見ると、
やっぱり使用されなくなった車両を置いてあるだけなのだろうか?
しかし、そうではあったとしても、この旧式の蒸気機関車とブルートレインは貴重であるかもしれなかった。


綾はまるで何かを追うように歩く。
今はもう、綾にはそれしか見えていなかった。
僕は綾の後に続いて、半ば小走りに進んでいった。
そのSLが近まるに連れて、周囲も賑やかさを増す。
小さな商店や田舎特有の古びたガソリンスタンドなどが目に入り、ひとつの集落の中心部に来たことを感じた。

僕達はそのSLからぐるりと回り込むような感じで道を抜ける。
が、ついさっきまで近くに見えていたはずなのに、今はそのSLが見えない。
若干苛立った様子で綾は僕に話し掛けてきた。

「この辺だと思うんですけど……潤はどう思います?」
「ええ、確かに見た感じこの辺りだと思ったんですが、まあ、反対側ですからね。何かの建物の向こうにでもあるんでしょう」
「そう言えば、あのSLの奥にはちょっとした建物が見えてましたよね?」
「はいはい。そう言えば、そうでしたね。どんな感じだったかな……?」

僕はそう言って周囲を見渡す。
賑やかな辺りに来てしまった為、民家ではない建物も数多く存在し、一概にこれとは決め付けられないのが現状だった。


僕達は多少覗き見るような感じで近辺の建物を物色した後、ようやくそれっぽいところを発見した。
前面にはちょっとした駐車場があり、その両サイドにはテニスコートがあり、何らかの施設を思わせる場所だった。
その通りを挟んだ相向かいには小学校もあり、この一角が近隣の中心となっていることを感じさせた。

「ここ……でしょうか?」
「まあ、取り敢えず中に入ってみましょうよ、潤。違ったらごめんなさいして引き返せばいいだけですもんね」
「そうですね。別に入ったくらいで怒られるような感じでもないですし……」
「だったら善は急げです。私、もう疲れちゃいました」
「はいはい」

僕は笑ってそう答える。
綾もほっとして長時間歩いた疲れを一気に感じたのかもしれない。
ここがお目当ての場所とは限らないのだけれど……綾にはもう確信があるのだろうか?
僕は心配性だから何とも言えないけれど、今まで物色してきた感じから言って、ここが一番それらしく感じる。
正面に看板すらないのが気懸かりだけど、あっちの建物のところまで行けばあるのだろうか?
ともかく綾の言う通り、行ってみるのが先決だった。




「……ホテル?」

僕の口から出た最初の言葉はそうだった。
そして自分から率先して受付の人に聞きに行ってきた綾が、さも興奮した様子でそんな僕に答えた。

「そうなんですよ。あのSL、ホテルなんです。あれ、寝台車でしたよね? あそこに泊まるみたいですよ」
「な、なるほど……じゃ、ここで良かった訳だ」
「だからそうなんですって。今日はここに泊まっちゃいましょうよ、潤」
「って言うか、ここ以外にないでしょう?」
「そうそう。だから大蔵大臣様はフロントへ……」

綾はふざけてそう言うと、僕の背後に回って背中を押し始めた。
僕はびっくりして顔を綾の方に向けると、困ったように訊ねた。

「ちょ、ちょっと綾……大蔵大臣ってなんです?」
「だから、私は高校生で、お金もそんなに持ってないんですよ。だからここは潤が出して……まさかお金ないなんて言い出しませんよね?」
「い、いや、2万くらいならまだ財布の中にあるけど……」
「それだけあれば充分です!! さ、早く早く!!」
「も、もう……」

別に僕もお金を渋った訳じゃない。
ただ、綾の迫力に押されっぱなしだっただけだ。
とにかく綾はもう有無を言わさず僕の背中を押すと、フロントのところまで運んできた。

「済みません、二人分、空いてますか!?」

フロントに来るや否や早速綾が主導権を握る。
やっぱり僕はただの金蔵なのか?
ちょっと情けなく思いながらも、僕は大蔵大臣として綾とフロントの折衝を聞いていた。

「二人分くらい、余裕で空きがあるみたいですよ、潤!!」
「よかったですね。まあ、まだシーズンに入りかけですし、平日ですからね。空きもあるんでしょう」

僕がそう言うと、綾はむすっとした顔で応える。

「もう、もうちょっと嬉しそうな顔したらどうです? 駄目だったら、野宿する羽目になったかもしれないんですよ」
「そ、それもそうですね。ごめん、ちょっとぼんやりしてたみたいで・・・」
「しっかりして下さいよね。ただでさえ潤はぼけぼけっとしてて頼りない……って、あっ……」

つい、綾も本音が出てしまったのかもしれない。
事実、僕はあまり頼りになるタイプとは言い難かった。
僕自身、それを自覚していたし、だから綾がそう思っても仕方ないと思う。
僕は綾に言われてから、綾の、彼女だけのナイトになろうと努力してきたつもりだけど、やっぱり即席は即席なんだ。
綾もそれがわかっているから、背伸びをして大人ぶった態度を見せていた僕に何も言わなかったけれど、
心の中ではそれに無理を感じていたに違いない。
そして今、その事実がはっきりと露呈されたのだった。


取り敢えずチェックインをし、僕と綾は宛がわれた自分達のベッドに向かった。
建物の入口から反対側に抜けると、夕焼けの中に遠く見たあのSLが見えた。
写真などではよく見る蒸気機関車も、こうして間近に見るとなかなか壮観だった。
今では全く使用されておらず、こうしてホテルの一部として再利用されてはいるものの、多少欲も湧いてきて、
実際に煙を吐きながら疾走する様子も見てみたいと思った。

「…………」

さっきから、ずっと綾は黙ったままだった。
最初に僕に小さく謝った後、それ以来口を開こうとしない。
僕にとっては些細なすれ違いで、笑って済ませられるような話だった。
でも、僕と綾は同じじゃない。
たとえ同じ風を感じられる人間だとしても、全く異なるひとりひとりの人間なんだ。
だから、綾と心を通わせたからと言って、思い上がっちゃいけない。
もっと、綾を理解し、そして歩み寄る必要があると思えた……。


綾は僕から少し離れたところで、そっとSLの黒い車体に手をやっていた。
その冷たく硬い質感は、綾に何を感じさせているのだろうか?
物憂げな表情をした綾の横顔は、何となくさっきまでとは別人のようにすら思える。

元気で明るい綾。
僕をいつも面食らわせるそんな彼女は、閉ざされた僕の心を温め、優しく開いて行った。
もし、綾がこんな性格でなければ、きっと僕は高崎でそのまま折り返し、今頃は自分の部屋にいることだろう。
だからこそ、僕は綾との思いがけない邂逅を喜ばしく思う。
たとえ綾が僕に特別な感情を抱いてくれなかったとしても、間違いなく僕の旅は独りでするものよりもずっと楽しいものになっていたはずだった。

そして今、それは現実としてここにある。
現に綾はこうしてここにいるし、僕もその傍で佇んでいる。
でも、何なんだろう、この想いは?
綾を好きだと感じた時とは全く異なるこの感覚。
僕はそれに不可解な戸惑いを覚えていた。
そしてそれが僕を綾から遠ざける。
今までそんなこと、感じたこともなかったのに……。


「……潤?」
「あ、綾……何です?」

僕が物思いに耽っていた時、綾は僕に振り向いて呼びかけてきた。
僕は我に戻ると綾に言葉を返す。
そして一瞬だけ、元に戻れたような、そんな感じがした。
しかし、現実はそうではなかった。

「そろそろ中に入りましょう。荷物とか、置きたいですし……」
「そ、そうですね。SLも後でゆっくり見ればいいことですしね」
「ええ……」

そして、綾は視線で僕に軽く促すと、そのまま車両の中に向かった。
僕は慌てて綾の後を追うと、続いて中へと入っていった。



「へぇ、こりゃ凄い」

僕は思わず賛嘆する。
蒸気機関車だけでなく、客車のブルートレインもまた、かなり旧式のものだった。
外から見た感じも当然そうだったが、客車よりも蒸気機関車の方がインパクトが強いせいもあって、
あまり目を引かないのが実際のところだ。
もっと鉄道関係に興味がある人が見るなら別だろうが、僕にとってはただそんな印象しかなかった。

しかし、古い客車、しかも寝台車の内装と言えば、僕もお目にかかったことなどない。
小さい頃に一度だけ乗ったような覚えはあったけど、それも既に遠い過去の話で、僕の記憶も殆ど残っていなかった。
だから、懐かしく思うこともない。
しかし、古いものと言うのはたとえ以前それを見たことがないとしても、不思議な感慨を見た人に与える。
僕は二十年前にタイムスリップしたような心地で、狭い車内を見渡していた。


僕と綾は、すぐに自分達の場所を見つけた。
ここに辿り着くまでの間、数人のお客を目撃したところからすると、ここに泊まるのは僕達だけではないのだろう。
しかし、僕達のベッドのある車両には人気がなく、僕達だけで使用するようだった。

「他にお客さん、いないんでしょうか?」
「そうみたいですね……潤は上と下、どっちがいいです?」
「えっ、僕は別にどっちでも構いませんけど……」
「じゃあ、私は上がいいかな?」
「ええ、じゃあそれで……」

僕がそう言うと、綾は多少無造作に二段ベッドの上の段に自分の学生鞄を放り投げた。
そして手ぶらになると僕に向かって改めてこう言う。

「疲れましたね、潤。お腹も空きましたし……ご飯食べて、それからお風呂にしません?」
「え、ああ……そうですね。そうしましょうか?」

僕は小さくそう答えると、綾と同じように自分のベッドに鞄を放ると、そのまま来た道を戻っていった。



「…………」

今度はさっきとは違い、僕が前を、そして綾が後ろを歩く。
綾は僕の背中を見ながら、何を思っているのだろうか?

ここに来るまでの二人とは別人のように、何だか急によそよそしくなってしまった僕達。
築き上げてきたものが急だったからこそ、それが崩れ行くのもまた早い。
もしかしたら僕は自分の気付かないところで何か大きな過ちを犯してしまったのではないかと思い、
今までのことを振り返ってみる。
しかし、完全に事がすんなり運んだとは言えないまでも、特に何もないように思えた。
男女の機微には通じていない僕なだけに、それをまた元の形に戻すのも、どうしたらいいのか全くわからなかった。



「……何だか本当に学食みたいです」

テーブルに着いて、綾は水の入ったコップを両手で持ちながらそう呟いた。
ぎこちなくはなっていても、やっぱり食事のこととなるといつもの綾が顔を出してくる。
僕はそれを嬉しく思うと、そんな綾に応えて言った。

「そうですね。本当ならちゃんと食堂車とかで食べられれば雰囲気出たんでしょうけど、まあ、しょうがないですよ」
「でも、レストランとか、あっても良かったのに……」

そう言う綾の傍らには、二枚の食券が置いてあった。
冗談抜きでここは実に学食っぽく食券制だったし、メニューも学食に準じているとしか思えなかった。
しかも客が少ないせいか出せるものも限られてしまって、僕達二人は仲良くカレーを食することになったのだ。

「済みません、何だか折角の旅行なのにこんな食事になっちゃって……」
「いいんですよ、潤の責任じゃありませんから。それに私、カレー嫌いじゃありませんし」
「でも……」
「潤にはお金出してもらいましたからね。私も贅沢は言えませんよ」

そう言って、綾は軽く笑う。
でも、今の僕は綾の笑顔を直視することが出来なかった。
何故なら、綾の笑顔はこんなものじゃなかったから。
もっともっと輝いていて……そう、本当に生命の喜びを感じさせるようなものだった。
でも、今の綾は……明らかに、僕にでもわかる作り笑顔だった。


出されたカレーは先入観が大いにあるかもしれないけれど、如何にも学食っぽい味がした。
しかしまあ、だからこそ上品ではないにしても無難な味で、僕達はおいしく平らげることが出来た。
特に空腹感が大きなスパイスとなって、スプーンを持つ手も進み、食べる前はなんだかんだと口をこぼしていた僕達だったが、
食べている時は一心不乱で一言も口を利かなかった。

食べ終わり、一息にコップの水を飲み干すと、後はもうすることもなくなった。
僕と綾はしばし無言でくつろぐと、食器を返して食堂を後にした。


「お風呂とか……どうなってるんでしょうか?」
「あ、一応温泉みたいですよ。そういうのだけは、やっぱり寝台車よりいいですね」

綾は胃の中が満たされて少し気が紛れたのか、幾分軽やかに僕の問いに答えた。
しかし、それ以上は何もなく、僕達二人は離れ離れになり、それぞれの浴場に消えた。
もとより綾と一緒にお風呂に入るなんて考えたりもしなかったけど、でも、こうして完全に綾と離れ離れになると言うのは妙な気分だ。
今日一日ずっと行動を共にしてきただけで、一緒にいることが当たり前に感じている。
それは多分、僕がずっと日常とは異なる夢うつつの中に身を置いていたからだろう。

やっぱりこの旅の始まりも、そして綾との出逢いも、僕にとっては常ならぬことだった。
だから全てが特別に感じて……それはまるで、夢の中にいるようだった。
だが、それについては僕の理性が常に警鐘を鳴らしていたことでもあった。

夢を見過ぎては行けない。
現実から離れ過ぎては行けない。
今は旅と言う名の非現実だからこそ、上手く行っているように感じるのだ。
この夢をもし、現実世界へと連れて来ようとするなら、間違いなく齟齬を来すことだろう。

そして、夢の終わりはもうそろそろ見え始めている。
そのことが僕を、そして綾を不安にさせる。
綾の為に背伸びをし続けてきた僕。
でも、ずっとずっと背伸びをし続けられる訳なんてない。
いつか僕の踵は地について、そして……現実は間違いなく、やってくるのだった。



綾が温泉と言ったお湯も、僕にとってはただのお湯でしかなかった。
身体を洗い、今日一日の汗を流してから湯船に身を沈める。
お風呂の時間にはまだ早すぎるせいか、僕以外に人影は見られなかった。
僕は特にそんなことを気に留めることもなく、適度に身体を温めると、お風呂から出ることにした。

「……綾はまだかな。まあ、女の子だから、仕方ないか」

浴場から外に出て綾の姿を見出せなかった僕は、独りそう呟いて手近なソファーに腰を下ろした。
室内は若干冷房が効いているものの、お湯で上気した僕の身体を冷ますほどではなく、僕は熱い吐息を吐きながら、
さっきまで来ていた服に着心地の悪さを感じていた。


「お待たせです、潤……」

しばらくして、綾が僕の前に姿を見せた。
綾も僕と同じでお風呂に入る前と同じ格好をしていたが、幾分着崩した様子が妙に印象的で、僕は思わず目を奪われてしまった。

「い、いや……それよりも、髪、洗ったんですね」
「ええ、やっぱり髪だけは毎日洗わないと……」

綾は僕の言葉に少し恥ずかしそうにしながら、その乾ききらぬ濡れた髪にそっと手をやる。
洗い立ての綾の髪は、風にそよぐ髪とはまた違った意味で美しかった。
そして僕はつい、何も考えずに感じたままを口に出す。

「やっぱり綺麗です、綾の髪……」
「じゅ、潤……」
「あ、い、いや……そうです、外に出ませんか!?」

僕は自分の発言の意味を悟り、慌てて誤魔化すように綾にそう申し出た。
すると綾はそんな僕にクスっと笑って答える。

「そうですね。外は星も出ていることでしょうし……」

そして僕と綾は、建物を出て再びSLのある外に向かった。




外はもう、完全に夜だった。
既にここに到着した時も薄暗くなっており、夜だと言ってもおかしくはなかったが、それでも昼の名残を多分に残していた。
しかし、今は完全に夜の世界だった。
夏だと言うのに空気が澄んでいるのか、天高く星々が瞬いている。
僕と綾は二人並んでそんな満天の星空を見上げていた。
それはあまりに鮮明で、まるで手を伸ばせば届きそうな錯覚を覚えさせる。
僕はそれが錯覚だとわかりつつも、そっと天に向かって手を伸ばしてみた。

「……潤?」

僕の行動を訝しく思った綾が声をかけてくる。
僕はまだ手を伸ばしたまま、そっと綾に答えて言った。

「いやね……こうして手を伸ばせば、あの星のどれかに手が届くんじゃないかって……」

僕がそう言うと、綾は軽く笑ってこう評した。

「……メルヘンチックなんですね、潤って」
「別にそういう訳じゃありませんよ。僕だって……本当に手が届くなんて思ってません。
でも……こうして手を伸ばすこと自体に意味があるんじゃないかって、そう思えるんです」
「そうですか……」

綾は天上の星に向かって手を伸ばす僕の姿を、そしてその横顔を見つめながら、そっと呟いた。
そして何も言わずに、僕の真似をして手を伸ばしてみる。
僕の手も綾の手も、星には届かない。
でも、星を求めていた僕達の心は、星にも届いているような、そんな感じがした。



「……腕が疲れました」

しばらくしてからそう言って、綾は腕を下に降ろした。
僕も綾に倣って手を伸ばすのをやめる。
そして、そっと隣の綾に視線を向けた。
しかし、綾はまだ星空を眺めたままだ。

一体綾はあの星々の中に、何を見ているのだろうか?
僕はそう思い、綾に訊ねてみようと思った。
だが、それより先に綾が僕にこう言う。

「潤……?」
「……何です、綾?」
「その……」
「…………」
「その……さっきはごめんなさい、考えなしにあんなこと言っちゃって……」

綾の言う「あんなこと」が何なのか、僕にはすぐわかった。
だから僕は、軽く笑って綾を安心させるような言葉を返した。

「いえ、いいんですよ。別に綾が悪い訳じゃありませんから……」
「でも、私は潤を……」
「何も言わないで下さい。言葉にしなければ、夢のままで終われることもあるんですから……」

僕はそう答えた。
そう、綾に見せてきた僕は夢の幻。
背伸びをして格好をつけて……それは僕の本当の姿じゃない。
全てが偽りだなんて言わないけれど、それでも夢の中の僕であることに間違いはなかった。

でも、そんな僕に対して綾はようやく視線を向ける。
そして穏やかに、しかしはっきりとした口調でこう言ってきた。

「潤は……夢のままで終わりたいんですか……?」
「えっ?」
「潤にとって、旅とは夢の中のことでしかないんですか? ただ、美しい思い出になるためだけの存在なんですか?」
「そ、それは……」

僕だって、それを望んでいる訳じゃない。
でも、舞台は全てそのようにあつらえられていたのだ。

「私は、今までの潤も、全て高木潤その人だと思っています。それに、あなたはそんな器用な人じゃないから……」
「綾……」
「だから、私はあなたに謝ったんですよ、潤。あなたはあなたなりに私の為にナイトになってくれました。
そして、私はそれが嬉しかった……それじゃ駄目なんですか?」
「…………」

僕はなんて言ったらいいんだろう?
でも、綾の言葉が正しいものに思えたのは事実だった。
なのに僕は口が動かなくて……こんな自分が情けなく思えた。

しかし、ふと何かが変わる。
綾もそれを感じて、僕に向かってこう言った。

「……風……夜の風ですよ、潤」
「本当だ。お風呂上がりには、いい風ですね」
「ええ……」

それは微かなもの。
しかし、それが風であることに変わりはなかった。

それから綾も僕も、黙って風を感じる。
綾の髪は水分の重みのせいで動かされることはなかったが、それでも風を受ける綾はいつもの篠崎綾だった。
そっと目を閉じて、風に集中する綾。
一体この夜の風に、彼女は何を感じているのだろうか?
僕は風のことも忘れ、そんな彼女の横顔を見つめ続けていた……。



「――やっぱりいいですね、風は」

しばらくして、閉じていた目を開けて綾が僕にこう言った。
そして僕もそんな綾に応えて言う。

「そうですね。それにこれだけ空気が綺麗だと、また違います」
「ええ……それよりどうでしたか、潤は?」
「どうでしたか、って……?」
「だから、夜の風ですよ。何か特別なもの、感じましたか?」

綾は笑顔を見せながらも、真剣に僕に訊ねてくる。
でも、実際のところ、僕は風よりも綾のことを見ていたのだ。

「いや……言葉では上手く表現出来ませんよ」
「でも、何かが伝わったんでしょう?」
「それは……」

僕は口ごもる。
確かに僕には伝わった。
と言うよりも、僕はずっと感じ続けていたんだ。

そして綾は上手く言えない僕に角度を変えてこう言ってくる。

「潤は……言葉って、何の為にあると思いますか?」
「それは……何かを伝える為です」
「ですよね。でも、私達人間には言葉以外にも色んな伝達手段が備わっています」
「ええ、わかります。だからこそ、言葉なんて要らないって言う台詞が出てくるんでしょうけど……」

僕はそう言った。
実際、綾も僕も、言葉を越えた何かで通じ合っているような感じがした。
そして、それを「風」とでも表現したらいいのだろうか?
少なくとも僕は、そんな抽象的なもので捉えていた。
しかし、綾はそんな僕をまるで咎めるかのようにこう説いたのだ。

「私にもわかりますよ、それ。でも、私は違うと思うんです。確かに言葉がなくても何かを伝え合うことが出来るかも知れません。
でも、だからと言って言葉が必要ないなんてことはないんです。もし必要ないなら、どうして人間には言葉があるんでしょうか……」
「綾……」
「相手に何かを伝えたいなら、あらゆる手段で語り掛けるべきだと思います。心で、身体で、そして言葉で……。
それでも完全に伝わるかどうかはわかりません。でも、本当に伝えたいなら……潤はどう思いますか?」

綾の言う通りだった。
僕は綾に自分の気持ちが伝わっていると思い込んで、手を抜いていたのかもしれない。
確かに、僕の何がしかが綾に伝わっていたと言うことは間違いないと思う。
でも、綾の言う通りそれは全てじゃない。
全てを伝えたいなら、僕の全てで訴えかけるべきだった。

そしてそれを綾に教えられた僕は、綾に答える代わりにこう言った。

「……君が好きだ、綾。僕はこのまま、夢なんかで終わりたくない」

これが僕の言葉。
そして僕は綾への想いを全て伝えるべく、そのまま綾の身体を引き寄せ、きつく抱き締めた。
綾はそんな僕の突然の抱擁にも抗うことなく、静かに耳元で僕に囁いた。

「潤……届いたよ、潤の気持ち、ようやく……」
「綾……ごめん、僕……」
「いいの、私も……潤のこと、好き……だから…………私こそ、潤に先に言わせちゃって……」
「僕は男だから。だから綾が謝る必要なんてないよ……」
「うん……」

そして、僕は綾を抱き締めたままそっとその黒髪に触れる。
まだ湿り気を帯びた髪の毛は滑らかで心地よかった。
綾は僕がその髪に触れても何も言わない。
ただ、黙ってその手に任せているだけだった。

そしてしばしの静寂の後、僕は再び綾に呼びかける。

「綾……」
「なに、潤?」
「僕、ようやく見つけたよ。僕の、僕だけの風を……」
「私も……ここに来て、見つけた……」
「君のことを好きだと思った時から、そんな予感はあったんだ。でも、今ははっきりと言えるよ、綾。君が僕の風だって……」


僕の風。
そして綾の風。
二人の風は、こうして今、ひとつになった。
僕の腕の中にある綾の身体は、華奢ではあるけれど女の子らしく柔らかで、僕はこのまま離したくないとさえ思えた。
綾も僕の背中に両腕を回し、そっと引き寄せてくれる。
そしてその事実が二人を繋げ、想いをより深める。

僕は綾と言う名の風を感じたまま、そっと目を閉じた。
これは視界を閉ざしても失われることのない現実。
夢のような、そして風のような現実だった。
そして僕はそんな儚い現実をずっとこの手の中に仕舞い込んでおく為、ただ、綾を抱き締め続けていた。
ぎゅっと、強く、強く……。


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