夏の行方

Written by Eiji Takashima

最終話 二人の行方



そして、僕達は朝を迎えた。
慣れない寝台車の硬いベッドも若さで乗り切り、前日の疲れも完全に吹き飛んでいた。

「おはようございます、潤!!」
「あ、おはよう、綾」

朝見た綾は、もういつもの元気な綾だった。
僕より先に顔を洗ってきたと思しく、清々しい顔をしていた。

「今日もいい天気ですよ」
「みたいですねぇ……」

僕は半分寝ぼけながら車窓から差し込む朝の日差しに軽く目を細めた。
まるで昨日の夜のことが嘘のようで――しかし、明らかに夢でなく、現実だった。

「無断で外泊、しちゃいました」

ちょっと気まずそうに、しかし、反面面白そうに綾は軽く舌を出してそう言った。
実際二人の合意の上での宿泊だったが、それでも綾は高校をサボった上での外泊なので、僕とは問題のレベルが違うような気がした。

「いいんですか? 今からでも家に連絡した方が……」
「いえ、電話だけなら昨日しました。友達のところに泊まるって」
「なら、無断って訳じゃないんじゃないの?」
「じゃあ、無断じゃなくて許可なく、ですね。泊まるなんて駄目だって言われましたから」
「……ごめんね、何だか無茶させちゃったみたいで」

僕が済まなそうにそう言うと、綾は快活に笑って応えた。

「いいんですよ、潤。私、恋を見つけたんですから」

そんな綾の言葉を聞いて、僕はただ微笑むだけだった。
綾がこうして面と向かって「恋」と言ってくれる。
やっぱり言葉は大事なんだと、改めて僕は思い知らされた。
僕は衝動に駆られてそんな綾をこのまま抱き締め、唇を奪ってしまいそうな自分を抑えつつ、綾の笑顔を見つめていた。



手早く身支度を済ませ、僕達はチェックアウトをした。
夕闇の中で見るSLと朝日の下で見るSLとではまた印象が違って見えて、チェックアウトをした後も、
僕達はしばらく鮮やかなブルートレインの青を眺めていた。

朝食も摂らずにSLのホテルを出ると、綾が僕に向かって謝ってきた。

「ごめんなさい、潤。何だか潤の懐を頼っちゃって……」

僕はそんな綾に応えて言う。

「いいんですよ、綾。僕も……綾と同じく、恋を見つけたんですから」

その時、綾の頬がぽっと朱に染まった。
そんな綾は可愛く見え、頬を綻ばせずにはいられなかった。



しかし、一日明けるとこの旅の感慨も薄れているようで、僕も綾も、これ以上どこかを散策しようと言う気にはならなかった。
多分それは、二人ともお互いの目的を果たしたからだろう。
今の僕達は、もうここにいる意味を持ち合わせていなかった。

先日の愚を再び重ねない為にも、僕達は事前にホテルのフロントでバスの時刻を尋ねておいた。
まだ完全に目覚めきらぬ閑静な街並みの中、僕と綾は並んでバス停へと向かった。

「ちょっと、早すぎるかな?」

それが綾の意見。

「でも、他にすることもないでしょう? それに、バスの時刻表なんて当てになりませんし」

そしてこれが僕の意見。
如何にも僕達らしくて、お互いの目を見て笑いあった。



バス停でぽつんと二人待つ。
車の通りはまだ少ないものの、全くない訳ではなかった。
僕と綾は道の端に寄り添うようにしてバスを待って立っていた。
そして何となく、二人で手を繋いでみる。
妙に照れ臭かったけど、それが何だか心地よかった。
今まではどうして人がそんなことをするのか、いまいち理解できなかったけど、でも、今の僕ならわかるような気がした。



「あ、見て下さいよ、潤!!」

バスの中で、窓の外を眺めながら綾が大きな声を上げる。
見てみると、それはあの例のニジマス釣りの看板だった。

「ああ、あそこ……楽しかったですね、あれは」
「ええ、とっても!! また今度一緒に来ましょうね、潤!!」
「え、ニジマス釣りですか?」
「ええ!!」
「折角行くなら別のところにしましょうよ。また同じところにいくなんて……」
「そ、それもそうですね。ちょっとうっかり」

僕の指摘にちょっと恥ずかしそうにしてみせる綾。
綾も殆ど勢いで言ったからなんだろうけど、でも、僕と一緒に行きたいと言ってくれたこと自体に意味があった。
そして、それが夢と現実を固く繋ぎ止める鍵のひとつでもあった。



沼田の駅前でバスを降りる。
立ち並ぶ饅頭屋ののぼりにふざけて一撃を加えたのは、他ならぬ綾だった。
旅の帰りだと言うのに、綾は妙に浮ついている。
僕から言うのも何だけど、好きな人とはっきりと両想いになれたと言うことが、綾を変えたのかもしれない。
反対に僕自身は割と冷静沈着で、そんな綾を客観的に見ることも出来る。
しかし、綾が微笑みかけくれるとやっぱり主観的になって、彼女のことが本当に好きなんだと実感させられていた。



駅のホームで電車の入来を待つ。
今度は来る時とは異なり、僕は大宮までの切符を買った。
しかしそこでふと思う。
綾はどこに住んでいるんだろうって。

「そう言えば、綾はどこまで買ったの? 窓口別だったから聞いてなかったけど」
「え、教えませんでしたっけ? 北浦和ですよ」
「北浦和かぁ……じゃあ、大宮で乗り換えですね」
「ええ。京浜東北線」

綾は笑って答える。
でも、大宮で乗り換えと言うことは、そこで僕との別れなのだと言うことを意味していた。
聡明な綾のことだ、そんなことに気付かないはずはない。
しかし、綾の表情には一点の曇りもない。
それはこれがこのまま夢で終わったりはしないと言う強い確信があるからだろう。
僕だってないとは言わないけれども、それでも別れのひとつであることには変わりがない。
僕はそれを思うと、やや心苦しかった。



お馴染みのオレンジとグリーンのツートンカラーの車両に僕達は乗り込んだ。
駅構内の自動販売機でジュースを二本買っていた僕は、一本を綾に手渡すと、二人で喉の渇きを癒した。

「ふぅ……何だかひと心地つきました」

半分くらいを一気に飲んでから、綾は大きく息をついてそう言った。
僕はそんな綾を見ながら、思い出したようにこう応える。

「そう言えば、朝ホテルを出てから飲まず食わずでしたからね。そろそろお腹も空きましたか?」
「え、ええ、ちょっと……でも、私は平気です。高崎でまただるま弁当を買って食べましょうよ」
「それもそうですね」

僕は笑って応える。
だるま弁当では色々な思い出も出来てしまった。
それだけに僕にとっても意味のある駅弁になりそうで――そんな特別な中身でもないのに、期待してしまうところがおかしかった。




しかし、乗り換えで高崎を下車してから僕は重大なことに直面させられた。

「うううっ……」
「どうしたんですか、潤?」
「い、いや、すっかり忘れてましたよ。このくらいの時間に、だるま弁当が売り切れだったってことを」
「あっ、そう言えば!!」
「でしょう? どうします、綾? また来た時みたいに待ちますか?」

僕はそう綾に訊ねる。
が、それよりも僕は自分の再度の失態に落胆していた。
するとそんな僕の様子を見かねた綾が、僕の顔を覗き込むようにしてこう言ってくれた。

「だるま弁当は今日はお預けにしておきましょう、潤」
「え、じゃあ……」
「お昼までにはまだ結構ありますし、丁度大宮に着くくらいでいいと思いませんか?」
「でも、朝食べてませんし……」
「だから、これがあるでしょ、これが」

綾はそう言うと、僕の鞄を指差す。
その中には――綾がお土産用に買った饅頭が入っていた。

「これって……綾のお土産?」
「そうそう。でも、食べちゃいましょうよ。よく考えてみたら私は友達のところに泊まったって事になってるんですから、
こんなお土産買って行ったら絶対に変ですよ。だから……」
「い、言われてみれば確かに。なら、綾の厚意に甘えさせてもらうことにしますか」
「ええ。あ、飲み物は潤が買って下さいね」
「わかってますって。そのくらいでけちけちする僕じゃあありませんから」

そして、決断すると僕と綾はあっさりとだるま弁当を諦め、ホームに来た次の電車に乗り込んだ。
朝食、と言うには少々遅すぎるから、ブランチと言ったところだろうか?
僕はメニューに合わせて購入した缶の緑茶を窓際に置くと、鞄の中から綾の饅頭を取り出して、膝の上で箱を開けた。

「んー、やっぱり蒸したてじゃないと、違いますね」
「まあ、仕方ないですよ。多分これでも充分おいしいと思いますよ」
「はい。じゃあ、食べましょうか」

そして軽く缶の緑茶で喉を潤してから、饅頭を食べてみた。
やっぱり朝食抜きなのに加えて昨日の晩もあのカレーだけだと流石にかなりお腹が空いていたのか、
僕は昨日食べた蒸したての奴よりもおいしく感じられてしまった。
ふと綾の方を見てみると、彼女も僕と大して変わらないようで、半ばがっつくように饅頭を頬張っていた。
そんな綾をちょっとからかってみようかと言う衝動に駆られたけれども、今はやめておいた。
彼女の女の子としての矜持を傷つけるのはあまり好ましいこととは言えなかったからだ。



しばらくして饅頭を食べ終わる頃には、丁度電車はあの籠原に到着していた。
流石に食べる時は窓を閉めたままにしておいた綾だったが、車両連結で停車すると、やはり窓を大きく開いた。

「やっぱりここは落ち着きます」

空腹も紛れた綾は、軽く伸びをしながらそう言った。
僕はそんな綾を微笑ましく見つめながら言葉を返した。

「ですね。僕も好きですよ、籠原。何にもないけれど、なんて言うか、如何にも埼玉を僕に感じさせてくれます」
「私もです。私の家なんてこことは全然違うけれど、でも、ここと同じ何かを持っていると思います。
だから、私もここに、そしてここで吹くこの風に惹かれて……」

そう言えば、僕達の出逢いもここからだった。
実際には違うけれど、初めてお互いに名乗りあって、そして僕達二人は他人じゃなくなった。
そう思いながらそっと綾に視線を向ける。
すると、綾も僕の方を見ていた。

「同じこと……考えてた?」
「ええ、多分……潤も?」
「ここが僕達の始まり、かな?」
「ですね。だから……」

だから、このままこうしてこの籠原の景色を目に焼き付けておきたい。
まるでそう言わんばかりに、綾は車窓の外の景色に視線を移した。
そして僕も綾に倣って外を見つめる。
また二人でここに来ることがあるかもしれないけれど、でも、大切なのは今のこの時だった。
僕も綾も、それがよくわかっているから、今は何も言わなかった。
ただ、夏の日差しが籠原の乾いた大地を照らしているだけだった……。




「…………」

そろそろ、僕達の旅も終着へ向かおうとしている。
大宮が近付いても、平日の真っ昼間と言うこともあってか、乗客の数はそれほど多くはなかった。
だから僕と綾のボックス席に一緒に座ろうとする人はいなかったものの、明らかに二人とも他人の存在を強く感じていた。

言葉少なになる二人。
言いたいこと、伝えたいことはいっぱいあるのに、何となく、ここでは息苦しかった。
そして何も言葉を交わせぬまま、僕と綾は、大宮駅に到着した……。


「ここでお別れですね、潤……」

聞きたくなかった言葉。
そして、綾にとっても言い出したくはなかった言葉だろう。
しかし、いつまでも一緒にいる訳には行かない。
僕は未練がましく、綾にこう申し出た。

「京浜東北のホームまで、送りますよ……」
「ええ……じゃあ、お願いしようかな?」

そう言う綾の返事はぎこちなかった。
二人とも、これが永劫の別離でないことはわかっている。
でも、今までの出逢いのこの時は、僕達二人にとって特別すぎるものだった。

「じゃあ、ここで……」

綾は止まっていた京浜東北線に乗り込むと、車外の僕に向かってそう呼びかけた。

「綾……」
「とっても楽しかったです。昨日と今日は有り難う御座いました、潤」
「そんな……僕も楽しかったから、だから僕の方こそ、お礼を言いたいくらいですよ」
「じゃ、二人とも楽しんで、めでたしめでたしってことで」
「ですね」

クスっと笑う綾につられて、僕も笑顔を見せた。
そしてそれを見た綾は、僕に向かってこう言った。

「私が傍にいなくっても、そうやっていつも笑顔でいて下さいね」
「わかってますよ、綾」
「いいえ、潤はわかってませんって。どうせ私が視界に入らないと、もうナイトでなくてもいいやーなんて思っちゃうんでしょうから」
「そ、それはまぁ……」
「でも、駄目ですよ。なんたって私は神出鬼没なんですから。だから潤は油断しちゃ駄目です」
「あはは……まあ、善処しますよ。でもちょっとくらいは綾も大目に見て下さいね」

僕は困ったように頭を掻きながら応えた。
すると綾は僕の目を見つめながら、真剣な眼差しで言う。

「ええ。私、潤のそんな頑張るところが好きですから。だから、ちょっとくらいは大目に見てあげますよ」
「僕も……そんな綾が好きです」
「有り難う、潤。私の……私が選んだ私だけの風……」
「綾……」

そして、そんな二人を遮るように、音を立てて電車のドアが閉まった。
ゆっくりと動き出そうとする電車。
僕は車内の綾に向かって最後に大きく叫んだ。

「また、僕はあの場所で待ってますから!! だから綾っ!!」

だからまた、綾に僕を見つけて欲しい。
果たしてそんな僕の想いが届いたのかどうなのか――でも、結果がどうあろうと僕の想いは何も変わらなかった。

そして綾を乗せた京浜東北線のシルバーの車両が見えなくなると、僕は階段を登って改札へと向かった。
こうして、僕の旅は今、ようやく終わりを告げた。


真夏の風を探す不思議な旅。
そこで僕が見つけたのは、綾と言う名の風だった。
そしてまた、綾も僕と言う名の風を見出す。
二つの風はひとつになり、僕達に欠けていた何かを与えてくれたような、そんな気がした。
旅が終わり、二人がまた離れ離れになっても、風はまだひとつなのだろうか?
そして、二人の行方は――






「――やっぱり高崎線の車両は暑いな」

僕はそんなことを呟いてみる。
実際、弱冷房車ではないにしても、狭い車内はとかく温度が上がりやすかった。
風通しのいいラフな格好をしていたと言うものの、この状態ではあまり意味を為さない。
綾を待つ為、窓を大きく全開にしているのだから……。


「ふぅ……」

大きく息をつく。
夏のやや強い風は、土煙を上げて籠原を舞った。
綾と一緒だった時は、もっと穏やかでこんな事にはならなかったのだが……と、事後になって後悔してみる。
これで風向きが変われば、車内にも砂埃が入って来るかもしれない。
そう思った僕はもう諦めようと両手を窓にかけた。
しかしその時……窓の外から二本の白い腕が差し込まれ、窓際の小さなテーブルにジュースを二本、置いていった。

「ようやく逢えましたね、潤……」
「あ、綾っ!!」

僕は驚いて大きな声を上げる。
そして窓の外であの笑顔を見せる綾に向かって、窓から顔を乗り出した。

「あ、駄目ですよ。ジュースが倒れます……」

そう言って綾はジュースの缶を手で押さえた。
でも、僕はそんな綾の手を取り、じっと見つめる。

「綾……」
「潤……そろそろ離して下さい。でないと電車の中に入れませんから……」

しかし、僕は綾の手を離そうとしない。
ようやく綾と再会出来た喜びに、若干我を忘れていた。
そんな僕を見た綾は、困ったようにこう言う。

「……しょうがありませんね、潤は。じゃあ、これで離して下さいね……」

そして綾は僕に腕を掴まれたまま、すっと身を屈めると、僕に向かって顔を近づけてきて――

「あっ……」

僕は思わず声を漏らす。
そう、綾は僕にキスをしてくれたんだ……。



「ほら、離してくれた。もう、潤ったら……」

そう言って、綾は軽やかに笑う。
実際、僕は綾の行為に放心状態に陥ってしまって、綾を捕まえておくどころの話ではなくなっていた。
でも、そんな僕を咎める綾も、真っ赤な顔をしている。
久し振りの再会がキスからなんて……綾にとっては恥ずかしすぎることなのだろう。
照れた綾は早々にぐるりと回ると車内に入って僕の正面に腰を下ろした。
しかし、綾がゆっくりと腰を落ち着けようと思った矢先、いきなり僕は綾の身体を抱き締めた。

「綾……逢いたかった、ずっと……」
「じゅ、潤……私も……」
「僕の最後の言葉、綾に届いてなかったと思った。でも、僕はここでこうして……」

もう放さない。
そんな僕の想いは強く、その両腕に込められていた。
そして綾は僕の行動に戸惑いながらも、小さく言葉を返す。

「言葉は……届かなかったよ。でも、心はちゃんと届いていたから……」

その言葉と共に、そっと綾の腕が僕の背中に回される。
僕ははっとして我に返ると、綾を抱き締めていた腕の力を緩めた。

「ご、ごめん……痛かった……?」
「ちょっとね。でも、嬉しかった。潤の気持ち、痛いくらいに伝わったから……」
「有り難う、綾……」

そして、二人はお互いの顔を見合わせる。
激情は去り、後は穏やかな想いだけが残された。
やっぱり僕は綾を愛してる。
言葉にすればたったそれだけだったけど、でも、僕の溢れる想いを表現するにはそれしかなかった。
心と身体と、そして言葉と……その三つがひとつになる。

そしてまた、僕達二人の旅が始まる。
これから一体どこに行くのだろうか?
それは誰にもわからない。
だけど、でも……きっとどこかに辿り着けるだろう。
そう、ふたつがひとつになった、風のような僕達二人なら……。



<完>


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