夏の行方

Written by Eiji Takashima

第十四話 二人を繋ぐ風



ニジマスを食べ終え、突然の来訪にも快く迎え入れてくれた釣り堀の店員にも別れを告げて、僕達は再び元の道を辿り始めた。
バス停からニジマス釣りに来るまでの間、綾とは腕を組んだりしたものだが、流石に今度はそのようなことはなく、
ただまるで二人寄り添うように道の端に歩くスペースを設けた。

食べたニジマスはそれぞれ一匹ずつでしかなかったが、それでも空腹を紛らわすには充分で、二人とも妙にのんびりとした気分に浸っていた。
そんな調子だったせいもあってか、会話もさほど弾まない。
しかし、僕も綾も無言の中に何かを見出せるようになって、敢えて話題を探そうとはしなかった。

僕達二人が降りたバス停までは、来る時の感じから大体歩いて20分くらいはかかる。
二人とも幾分疲れた様子を見せながらも、愚痴一つこぼすことなくひたすら前進し続けていた。

「しかし……」
「何です、潤?」
「いや、問題はバスがあるかな? ってことなんです」
「ああ……」

僕の言葉に、綾は思い出したように頷いた。
でも、僕が思っているほど深刻そうな表情でもなく、あまりピンと来ていないのかもしれないと思った。

「沼田の駅からでさえ一時間に一、二本しかなかったんですから、下手に乗れなかったりするととんでもない時間待つことになるかと思いまして」
「それもそうですね。うーん、それならバスの時刻表をメモしておけばよかったですね」
「ええ。僕もちょっと考えなしだったかな?」
「でもまあ、過ぎてしまったことはもうどうしようもありませんよ。バスがなければしばらく歩けばいいし……」
「まあ、それしかないでしょうね。でも、いい加減疲れたし、バスに乗りたいのが本音ですけど」

僕は溜め息をついてみせながら綾にそう言った。
実際僕も普段からこんなに遠出をすることなんて滅多にない。
それにたまに遠くに行っても、車に乗っていたり、はたまた電車のシートに揺られていたりで、長時間歩いたりはしなかったのだ。
だが、そんな僕に応えて綾がこう言う。

「大学生は運動不足ですね。私はまだまだ元気ですよ」
「ううっ……僕もそれは否定しませんよ。最近では自分から運動することなんて滅多にありませんし、
僕は根っからのインドア派ですからね。不健康の塊なんですよ」
「駄目ですよ、そんなんじゃ。たまには運動もしないと、身体がおかしくなっちゃいますから」
「はいはい。でも綾だって確か運動嫌いって言ってたはずですけど……」
「え、あ、まあね。でも、私はなんたって高校生ですから。学校の体育の時間に嫌でも運動させられるんです」
「だから、自分からはしないの?」
「まあ、言ってみればそうかな? うちの学校、体育厳しいんですよ。女の子にもしょっちゅう走らせたりとか……」
「やっぱりただ走ってるのは嫌ですよね?」
「そうなんですよ。同じ体育でももっと他に面白そうなのがあると思うんですけど、何故か走らせてばっかりで……。
みんなに不評なんですよ。先生はわかってくれないんですけど」
「きっと楽だからなんじゃないですか? ただ走らせておくだけなら教師も楽ですから」
「……何だか嫌ですね、そういうのって」

いつのまにやら、綾が高校の体育の時間について散々愚痴ると言うシチュエーションに変わっていた。
普通なら愚痴を聞くと言うのもなかなかに疲れることで、あまり楽しいとは言い難いけれど、やっぱり相手が違うと新鮮に感じるのか、
僕は綾の軽妙な語りに耳を傾けつつ、相づちを打っていた。

実際客観的に見た綾は、華奢で色白で、そしてそのトレードマークとも言える長い黒髪とあいまって、
何も言わずに黙っていれば充分深窓の令嬢と言っても通用しそうだった。
僕はこうしていくらか綾の言動に接しているせいか、心はもっと元気で明るい女の子なんだってことを知っている。
でも、やっぱり体力的には外見が示す通りで、性格とは違ってあまりはつらつとは言い難い。
現に情けない僕に向かって自分の元気さをアピールしてはいるものの、疲れている様子は目に見えてわかった。

だから、二人とも疲れていることだし、都合よくバスに乗れれば、と僕は願っていた。
しかし、しばらくして僕達がようやくあのバス停まで辿り着いた時、自分達の運の悪さを呪った。

「……丁度行っちゃったところみたいですね」

僕は錆びかけた時刻表のプレートを食い入るように見つめながら、落胆の色を隠すこともなくそう言った。
流石に綾も口ではなんだかんだ言いながら、やっぱりバスに乗りたかったらしく、僕に続いて愚痴をこぼした。

「ちょっと前に通り過ぎたの……あれがそうだったんでしょうか? なら走ればよかった……」
「無理ですって。まだ結構距離ありましたから、あの時走ってもバスには追いつけませんよ」
「ええ……わかってるんです。でも……」
「ええと、次は……5時47分ですって。今は5時8分だから……」
「もう言わないで下さいよ。疲れるだけです」

本当に疲れた声でそう言うと、綾はバス停の脇にしゃがみこんでしまった。
僕はそんな綾を困ったような顔で見下ろしながら、敢えて続けてこう言った。

「どうします? バスは諦めてしばらく歩いてもいいですし、別にそのくらいなら待っても僕は構いませんよ」

僕の問いかけを聞くと、綾は首だけ上に向けてこう答えた。

「どっちも嫌です」
「ど、どっちも嫌って言っても……困りましたねぇ」
「私は潤に任せます。ぜーんぶ任せちゃいますから、後は宜しくお願いしますね」
「な、何だか急に投げやりになっちゃいましたね。僕に任せるって言っても……」
「潤は男の子ですから。だから、女の子を守る義務があるんですよ。さぁ……」

綾はまるで駄々をこねるようにそう言うと、しゃがみこんだまま僕に向かって片手を差し伸ばした。
僕は一瞬どうしようか迷ったものの、差し出された手を取り敢えず受け止めて、綾を引っ張り上げた。

「っと、これでいいんですか?」
「潤がいいって思うなら」
「もう……難しいこと言わないで下さいよ。綾も子供じゃないんですから……」

流石に僕もいい加減うんざりして、若干たしなめるような口調で綾に言った。
すると綾は軽く笑いながら僕に応える。

「違いますよ、潤。女の子はいつだって子供なんです。特に潤みたいな男の子の前では……ね?」
「綾……」
「それに潤だって言ってくれたじゃないですか。私をリードしてくれるって」
「た、確かにそうですけど、それとこれとは……」

綾の言葉に困り果てる僕。
実際、綾が僕に何を求めているのか、僕には見当もつかなかった。
何かを求めているのだと言うことだけは、はっきりとわかるのだけれど――

しかし、そんな僕の様子など意にも介さずに、綾はこう言ってきた。

「おぶって下さい、って言ったら……怒ります?」
「え、えっ?」
「だから、おんぶ。運動不足でも、体力は有り余ってますよね?」
「そっ、それは……」
「女の子のお願いは聞くものですよ、潤。だって……」
「男の子だから、ですか?」
「そうそう、その通り。男の子は常にお姫様を守るナイトであるべきなんです。違いますか?」
「いや……」

違わない、と言いたいところだ。
でも、確かに綾はお姫様って言っても通用すると思うけど、この僕はナイトと呼ぶにはあまりに貧相で……。
だから、否定したいところもあった。
しかし、綾は渋りそうな僕の表情をいち早く読み取ると、重ねてこう言った。

「少なくとも、心は常にナイトであるべきだと、私は思います……」
「……わかったよ、綾……全く、巧妙と言うかなんと言うか……」
「だから、女の子なんですよ」

そう笑って言うと、綾は僕の後ろに回り込んだ。
そして軽くしゃがんだ僕の肩越しから両腕を回してくる。

「いいですか、綾?」
「はい、いつでも」

全く、呑気なものだ。
僕だって綾ほどじゃないけどいい加減疲れているのに……。

でも、女の子をおんぶするなんてそうあることでもないし、僕は文句を言いながらもドキドキしていた。
特に急速に綾のことを意識するようになってから、自分の気持ちを隠しきれない。
初めて……と言ってもいいくらい、突然感じた「恋」。
この感覚に、僕は今まで自分が恋と呼んでいたものは、殆ど憧れにしか過ぎないと思い始めていた。

僕だけでなく、綾の方も僕を意識していることはわかる。
でも、それが僕と同じ類のものなのか、それはわからなかった。
僕も綾くらいの年代の女の子の気持ちなんてわかる訳でもないし……。
けど、この僕が綾の中で特別な存在であることはわかる。
たとえそれが恋ではないとしても、僕にとってはそのことだけで嬉しかった。
まだ、大きな可能性を秘めていたから……。



「よいしょっと」

この掛け声は僕のものではない。綾のものだ。
気楽に僕におぶさってきた綾とは違い、僕は綾を背負うに細心の注意を払っていた。

「あ、鞄は私が持ちますよ。って、潤におぶさったら同じかもしれませんけどね」
「いえ……感謝します、綾」
「いつもながら礼儀正しいことで。まあ、ナイトですから当然かもしれませんけど」
「じゃあ、綾もナイトに守られるお姫様らしく、大人しくしていて下さいね」
「はいはい」

僕の言葉にクスっと笑って頷く綾。
僕はそんな綾の存在を背中に強く感じながらも、ゆっくりと立ち上がった。
すると早速前進しようとした僕に向かって、綾が肩越しに僕に呼びかけてくる。

「あ、そうそう、潤?」
「なんです、綾?」
「警告しておきますけど、重い、とか言わないで下さいね」
「はいはい、わかってますよ」
「潤のことだから大丈夫だとは思いますけど、一応念のため……」
「はいはい」
「あ、ちなみに補足説明しておきますけど、私はクラスの中でもかなり体重軽い方ですから」
「わかってますよ。綾は華奢ですからね」
「有り難う御座います。具体的な数字の方は差し控えさせていただきますけど」

やっぱり綾も女の子、体重のことは気になるらしい。
でも、綾自身が念入りなまでに語る通り、軽そうには見える。
ただ……実際のところは、結構しんどかった。
綾も人間を一人背負って歩くと言うのがどういうことなのか、よくわかっているのだろう。
たとえどんなに痩せていようとも、僕みたいな運動不足の人間が背負えば重いのは当然で、歩くのも容易じゃない。
だからこその、一連の言葉だったのだ。


「…………」

僕は綾の気持ちを察すると、敢えて何も言わずに歩き出した。
疲れてきた身体にはかなりの重労働だったけれど、それでも綾を守るナイトとして、愚痴ひとつこぼそうとはしなかった。

「…………」

そして綾もまた、沈黙を保っている。
僕におぶさる当初とは打って変わって、ひたすらに口を閉ざしていた。
綾を背中に背負った僕の歩みは遅々としたもので、足取りもおぼつかなかったが、それでも綾は口を開かなかった。




しばらく、時が過ぎた。
夏の太陽はまだ隠れてはいなかったが、このくらいになるとそろそろ夜の気配を感じさせていた。
西からのオレンジ色の日差しが、僕の横顔を照らす。
きっと綾の横顔も、同じく照らされているのだろう。
疲れてはいたものの僕も人ひとり背負うことに慣れ始めてきて、考えを巡らす余裕も生まれてきた。

「……綾?」
「何です、潤?」

久し振り、とも言える発言に、綾は間髪入れずに言葉を返してきた。
何となくこの不思議なシチュエーションは綾自身が作り出したものだったが、その当人も僕以上に不慣れで、
戸惑いを感じていたに違いなかった。

「いや……ちょっと、なんとなく」
「そ、そうですか……でも、大丈夫ですか?」
「え、ええ。幾分馴染みました」
「……よかった。また調子に乗った私が迷惑かけちゃったんじゃないかって、少し不安に思ってたんですよ」

そう言う綾の声は、若干心許ないものに感じた。
その言葉の内容通り、綾も心配性なところがある。
ちょっと調子に乗りやすいところもあるけれど、後になって後悔するタイプだろうか?
そして僕は当然、そんな綾に悪印象など持つ訳もなかった。

「気にしないで下さい。別にもう、僕も迷惑だなんて思ってませんから」
「……もう、って?」
「僕は自分のこと、今では綾を守るに足るナイトだと思ってますから。綾が僕のことを、自分を守るに足るナイトに選んでくれたように……」
「潤……」

好き、とは言わない。
でも、伝えたいことはそれだった。
僕はただ、伝わればそれでいいと思った。

「だから、僕はここにいます。それだけです、綾」

僕にその身を委ねる綾。
でも、その感触も二人の想いによってまた変化する。
僕の首筋にそっと頬を寄せると、綾は小さくこう呟いた。

「……風………」

それは、僕達がここに来た理由、そして二人を繋ぐキーワードでもあった。

「風が……どうかしましたか?」

僕は振り向かずに綾に訊ねる。
すると綾は僕の耳元で囁くように答えた。

「……風、見つけられましたか?」
「僕は……」

僕は言い淀む。
でも、僕が溢れる想いと共に言葉の続きを紡ぎ出そうとした時、綾はそれを遮ってこう言った。

「私はまだ……まだ、見出してはいないような気がします」
「綾……」
「だから……だから、潤……」

綾が何を求めているのか、その時の僕にはわかったような気がした。
だから、綾の言葉を代弁するかのように、僕はこう応えた。

「風には色々あります、綾。夏には夏の風が、そして冬には冬の風が。でも……違うのは季節だけでしょうか?」
「いいえ……」
「朝には朝の、昼には昼の、そして夜には夜の風があります。僕達は今まで朝と昼の風は感じてきました。でも……」
「夜は……」
「そう、夜の風はまだ知りません。だから、宜しければ僕と一緒に……夜の風に吹かれてくれませんか、綾?」

僕がそう呼びかける。
そして綾は――

「ええ、喜んで……私も潤と一緒に、夜の風を感じてみたいです……」



行き先の見えない僕達。
でも、ここでまたひとつの道が生まれた。
それは綾と共に歩む道。
真っ直ぐに伸びているその道は、遠く群馬の山々に繋がっている。
その先には一体何が待っているのだろうか?
そして僕達の探した風は――


まだ、僕達二人の頭上に一番星は見えなかった。



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