夏の行方

Written by Eiji Takashima

第十三話 僕の中の君



道路沿いに面して立てられたトタン製の看板は、バスの中から見た感じとは違い、妙に古ぼけて見えた。
こうして近くに来て見ると、所々に錆があったり、年月によるものなのかいくらかへこんでいるところも見受けられた。

「ここ……かな?」

僕は看板の指し示す小さな路地を見てそう呟く。
すると篠崎さんはそれに応えて僕に言った。

「そうですねぇ……多分、ここだと思いますよ」
「どうしてです?」
「だって、今までそれっぽいところありませんでしたから」
「それっぽいところって……脇道とか?」
「ええ。でもまあ、それもありますけど、なんて言うか、雰囲気かな?」
「ニジマス釣りの有りそうな雰囲気?」
「そうそう。なんとなく、そんな感じです」

僕にはよくわからなかった。
でも、篠崎さんじゃないけどなんとなくなら雰囲気は感じ取ることが出来た。

今まで歩いてきた道はずっと畑に面していた。
畑とは言っても埼玉の農家で見られるような普通の野菜でなく、高地特有の何かを作っているようで、
僕にはあまりピンと来なかった。
しかし、そうは言っても畑は畑で、割と広い空間を僕達に感じさせる。
そこは風通しこそ良かったが、あまり釣りには合いそうもない。

だが、篠崎さんの言うように、この近辺は少し違っていた。
道には傾斜があり、同じ物を作っている畑でも一味違った印象を僕に与えてくれる。
そんな些細な違いを「雰囲気」と呼んだらいいのか、ともかく篠崎さんは意気揚々と幹線道路から外れ、
脇道へと侵入していった。

「でも、いい気分ですね」
「えっ?」
「ほら、潤は車の通るところ、嫌いみたいだから」
「や、やめて下さいよ。別に僕はそんなんじゃ……」
「いいんですって。歩いてる傍を車がビュンビュン通り抜けるのが好きって言う方が変ですから」
「そ、そりゃまあ……」

何だかまた篠崎さんにからかわれているみたいだった。
しかし、それでもやっぱり潤と名前で呼ばれるのは違う。
篠崎さんもまだ意識して僕をそう呼んでいるような感じがしたが、わかっていてもやっぱり嬉しいものは嬉しい。
僕もそんな篠崎さんに応えて彼女を「綾」と名前で呼びたかったけど、なかなかそれも言い辛くて、
精々「篠崎さん」と呼ばないで置くのが関の山だった。


「こういう道を歩くと、お散歩してるって感じがしますよね?」

普通に歩く僕の周りで、まるで小犬のように楽しそうにはしゃぎながら篠崎さんはそう言ってきた。

「そうですね、僕もこういうの、嫌いじゃないです」
「嫌いじゃないって……好きって訳じゃないんですか?」
「まあ、好きと言えば好きなんですけど……」

僕は困ったように答える。
「嫌いじゃない」イコール「好き」ではないので、そんな表現を使った僕。
でも、篠崎さんはちょっとそれに不満のようで、僕を咎めるように言った。

「それってよくないですよ、潤。女の子は嫌いじゃないって言われるよりも、やっぱり好きって言われたいんですから」
「そ、そりゃあねぇ……」

確かにそうだ。
でも、それとこれとは全く別な気がする。
まあ、むきになって篠崎さんに反論する気にはなれなかったから、僕はただ苦笑いを浮かべていた。


「でも……何だかようやくいいところに来たみたいです」
「いいところ?」
「ええ。自然に溢れたところって言うか……やっぱり私も潤みたいに、人込みが嫌いみたいですね」

何だか照れたように篠崎さんはそう言った。
でも、篠崎さんが言ったように、人込みが嫌いな僕はこの場所に心地よさを覚えていた。
それが散歩に適した場所っていうのかもしれないけれど、それだけでもないような気がする。
そもそも僕達は散歩をする為にわざわざ群馬まで来たんじゃないし……かといってニジマス釣りでもない。
旅の楽しさにかまけて僕は忘れてしまった訳じゃない。
僕達は風を……そう、僕達のまだ知らない夏の風を求めてここまで来たのだった。




程なくして、僕達はお目当ての場所に辿り着くことが出来たようだった。

「ほら、ここみたいですよ、潤!!」
「そうですね。まあ、看板通りに来たんですから、来れて当然なのかもしれませんけど」
「そうそう、だから潤の杞憂だったんです。もう、心配性なんですから」

篠崎さんは笑ってそう言う。
まあ、僕も笑うしかないと言ったところか。
ともかく僕が心配性なのは否定のしようがなく、今回は現実的な篠崎さんが勝利を収めたのだった。

「はいはい。でもまあ、取り敢えずは行ってみましょうよ。今日は平日ですし、向こうもそういう体制じゃないかもしれませんから」
「もちろん、潤に言われなくっても私は行きますよ」

僕の言葉に篠崎さんは如何にも彼女らしい物言いで応えた。
しかし、その表情には妙な笑いが浮かんでいた。

「ど、どうしたんです?」
「い、いや、私が言ってもやっぱり潤は心配性なんだなって」
「あっ……」
「い、いえ、別にいいんですよ。私も嫌な訳じゃありませんから」
「そ、そうですか・・・?」
「本当ですって。私は嫌だったら嫌だってはっきりと言いますから」
「確かに篠崎さんなら・・・僕とは違いますからね」
「そうそう。私は潤とは違いますから。私みたいに潤は私のこと、名前で呼んでくれませんし……」
「あっ!!」
「やっぱり慣れないと恥ずかしいですか?」
「え、え、いや、まぁ……うん」
「かわいいんですね、潤って。いいですよ、慣れるまでは無理して綾って呼んでくれなくても」

何だか申し訳ない気がした。
篠崎さんは自然に僕のことを「潤」と呼ぼうとしているようだったが、明らかに意識しているものだった。
だから僕もついうっかりとは言え、彼女のことを「綾」と呼ばなかったのはかなりまずい。
努力している彼女に対して、僕もそれに相応する配慮を見せて然るべきだった。

しかも篠崎さんはそんな僕を強く咎めることなく、敢えて時間を与えてくれようとしている。
別に篠崎さんは僕を軽く見ていたとか、そんなことは微塵もないだろう。
しかし、僕はそんな自分自身が情けなく、意地を張って篠崎さんに応えて言った。

「いや、君が僕のことを潤って呼んでくれてるんですから、僕も君のことを綾って呼びます」
「意地っ張りなんですね」
「当然です。だって僕は男の子ですからね。女の子と違って、変にかっこつけで意地っ張りなんですよ」

僕はまさに意地を張ってますと言う感じで篠崎さんに言った。
そんな僕の言葉を聞いた篠崎さんは、さも楽しそうに僕の顔をじっと見つめていた。
僕は何だか自分の内心を見透かされているようで、変な心地がしたが、敢えて何も言わずに自然を返していた。

「そうですね。でも、ちょっと違ってますよ」
「えっ、どういうことです?」
「男の子が意地っ張りだって言うのは私もそうだと思います。でも……女の子だって意地っ張りなんですよ。
ほら、例えば私みたいに……」
「……こ、こういう時、どういうリアクションとったらいいのかな?」
「別に突っ込みを期待してる訳じゃありませんよ。だから、普通にしていればそれでいいと思います」
「そ、それもそうだね。ははは……」

この話は取り敢えずこれで終わりになった。
でも、改めて言われてみると確かに女の子も意地っ張りだと思う。
男と女と言う性別の違いにとらわれることなく、誰かに強がってみせると言うことはよくあることで、
取りたててそう珍しいことでもない。
ただ、どうしてこう特徴的に言ってしまうのかと言うと、やはり目立つからだろう。
なんだかんだ言って我を張らずに全て受け流してしまえば、殆ど印象にとどまることすらない。
総じて言えば世間は皆そんな気質の中にあり、だからこそ僕達意地っ張りはやはり異端児だった。
でも……僕はそんな自分を、好意的に受け止めていたのだった。
そして、篠崎さんのことも――



僕達が来たニジマス釣りのところは、近所によくあるような釣り堀ではなかった。
小さな川をせき止めて、そこにニジマスを放流していると言う、割と自然に近い状態だった。

「へぇ……こういうのですか……」

ニジマス釣りの言い出しっぺは篠崎さんだったが、やはり女の子と言うこともあって、こういうものには縁遠い。
僕としては、こういう場所ではさして珍しくもないシチュエーションに思えたが、篠崎さんには新鮮に映ったようだった。

「はい、竿。取り敢えず一時間ってことにしておいたけど……それで構いませんよね?」
「え、ええ。それで一匹も釣れなかったら延長したいところですけど」
「じゃ、そう言うことにしておきましょうか」
「はい」

そして僕は二本借りてきた竿の一本を篠崎さんに手渡した。
竿はこういうところには似つかわしい竹製の安っぽいもので、釣ったニジマスを焼いて食べる小屋の横には、
何本も同じ種類の竿が立てかけられていた。
店の人は突然の闖入客に驚いたようだったが、そこはやはりシーズンに入ったばかりの商売と言うこともあって、
細かいことは何も言わずに喜んで僕達を迎えてくれた。

「それより綾?」
「なんです、潤?」

ちょっと照れ臭い。
でも、何を言っても今更で、僕は気にせず本題に入ろうとした。

「餌とか、大丈夫ですか?」
「え、ええ。ミミズくらいなら何とか……」
「そ、それはよかった。いや、普通の女の子なら嫌がって男につけてもらいたがるみたいですから」
「確かに私だって気持ちいいとは言えませんよ。でも、このくらいで逃げ回っていたら、ちょっと情けなさ過ぎますからね」
「確かに確かに。まあ、そう言うのも結構女の子の演技なのかもしれませんね。男に可愛く見せようとしての」
「ええ、それは大いにあると思いますよ。でも私、女の子の可愛さってそういうものじゃないと思うんです。
どんなものかって言うのは、私もなかなか上手く口では説明できませんけど」

そう言いながら、篠崎さんは自分に与えられた餌箱の中からちょっとおっかなびっくりでミミズを摘み出すと、
慣れない手つきで小さな針の先につけた。
そんな篠崎さんの様子を見守りながら、僕も同じようにミミズを針につける。
川岸の若干丸くなった石に腰を下ろしたまま、篠崎さんは針を適当に川の中に放った。
僕も篠崎さんの近くにあった手頃な石を選び、そこを自分の場所に決めた。
僕としては篠崎さんのもう少し近くにいたかったけれど、現実的な目で見れば、近すぎると二人の糸が絡まってしまう危険性が大きい。
それに互いの釣り場を荒らすのは、あまり感心出来たことではなかった。

しかし、篠崎さんは釣りに殆ど慣れていないものの、その動きにはさほど迷いのようなものはなかった。
結構慣れていなかったりすると、取り敢えず僕がするのを待ってそれを同じように真似するのが普通だろうが、
篠崎さんはそんなことなど考えもしなかったようだ。
そんな彼女の様子を見ると、その「女の子の可愛さ」についての篠崎さんの考えが、僕にもいくらか見えてきたような気がした。

確かにミミズを手にしてきゃあきゃあ騒ぐ女の子も多いと思う。
でも、篠崎さんはそんな女の子については可愛さを認めていないようだった。
現に篠崎さんにはそんな軟弱なところは見受けられない。
多分、こんなところでは女の子らしさを見せてもしょうがないと思っているに違いない。
それ以前に、篠崎さんは演技について全く価値を見出していなかった。
そしてそんなところが、如何にも篠崎さんらしいと言えた。



しばらく、沈黙が続いた。
針をぽちゃりと投げ入れては数分待ち、また、竿を上げる。
こんな天然の岩場を用いた釣り堀でそう簡単に釣れるはずもないと思っていたものの、それでも全く釣れないと意気消沈するものだった。

「……なかなか釣れませんね」
「ですね。場所が悪いのかな?」
「いや、まあ、そうかもしれません。綾はもうちょっと暗がりになってる方に針を投げた方がいいかもしれませんね」
「うーん、私の投げてるところには魚が見えてるんですけど……駄目なんでしょうか?」
「駄目だと思いますよ。まあ、同じく釣れてない僕が言えた義理じゃありませんけどね」

僕はそう言って笑う。
本当なら全く釣れなくて焦っていてもおかしくなかったけど、でも、不思議と焦る気持ちはなかった。
確かにお腹は空いていたけど、だから釣りをしているのではなく、篠崎さんとこうして並んで竿を立てていることが楽しかった。
特に釣れなければやっぱり暇になるから、お互いになんとなく会話を求め始める頃合いでもあった。

「でも、お店の人、僕達を見てどう思ったんでしょうね?」
「えっ、どういうことです?」
「いや、変な時期に来た観光客だし、僕はともかく綾は学校の制服そのまんまだし……」
「そう言えば……」

僕に言われて、篠崎さんは改めて自分の姿に視線を向けた。
この高校の夏服自体はそんな特別なものではなかったが、それでもこんな場所では目立つ存在だった。

「あんまり釣りをしにする格好とは思えませんよね」
「え、ええ……恥ずかしいかな?」
「いや、そうでもないと思いますよ。別に他にお客さんがいる訳でもないし……」
「あ、それって誰にも見られてないからいいってことですか?」
「あ、いや、そう言う訳じゃ……」
「誤魔化したって無駄です!! 私の目は騙せませんからね!!」

何だか墓穴を掘ってしまったようだった。
篠崎さんも別に僕に本気で怒っている訳ではないようだったが、だからと言って安穏としてもいられなかった。

「ええと……困ったな、どうすれば……」
「困っても駄目です」
「そんな……」
「そうですねぇ……じゃあ、取り敢えず二人分、釣って下さい。そうしたら許してあげますよ」

やっぱり笑ってる。
こんな時はいつも、篠崎さんに遊ばれている自分を感じる。
別にそれはそれで楽しかったからいいんだけど、でも、ちょっとだけ自分が情けなく思えるのもまた事実だった。

「わ、わかりましたよ……もう、綾って酷いな」
「そうですよ。女の子は時として残酷なんです。潤もこれに懲りて覚えておくことですね」
「はいはい……」

そして、僕は再び川の中に針を放り投げた。
波紋と共に、水の中の魚影がさっと離散する。
こうして魚がいるってことはこの目でしっかりと確認しているのに、一向に釣れない。
篠崎さんほどではないにしても、僕も魚釣りなんてするのは数年ぶりのことなので、上手く釣るコツとか、
その辺のことは全く知らなかった。
篠崎さんは僕の魚釣りのレベルについてどう思っているのか知らないけれど、明らかに幾許かの期待を寄せていることだろう。
僕はせめて彼女の期待を裏切らないようにしたいと、釣竿の先に精神を集中させた。



独りでいれば時間が経つのも長いのかもしれないが、篠崎さんといる時間はあっという間だった。
何気に腕時計に視線を向けると、既に3時を回っていた。
僕達がここに着いたのが大体2時半ちょっと前だったから、もうさほど時間は残されていなかった。

「釣れませんね……時間、そんなにありませんけど……どうします?」

それは延長するか否かの僕の問いかけだった。
篠崎さんに二人分釣れと言われた僕だったけど、結果としては未だ一匹も釣り上げてはおらず、なかなかに気まずくもあった。

「えっ、もうそんな時間なんですか?」
「ええ。あと15分くらいでしょうか……?」
「でも、一匹も釣れないのは悔しいですよね」
「だから、駄目だったら延長してもいいかな、って」
「うーん、やっぱり仕方ないんですかね? でも、最後まで諦めないで頑張りましょうよ」
「それはもちろん」
「ちょっと私達、適当に考えてたみたいですから。今度は真剣に釣ろうって気持ちで……」

僕は釣ろうと思っていた。
でも、すべては結果だった。
こうして貸し与えられたバケツの中には、川から汲んだ水だけが満たされている。
これほど長時間釣れなくて、よく篠崎さんは我慢が出来ると思う。
僕は自分に冷静であれと呼びかけ続けてなんとか平静さを保っているものの、自分に与えられた責任の重さと期待とに、
いつ押し潰されてしまうかわからなかった。

でも、篠崎さんは違ったのかもしれない。
最初の僕と同じで、目的はニジマスを釣り上げることになるのではなくて……。
だから、釣れなくても気にならない。
そして、時間も短いものに感じる。
現に僕も二人で釣竿を並べている時間は楽しかった。
そんなに沢山言葉を交わした訳じゃないのに、でも、何故か満ち足りている。
これって……一体どういうことなんだろう?



「……想いの強さが奇跡を生み出す……」

僕はそっとそんなことを口にして見る。
釣竿に集中していた篠崎さんは、それを耳にして僕に訊ねた。

「何です、それ?」
「いや、前に読んだ小説にそんなフレーズがあってね……全てにおいてそうなんじゃないかって、ふと思ったんです」
「そうですか……想いの強さ……」
「ええ。魚を釣りたいって言う気持ちが強ければ強いほど、きっと釣れると思うんです。まあ、綺麗事かもしれませんけどね」
「確かに綺麗事かもしれませんけど、でも……潤の言いたいこと、私にはわかります。だから、一緒に想いましょう」
「ニジマスよ、餌に食いつけ、って……?」
「ええ。ニジマスには迷惑な話かもしれませんけどね」

そう言って、篠崎さんは軽く笑った。
こんなどうでもいいことに自分の想いを込めるなんて、下らないことかもしれない。
でも、僕達は下らないからっていい加減にする奴じゃないってことは、お互いがよく知っていた。
だから笑ったりしない。
僕も篠崎さんと共に、釣竿に、針の先のミミズに、そして水の中で煌くニジマスの姿に想いを託した。



「あっ!!」

そして、想いは届く。
小説の中だけのことが、現実のものになる。
でも、これは半ば夢の中の世界。
だからこそ、それが叶ったのかもしれなかった。

「か、かかったんですか?」
「え、ええ、そうみたいです。で、でもどうしたらいいのか……?」

ここに来てニジマスが餌を探るシーンは何度となくあったが、こうして食いついたのはこれが初めてだった。
初めてと言うこともあって、流石の篠崎さんも喜ぶと同時にうろたえてしまった。

「ちょっと待ってて!!」

僕はそう言うと、最後に残されたチャンスの為、自分の釣竿を脇へと放り出し、篠崎さんの元へと駆け寄った。
そしてニジマスに引っ張られる釣竿をきつく握り締めたままどうすることも出来ずにいる篠崎さんと一緒に、
僕もその釣竿に手を合わせた。

「た、高木さん、つ、釣れるんでしょうか?」

動揺していることもあって、篠崎さんは僕のことを「高木さん」と呼んでしまっていた。
僕はそのことに気がついたが、今はそれどころではないと思い、敢えてそのことには触れずに篠崎さんに答えた。

「大丈夫ですよ。どうやら完全に飲み込んじゃってるみたいですし」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。まあ、釣り上げた後針を外すのが大変だと思いますけど」
「…………」

こんな時、篠崎さんを女の子らしいと思う。
今の篠崎さんの様子は演技じゃないし、だからこそ、真に胸に伝わる。
そしてそんな篠崎さんを見て、守ってあげたいとも思う。
それは半ば男の本能みたいなものかもしれないけど、でも、今はそんなことどうでもよかった。
ただ、篠崎さんの期待に、そして僕達二人が懸けた想いの為に、僕は釣竿を引いた。


ニジマスの姿が宙に舞い、午後の日差しに煌く。
水面から出てしまうと、あれほど抗っていたのが嘘のように、そのまま僕達の元に飛び込んできた。

「うわっ!!」
「きゃっ!!」

でも、やっぱり釣りには慣れていない僕。
釣り上げた魚を上手く手元に寄せることが出来ずに、傍らの篠崎さんを脅かしてしまった。

「ご、ごめん、綾!!」
「い、いえ……ぶつからなかったから別に……」
「そ、それならよかった。でも、本当にごめん」

僕はそう言いながらも、何とか悪戦苦闘の末ニジマスをキャッチすることが出来た。
僕が手にしたニジマスは、水の中で見た力強いその姿とは幾分異なり、小ぶりなサイズだった。
でも僕は特に落胆することもなく手の中で妙にぬるつき暴れるその姿を押さえながら、何とか針を外そうとする。

「針……取れます?」
「い、いや……とにかくやってみる」
「お店の人、呼んできましょうか?」
「駄目だったら、その時はお願いしますよ。それよりも針外しみたいなのがありましたよね? それ、貸してもらえます?」
「は、はいっ」

篠崎さんは僕に言われてすぐにそれを取ってきた。
そして覗き込むように成り行きを見守る。
今は僕が手にしているけれど、明らかにこれは篠崎さんの獲物で、そのことが篠崎さんに若干の興奮を与えているようだった。

「…………」

針を外そうと苦戦する僕に、篠崎さんは余計なことを言おうとしなかった。
そして僕もまた、そんな余裕など見出すことが出来なかった。
流石に完全に針を飲み込んでしまっていると思しく、なかなか針は外れてくれない。
僕もこうして魚を釣り上げること自体が久し振りだったので、針などそうた易く外せるはずもなかった。

しばらく苦しんでいると、ニジマスも一気に弱まって、殆ど暴れなくなっていた。
口やえらなどから血を流し、そんなつもりもないが明らかにもう水に戻すのは不可能な状態に見えた。
僕は若干可哀想に思いながらも、半ば無理矢理釣り針を引き抜いた。

「……なんとか取れましたね」

今のニジマスの状態を見れば、針が取れたのを見てもあまり感激出来ない。
でも、僕はそんな篠崎さんを責めることなど出来なかった。

「すいません、何だか随分と苦戦しちゃって……」
「いえ、しょうがないですよ。潤はよく頑張ってくれたと思います。有り難う御座いました」

こうしていちいちお礼を言ってくれるところが篠崎さんらしい。
僕を潤と呼ぶようになっても、そこは変わったりしなかった。

僕は取り敢えずニジマスをバケツの水に浸けたが、すぐに水面に浮かびあがってくるのは目に見えていた。
だから、もう時間も時間だし、一匹釣れたことでお開きにしてもいいと思い、僕は篠崎さんにその旨を告げた。

「じゃあ、これで終わりにしましょうか? 一匹釣れましたし、お腹も空きましたし……」
「ええ……でも、潤の分は?」
「いいですよ、僕は。取り敢えず綾の分だけは釣れたんですし、僕の分は買ったのを食べれば」
「でも……」
「気にしないで下さい。そもそも綾のは自分でちゃんと釣ったんじゃないですか。でも、僕は針にかけられませんでしたからね。
自業自得って奴です」

僕はニジマスの血に濡れた自分の手を川の水で軽く洗いながら、やけに気にする篠崎さんにそう言った。
そしてそのまま有無を言わさずバケツと釣竿を手に取ると、小屋の方へ行くことにした。

「もう……」

篠崎さんはちょっと不満のご様子だったが、それでも僕の言っていることが道理なのはよくわかっているようで、
敢えてこれ以上逆らうこともなく僕の後ろに着いてきた。


時間が終わる頃合いと言うこともあってか、既に小屋の中では墨に火がつけられ、ニジマスを焼く準備が整えられていた。
僕は店の人にバケツごと魚を預けると、あと一匹追加して焼いてくれるように頼んだ。
僕達二人だけの客だったが、嫌な顔一つせずに僕の注文を承知してくれて、内臓を出す為にニジマスを捌きにかかった。

「焼くまで少し時間がかかりそうですね」

僕は少し離れたところで待っていた篠崎さんにそう告げた。

「ええ、わかってます。それまで少し待ってましょう」
「そうですね。石鹸で手を洗ってから、焼ける様子でも見ていれば……」
「こういう時間がなかなかよかったりするんですよね。私は別に、待つのは気になりませんし」
「それは重畳。さて、では手を洗いに行くことにしましょうか」
「ええ」

そして、僕と篠崎さんは小屋の脇にある水道で、今度はちゃんと念入りに手を洗った。
やっぱり魚を扱うと言うこともあって気持ち悪いと感じる人も多いのか、水道のところにはきちんと石鹸が備え付けられており、
その辺には抜かりがない。
篠崎さんも釣り針にミミズをつける時などは、必要なことだと割り切って嫌がらなかったものの、やはりそこは今時の女子高生、
気持ち悪くないはずはなく、石鹸の泡立て方も僕の倍以上だった。
僕は篠崎さんの手を洗う光景を微笑ましく眺めながらそっと思う。
ここに来てよかったと……。




「いい香りですね」

丸太を輪切りにして作ったような椅子に腰を下ろしながら、僕達は焼ける二匹のニジマスを見つめていた。
それまで大した物を口にしていなかったと言うこともあって、ただでさえ食欲をそそる匂いは一層僕達の嗅覚を刺激している。

「ですね。でも、ちゃんと焼かないと駄目ですよ。やっぱり火が通ってないと危ないですから」
「わかってますって、私だって子供じゃないんですから」
「ええ、ええ。だからのんびり待ちましょう。こういうのって表面は綺麗に焼けたように見えても、
最後まで焼けるのは結構時間がかかるものですから」
「そんな意地悪なこと言わないで下さいよ、潤。私だって我慢してるんですから」
「はいはい」

子供じゃないと言いながらも、食べ物のこととなると篠崎さんは子供っぽさを垣間見せる。
それはそれで彼女の魅力だったから、僕はそんなことでがっかりしたりはしない。
それよりも僕は時折こんな無邪気なところを見せてくれる彼女が嬉しかった。
僕よりもしっかりしているところさえ見せる篠崎さんだったから、こういう時だけは僕も大人ぶった態度で接することが出来るからだ。



ニジマスが焼けるのを待ちながら、僕はそっと腕時計に視線を向けた。
僕もどうやら時間を気にし始めているらしい。
現に僕が今見た時刻は、もう4時近くになろうとしていた。

流石に真夏と言うこともあって、日の暮れる兆しすらどこにもまだ見えない。
しかし、このままでは間違いなく夜を迎えた。
僕は男だし、大学生と言うこともあって友達の家に泊まって行くなんて言うこともそう珍しくはなかった。
でも篠崎さんは……そろそろ帰ることを考えて然るべきだった。

だが、敢えてそんなことは口に出さない。
僕が篠崎さんの保護者然として言うなら話は別だったが、今の僕にとって篠崎さんはパートナーだった。
それは明らかに不安定で不確定な存在だったが、僕はそれを繋ぎ止めようとしている。
だから卑怯な話かもしれないけれど、全ては篠崎さん次第だ。
彼女が今の状況、そしてこの僕に対してどんな答えを導き出すのかわからない。
でも、少なくとも今は僕はそれを甘受しようと思っていた。
もっと先になったら、どうなるかはわからないけれど……。


「一体何回ひっくり返すんでしょうね、あれ?」

考えに耽っている僕に、篠崎さんがそう呼び掛けてきた。
僕は完全に別のことに意識を向けていた為、一瞬何を指し示しているのかわからずに、素っ頓狂な声を上げた。

「えっ? あ、ああ……ニジマスのことですか?」
「それ以外に何があるって言うんです?」

そんな僕に対して僅かに眉をひそめて言う。
結構食べ物のことになると怒りっぽくなるのも篠崎さんだった。

「ごめんごめん。でも、もうそろそろじゃないですか? 焼き始めてから結構経ちましたし……」
「だといいんですけど。私、潤のその台詞、何度も聞いたような感じがしますよ」
「そ、そうですか? でも流石にそろそろ……って、あっ!!」

そんな会話が取り沙汰されている様子をさも愉快そうに聞いていた店の人だったが、ようやくニジマスも焼けたのか、
砂と思しき地面に刺した串を抜き、初めに篠崎さん、そして続いて僕に手渡してくれた。

「じゃあ、早速いただきます!!」

手に取るや否や、篠崎さんは元気よくニジマスにかぶりついた。
僕はそんなに慌てる篠崎さんがちょっと気になって声をかける。

「熱いでしょうから気をつけて食べて下さいよ」
「あちちち……そういうことはもっと早く言って下さいよぉ」
「ははは……早すぎるんですよ、綾が」

何だか楽しい。
僕は笑いながらも、ようやく自分のニジマスに手をつけた。

「……まあまあかな?」

僕は食べてみてそう呟く。
実際、ニジマスの塩焼きなんてそんなにおいしいものじゃない。
だから篠崎さんには悪いけど、あまり期待もしていなかったのが実際のところだった。
しかし、こういうのは空腹具合と雰囲気とに左右されるもので、食べてみると意外とおいしく感じた。

篠崎さんはわき目も振らずに一心不乱に食べている。
食べる時は集中して食べるのが彼女のポリシーらしい。
あまりお行儀がいい食べ方とは言えなかったが、それでもその様子からおいしく食べてくれていると言うことは、
充分すぎるほど感じ取ることが出来た。


「ごちそうさまでした。本当においしかったです」

篠崎さんはあっという間に食べ終えると、そう大きな声で言った。
そして食べている間にサービスで出された麦茶に口をつけた。

「潤はまだ食べ終わらないんですか?」
「ん? まあね。僕が遅いんじゃなくて綾が早すぎるんですよ」
「だっておいしかったから……」

ちょっとだけ恥ずかしそうに篠崎さんは言った。
でも、実際篠崎さんの食べる速さは凄かった。
現に僕が今手にしているニジマスも、篠崎さんの食べている様子を見ていたと言うこともあってか、
まだ丸々半身が残されている状態だった。

「それはよかったです。喜んでもらえて僕もほっとしましたよ。結構こういうの駄目な人もいますからね」
「駄目だったら初めから来ようなんて言い出しませんって。私、お魚好きですから」
「へぇ……今時の女子高生にしたら、珍しいんじゃないですか?」
「そうでもないと思いますよ。ただ、面倒臭いから食べたがらないだけで……」
「なるほど」
「それよりも早く食べて下さいよ。冷めちゃうとおいしくなくなりますよ」
「ええ、わかってますって。でも……もしかして欲しいですか?」
「え、えっ!? そんな……」
「綾さえよかったら半分あげますけど……だるま弁当もらいましたしね」

それは、僕からの呼びかけだった。
だるま弁当の時は篠崎さんの強い勧めで二人で分け合って食べることになったけれど、今回は僕からだった。
僕が言った時は大して何も考えてはいなかったけれど、言った直後に少し後悔した。
駅弁と串に刺したニジマスとを一緒に考える方がどうかしているのだ。
そもそも僕の食べ方も、あまり綺麗とは言い難かったし……。


「いいんですか?」

しかし、篠崎さんから出た言葉はこうだった。

「えっ?」
「だから、本当に半分もらっちゃってもいいんですか?」

驚く僕を訝しそうに見ながら言う。
確かに僕は半分あげると言ったけど……でも、篠崎さんはそのことに何も感じないのだろうか?

「そ、それはまあ……篠崎さんこそ、いいの?」
「………………いいんです」

少し、彼女の声が変わった。
そして僕は気付く。
また僕は、彼女のことを「篠崎さん」と呼んでしまったことに。

「……まただね、ごめん……」

僕は篠崎さんに言われる前に謝る。
しかし、篠崎さんから返ってきた言葉はこうだった。

「いいえ、これでおあいこですから……」
「……気付いていたんだ……」
「ええ、すぐ後にですけど。でも、潤は私に何も言わなくって……」
「あの時は、そんなこと言ってる場合じゃないと思ったんだ」
「私も潤がそう思ってると思いました。潤なら絶対に気付いてるだろうなって……」
「ごめんね。言った方がよかったかな?」
「……どっちでも、よかったと思います。ただ……」
「ただ?」

僕が問う。
すると篠崎さんは自分の想念を振り払うように首を左右に振って、そしてこう続けた。

「ただ、潤が私のことを想ってくれたのであれば……」
「綾……」
「ニジマス、折角ですからいただきますね。早く食べないと、冷めちゃいますから」
「え、ああ……」

そして篠崎さんは僕の手からそっとニジマスの串を奪った。
僕は抵抗するでもなく、あっけなく彼女にニジマスを明け渡す。

「じゃ、いただきます……」

そう言って、彼女はニジマスに口をつける。
さっきまで自分の分を食べていたのとは違って、とても丁寧だった。
それは僕の食べかけだからと言うのが正しいだろう。
しかし、彼女と、そしてこの僕が作り出したこの雰囲気の中では、まるで彼女がキスをしているようにすら見えた。

静かに時が流れる。
火のはぜる音が聞こえる。
そしてそこには会話はなかった。
ただ……今僕の中で、初めて彼女は「綾」になった。


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