夏の行方

Written by Eiji Takashima

第十二話 二人の距離



僕の背後でドアの閉まる音が聞こえた。
まるで名残惜しそうにそっと振り返ってみる。
バスはこの夏の田舎道に僕と篠崎さんを残して、そのまま先へと進んでいった。


「しかし……」

バスが見えなくなってしまった後、僕は溜め息をつく。
そんな僕とは正反対に意気揚々としている篠崎さんは、横から僕の顔を覗き込むようにして訊ねてきた。

「どうしたんですか、溜め息なんてついちゃって? ニジマス釣り、もしかして嫌だったとか……」
「い、いや、そんな訳じゃないんです。ただ……」

篠崎さんがそう思うのも無理はない。
実際、僕達がこのバスを降りた建前と言うのは、この僕がバスからの景色に飽きてしまったと言う発言から来ていた。
だからどこでもいいからとにかく降りたのだと言う考えも生まれて当然であって……。
しかし、僕が溜め息をついた原因と言うのは、そんなこととは関係がなかったのだ。

「ただ?」
「ただ……さっきの看板から結構ありますよね。それがちょっと気になって……」
「ああ、そういうことですか……」

篠崎さんは僕の答えを聞いて、納得したように頷いた。
そしていつもの笑顔を見せる。
僕の溜め息の原因が大したことではないと気付いたからだろう。
確かにこの篠崎さんの笑顔の前なら、僕も些細なことであるように思えた。

「そういうことです。歩くのも結構しんどいんじゃないかって思いましてね」
「確かに……遠いですね。どのくらい歩かなくちゃ行けないのかな?」

篠崎さんは手の平で軽く日差しを遮りながら遠くを見てみる。
もう既に、件のニジマス釣りの看板など影も形も見えなかった。

「10分か20分……まあ、30分歩くってことは流石にないと思いますけど、何だかそこまでするほどのことかな、
って思っちゃいまして。篠崎さんには本当に申し訳ない話ですけど」
「いえ、別に済まないなんて……でも、折角降りたんですし、行きましょうよ。歩くのが面倒だからって言って、
また次のバスが来るのを同じくらい待ってるなんてのも馬鹿みたいですし」
「それもそうですよね。まあ、日頃の運動不足を解消すると思って、歩くことにしますか」
「そうそう!! たまにはお散歩気分で……ねっ?」
「ちょっと憂鬱ですけどね」

こうして僕達は今まで来た道を逆行し始めた。
周りを見回しても山ばかりのこの上州の高地でも、流石に夏の真っ昼間に歩くと言うのはしんどい。
時折吹き抜ける風に心地よさを覚えても、太陽がアスファルトを焦がし、その熱が直接その上を歩く僕達に伝わってくるようで、
それもあまり意味がないように思えた。

この道も田舎とは言ってもこの辺りではバスの通る幹線道路と思しきこともあって、車の通りが全くないと言うこともなかった。
ガードレールで車道と歩道が区切られていると言う訳でもなく、篠崎さんと横並びに歩くと言うことも叶わない。
初めはそうしていたけれど、流石に車が通る度に僕が少し後ろに下がって縦一列になるのも面倒で、
僕達は篠崎さんが先頭でそしてこの僕がその後をだるそうについていくという形態をとっていた。

「……篠崎さん」
「なんですか、高木さん?」
「暑く……ないですか?」
「暑いですよ」

そう答えるにしては、やけに元気そうな篠崎さんの声だった。

「そう言えば、汗かくのが嫌いって話、電車の中で聞きましたけど……」
「嫌いですよ。でも、好きだって言う人の方が変ですよ。そう思いませんか?」
「そ、そりゃあそうですけど……」

僕は自分のが本当に言いたいことを篠崎さんが察してくれないことに、少し元気を失っていた。
しかし、そんな少々落胆気味の僕の方に篠崎さんは急に振り返ると、明るくこう言った。

「高木さんの言いたい事、なんとなくわかりますよ」
「えっ!?」
「高木さんも諦めが悪いんですね。駄目ですよ、今更……」
「そ、それは……」
「暑いのは私だって同じです。それにほら、太陽に向かって歩いているのに、私が先頭で高木さんがその後ろなんですよ。
これってどういうことだか……頭のいい高木さんなら、すぐにわかると思いますけど……」
「あ……」

篠崎さんは別に怒っている様子でもなかったが、怒ってしまってもおかしくないと僕には思えた。
そう、篠崎さんの指摘した通り、直射日光に晒されているのは篠崎さんであり、僕は時折篠崎さんが作り出す影に入ることもあった。
だからそんな僕がぶつぶつ言う資格もない訳で……なんだか自分が恥ずかしく思えた。

「ご、ごめん……なら、今度は僕が前に出ますよ」

僕は遅まきながら篠崎さんにそう申し出る。
しかし、篠崎さんはそんな僕に笑って答えた。

「いいんですって、そんなこと気にしなくっても。そう言ってくれるならほらこうして……」

そう言って、篠崎さんはすっと後ろに下がる。

「私の隣で歩いて下さい。折角一人じゃないのに前後に並んで歩いてたらつまらないですから」
「あ、ええ、ごめん……」

確かに篠崎さんの言うことは道理だった。
僕はもう何も言えなくなって、大人しく篠崎さんの言う通りにすることにした。
しかし……僕は慣れていなかったのだ。
こうして誰かと並んで歩くことに……。

人には人それぞれ、距離感と言うものがある。
恋人には恋人の、友達には友達の、そして家族には家族の……。
しかし、そんなケースはごく稀で、普通は見知らぬ他人が殆どだった。

街には多くの人々がひしめく。
しかし、皆誰もお互いの顔を知らない。
そしてそれ故に、僕の周りで背景としての街の一部を彩る。

そんなオブジェクトとの距離感と言うものは、どういうものなのだろうか?
しかし、僕の意図とは裏腹に群集は人波を形成し、僕にそんなゆとりを与えてくれない。
もっと自分の速度で歩きたいのに、それがただの背景によって阻害される。
それは僕に行き場のないストレスを常に与え続けるものだった。

だから、僕は人込みが嫌いで、そしてそれを生み出す街中も嫌いだった。
必要上通学には電車を用いているけれど、街の人込みに比べれば、朝のラッシュの方がまだ好感が持てた。
なぜなら、ラッシュの人には常に共通の目的があり、それによって一つの整然とした流れを築いていたからだった。
だからそれはラッシュの中の距離感であって、それがそこでは当然であり、それは破られずに常に守られていた。

しかし、街中は違う。
人にはそれぞれ違った目的があって、歩く速度も人によって様々だった。
それはその人それぞれの勝手な話かもしれない。
でも、それでは済まされない問題もあった。
その個人の自由のために、他の人の自由、歩く速度が制限されるからだった。


僕は篠崎さんにああ言ったけれど、歩く時はのんびり歩くのではなく、かなりの早足だった。
それは必要に迫られたものでもなければ、何か目的があってそうしているのでもない。
ただ、まるでダイエットのためのウォーキングのように大股で交互に脚を繰り出す。
そうやって歩くのは何故か僕にとっては心地よかった。
それは慢性的な運動不足の僕の身体がそれを欲しているのかもしれなかった。

しかし、街はそんな僕に自由を与えない。
僕を束縛する。
それはまた、僕の隣を歩く人間も同じだった。
僕の歩く速度に合わない。
僕は当然のごとく黙って相手の速度に合わせ、そして反対から人が来れば、すっと自分から後ろに下がって道を空けた。

そんなことが続き、気がついてみれば僕の隣を歩く人はいなくなっていた。
僕は何故だろうと感じる。
そして周囲の人間を観察して見ると、みんなお互いに並んで歩いていた。
反対から人が来ようと、車が近くを通り過ぎようと、後ろから自転車が追い越そうとしても。
人は何があろうと極力横並びを崩さない。
僕はそんな光景を常に不快に思いながら眺めていたけれど、それは間違いだったのだろうか?

そして今、篠崎さんは僕と一緒に並んで歩きたいと言う。
そんな篠崎さんの気持ちは痛いほどよくわかる。
僕だって人と並んで歩くのが嫌な訳じゃない。むしろ並んで歩きたかった。
しかし……全てが僕の邪魔をする。
僕とその一緒に並んで歩いてくれる相手以外の、背景を彩る存在達が……。


「暑いでしょう?」
「ええ……済みません、気がつかなくって……」
「いいんですよ。ただちょっと、意地悪してみたくなっただけですから」
「い、意地悪って……」

そう言う割には、篠崎さんの表情には邪気がない。
だから僕も不快に思ったりはしないのだが、それが男が女には敵わない理由なのかもしれない。
しかし僕はそれがわかっていても尚、何も言えなかった。
つくづく男って、情けない存在だ……。

「だから、気にしないで下さいね。別に高木さんに対して悪気がある訳でもないし、会話のちょっとしたアクセント程度に捉えてもらえれば……」
「ええ……そう思うことにしますよ」
「そうそう。それに黙って歩くのも辛いですよ。何か二人でお話でもして、この暑さを忘れちゃいましょう」
「そうですね……」

僕は篠崎さんほど元気はなかった。
考えてみればお昼も饅頭しか食べていないし、元気がないのも無理はないかもしれない。
しかし今更そんなことを言い出しても詮無き事。
今はちゃんとニジマスを釣って、その塩焼きにでもありつくしかなかった。

それよりも僕は、さっきまで考えていた事を篠崎さんに話してみようと思った。
彼女なら、僕が見出せない答えを簡単に導き出してくれるような気がしたからだった。

「それよりも篠崎さん?」
「何です?」
「その……危ないとか、思いませんか?」
「えっ? 何がです?」

篠崎さんは僕が何を言っているのか全くわからないらしい。
しかし、それも当然だと思えた。
ひっきりなしに車が横行する都会の幹線道路とは程遠い、こののどかな田舎の街道に危険を感じる方がどうかしていた。

「車ですよ。ほら、こんな風に並んで歩いていれば、車道にはみ出しちゃうじゃありませんか」
「ああ……そう言うことですか」

僕の言葉で、ようやく篠崎さんはわかってくれたようだ。
しかし、それが共感に繋がっているなどとは僕には感じ取れなかった。

「ええ。結構気にしちゃうんですよね、こういうのって」
「そうなんですか……」
「はい。だから篠崎さんはどうかな?って」
「私ですか? 私は別に気になりませんけど……もっと車通りが多いなら別ですけど、今は明るいし、
そんなに車も通っていませんし……この感じなら、車の方も私達を避けてくれますよ」

そう、普通ならそう思うはずだった。
でも、僕は篠崎さんがそう言っても、完全に納得出来なかった。
篠崎さんの言っていることが普通で、この僕が神経質なまでに気にしていると言うことも充分すぎるほどわかっていた。

でも、でもどうしてなんだろう?
人にはよく、下らないことに真面目過ぎるって言われたりする。
そして要領が悪すぎるって事も。
だから女性の扱い方も知らないし、彼女もいなかった。
もっと如才ない言葉を言えればいいのかもしれない。
でも、そんなのは僕じゃないような気がしていた。
僕も馬鹿じゃないから、そんな風に自分を演じることくらい出来る。
しかし演じてみて何になる?
所詮は偽りの自分を、自分でない自分を愛してもらうことに他ならない。
そんな恋愛など、僕には虚しいと思えてならなかった。
だから僕は……敢えて篠崎さんには同調しないことにした。

「でも……僕は気になります」
「高木さん……」

篠崎さんは僕の口調、そしてその時の表情に、単なる笑い話では済まされないものを感じたようだ。
実際、僕は真剣だった。
本当に下らない、どっちでもいいような取るに足りないことだけど、でも、だからって僕には笑い飛ばしたりなど出来ない。

「僕には自分のエゴのために、来るドライバー達にハンドルを切らせるなんてことは出来ない。だから……」
「…………」
「だから、僕は……」

僕は……どうしたいんだろう?
何故か、その言葉の続きが出てこなかった。
考えてみれば簡単なことで、僕が篠崎さんの後ろ……いや、今度は前に出ればそれで済む話だ。
しかし、わかっていても言い出せない。
そう、それでは今までと何も変わってなどいなかったからだった。

そして沈黙する僕。
篠崎さんはしばし神妙な面持ちでそんな僕を見つめていたが、笑ってこう言ってくれた。

「高木さんらしいですね」
「篠崎さん……」
「高木さんの言いたい事、私にもわかりますよ。私には、わかるってだけですけど……」
「…………」
「でも、わかるから私は笑ったりしません。高木さんが真剣だってわかるから、私も真剣に受け止めたいと思います」
「……ありがとう。でも……」
「ええ、わかってますよ。それとこれとは別ですから。高木さんのポリシーのために、私は話し相手を失うつもりなんて更々ありません。
だって私、我が侭な女の子ですからね」

篠崎さんは笑ってそう言う。
全く、篠崎さんにかかると深刻な話も楽しくなってしまう。
僕はそれは素晴らしいことだと思ったけれど、それでもやっぱり拍子抜けしてしまうのも事実だった。

「やっぱり敵わないな、篠崎さんには……」
「女の子ですからね。だから高木さんも諦めた方がいいと思いますよ」
「あはは……もう笑うしかないね」
「ええ、笑っていた方がいいと思います。それに……私だって何も考えていない訳じゃないんですよ。ほらこうすれば……」

そう言って篠崎さんは……いきなり僕の腕を取ると、自分の方に引き寄せた。

「し、篠崎さんっ!?」
「ほら、逆らわないで下さいよ。高木さんは暑苦しくって嫌かもしれませんけど、今の高木さんの感じからして、
車道にはみ出るよりもこっちの方がいいかと思って」
「い、いや、そう言う問題じゃ……」
「ほら、こうしてくっつくくらいなら、そんなはみ出てるって感じないでしょう? 我ながらいいアイデアだと思うんですけど」
「し、篠崎さん……」

なんて言ったらいいんだろう?
篠崎さんは僕の腕を取って、肩と肩が触れ合うくらいの距離感をとった。
確かに結果としてはこれなら問題ないかもしれないけれど、でも……別の問題が出てくるじゃないか。

その別の問題を、篠崎さんは暑苦しさと言っている。
炎天下でくっついて道路を歩けば、暑くて当然だろう。
しかし……僕はともかく、篠崎さんはこれでいいのか?
それともこの僕が、変に意識し過ぎているだけなのだろうか?

「ほら、今の車、殆ど道を逸れませんでしたよ!!」

篠崎さんは僕の気も知らずに、明るく言った。
彼女は通り過ぎたばかりの車を振り返って目で追う。
そしてまた前方に視線を戻すと、再び僕に向かって言う。

「これならいいですよね、高木さん?」
「え、ええ……確かに篠崎さんの言う通りですね」
「よし、これでゆっくりお話出来るかな? 高木さん、何か話して下さいよ」
「そ、そうですね……」

そして、僕は篠崎さんに促されるままに、話をはじめた。
まるで何事もなかったかのように……。
それは、僕ではなく篠崎さんが求めていたもの。
それなのに……大いなる矛盾がそこに横たわっているように僕には思えた。

篠崎さんが求めていたものは、ただの雑談のはずだった。
しかし、その為に彼女が選んだ距離感は、雑談には相応しくないものだった。
話を楽しむには、こうするしかないと言うのが彼女の考えなのかもしれないけれど……。

腕を組んでくっついて歩く。
それは、恋人同士の距離感に他ならない。
篠崎さんはそのことに気付いているのだろうか?
僕は……気付いていない訳がないと思う。
しかし、篠崎さんはまるで何も感じていないかのように振る舞う。
そのことが、どうしても僕には理解出来なかった。

ただ、人と並んで歩くと言うことが、どういう事なのかはわかった気がした。
つまり、並んで歩くにはその距離感を感じることが大切で……。
明らかに僕の今までの人との距離感は、一緒に並んで歩くものではなかった。
それが、僕が独りで歩く原因だったのだろう。

そして今の距離感は、一緒に並んで歩くには申し分なかった。
半袖から出た腕の素肌同士が触れ合う。
時折僕の肘が篠崎さんの胸をかすめ、どきっとしたりする。
でも、篠崎さんは何も言わない。
そして僕も、わざわざ余計なことを言ったりはしない。
ただ、全く別の会話を楽しんでいただけだった。
でも、僕の意識の半分は会話の内容でなく篠崎さんの元にあり……僕はこの距離感に胸を高鳴らせていた。

このドキドキが、もしかしたら篠崎さんに伝わってしまっているかもしれない。
でも、僕はそれでも構わないような気がした。
だってこの距離感を選んだのは、他ならぬ篠崎さんなのだから。

そしてそっと篠崎さんの横顔に視線を向ける。
楽しそうに語るその表情はとても輝いて見えた。
僕は思わず見入ってしまって……。

「や、やだ、高木さん……そんな目で見ないで下さいよ……」
「あ……あ、いや、ご、ごめんっ!!」

僕は篠崎さんに気付かれてしまって、慌てて謝って大きく視線を逸らす。
自分の想いだけが先走ってしまって……何だか自分勝手過ぎたような気がした。
しかし、そんな僕に向かって篠崎さんはこう言う。

「でも……謝らなくってもいいですよ。私、別に気にしませんから……ほらっ、高木さんがちゃんと話の相手をしてくれるんでしたら……」
「…………」
「もう、高木さんがこっち向いてくれないなら……私が高木さんのこと、見ちゃいますよ」
「…………」

ふざけたように笑ってそう言う篠崎さん。
でも、僕はしばらく篠崎さんの方を向けなかった。
しかし、篠崎さんは僕を放そうとしない。
反対を向いているのに離れようともしなかった僕も僕だが、篠崎さんも僕を放り出そうとはしなかった。

そしてしばらく静かに歩く。
さっきまでの楽しそうな会話とは裏腹に、二人の間には沈黙が続いていた。
しかし、ただの沈黙とは違う。
不仲による、心のすれ違いによる、そんな沈黙ではなくて……それは、この距離感が証明していた。

「……しのざ……き…さん………」

僕は耐え切れなくなったように顔を篠崎さんの方に戻す。
すると、視線と視線が一つになる。
篠崎さんはやはりその言葉通り、僕のことを見つめ続けていたようだった。

そして僕の顔を見て、篠崎さんは笑顔を見せる。
それは全てを氷解させるような笑顔。
それと共に発せられた言葉は、僕を驚かせるものだった。

「綾、って呼んで下さい。私、名字よりも名前の方が好きなんです」
「し、篠崎さん……」
「綾、ですよ、高木さん」

今までは、そんなこと一度も口にしたことはなかった。
それは唐突だったけれど、でも、何故か僕は違和感を感じなかった。

「あ、綾……で、いいのかな?」
「ええ。私も……潤って呼んでもいいですか?」
「べ、別に構いませんけど……」
「よかった。高木さん……ううん、潤がそう言ってくれて……」
「…………」

僕は、そっと心の中で彼女を「綾」と呼んだ。
本当は口に出して言いたかったけれど、慣れていないため上手く口に出せなかったからだ。

「じゃあ、お話の続きをしましょうか……って、あっ、あれ、バスで見た看板じゃありませんか!?」
「そう言えば、そんな気も……」
「絶対そうですって!! 私、この辺の景色にも見覚えありますから!!」
「な、ならそうだね。案外早く着いたみたいでよかったかな?」
「これも潤のおかげです。私、退屈しませんでしたから」
「そ、それはよかった……」

そう言いながらも、僕は「潤」と名前で呼ばれることに妙な違和感を覚えていた。
確かに、今までずっと「高木さん」と呼ばれていたのだから、当然と言えば当然だ。

でも、篠崎さんは態度でまず僕に示した。
そして今度は言葉で――
具体的には何も言わない。
ただ、人が見れば僕達のことをどう思うだろう?
気持ちはどうあれ、二人の距離は恋人同士の距離だった。

しかし……気持ちが伴わないのならば、この距離は暑苦しく不快なだけだ。
そして僕は、今の距離感を心地よく思っている。
それは僕らしくないかもしれないけれど。

篠崎さんの笑顔はずっと絶えない。
そんな面白おかしい会話をしてきた訳でもないと言うのに。
だから僕は……どうしたらいいんだろう?
やはり僕は、いずれ勇気を持って全てを確認する必要があると思えた。
今はまだ、その時ではないかもしれないけれど……。


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