夏の行方

Written by Eiji Takashima

第十一話 ピュア



二人で色んな話をした。
それは景色に飽きたと言う僕の無聊を紛らわせるものだった。
しかし、僕の中にはそれだけでは言い切れないものがあった。
それは……多分、篠崎さんだろうと思う。

何故か、僕は彼女に魅かれていった。
そしてその想いは僕の理性を持ってしても止まることなく、加速度的に増して行く。
自分でも何が何だか支離滅裂で、明らかに混乱していた。

それが篠崎さんに気付かれない程度なのは幸いだった。
篠崎さんは……彼女は今の僕のこの気持ちに気付いてるのだろうか?
僕が自分の高鳴る胸の鼓動を感じていると言うのに、篠崎さんはあまりに無防備だ。
確かにそんな自然体で人に接することが出来ることは、彼女の魅力の一つと言ってもいいかもしれない。

ただ、僕も男だ。
僕を風に乗せて飛ばせる存在が篠崎さんなのではなく、僕自身がこのまま彼女を連れ去ってしまう風になりたいと言う気持ちもある。
そんな甘やかで危険な感情は本当にごく僅かなものだったが、明らかに僕の中に存在していると言う事実が僕の不安を呼んだ。

そして僕は芽生えた篠崎さんへの想いを胸に秘めつつ会話を交わす。
もっと篠崎さんのことを知りたいと思う僕がそこにいた。



高校のこと、大学のこと、テレビのことから友達のこと。
年もまださほど離れていないこともあって、ジェネレーションギャップはあまり感じない。
ただ、男と女の嗜好の違いと言うものもあるし、一概にぴったり噛み合うとは言えなかった。

しかし、それはそれで心地よい。
自分の知っているだけの相手では、面白くも何ともないだろう。
自分と共通のものを持ちつつ、全く知らない一面を持っている方が好ましかった。
それは僕に新たな発見と感動を与えてくれる。
僕は篠崎さんの言葉一つ一つに、大小の驚きを持って応えていた。

篠崎さんもこの情報過多な世の中にしては珍しく、あまり多方面に渡った知識を持っている訳ではない。
それでも彼女は楽しそうに色々話してくれる。
そんな様子を見ると、会話の内容よりもこうしていること自体が楽しく思えてくる。
篠崎さんのくるくる変化する表情は僕の心に更なる刺激を与え、飽きさせることはなかった。



だが、そんな時間はいつまでも続かない。
日常の会話のネタも切れ、僕達はこの旅のことについて色々話を展開させるようになっていた。

「それにしても……」
「何です、篠崎さん?」
「本当にいいですね、群馬って」
「確かにこうしているとそう思えますよね」
「でしょう? 高木さんもそう感じますよね?」

自分と意見が合って、嬉しそうに胸の前で両手を合わせる篠崎さん。
どうやら篠崎さんは、形はどうあれ胸の前に手を持ってくるのが癖らしい。
喜んだりして感情の起伏があると、よくそうしているのを僕は見かけていた。

「ええ。でも、篠崎さんには水を差すようで悪いかもしれませんが、やっぱりこれは旅ですから」
「……どういうことですか?」
「つまり、旅先ってのはどこもよく見えるって事ですよ。ほら、雪の降らないところに住んでる人が、
大雪の降るところに住みたいって言うのと同じで……」
「な、なるほど……言われてみればそうかもしれませんね」
「だから、何だか悟ったような言い方で申し訳ないんですけど、やっぱり故郷が一番ですよ。つまり、僕にとっては埼玉で……」

本当に、僕は埼玉が好きだった。
色々馬鹿にもされる東京のベッドタウンだけれど、それでも僕はあくまで埼玉に拘っていた。

そこには特に何があるって言う訳じゃない。
でも、名物なんて所詮は観光者向けのものだ。
だから、何もないと感じるところからスタートする。
何もないところに何を感じるか、何を感じさせてくれるか……。
それを突き詰めてみると、やっぱり思い出だろうと思う。

僕が住む埼玉には色んな思い出がある。
それは箇条書きにしようと思ってもなかなか出来ないくらい感覚的で、思い出すには何らかの引き金を必要とした。
だから、一番思い出に密着している自宅の周辺はその引き金の宝庫に感じるかもしれない。
しかし、思い出を引き寄せる以上に強く立ちはだかるのは、今を生きている現実だった。
その現在を匂わせる生活観があまりに強すぎて、おぼろげな僕の夢をかき消してしまう。

だから、僕達は現実とはちょっと角度を変えた場所から世界を眺めてみなければいけない。
そしてそれが旅であり、僕は旅情と言うものは思い出のちょっと変化したものだと考えていた。

見覚えのない土地なのに、何故か既視感が伴って懐かしく見えてしまう。
それは夢を見るのに相応しいくらいに現実から離れているからだろう。
そしてぼんやりした白の世界の中で僕達は昔を思い出す。
それは日常の断片にしか過ぎないけれど、確実に今の日常とは違っていて、それが僕の心に触れてくる。

今とは違うかつての自分、そしてかつての世界。
それは必ずしも美しいものだけではなかったけれど、時は全てを美化していく。
たとえそれが苦い思い出だったとしても、僕の心を不思議に穏やかな感情で満たしてくれた。

そんな、誰にも上手く表現出来ない心地よさがある。
だから人は見知らぬ土地を旅するのであって……でも、それは旅先を見ているのではない。
僕達は旅と言うレンズを通して自分の思い出、一番大切な忘れ得ぬ場所を思い起こしているのだ。
つまり、僕の一番大切な、埼玉と言う場所を――


「私には……ちょっとまだ難しすぎるかもしれません」

考え込むような表情を見せた後、篠崎さんはしばらくして僕にそう答えた。
別にわからないことは悪いことじゃない。
でも、篠崎さんは少しだけそれを寂しく感じている様子だった。

僕はそんな篠崎さんを見ると、彼女の一途さを強く感じる。
わからないの一言だけでは物事を済ませたりしないその性格は、僕にとって心地よいものだった。

そしてふと思う。
もしかして篠崎さんが誰よりも風を強く感じてるのは、彼女が全く流されないからなのではないかと。

今の現代社会に生きる人々は、概ね世間に流されて生きている。
何かに常に背中を押され、素直にそれに逆らうことなく従っていく。
だから、風を感じてもそのままそれに飛ばされてしまうから、それが風だと言うことに気がつかない。

しかし、篠崎さんは違う。
風が吹けば、それを正面から受け止める。
そしてそれを全身で感じているのだ。
まるで心地よいものだと言わんばかりに。

確かに世間は刺激に満ちている。
その連続に明らかな疲労を感じている人も多いだろう。
だから人は溜め息をつく。
逆らいたい、楽しみたいと思いつつも、どうしようも出来ない自分を嘆いて。

でも、普通の人達と違って、そんな刺激にドキドキを感じ取ることが出来る人もまた存在する。
まるで地球が自分にいつも微笑みかけてくれているかのように。
そう、僕の目から見た篠崎さんはそんな感じだったのだ……。


「まあ……それは仕方がありませんよ。いくら考えても埒があかない事だってありますし……」
「じゃあ、どうするんです?」
「だから、頭で考えずに肌で感じるんです。ほら、いつも篠崎さんが風を感じるみたいに……」

僕は篠崎さんにそう答える。
そしてまだわからなそうな顔をしている篠崎さんに向かって、続けてこう言った。

「だから僕も、いつも埼玉を感じてますよ。やっぱり根っからの埼玉県民なんですね。群馬にいても埼玉を感じるなんて……」
「……私、群馬の風は群馬の風だと思いますけど……」

ちょっとだけ、篠崎さんが反論してみせる。
しかしそれはもっとはっきりした答えを導き出すためのものにしか過ぎない。
僕もそれがわかっていたから、軽く笑って篠崎さんにこう言った。

「だから、群馬の風は埼玉の風とは違っているでしょう?」
「あっ……」
「わかりましたか? つまり、まず埼玉ありき、なんですよ。埼玉と比較してどうこうって言う話で……」
「そう言われてようやくわかりました。流石は高木さん、うまいこと言いますね」

感心することしきりで、何度も頷きながら篠崎さんはそう言った。
でも、そんなのは大したことじゃないと思う僕は、謙遜しながら篠崎さんに応えた。

「そんな、どうでもいいことですよ。でも、やっぱり埼玉からは離れられない自分がいることに気付かされます。
そして、そんな自分が妙にかわいく思えるんですよね。愛なんて洒落た言葉は似合わない自分なのに、
埼玉を愛している自分がいるんですから……」

僕はそう言い終えた後、不思議と清々しく感じた。
愛だの恋だの言うのはからきし似合わないと思っている僕だけど、そんなものに対する憧れはあった。
だから、僕にもそれらを感じられると言うことが、誇らしくさえ思えたのだった。

そして篠崎さんは僕の言葉を聞きながら目を見開いていたが、何かを受け止めたかのように軽く一度頷くと、
僕に向かってこう言ったのだった。

「私も……そう思います。なんだか高木さんって……かわいいです」
「え、ええっ!?」
「ふふふっ、冗談なんかじゃありませんよ。本当に、かわいいと思います」

驚く僕に、篠崎さんは笑いながらそう言う。
全く篠崎さんは意表を突く発言で僕をいつも驚かせてくれる。

「男の人もこんなこと考えられるんだなーって。だから、かわいいんです」
「お、男って……まあ、僕はちょっと特殊かも知れませんけど、でも……」
「別に私は高木さんが変だって言ってる訳じゃありませんよ」
「い、いや、別に変だって構わないさ。現に自分でも変だって自覚はあるんだし」
「なら、いい意味で変なんですね。だってかわいいんですから」

笑顔を絶やさずに言う篠崎さん。
明らかに僕は遊ばれているようだったが、それでもそれだけではないように感じるのは僕の気のせいだろうか?

「もぅ、篠崎さんは……」
「ごめんなさい。でも、高木さんが悪いんですよ」
「ど、どういうこと、僕が悪いって?」
「だって、からかいたくなっちゃうくらいかわいいんですから。私よりも年上なのに、何だか不思議ですよね……」
「……それって僕が大人げないってことですか?」
「い、いえ、そうじゃなくって……む、難しいかな? つまり、高木さんがピュアだからですよ」
「ピュ、ピュア……ねぇ……」

ちょっとこれには流石に僕だって呆れてしまう。
年上の男を捕まえてみて、まさかピュアはないだろう。
愛や恋などという言葉以上に、僕を表現するには似合いそうもないように思えた。
しかし、そんな僕の考えを変えてみせようと言う意気込みめいたものを感じさせながら、篠崎さんは続けてこう言った。

「だって、普通の人は私みたいに風を感じて喜んだりなんてしませんから。だから私も高木さんのこと、特別に思ったんです」
「…………」
「な、何だかちょっと恥ずかしいかな……でも私、今の気持ちを大切にしたいと思ってますから……」
「篠崎さん……」

少し顔を赤らめる篠崎さん。
意図せずに、ちょっと意味深な台詞を口走ってしまったからだろうか。
僕はそんな篠崎さんの名前を思わず呟いてしまったが、当の篠崎さんはこの妙な雰囲気を吹き飛ばそうと、
ちょっとわざとらしく笑ってみせながら言った。

「あ、あ、その……だから、そうだ、そろそろ降りませんか!?」
「え、い、いや、いいですけど……」
「ええと……あ、あそこにニジマス釣りの看板があります!! あそこ、行ってみませんか!?」

急に話題を変えた篠崎さん。
やっぱり僕と同じくらい、こういうのには慣れないらしい。
そして篠崎さんがそうしてくれたことで、僕もほっと胸をなで下ろしていた。

「い、いいですね!! じゃ、次のバス停で降りましょうか!?」
「そうしましょう!! やっぱり折角来たんだから何かイベントもないと……」

変に大きな声を出しながら、僕達二人はこれからのことについて話をはじめた。
でも、篠崎さんが発見したニジマス釣りなんて、本当はどうでもいいのかもしれない。
ただ、何か変化が欲しかったのが実際のところだった……。

何かを恐れる二人。
それが恐れるべきものではないとは知っている。
でも、篠崎さんの言葉を借りて言うなら、僕達はあまりに全てのことに慣れていなくて、ピュアだった。
それがいいことなのか悪いことなのか、当事者の僕には上手く判断が下せない。
でも、僕自身の感情としては……これでいいと思えた。
ピュアな二人がこれからどこに行くのかはわからないけど、それでもどこかには行きつく。
風を求めて、風の導きに引かれて――

そう、僕は信じていた。
このまま風に任せて行けば、全てが上手く行くに違いないと。

そして、篠崎さんの長い髪はバスの窓からの風に吹かれて、夏の日差しに眩しく煌いていた……。


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