夏の行方

Written by Eiji Takashima

第七話 風を探して



緑の香りがする。
山々の間を縫うように列車は北へと向かっている。
夏の太陽は既に高い位置にあり、僕達は厳しい日差しに苦しめられることもなく、ただ車窓からの涼風を甘受していた。

ずっと我慢させられていたせいか、篠崎さんはかなりのスピードでだるま弁当を平らげていく。
そんな様子を見て、これほどまでに喜んでくれるのであれば、半分などとは言わずに篠崎さんに全部食べてもらいたいと思えた。
まあ、篠崎さんのことだ、絶対にそんな僕の提案には頷かないだろうけれど。

篠崎さんにもらったジュースを飲んでいた時、彼女は僕の様子を眺めながら「人が飲んだり食べたりするをの見ているのが好き」と言ったが、
恥ずかしながらその点については僕も同じだった。
きっと見られている篠崎さんは恥ずかしいだろうけど、もしかしたら、僕達が出逢ってから今までの間で、
僕は一番じっくり篠崎さんのことを見ているのかもしれない。

「…………」

篠崎さんは時折視線を上げて僕の方を見る。
しかし、じっくり眺める僕をとがめだてすることもなく、黙って何も言わずに食べ続けた。
もしこれが僕だったら気になってしょうがないに違いない。
でも、篠崎さんは時々風に煽られる髪の毛を手で払うだけで、それ以外のことには全く関与しようとはしなかった。
僕はさしたる根拠もなく、これは年齢と性別の違いなんだろうと思いながら、少なくなり始めたお茶をちびちびと飲んでいた。



「……ごちそうさまでした」

しばらくして、篠崎さんは自分の分を食べ終え、律義にも最後にごちそうさまの挨拶をして締めた。
真っ赤なプラスチックのだるまの中を覗き込んでみると、まるで定規でも使ったかのように妙に綺麗に半分だけなくなっていた。
その辺がやはり性格なのだろうか、それとも見ず知らずではないにしても異性の他人に自分の残りを食べさせるからなのだろうか、
ともかく誰からの反論の余地もないような完全さを僕に見せ付けていた。

「とってもおいしそうでしたね」

僕は膝の上にちょこんとだるまを載せて満足げな表情を浮かべている篠崎さんに向かってそう言った。
すると篠崎さんはさっきまでの不安定さはどこへやら、かなり落ち着いた様子で僕に応えた。

「はい。やっぱり電車の中で食べる駅弁っておいしいですよね。それに朝ご飯食べてなかったから、
お腹も空いてましたし……」
「ええ。もしよかったら残りのもう半分も……」
「駄目です」

きっぱりと否定されてしまった。
まあ、やはり、と言うところだろうか?
僕はこれほどまでではないにしても、同様の答えを予期していたので、さして驚かされもしなかった。

「……篠崎さんならそう言うと思ってましたよ」

そして僕は諦めたように小さく笑いながら言う。
すると篠崎さんはにっこりと微笑みながら膝の上のだるま弁当を僕に向かって差し出した。

「有り難う御座います、高木さん。はい、じゃあ、これが高木さんの分。私の食べた残りで申し訳ありませんけど、
とってもおいしいからちゃんと全部食べて下さいね」

その微笑みながらの言葉も、何だか不思議と僕を脅迫しているようにも感じられる。
きっと「四の五の言わずに食え」と言うことなのだろう。
かわいい顔をして、なかなかに恐い女の子だ。
でも、それでも不快に感じないところが男の情けないところで、僕は半ば気圧されながらその真っ赤なだるまを受け取った。

「じゃ、じゃあ、僕もいただきますね」
「はい」

篠崎さんはにこにこ笑っている。
もう、僕はあまり深く考えることもなく、気にせずさっさと食べきってしまおうと思い、弁当に集中することにした。


「…………」

幸い、篠崎さんの使った箸を借りると言うことだけは避けられた。
僕は篠崎さんが床に落としてしまった弁当についていた割り箸をとって、半ば気休め程度に埃を払う動作をすると、
景気のいい音をさせて二つに割った。

そして、弁当の縁の部分から先に手をつける。
食べ易さから言えば崩れ易くなっている篠崎さんが作った断面から食べるのが一番なのだが、流石にいきなりと言うのは相当気が引けた。
それは僕の気にし過ぎかもしれないけれど、気になる以上は仕方がない。
僕はそう自分を納得させて、端の方から食べ進めていった。
しかし――

「あ、あの……」

僕は堪らずに顔を上げて篠崎さんを見る。
すると篠崎さんは不必要なまでににっこりと笑ってそんな僕に応えた。

「何ですか、高木さん?」
「あ、あの……そんなにじっくりと見られていると、食べにくいんですけど……」
「でも、私、人が食べるのを見るの、好きですから」
「い、いや、それは前にも聞いたけどね……」
「はい」

困った顔をして僕は半ば懇願の声を発すると、篠崎さんはまたもや綺麗な笑みで僕に頷いて応えた。
そして僕はそれを見てなんとなく悟る。
これは篠崎さんの意趣返しなのだと。

確かに僕はついさっきまで同じように篠崎さんが食べているところを一部始終眺めていた。
篠崎さんは何も言わなかったけれど、きっと気にしていたに違いない。
僕はもう自業自得だと諦め、篠崎さんの注視の中、大人しく食べることにした。

しかし、僕がそういうスタンスを採ったことに気付いた篠崎さんは僕に話し掛けてきた。

「……高木さんって左利きなんですね。今はじめて気付きました」
「え、ああ……でも、別に珍しくもありませんよね?」
「はい。それもそうですよね」

そう言う篠崎さんは楽しげだった。
でも、考えてみるとそうかもしれない。
やっぱり旅をするのは独りよりも誰かと一緒の方がいい。
ぶらぶらと見知らぬ世界を満喫している時はいいかもしれないが、こうして食事をしている時などは特にそう感じる。
僕はもし成り行きで旅をしたとしても、今日は間違いなく独り旅のつもりだった。
そもそも話し相手がいれば、鞄に本を詰め込む必要もない。
そして今、僕の鞄の中の本は眠りに就いている。
僕はそのことをほんの少しだけ、心地よく感じていた……。



「あ、そのうずらの卵……」
「えっ、これが何か?」

僕が弁当の中のうずらの卵を箸で取ろうとすると、篠崎さんがちょっと声を上げる。

「それ、高木さんのために残しておいたんですよ。私、うずらの卵って大好きなんですけど、やっぱり一つのお弁当に一つだけみたいで……」
「確かにうずらの卵はメインって感じですからね。クリームソーダとかのさくらんぼのような……」
「そうそう!! 本当は食べちゃおうかとも思ったんですけど、やっぱりそれじゃ後から食べる高木さんに失礼ですから」

照れもあるのか篠崎さんは少し恥ずかしそうに言う。
僕はそんな律義で頑固なこだわり派の篠崎さんを微笑ましく思うと、少し表情を崩してこう告げた。

「なら、篠崎さんに差し上げますよ。まだ箸で触ってませんから」
「……いいんですか?」
「ええ。まあ、僕もうずらの卵は大好きですけど……」
「そうですか・・・でも、それならわかっていただけますよね、私の気持ち?」
「はいはい。僕もこのうずらの卵を手放すのは断腸の思いなんですよ」

期待に瞳を輝かせる篠崎さんに向かって僕はちょっとおどけてみせる。
すると篠崎さんも少々気が楽になったというか気兼ねしなくてもいいように受け止めてくれたのか、
恥ずかしそうにして自分の箸を手に取った。

「じゃあ……いただきますね、高木さん」
「ええ、遠慮なさらずにどうぞ……」

僕はそう言って篠崎さんにだるま型の弁当箱を差し出した。
篠崎さんは案外見かけ以上にこのうずらの卵を気にかけていたらしい。
僕の言葉と行動によって完全に解き放たれた獣のように素早く飛びついた。
そして器用にうずらの卵をキャッチすると口の中に放り込む。

「んー、やっぱりおいしいです」

篠崎さんはもぐもぐしながらうれしそうにそう言った。

やっぱり食事中というのはその本来の性格が表れるのだろうか?
はじめはその容姿のせいか深窓の令嬢のようにも見えた篠崎さんだけれど、今では笑顔の似合う普通の女の子に見える。
まあ、それだけではないというのも僕はわかっていたけれど、でも、こんな明るい面があればこそ、
流れるようにつややかな髪を靡かせながら風を感じている様子が、僕の目にはより一層特別なものに映るのだった。


「有り難う御座いました、高木さん。何だか私、我が侭言ってばかりで」
「いえ、いいんですよ。篠崎さんよりも僕の方が年上なんですから」

たった一つのうずらの卵を満喫し終えた篠崎さんは、僕に軽く頭を下げてお礼を言う。
そして僕はそんな篠崎さんに鷹揚な態度で応えた。

「やっぱり大人なんですね、高木さんって」
「いや……そんなことないですよ。僕だって色々子供ですから」
「じゃあ、私がまだまだ子供だってことなんでしょうね。高木さんを見ていると、つくづくそう思います」
「そんな……篠崎さんだってそんなことありませんよ。僕はそう思います」
「……どこが……ですか?」

何となく流れで言ってしまった僕の言葉。
でも、それを聞いた篠崎さんはそのまま聞き流したりはしなかった。
そして僕は篠崎さんの反応を見て、笑い話では済まされないことを悟った。
自分の態度が大人と言うには程遠いことをずっと感じていた矢先だけに、篠崎さんには大切な問題だったのだ。

「そ、それは……」
「…………」
「……し、篠崎さんのそういうとこ、僕はかわいいと思います。でも、それだけじゃないこともまた知ってますから……」
「高木さん……」

自分でも、すんなりと言葉が出てきた。
口下手を自覚していただけに、自分でも驚きだった。

気の利いた言葉なんて言えない、ただ沈黙の似合う男。
しかしそれは意識しているのではなく、それしか出来なかったからに過ぎない。
そして僕はそんな自分を情けないと思いつつも変えようとはせずに、これが僕なのだと割り切って諦めの境地に達していた。

だが、僕は本当に短い間だけれど、篠崎さんのことを見てきたつもりだ。
だるま弁当が売っていないと言ってへそを曲げ、ふざけて髪の毛で僕をくすぐったりする。
それは確かに篠崎さんの言うように子供っぽい言動かもしれない。
でも、それでも尚、僕はもう一人の篠崎さんを見ていた。
それは、風の似合う不思議な篠崎さんの姿だった。

「……篠崎さん、風を探しに来たって言いましたよね……?」
「え、はい……」
「だから、僕もここに一緒にいるんですよ。僕もまた自分の風、僕を現実に繋ぎ止めてくれる風を見つけたいから……」
「高木さん……」
「僕の風と篠崎さんの風、それは同じ風じゃないかも知れません。でも僕は……」
「…………」
「恥ずかしい話かも知れませんけど、僕は風の似合う篠崎さんに魅かれました。それじゃあ……答えになりませんか?」

誤解される発言かもしれない。
でも、僕は勢いに任せて言ってしまった。
現実に、僕は彼女に魅せられているのだから。

すると、篠崎さんは穏やかな笑みを浮かべて僕にこう告げる。

「高木さんも……風、似合ってますよ。私に窓を開けさせてくれた時、そしてあの籠原駅で窓を閉めずにいてくれた時から、
私はそう感じていました。だから私も……高木さんとお友達になろうと思ったんです……」
「そうなんだ……」

僕はそれ以上何も言えなかった。
ただ、僕の言いたいことが篠崎さんに通じて、それが何よりも嬉しかった。


「これから……どうしましょうか?」

篠崎さんはそう僕に訊ねる。
その姿は、もう僕に子供っぽさなど感じさせなかった。

「そうですね……」

車窓からは緑に包まれた山の稜線が見える。
僕はそれを眺めながら篠崎さんにこう言った。

「ここには……何かがあるかもしれません。どう思います?」
「はい……これ以上北に行っても、夏が少なくなるだけだと思いますし……」
「そうですね。じゃあ……」
「はい……」

こうして僕達はこの群馬の地を選んだ。
ここになら僕と篠崎さん、二人の求める風があると信じて……。


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