夏の行方

Written by Eiji Takashima

第五話 走る背中



「残念です」

その言葉以上に残念そうな顔をして、篠崎さんは僕に言った。

「仕方ありませんよ。考えてみれば、こんな中途半端な時間なんですから……」

僕はそんな篠崎さんを慰める。
腕時計を見ると、もうすぐ針は9時半を指そうしていた。



電車が終点の高崎に着くと、僕と篠崎さんは早速高崎名物のだるま弁当を求めた。
しかし、朝でもなければ昼でもない中途半端なこの時間、だるま弁当は売り切れだったのだ。

「もう、凄く期待してたのにっ!!」

僕の慰めの甲斐なく、篠崎さんは一層不満の色を濃くした。
確かに、僕がだるま弁当の件を了承してからと言うもの、篠崎さんの話題はいつの間にやら季節や風の
話ではなく、駅弁の話になっていたから、そう思ってしまうのも無理はないかもしれない。

「まあまあ……少し待てばいいじゃないですか」
「お腹空いてるんです、わたしっ!!」

不満と言うか、既に怒っている。
でも、その怒りの矛先が僕に向いていないので、そんなに深刻に受け止めることもなく、僕は年上然と
して鷹揚にそれを受け止めていた。

篠崎さんは知らず、僕にとっては駅弁はあまり思い入れがある訳でもない。
だるま弁当についても僕が高崎線を通学に利用していたと言うことと、それ以上に母方の実家が群馬に
あったという関係で知っていたと言うだけであって、そうでもなければ縁もゆかりもなかったはずであった。

僕もよく新聞の折り込み広告でデパートの駅弁フェアを見かける。
そんなに特別なイベントでもなく、割とお約束な、いつも変わり映えしない内容に、僕は冷淡な視線を
向けているのが常だった。
確かに電車の硬いシートに座って、窓際にお茶を置いて、外の流れ行く景色を見ながらだとか、または
見知らぬ駅のホームのベンチに腰を下ろしてのんびりと食べる駅弁はおいしいかもしれない。
僕もそう思うからこそ、篠崎さんに強く勧められただるま弁当を食べてみようと言う気にもなったのだ
し、自分でもいつの間にやら乗り気になっていたのだ。

しかし、それは今の話。
僕は別に旅好きでもないし、だから駅弁なんて関係なかった。
どこのラーメン屋が美味いとか、母親の作る料理では何が一番おいしいとか、そんな程度だった。
まあ、僕も料理とか、食べ物関係については割と好きな方で、自分で作ってみたり、行ったことのない
お店を探しては、チェックしていたりもする。
しかし、だからこそ、駅弁には興味がなかった。
駅弁はやはり、作り置きでしかない。
だから当然、出来立てのものには敵わないのだ。
旅情と空腹をプラスしてようやく匹敵するものであって、味を楽しむと言うより雰囲気を楽しむものだ
と思っていた。


「確かにお腹は空きましたね」

僕は呑気にそう言う。
空いたと言っても、いつも朝食抜きの僕にとっては気になる程度のものではない。
多分、ぷりぷりとしている篠崎さんも、僕と同じだと思う。
しかし、だるま弁当を食べるのだと意気込んでいただけに、その期待を裏切られたのはかなり大きかっ
たのだろうと思う。
僕も続き物の小説を読んでいて、よし次の巻を買ってこようと意気込んで本屋に行った時に、その目的
の巻だけすっぽり抜けていたりした時には、相当のショックを受けたものだ。
まあ、本と駅弁では全く違うかもしれないが、何となく僕は篠崎さんの思いを共有出来た気がしていた。

「本当です。もう……」

落ち着いた態度の僕を見て、篠崎さんも段々と冷静さを取り戻してきた。
怒ってもどうしようもないと言うことが、ようやく頭だけでなく心でもわかったのだろう。

「取り敢えず出ましょう。売り出されるまで待つにしても、ここで時間を潰すのもなんですし……
それとも諦めてもっと先に進みますか?」
「嫌です。私は絶対に諦めませんから」

僕がそう訊ねると、篠崎さんはきっぱりと拒んだ。
何だかお嬢様然とした容姿なだけに、変に拘って我が侭を言う篠崎さんは、僕の目になかなか微笑ましく映った。

「わかりましたよ。って言うより篠崎さんがそう言うことくらい、僕にはわかってましたから」
「……え、ええ」

にこやかに僕がそう言うと、篠崎さんもちょっと自分の大人げない態度に気付いたのか、恥ずかしさ半
分、気まずさ半分で僕に相づちを打った。
そして篠崎さんの憤懣にも一通りの決着がついたところで、僕達は駅の改札を抜けた。



「いいお天気ですね」

もうすぐ昼になろうとする強い夏の日差しを手で遮りながら、篠崎さんは気持ちよさそうに言った。

「ええ、そうですね。やっぱりたまにはこういうのもいいです」

僕も眩しさに目を細めながら、篠崎さんに応えた。

「それに何だか空気が全然違います。とっても澄んでますし」
「そうですね。首都圏はほとんどコンクリートとアスファルトで地面が覆われて、照り返しとかがきつ
いですから。ここもこの辺は同じかもしれませんけど、ほら……」

そう言って僕は指差してみせる。
そこは既に関東平野ではなく、群馬の峰々だった。

「ほんとですね……山の緑が綺麗です」

感慨深げに篠崎さんは応える。
篠崎さんもやはり、僕と同じ都会の住人なのだ。
普段からこんな景色の見えるところに住まう人々には、これが当然の風景だ。
しかし、僕達にとっては特別に見える。
田舎の人間が都会を求めるのと同じように、都会の人間はこんな景色を求めていた。

「んんっー!!」

僕は思わず大きく伸びをしてみせる。
何だかラジオ体操でもしたくなるような、そんな心地よさがここにはあったからだ。

「あっ、じゃあ私も……」

そんな僕を見た篠崎さんも、真似して伸びをしてみる。
いい年をした男女が並んで、しかも駅前で堂々と伸びをするなんて、かなり恥ずかしいかもしれない。
今は中途半端な時間帯と言うこともあって、駅前ですら人通りは少なかったものの、やはりそこは駅前、
誰にも見られないと言う訳にも行かなかった。

「は、恥ずかしいかな、篠崎さん……?」

伸びをしながらそう呼びかける僕。
篠崎さんも顔だけこっちに向けてこう答えた。

「恥ずかしいけど……気持ちいいのには勝てません」
「そ、そですね……」

情けない声で相づちを打つ僕。
ほとんど誰も見ていない電車の中では伸びすることを拒んだくせに、何故かここではそんな気にはならなかった。


「ふぅー……」

ひとしきり伸びをした後、最後に深々と深呼吸をした。
そして何故か僕と篠崎さんは同時にお互いの顔を見る。

「ふふふっ、何だかいいですよね、こういうのって」
「そうですね。上手く言えませんけど、いいです」

篠崎さんの笑顔につられて、僕も慣れない笑顔を返した。
きっと篠崎さんのに比べたらぎこちないだけだろうし、見て楽しいものでもないだろうけど、でも、今
は笑うことが大切だと思った。

「どうします?」

そんな僕に対してただひとこと、篠崎さんは訊ねた。
何を、とは聞かない。

「行きますか?」

どこへ、とも言わない。
同じ車両の同じボックス席に座った僕達には、同じ認識があった。

「やっぱり……当然ですよね?」
「ええ。じゃあ、行きましょう」
「はいっ!!」

あの、桟橋へ――




「うわーっ、いい風っ!!」

歓声を上げる篠崎さん。
やっぱり風が好きな彼女は、車窓からの風とは違った天然の風を全身で受けていた。

「ほんと、景色も最高ですし」

僕はそんな篠崎さんを微笑ましく見つめながらそう応えた。
篠崎さんほどではないにしても、やっぱり僕も心地よいと感じていた。

「私、来てよかったです、高木さん!!」

目を閉じて風を感じながら、篠崎さんは僕にそう言った。
そんな如何にも嬉しくって楽しい気持ちが溢れている篠崎さんが僕にも移ったのか、僕もちょっとふざ
けてこう言ってみた。

「やっぱり学校サボった甲斐はあるよね、篠崎さん?」
「えっ? あ、ええと……はい。今更言い訳も出来ませんからね」
「ははは……そうですそうです、開き直るのが一番ですよ」

この話を蒸し返したのは僕の方だと言うのに、妙にあっさりとした反応が返ってきて肩透かしを食わさ
れた僕は、何だか複雑な顔をして応えた。

「それにしてもこれだけいい風が吹いてると、日差しも全然気になりませんよね」
「そうですね。ええ、僕もそう思います」

確かにそうだった。
緯度も経度もさほど変わらない以上、太陽は同じ夏の太陽だった。
それなのに、全てがこんなに違って見える、違って感じられる。
僕は両目を閉じても風を感じ、山の木々の匂いを感じていた。

僕と篠崎さん、二人並んで手すりに両手をかけ、目を閉じる。
景色は綺麗でも、それは必ずしも必要でない。
視覚だけなら僕達にもテレビと言うものがある。
それよりももっと大事なもの、ここでしか感じられないことがあるような気がして、僕達は視覚を閉ざした。


照り付ける太陽。
でも、ここには風がある。
熱気を感じる前に、風がそれを流し去ってくれる。
車の流れる音と、駅を電車が出入りする音。
そんな騒音に負けじと、自然が僕に囁いてくる。
風が、僕にそれを運んでくれる。
そして――

「ふ、ふぇっ!!」

変な声を出してしまった。
何事かと思って目を開けてみると、いつのまにか目を閉じていたのは僕だけだった。
篠崎さんはと言うと、ひとりで気持ちよさそうに目を閉じていた僕のことを、じっと見ていたらしい。
そしてその手には……篠崎さんご自慢の髪の毛の先っぽがひと房、握られていた。

「ごめんなさい。ちょっと遊んでみたくなって……」
「し、篠崎さん……」

どうやら僕は、その髪の毛で鼻先をくすぐられたらしい。
確かに僕は篠崎さんに遊ばれたのだと悟ると、呆れた声を発した。

「高木さん、驚きましたか?」

僕は別に篠崎さんをとがめだてはしなかったが、そんな篠崎さんも別に悪びれずに楽しそうに僕にそう聞いてきた。
僕はからかわれて一瞬だけむっと来たものの、今の篠崎さんの笑顔を見ていると、本当にそれが些細な
取るに足りないことに感じられて、怒る気も起こらずに普通に返答していた。

「そりゃ驚きますよ。篠崎さんも酷いなぁ……」
「やったぁ!! なら大成功ですね!!」
「し、篠崎さん、君……」

呆れて物も言えない僕。
しかし、無邪気に喜ぶ篠崎さんは輝いて見えた。
そして、風に靡く黒髪が太陽の日差しを浴びてきらきらと光る様子は、幻想的にすら思えた。

「私、高木さんには笑っていて欲しいんです。ううん、誰でもそう、笑顔が一番ですから」
「だ、だから僕をくすぐったって訳?」
「それもあります。でも、私も面白そうだな、って思ったから」
「た、確かにね……」
「それに、高木さんなら怒らないだろうって思ったから……」
「…………」

一瞬、言葉を失ってしまった。
時折見せる篠崎さんのそんな表情は僕を戸惑わせる。
深い意味はないのだと知りつつも、僕は篠崎さんから目を離せなくなっていた。

「ごめんなさい、からかっちゃって。お詫びにジュースでもご馳走しますよ」

篠崎さんはすぐに表情を元に戻すと、ぴょんと飛び跳ねて楽しそうにそう言った。

「いいって。既にもう篠崎さんには一本ご馳走になってるし……」
「気にしないで下さい。私の好意ですから」
「でも、一応僕が年上なんだし、お金も多分多く持ってるだろうし……」
「いいんです。ジュースは私のおごり。でも、だるま弁当は高木さんのおごりですからねっ!!」

篠崎さんは元気よくそう言うと、いきなり走り始めた。

「え、えっ、ちょっと!!」
「早く早く!! 早く来ないとだるま弁当だけじゃなく、冷凍みかんもつけちゃいますよ!!」

振り返って大きく手を振る篠崎さん。
僕はその声に慌ててついていった。
そしてそれを見た篠崎さんは再び走り出す。
僕はそんな彼女を追いかけながら、その元気の良さに感心しきっていた。

「そ、そんな走らなくっても……」
「ジュース、飲みたいんです!! だから走るんです!!」

僕はこれ以上何も言えない。
ただ篠崎さんの背中に向かって走るだけだった。

そしてそこには風がある。
それは自ら創り出した風。
走るのをやめれば止まってしまう風。
でも、だからこそ美しい。

篠崎さんの髪が揺れる。
ほのかなシャンプーの香りと共に、僕は彼女を感じている。
でも僕は――そんな彼女に追いつけるのだろうか?

走りながら、篠崎さんの背中を見ながら、僕はそう思わずにはいられなかった……。


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