夏の行方

Written by Eiji Takashima

第四話 失くした季節



電車は群馬に入った。
のどかな雰囲気に変わりはないが、周りの景色はさっきまでの埼玉とは大きく異なっていた。

「山が見えますね……」

今更ながらに僕は篠崎さんに言う。
だが、わざわざ声をかけるということは、変な意味でなく、僕と彼女が完全なる他人じゃないという、
自分に対しての確認でもあった。

「そうですね。心なしか、風も変わった気がします」
「……そうなの?」

風マニアとでも言えそうな彼女。
流石に僕にはそこまではわからなかった。
適当に相づちを打てばもよかったかもしれないが、彼女に嘘をつくのは何となく躊躇われた。

「ええ、空気もおいしいですよ」

篠崎さんはそう言うと、思い出したように思いっきり伸びをする。
さっきまで全く飽きる様子もなくぴくりともせずに窓の外を見ていたと言うのに、
唐突に大きな動きを見せて、僕は少しだけ驚いてしまった。

「高木さんもどうです? 気持ちいいですよ」

伸びをしながらにこやかに僕に訴えかけてくる篠崎さん。
どうも風を感じている時の彼女とは別人のように見えてしまって、僕は僅かな違和感を感じていた。
僕が知っている彼女は、今のこの、僕に気軽に話し掛けてくれる彼女だというのに……。

「い、いや……僕は遠慮しておくよ」

殆ど乗客もいない。
そして僕達のことを気にするような人間は皆無だった。
しかし、誰も見ていないからと言って吹っ切れる訳じゃない。
それに、他でもない、ここにいる篠崎さんが見ているのだから……。

他人じゃないとまでは行かないけれど、少なくとも僕達は彼女が表現したように「お友達」の域に来ているとは思えた。
そして、そんな関係は、つまり僕にとっては彼女を何らかの形で意識するということに繋がった。
だからそんな彼女に、彼女自らが勧めたとは言え、間抜けな姿を見せる訳には行かなかった。
まあ、そう思うところが、ただの「お友達」の所以なのだろうが――

「狭いですからね、ここ。外に出れば、もっと気持ちいいでしょうし……」

僕のつれない返事にも、篠崎さんは気にすることなくそう言う。
一体彼女が僕の気持ちをどれだけ察しているのかは、その表情から知ることが出来なかったが、
内心ではまた別のことを考えているのだとはあまり考えたくもなかった。
少なくとも風が好きな少女である以上、裏表などないと、僕は勝手に都合よく彼女を美化していた。

「もうすぐ、終点ですから……」

それは事実ではあったが、誤魔化しにしか過ぎない言葉だった。
先送りにするということは、それ即ちしないとも言えることだった。

「高崎に着いたら、どうします?」

終点は高崎。
そして、一つの大きな分岐点でもあった。
ここから更に北を目指すのか、それとも高崎でぶらぶらと風を感じるのか――
それは僕にとっても彼女にとっても、どっちでもいいことなのかもしれない。
僕達の旅には目的がなくはないものの、曖昧すぎて殆ど無目的に等しかった。

「取り敢えず降りましょうか? 僕、切符は高崎までですから」
「そうですね。電車に乗る為に電車に乗った訳じゃありませんしね……」

彼女はそう言った後、自分の言い回しに面白さを感じたのか軽く表情を崩した。
ちょっとした表情の変化は、この年頃の女の子の特徴なのかもしれない。
少なくとも男の僕は、ぶっきらぼうで無愛想で――それが普通だった。
却って意識してそうすれば、滑稽に見えるだけだと思っていたし、事実そうだろう。
しかし、篠崎さんは至って自然だ。
だからこそ、綺麗に見える。
僕は彼女のちょっとした仕種にも、魅力を感じていた。
きっと男はこんな風に女性を気にするものなのかもしれないと、薄ぼんやり感じながら……。


そして僕は腕時計を見る。
時間は9時近くになっていた。
そろそろ、朝が朝でなくなり始める時間だ。
僕はこんな、移り行く時間を感じられる時が好きだった。

時計は僕に正確な時間を教えてくれる。
しかし、夏には夏の、冬には冬の時間がある。
それはそれぞれ異なっていて……いや、日々を駆けるように過ごしている僕達は感じられないが、
一日一日は間違いなく違っている。
時折季節が変わったと感じるのは、それらの積み重ねなのだ。

夏は夏の時間で当たり前だ。
だから、特に意識することもない。
むしろ冬をイメージしてみて恋焦がれたりする。
しかし、次第に季節を感じられなくなってきたのもまた事実だった。
屋外以外は常に空調が効いていて、うだるような暑さを実感することもなくなった。
特に僕はアウトドアなどと言ったものとは縁もゆかりもない人間で、部屋にこもってばかりいる。
不健康なのは承知の上で僕は外に出なかったし、温度の変化を嫌った。

それは、人間と言うものにはとてもいいこととは言えない。
太陽の動きを感じずに、温度の変化を感じずに……。
僕は季節を失った人間の、現代人の典型とも呼べるのかもしれなかった。
典型とは平均がそれに当てはめられる場合と、平均から突出した存在を当てはめる場合がある。
僕は間違いなく後者で、普通の人間とはいささか違っていたのだ。

そして、僕が季節を失っているからこそ、無性に恋しくなったりすることもある。
風を感じたくなるのも、その一環かもしれなかった。

クーラーを効かせた、閉め切った一室。
窓の外には、僕とは無縁の光景が広がっている。
普段は気にもとめないのだが、何となく自分が囚われの身でもあるかのように錯覚して、手の届かない外界に目を向ける。
恥ずかしい話、巨大な塔の最上階の一室に監禁されているお姫様のような、そんな感じだった。

そして、自分の手には届かないと知りつつも、大きく窓を開けてみる。
自分のいるところとは違った人々の住まう別世界の光景と共に、むっと熱気を帯びた風を感じる。
それは心地よい風とは言えない。
しかし、それが現実であり、僕のいる場所が非現実なのだ。

大抵感じる現実は、非現実にいる僕が憧れるような、そんないいものじゃない。
だから僕は、失望したように窓を閉める。
さっきまでの自分の世界に返ってくる。
その繰り返しだった。
しかし、僕は馬鹿じゃないのに飽きずに毎日のようにそれを繰り返す。
もしかしたら、僕に涼風がそよいでくるのではないかと。

そう、僕は知っているのだ。
非現実よりももっと素晴らしい現実が、どこかにあるのだと言うことを。


そして、旅は現実であると同時に日常とはかけ離れている。
これから見る現実は、この今いる電車の窓から吹き込んでくる風は、間違いなくあのむっとした熱風ではない。
僕は知りたかった。
感じたかった。
僕の知らないもう一つの現実が見たいと。
そしてそれが、僕をあの塔の一室から解き放つ為の鍵だったのだ……。


そう思って、僕はふと顔を上げる。
そこには、篠崎さんの透き通るように白く整った顔があった。
僕は自分の脳裏に浮かびあがった疑問を、そのまま口に出していた。

「篠崎さんってもしかして……あんまり外とか出なかったりする?」
「えっ? どうしてですか?」
「い、いや……肌、白くて綺麗ですから……」
「…………」

篠崎さんは慌てて言ってしまった僕の言葉に口を閉ざす。
きっとこんな興味なさそうな顔をして、自分の肌の白さなどを見ていた僕に失望したのかもしれない。
僕は別にそんなつもりで言った訳ではないのだが、彼女の肌が綺麗なのもまた事実だった。

「ご、ごめん……別にそんなつもりじゃなかったんですけど……」

僕は篠崎さんに謝る。
ここで彼女に嫌われては、ここまで来た意味がなくなってしまうように感じていた。
だが、そんな僕に対して彼女は小さく洩らした。

「――高木さんにも……そう見えますか、やっぱり……?」
「えっ?」
「高木さんの言う通りです。私、風だ何だって言ってますけど……こんな風に外に出ること、久し振りなんです」
「…………」
「運動とか、嫌いなんですよ。だから、こんな夏だって言うのに、真っ白なんです」

そう言う彼女は、自分の肌が白いと言うことがまるで罪悪だと言っているかのようだった。
僕は自分の好みとしては褐色に焼けた女の子よりも、篠崎さんのような娘の方が好きだったが、
彼女の気持ちもまた、僕には親身に受け止められた。

「直射日光、苦手なんですよ。別に外が嫌いな訳じゃないんですけど……だから私、夏よりも冬の方が好きなんです」

僕も、夏より冬の方が好きだった。

「でも、日傘とか、格好悪いですよね。面倒ですし……汗もかきたくない」
「…………」
「不健康なんですよ、私。笑っちゃいますよね。今日学校を休んだのだって、
試験も終わったしどうせ行ってもだらだらしてるだけでしょうから、
手軽に夏を感じさせない風を感じることが出来るこの電車に乗り込んだって言う訳なんです」
「…………」
「失望しました、私のこと?」

最後に篠崎さんは僕にそう訊ねる。
その目は、どこか不安そうなものを隠していた。
そして、それはどこか僕と似通っていた。

「そんなこと……ない……」
「…………どうしてです?」
「言わなくたって、篠崎さんにもわかると思うけど……」

僕はそう言った。
わざわざ口で説明したくはなかった。
風を感じられるこの娘なら、感じ取れるはずだった。

「――夏、本当は嫌いじゃないのかもしれません……」

篠崎さんは、窓の外に目をやってそう呟いた。

「本当は好きなんです。冬だけでなく、夏も春も秋も……」
「どうして?」
「ううん、好きとか嫌いとか、そういうのじゃないかもしれない。季節はやっぱり、私の一部だから……」
「一部……」
「ええ。でも、全部じゃないんです。一部でしかないんです」
「……どういうこと?」
「夏のいいところ、知らないんです。でも、夏の風は好きで……
だから、風が私に教えてくれるかと思ったんです、本当の夏を……」

篠崎さんの儚げな瞳の原因は、そこにあるような気がした。
彼女もまた、塔の一室に囚われた人間の一人だったのだ。

「篠崎さんは……夏を感じさせない夏、ってどう思います?」
「……よくわかりません」
「そうですか……」

僕はそう言ったけれど、自分が何を言いたいのか、よくわかっていなかった。
どこか薄ぼんやりとしていて……僕と篠崎さんのいるこのボックス席の狭い空間は、
完全に切り離された空間であるかのようだった。
僕は自分から訊ねたにもかかわらず、何も言うことが出来なかった。
自分の言葉を整理出来なかったし、それ以前に自分が何なのか、よくわからなかった。
そして、考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていくような、そんな感じがしていた。

すると、篠崎さんが僕に向かってこう言った。

「そんな顔、しないでくださいよ」
「えっ?」

僕は顔を上げる。
するとそこには、さっきとは別人のように綺麗な笑顔を見せる篠崎さんがいた。

「別に私、不健康だからって陰気な女の子じゃないんですよ、高木さん」
「あ、そ、それは……解ってますけど……」
「もっと楽しいことだけ、考えた方がいいと思います」
「そ、そうですね……」
「ほら、今頃他のみんなは学校でつまらない授業を聞いてるかって思うと……」

そう言って、篠崎さんはクスっと笑った。
僕もそんな彼女の言葉には同感で、つられるように少し笑ってしまった。

「そうそう、僕はもう大学は休みに入ってますけど、よく解りますよ、そういうのって……」
「ですよね。私、ずる休みなんてするような子じゃないんですけど……ずっと憧れてたんです」
「そうなんだ……やっぱりね。篠崎さんって、真面目そうな感じしますから」
「高木さんも、そんな感じですよ。凄く真面目っぽい感じです」
「そ、そう?」

僕は真面目と言われるのは嫌いじゃなかった。
特にこんな女の子に面と向かって言われると、うれしかったりするものだった。

「そうそう、そんな顔してた方がいいですよ、高木さん」
「えっ?」

そう言う彼女は、何だか少し大人びて見えた。
僕は言葉の内容と同時に、彼女の雰囲気に魅せられていた。

「夏も冬も、それから春も秋も、やっぱりどれも同じなんです。そして私、いつでもこうして笑っていられればいいと思います」
「篠崎さん……」
「季節はいつだって、笑顔だけは変わりませんからね。そんな変わらないものは大切にしたいです」
「…………」
「そして、風も変わらないと思います。微風と木枯らしは全然違うって思うかもしれませんけど、私はどっちも好きです。
どっちも私に何かを感じされてくれますから……」

篠崎さんにとって、風とは自分に何かを運んでくれるものだったのだ。
それは季節であるかもしれないし、もっと他にあるかもしれない。

「この髪、私にとってはアンテナなんです。風をいっぱいに受ける為の……」

そう言って篠崎さんは豊かな髪に手をやる。
車窓からの強い風にさらされても、その輝きが衰えることはなかった。

「やっぱりおかしいですか、ちょっと?」

何も言わない僕が少し気になったのか、篠崎さんは僅かに身を乗り出して僕に訊ねる。
少し表現はおかしいかもしれないけど、全然おかしいなんて思えなかった。

「いや……いいと思いますよ、僕は……」
「本当ですか?」
「ええ。嘘なんて言いませんよ」

僕がそう言うと、彼女はにっこりと笑った。
僕のちょっとした言葉が彼女に安心感を与えたなんて思わないけど、それは間違いなく必要なものだった。
そして彼女は僕に問う。

「……朝ご飯、食べてきました?」
「えっ? いや……僕は朝はいつも食べないから……」
「じゃあ、一緒に食べましょうか、だるま弁当?」
「だ、だるま弁当って……」
「一度、食べてみたかったんですよ。高崎名物だるま弁当」

無邪気な笑みだった。
それは、僕の忘れてしまった笑みだった。
彼女は僕と同じく季節を失いつつあるけれど、この笑顔さえあれば――

「ちょっと、恥ずかしいかな?」
「恥ずかしいですよね。でも、いいんですよ。誰も知ってる人いませんし」
「い、いや、そう言う問題じゃ……」
「私のお願い、聞いてくれないんですか……?」

そう言って彼女は表情を作る。
女性の特技とも言えるそれだったが、まだ篠崎さんは上手だとは言えなかった。
でも、そんな慣れない彼女が可愛くて、僕は断れるはずもなかった。

「わ、わかったよ……だるま弁当だね?」
「やったぁ!! 高木さん、絶対ですよ、絶対!! 約束ですからね!!」

たかがこんなだるま弁当くらいで飛びあがるように喜ぶ篠崎さん。
そんな彼女を見て、僕はもしかしたら、失くした季節と共にこんな笑顔も取り戻せるのではないかと思った……。


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