夏の行方

Written by Eiji Takashima

第三話 旅立ち



これほど居心地の悪い場所はない……。

僕はつくづくそう思った。
別段女嫌いと称している訳でもなかったし、男なんだから当然女の子は好きだった。
しかし、苦手なのもまた事実だった。
こうして一対一で女の子と向かい合うなんてことはそう頻繁にあることではなかったし、
あったとしてもそれは常に僕がある程度見知った女の子だった。

だが、それも当然であろうと思う。
普通初対面の男と二人きりになりたがる女の子など、そうはいないに違いない。
僕が周囲の目を引くほどの容姿を備えていたなら話は別だが、
残念ながら僕は如何にもどこにでも転がっていそうなただの大学生だったのだ。

そして、僕の正面に座った篠崎さんは何故か僕のことをじっと見ていた。
お互いのことを何も知らなかったさっきまでは、そんなに互いを気にすることもなく、
彼女は窓の外の移り行く景色を、そして僕は文庫本に散りばめられた文章を見ていた。
しかし、電車が停車中だと言うこともあったのかもしれなかったが、
外に視線をやろうとすることもなく、ただ何も言わずに僕の顔を穴があきそうなくらい眺めていたのだ。


「…………」

困った僕は、さりげなく脇に置いた鞄に手を伸ばし、仕舞ったはずの文庫本を取り出した。
そしてそれを読もうと思って邪魔になった缶ジュースを台の上に置こうとした時、
篠崎さんは唐突に僕に訊ねてきた。

「飲まないんですか?」
「えっ?」
「やっぱり高木さんくらいになると、ジュースよりもコーヒーとかの方がいいとか……」
「い、いや、そんなことはないけど……」

折角彼女が僕にくれたんだ。
手をつけずにそのまま置こうとしたのは流石にまずかった。
僕は自分の浅慮に恥ずかしく思うと、取り敢えず本を置き、
再び缶を手にすると篠崎さんに見せるようにしてプルタブを起こした。

「じゃ、じゃあ、いただきます……」

僕は情けない声でそう宣言すると缶を傾けた。
最近流行の微炭酸のジュースは、何だか久し振りに口にしたような味がした。

以前は炭酸飲料を好んだ時期もあったが、最近は専らお茶系統に終始している僕。
何か飲む時は何かを食べる時だったから、そうなるのが普通だった。
しかし考えてみると、ただ飲み物だけを楽しむなんてここしばらくは縁がなかった。
そんな些細なことに気付いた僕は、少しだけ気持ちを和らげていた。

そしてそんな僕のことを何だか楽しそうに見ている篠崎さん。
今度は僕の番だと言わんばかりに、僕は缶から口を離してこう言ってみた。

「君は飲まないの? 折角買ってきたのに……?」

すると、無垢な笑顔と共にこんな言葉が返ってきたのだった。

「私、人がおいしそうに食べたり飲んだりしてるところを見るのって、好きなんです」
「そ、そう……」

変な回答だと思ったが、邪気を全く感じさせない彼女の微笑みに、
僕は敢えていちゃもんをつけようという気にはならなかった。
そして、僕が口を閉ざすと、彼女はさっきと変わらぬ調子で僕のことを見続けるのだった。



実際のところ、僕は人に見られるのには慣れてない。
それより何より、人が遠慮なく他人をじろじろと見ることなど、普通ではありえなかった。
だが、現実はこうだ。
篠崎さんは僕のことを見ている。
間違いなく彼女自身でも、僕が居心地悪そうにしていることに気がついていることだろう。
しかし、彼女はまた、そのことをもまるで楽しんでいるかのようだった。

ちらちらと視線を上げる僕。
そして篠崎さんはそんな僕の動きを見逃さない。
今の僕は、完全に彼女の支配下にあったとも言えた。

年下の、ただの高校生のはずなのに……。

そんな思いが僕の胸を過ぎる。
だが、そう思って僕も初めて気付く。
僕も彼女がただの高校生であるのなら、ただのごく普通の大学生なのだということを。

でも、僕はそのことを認めたくはなかったのかもしれない。
僕が僕以外の人間で代用出来るのだと言うことに、僕は耐えられそうにもなかった。
だからこそ、自分が特別でありたいと思い、常に何かを追い求め続ける。
自分だけの何かがあれば……しかし、実際にはなかなか簡単なことではなかった。
そして人はそれに見切りをつけ、ある程度で我慢する。
自分にはとにかく何かがあるのだと言うことを信じようとして……。




不思議な膠着状態の中、アナウンスが聞こえた。
切り離し作業の終了と、まもなく電車が発車する旨のものだ。
僕はそれを聞いてほっと胸をなで下ろしていた。
動き出せばそれと共に何かが変わるだろうと、僕の中で妙に確信めいたものがあったからだ。

そして、僕の期待を受けてドアが音を立てて閉まって行く。
古い車両特有の発車時の揺れを感じながら、僕は飲みかけの缶を元の場所に戻した。

電車が動き始めると、再び風が僕と篠崎さんに吹いてきた。
吹く……と言うのもおかしいかもしれないが、僕はともかく、篠崎さんには本当に吹いているような感じだった。


動いている時と停まっている時、それは全てが全く違って見え、僕を驚かせた。
さっきまでずっと僕がジュースを飲む様を眺めていたその生き生きした瞳も、
今は再び車窓の外に向けられている。
篠崎さんは髪の乱れも忘れたかのように、ただじっと流れ続ける一点を見つめていた。
そしてそんな彼女は、不思議と僕の目には儚く映った。


彼女は一体何を見ているのか……?

僕の頭には、薄ぼんやりとそんな疑問が浮かんだ。
しかし、僕はそれを振り払うかのように置いておいた文庫本を手に取ると、再び読み始めた。
今度は篠崎さんのストップも入らない。
今の篠崎さんには僕の動向よりも風の動きの方が大切なのに違いない。
だが、僕はそんな事実を悟らされても、悲しく思ったりしなかった。
むしろ、ようやく自然に自分を振る舞えると思って……。



心地よい揺れ。
篠崎さんは、あれから一言も口を利かなかった。
そして電車は駅に着き、乗客の何人かが降り、また動き始める。
その繰り返しだったが、北上するたびに明らかに乗客の数は減っているのだろう。
僕はわざわざ目で見て確認したりはしなかったが、人が立てる物音が殆ど聞こえなくなっていた。
電車が走る音に比べたら本当に些細なものだ。
しかし、それが今の僕の一部になっているのとは違い、人は間違いなく僕の一部ではなかった。


電車は本庄を出る。
ここから先は、僕にとっても未知の世界だった。
時々寝過ごしたりして次の神保原まで行ってしまったこともあったけれど、
そんな時は別に駅のホームを出たりはしない。
ただ、自分の愚かさにいらつきながら、上り電車を待つだけだった。

それは下らないエピソード。
今思い出しても我ながら愚かしい。
しかし、僕はそれを忘れたいと思ったことはなかったし、忘れたこともなかった。
下らないからこそ、それが現実のものであり、僕がその時を生きていた証となっていたから。

ただ、そんな僕の思い出は少しずつ薄れ、そして夢の一部に同化して行く。
人の思い出は、そうしてなくなっていくのだろうか?
そして全てが夢の世界へと溶け去り、夢と現実は全く別のものとして区別されて行く。
夢の中にも、確かに自分の過ごした時間、現実があるはずなのに……。

そして、それが「大人」になることなのだろうか?
ひたすら今だけを、未来だけを見つめて、過去を振り返ったりはしない。
その帰結など、自分はもちろん、誰にもわからないはずなのに。


これから僕は、どこに行くんだろう……?

そんな問いが、僕の中に強烈に芽生える。
何となく乗り込んだ、この高崎行きの列車。
僕にとって、深い意味などなかった。ないはずだった。
しかし――

僕の正面には篠崎さんがいる。
全開にされた車窓から強く吹き込む風が、彼女のさらさらした黒髪を靡かせていた。

「――君は、どこに行くの?」

ふと、そんな問いが口から漏れ出てしまった。
だが、それを口にして初めて今気付く。
もう通学途中とは言えない時刻と場所だった。


「……高木さんは、どこだと思います?」
「サボり?」

僕は彼女の問いには答えずに、一言そう訊ねた。
少々厳しかったかもしれない。
しかし、実際僕は少なからず幻滅していた。
風の似合う不思議な少女が、ただの学校をサボっている女子高生だなんて……。

すると、そんな僕の失望感が顔に出てしまったのか、
ちょっと気まずそうな顔をしながら彼女は僕にそっと答えた。

「お休み」
「そう……」
「高木さんと同じです」
「えっ?」

僕はサボりじゃなかった。
既に僕の夏休みは始まっていたのだ。
しかし、彼女は僕とは違う。
夏服ということもあって、どこの高校か判断も出来なかったが、
まず普通の高校ならばまだ夏休みには入っていないはずだった。
だが、彼女はそれをはぐらかすかのように窓の外に視線を戻して静かにこう言った。

「こうやって風を楽しむ機会って、あんまりないんですよ……」
「…………」
「普通の人の時間じゃ、こんな風に窓も開けさせてもらえないでしょうから……」
「…………」

僕はそんな篠崎さんの言葉を聞いて、自分の発言を後悔していた。
学校をサボったからどうだというのだ?
半ば常にサボってばかりいるような大学生の僕が、彼女にそんな事を言えた義理だろうか?
いや、それよりも僕は、彼女に苦言を呈する権利を持った人間なのだろうか?
彼女は僕のことを「他人じゃない」と言ってくれた。
しかし、それは彼女の見解であって、僕としてはまだ彼女は他人だ。
他人とそうでない者の線引きをどこでするのか僕はまだあいまいだったが、
それでも彼女は明らかに他人だったのだ。


「――好きですか、風?」

彼女は何を僕に訴えかけたかったのだろうか?
それがわからない僕は、ただ言葉通りの内容に対して、篠崎さんに返事をしてみせた。

「ええ、好きですよ……」
「いいですよね、風って……」
「ええ……俺もそう思います」

ぎこちない、言い馴れない一人称の「俺」。
何だか篠崎さんの前で自分を繕っているのは、少々心苦しかった。

「私、風を探してきたんです。私の知らない、今まで感じたことのない風を探して……」
「……それで、この電車に乗ってるの?」
「はい……」

彼女はうなずいてにっこり微笑んだ。
ルーチンワークにとらわれている街の人々とは、全く違った生物のように僕には映った。
そして、普通とは異なっているという大きな事実が、僕にとって彼女の最大の魅力だった。

受験勉強に追われ、常に参考書を開いている姿。
また、テレビや雑誌のニュースソースの話題しかない子達。
それが普通だというのに、僕とは別の人種のように見えていた。

ただ、僕が普通じゃないだけなのだろう。
そしてそんな人間は、世間での居場所を得られずに、いつもどこかでふらふらとしている。
それは、彼女の探している「風」に象徴されるだろうか?
彼女自身も風で、そして自分と同じものを求めて風を探す。

自分の居場所を探す旅。
場所でなくてもいい、自分と似た何かを探しているのだろう。
それが見つかれば、普通でないという不安に立ち向かっていけるのかも知れない。


そして僕もまた、何かを探していた。
意味なく旅立ったはずなのに、いつのまにか意味を秘めていた。
夢と現実とを繋ぎ止める鍵。
いや、僕を、僕の大切な夢を、現実に繋ぎ止める為の鍵だったかもしれない。

自分と一緒に空を翔けてくれる風を求めた篠崎さん。
そして僕はそれと反対に、どこかに飛んでいってしまいそうな自分をつかまえてくれる何かを求めていた。

世間とは外れた、言わば似姿とも言える僕達。
だが、似ているのと同時に正反対でもあった。
しかし……しかし僕は、そんな確固たる事実に気付きながらも、彼女にこう言わずにはいられなかったのだ。

「――いいかな、僕も一緒に……?」

もう「俺」ではなかった。
そして僕には、篠崎さんは断らないだろうという絶対的な確信があった。
事実、間を置こうとした僕に歩み寄ってきたのは他ならぬ彼女自身だったのだから……。

「もちろんですよ。私達、もう他人じゃない……お友達なんですから……」
「有り難う、篠崎さん……」

僕が彼女を見つめてそう言うと、本当に嬉しそうに笑いかけてくれる。
篠崎さんは最近では珍しくなった、笑顔の綺麗な女の子だと改めて思った。



風の似合う少女。
眩しい夏の世界、真っ白に染め抜かれた夢の世界、僕だけしかいなかった世界に、ひとりの闖入者が現れた。
その闖入者は、そのさらさらと流れるような黒髪で、僕に色彩を与えてくれた。
透明の世界に、少しずつまた色が与えられて行く……。


僕だけの夏の世界が変わり始める。
それは僕にとってとても大切なものだったのに、僕はその変革をむしろ心地よく感じていた。

二人の道が一つになる。
これは僕の旅でもなく、篠崎さんの旅でもなく、二人の旅だった。
僕と篠崎さんは全くの他人であるにもかかわらず、お互いが似ているというだけで行動を共にする。
しかし、不思議と不自然じゃなかった。

こうして相向かいに座ってジュースを飲む。
緑のシートが、眩しく僕に彼女の存在を教えてくれる。
電車が揺れる度に、僅かに二人の膝頭が触れあう。
清潔な白のハイソックスも、彼女には相応しく思えた。
そして、そこにはいつも、風があった。
この二人の席だけは、窓が閉ざされることはない。

これが、僕と彼女の旅立ち。
風のような、ふたりの……。


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