夏の行方

Written by Eiji Takashima

第二話 夏の夢



ほんの一瞬のことだった。
恥ずかしい話、僕は彼女に目を奪われてしまった。
だが、僕はすぐに冷静さを取り戻す。
ごくわずかの間のことであったが、間違いなく僕は呆けた顔をしていただろう。
彼女は外の景色に目を奪われていたから、そんな僕に気がつくはずもないだろうと思っていたが、
僕は周囲の視線、そして客観的に見た自分の姿を考え、改めて彼女を観察してみた。
それが、僕が現実へと舞い戻る為の手段だったのだから。


しかし、考えてみればかなり失礼な話かもしれない。
年頃の女の子を捕まえて「観察」だなんて。
でも、僕は彼女がこうして窓を開け、彼女と風を感じさせてくれるまでは、
その存在に目もくれていなかったのも事実だった。

普通、まともな男なら女子高生が自分の近くの席に座れば、少なくとも何らかの興味を持つことだろう。
だが、僕は恥ずかしい話、本に夢中になっていた。
いつ彼女が座ったかなんて、全然気がつかなかったのだ。
そんな訳で、僕は僅かな反省と共に彼女にさりげない視線を向ける。
そうとは悟られないように、あたかも外の景色を見ているかのように……。



僕が見た彼女は「普通の女の子」だった。
標準から見ればかわいい部類に入るのだろうが、とびきりの美人と言う訳でもなく、
どこにでもいるような感じの女子高生だった。
ただ、多分彼女自身も自慢にしているであろう、その髪の毛だけは綺麗だった。

背中の中程まで伸びた黒髪は、まるで彼女の真っ直ぐな性格を示しているかのように、
綺麗なストレートだった。
僕は少し身を乗り出すようにして景色を眺めている彼女を、横からの姿でしか見ることが出来なかったが、
そのおかげと言うか、僕は彼女の髪を見ることが出来た。


だが、僕にとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。
今時髪の綺麗な娘なんて珍しい訳じゃないし、ただ、それに反して珍しく風を好む娘だというだけだったのだ。
だから、僕は一通り彼女を観察した後は、また文章の世界に戻ってきた。
現実世界に存在する女の子よりも架空世界の物語の方に興味を引かれるなんて、
相手が知れば憤りを感じるかもしれなかったけれど、今の僕はまさしく本に夢中だったのだ。




しばらく時が過ぎた。
それからいくつかの駅を通り過ぎたが、降りるあてもない僕にとっては、
今停まった駅がなんと言う駅名なのかと言うことなど、全く意味を持っていなかった。
だから僕は電車が停まっても「停車した」という薄ぼんやりとした認識だけしか持たずに、
ただ本を読み耽っていた。




『かごはらー、かごはらー……』

いつのまにか、電車は籠原駅にまで来ていた。
他の駅はともかく、この駅だけは特別だ。
単なる旅人は知る由もないが、この駅は高崎線の車両連結の為、頻繁に数分間待たされることになる駅なのだ。
僕は高校生の時、こっちの方の高校に通っていたと言うこともあって、その辺の事情には詳しいのだ。

だから、今乗っている人のほとんどは知っているであろうことなのに、
何故か僕は自分もその一員なのだと言うことが妙にうれしかった。
そして、久しぶりに見る籠原駅の景色――とは言っても何もないつまらない駅だが、
今まで読んでいた場所に指を挟んで本を閉じると、外の景色に視線を向けた。
しかし――

「あ……」

気がついてみたら、髪の綺麗なあの女の子はもういなかった。
しかしまあ、それも当然かもしれない。
籠原ともなると結構田舎で、いくらか乗客の姿も減っている。
あとは深谷やら本庄やらの高校生くらいで、それより先に行く高校生は時間的に見ても皆無だった。



『――当駅では車両切り離し作業の為、5分ほど停車致します……』

車内放送では、車両の切り離しを告げていた。
朝の時間は切り離しをする電車も多くはないが、通勤通学のピーク時からは既に結構な時間が経っている。
大宮からこっちの方まで通う人間にとっては、少々遅すぎる時間でもあったのだ。

だから、僕は彼女がいなくなったことに関しては全く気にもならなかった。
彼女には彼女の時間があり、僕には僕の時間がある。
それがただ、ほんの一瞬重なり合っただけで、それは決して永遠に続くものじゃない。
出逢いと言うにはあまりに一方的過ぎる考えを捨て、僕は僕の旅を続けようと思った。


そう思いつつ僕は窓の外の景色を眺めた。
一応車両切り離しと言うことで、切り離される車両に乗っていれば、
今頃ここで呑気に座っていることも出来ずに、僕も追い出される羽目になっていたことだろう。
大宮で乗る時は全く気にも留めていなかったのだから、案外幸運だった。
まあ、このくらいの時間なら席を変えたとしても座れる席くらいあるだろうが、
それでも移動するのとしないのでは大きな違いがあるように僕には感じられた。


いつのまにか、僕は一時的に本に挟んでいた指を外していた。
それは、僕が読書をしばし中断すると言うことを無意識のうちに証明していた。
本が好きな人間は、やはり本を大切に扱う。
買った本は捨てることなんて出来ないし、ちょっと気に入ったものがあればお金を出して自分で買って、
本棚の一部にちゃんとした居場所を設けてあげたかった。
そしてそれと同様にして、本のページが指から出る僅かな汗で皺になることは、
僕にとってあまり好ましいことではなかったのだ。


今乗っている車両では、切り離しされるところをこの目で直に見ることは出来ない。
境目の車両に行くか、それともホームに出て見るかだ。
僕はわざわざ読書を中断してまで外を見ようという気になったと言うのに、
何故か切り離し作業を見たいとは思わずに、ただ今まで座っていた席にじっと腰をかけ、
車窓から覗く田舎の景色を眺めていた。


既に僕のいたボックス席には、自分以外の人間は座っていなかった。
他の席にはちらほら乗客が見えるものの、大抵さっきまで詰め込むように腰掛けていた状況が嘘のように、
閑散とした雰囲気を漂わせていた。
そしてそれは、籠原の鄙びた風景と共に僕を落ち着かせてくれたのだった。

僕は一応都会に住み、都会に生きる者の一人だ。
しかし、僕は都会には欠かせない、と言うよりか、
都会と称されるにはなくてはならない人込みと言うものを極端に嫌っていた。

別に人間が嫌いだとか、そういう訳ではない。
しかし、自分とは無関係の人間が多すぎると言うことは、僕に常に圧迫感を与えていた。

狭い空間。
上がる気温。
そして、誰が生み出している訳でもない騒音……。

それは、風とは縁がなかった。
僕の好きな風には、広い空間が必要だった。
木立を優しく揺らす微風は、埃っぽい街には相応しくない。
こんな何にもないようなところにこそ、あってしかるべきだと思った。



そして、まだ窓は大きく開け放たれたままだった。
既に7月も中旬にさしかかって、車内は当然のごとくクーラーが効いている。
だから、僕以外の乗客はもしかしたら、彼女が窓を開けたと言うことを不快に思っていたのかもしれない。
そして皮肉なことに、彼女がいなくなってから作業の為に列車は停車し、
空調効果を阻害することを差し引く窓からの風はほとんどなくなっていた。

また動き始めれば、風はやってくる。
それはわかり切っていたことだった。
しかし、それが言い訳にはならないと感じつつも、僕は自分の中でそれを免罪符にして窓を開けたままにしておいた。



なぜ、僕は窓を閉めないのか……?
風は来ないと言うのに。

僕はそれを考えてみても、自分のことだと言うのに答えを見出せなかった。
だが、わからないのに、理由が存在しないのに、僕の心は頑なに窓を閉めることを拒んでいた。

そして僕は、その理由を探しつつ、窓の方に近づく。
ちょっと前まで、あの髪の綺麗な少女の相向かいの席だったところだ。
窓の桟に肘をかけ、僕はなんとなく外を眺める。

そろそろ外も、暑くなってくる時間だった。
太陽も大分高くなり、もう既に朝とは言えなくなっている。
きっと外に出れば、もっと暑いことだろう。
僕は汗をかくのが嫌いなくせに、何もかも真っ白に染め抜いてしまうような夏の日差しは好きだった。



自分とはかけ離れた世界の夏を想う。
僕が見る夢は、いつも季節は夏だった。
場所は決まっていないが、僕が見知っている世界のはずだと言うのに常に広々としていて、
僕はいつもその中で旅をしていた。

それはきっと、もう二度と感じることの出来ない、僕の夏休みの思い出、その残滓だったのかもしれない。
僕は夏の似合わない大人になってしまったけれど、夏休みはいつも楽しみに満ち溢れていた。

同じように繰り返される遊び。
近くの用水路でザリガニを捕まえたり、虫捕り網を持って日がな昆虫を追い掛け回してみたり、
ただ、とにかく走り回ってみたり……。

今では意味のないことも、その時には間違いなく意味があった。
僕の子供心にも、それは感じられていた。
そして不思議な夏だけの時間を過ごした後、まだ夕暮れを感じさせないうちに家路に就いた。

夏の夕食は、何故か他の季節よりも夜になるのが遅いにもかかわらず、他のどの季節よりも早く始まっていた。
まだぼんやりと明るいうちに、早い夕食を済ませる。
何故かはわからなかったが、それが僕にとっての夏のイメージだった。

不思議な夏、いつもとはどこか違う夏、夢の夏だった。
もしかしたら、夏は夢を見る為にある季節なのかもしれない。
いつも夢を見続けていた少年時代でも、夢と現実の区別をつけることを学んでしまった今でも……。



しかし、僕は夢を見るのを諦めてしまった訳ではないと思う。
現実の中の夢を探す人間もいれば、自らの現実の中に夢の居場所を創ろうとする者もいる。
そして僕は間違いなく後者であり、その手段としての読書があった。
それはわざわざ意識して行われたことではないが、僕は簡単な非現実の夢として、
小説の生み出す架空世界に身を委ねていたのだろう。

だが、それだけでは満足し得ない自分があったのも事実だった。
もし満足していたのなら、僕はきっとここでこうしていたりはしない。
大人しく自宅で寝転びながらひたすら本を読んでいたはずだった。
そして、それは現実問題として、僕の長期休暇の割と普通な過ごし方となりつつあったのだった。


僕は今、ここで外を眺めている。
本は欠かせなかったにしても、間違いなく本だけではなかった。
鞄に仕舞った文庫本は、しおりも指も挟まってなどいない。
人の創った夢は、いくら心地よくても僕の夢ではないのだ。

近似値ではあっても、イコールじゃない。
イコールにする為には、僕自らが夢を創り出す以外に方法はないのだ。

そして、僕はそれを知っていた。
ずっと前から知っていたのだ。
でも、つい簡単なものに動かされてしまっていた。
僕は自分のことを、弱い人間だと自覚している。
しかし、僕は自分なりに強くありたいと思っていた。
強いと言うにも色んな意味があると思う。
だから僕も、全てにおいて強くあろうなんて大それたことは思ったりしない。
ただ、自分にとって一番大切なもの――それだけは譲れなかった。
その譲れないもの、それが何なのか、それすらはっきりと自覚することすら出来ていないのが現状であったのだが……。


この、何となく始まった僕の旅。
旅、というのもおこがましい小旅行。
いつもの変わらない生活とはかけ離れた、言わば夢の世界。
これは、僕の現実と夢とを結びつける為の、最後の手段だったのかもしれなかった……。


僕はそんな自分の想いに気がつき、そっと目を細める。
夏の日差しは直接僕には届かないが、僕には眩し過ぎる夏だった。
白に限りなく近い、夏の太陽。
周囲を透明な白に染め抜き、色とりどりの現実を一色に染め抜いて行く。
そして、残されたのは僕だけ――のはずだった。


白の世界に現れたさらさらと風に揺れる漆黒。
しかしそれは、真夏の白い世界の中に存在することによって、夢の中に存在する唯一のものとして僕の目に映った。
そして僕の鼻に届く微かな芳香。
それは、まだ僕の記憶の片隅に残されていたものと同じだった……。

窓の外から差し出された手。
それは僕の為に差し出されたものではなく、窓際の中央に設けられた小さなスペースに、
缶ジュースを置く為のものだった。
そして、少しだけ驚いた表情と共に、彼女はそっとこう言った。

「あ……こっち、移ってたんですね……」
「…………」

それは僕にかけられた言葉だった。
しかし、僕はそれに返す言葉を持ちあわせていなかった。
彼女の方も、僕の答えを待つことなくぐるっと回って車内に戻ってくる。
そして彼女が座っていたはずの席、僕の正面の席にそっと腰を下ろすと、
缶ジュースを手にとっておもむろに自分のほっぺたに押し付ける。

「うーっ、つめたっ!!」

彼女は僕がいることをどう思っているのだろうか?
少なくとも僕だったら、人前でこんな恥ずかしいことはしないのだが……。
しかし、実に清楚な感じの風貌とは大きく異なる行動であったにもかかわらず、
何故か僕はそんな彼女を見ても、全く違和感を感じなかった。

そして、彼女の方も僕に見られていることに気付いたのだろうか、
缶をほっぺたから胸元へと下ろすと、僕と目を合わせていきなり訊ねてきた。

「名前……聞いてもいいですか?」
「えっ?」
「名前です、名前」
「僕……俺の?」
「そうです」

彼女はにっこりと笑って言う。
この年で年下相手に自分のことを「僕」と言いそうになった僕を見て、少し面白く感じたのかもしれない。
僕は彼女の表情の変化に戸惑いながらも、何とか答えを口にした。

「高木……だけど……」
「聞いたのは名字じゃありませんよ」
「え、あ……潤、だよ、潤」

何だかからかわれているみたいだった。
でも僕は、からかわれることにすら慣れていないのだと言うことに、今更ながらに気付いた。

「私、綾って言います。篠崎綾。フルネーム、聞いちゃいましたから……」

くすっと笑いながら自己紹介をする彼女。
不思議な彼女の、不思議な自己紹介だった。
そして、僕が今の現状を完全に把握する間もなく、
彼女……篠崎さんはいきなり胸元にあったはずの缶を僕の方に差し出すと、
さっき自分にしたように僕の頬に押し付けてきたのだ。

「わっ!!」
「冷たいでしょ?」
「い、い、いきなり何を……」
「私からの、ちょっとしたお礼のつもりです」

篠崎さんは如何にも楽しそうな顔をしながら僕に答えた。
だが、そんな彼女の言葉は、却って僕の疑問を増すだけだった。

「お礼……?」
「ええ。私がいなくなっても、窓を開けたままにしておいてくれた高木さんへの……」

篠崎さんはそう言って、自分の髪を軽く手で撫で付けた。
彼女自慢の髪の毛は、その仕種と共に、僕の印象を強めていた。

「私……冷房って嫌いなんです。何だか冷たくって……」
「……冷やす為だからね」

それは、他人に対する如何にも素っ気無い回答だった。
少なくとも、僕はそのつもりのはずだった。
しかし、彼女はそんな僕に気を悪くすることもなく、反対にこんなことを言い放ったのだった。

「高木さんって……真面目な方なんですね」
「へっ?」

全く含みも感じさせないような、純粋な彼女の微笑み。
自分とは全く関わり合いもないような、そんな篠崎さんの言動は、僕には全く理解できなかった。
そして戸惑いを露にする僕に、彼女は答えるようにこう言う。

「普通、他人にそんな風に言える人はいませんから。自分の感じたことをそのまま口に……
って、もう他人じゃないのかな、私達?」
「…………」
「お互いの名前を知っていれば、もう他人じゃありませんよね、高木さん?」

彼女……篠崎さんは、僕と他人ではなくなることに、何らかの価値を覚えているのだろうか?
実際、僕の方は彼女に対して、そんな特別な意味を持っていなかったと言うのに……。

「これ、私から高木さんへのプレゼントです。お近付きの印に……」

彼女は楽しそうに一方的にそう言うと、手持ち無沙汰そうだった僕にさっきの缶ジュースを渡してきた。
そして、自分の手が空になると、いきなり立ち上がって再び車外に出ていった。

そんな篠崎さんを目で追う僕。
全く想像もつかない行動をする女の子だと言うだけでなく、ただ、僕はそうせざるを得なかった。
そして、ぐるっと回って僕と窓を隔てた反対側に来ると、顔を近づけてこう言った。

「急がないと、発車しちゃいますからね」

それだけ言うと、あとは少し離れたところにある自動販売機に駆け寄って行った。
僕はそんな篠崎さんの後ろ姿を見ながらふと気付く。
彼女を待つ為に、僕はこの窓を閉めずにいたのだということに。

そして、これが僕の創り出す夢、夏の夢のはじまりだった……。


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