夏の行方

Written by Eiji Takashima

第一話 風



まだ世間が夏に入り切る前、僕はいつもとは反対方向の列車に乗り込んだ……。



通勤ラッシュ時のJR大宮駅構内。
普段なら大学に向かう為に、僕は上り列車に乗っているはずだった。
走るような早歩きでどこかへ向かう人々。
僕もそんな慌ただしい群れを構成するうちの一人だった。

しかし、僕はそんな人の流れに佇む石ころのように、マイペースで歩いていた。
人と人とが触れ合うほど混雑していないにもかかわらず、
人の流れに乗らない僕は何度か突き倒されそうになることもあった。
まあ、流れに乗っていてもそんなことは時々あったりするから、
僕は些細なことは気にも留めずになんとなくぶらぶらとしていた。


特にこれと言って目的がある訳でもなかった。
でも、何かこう、頭の中でいつも燻り続けているものをこの目で見てみたい、
そんな漠然とした思いだけが、僕の胸にこだましていた。

そして、今は僕にとっても黄金の時と言えた。
殆どの学生には、多かれ少なかれ夏休みと言うものがやってくる。
しかし、待ちに待ったはずの休暇も、長く続きすぎると大体だれてくるものだ。
丁度大学生は中高生よりも夏休みが早く訪れる。
その大学生と言う存在を特別なものにしている僅かなタイムラグの数日間、
それこそが真の贅沢であるというような、そんな妙に悟ったことを考えながら、
僕の思考は僕にいつもとは違った行動をとらせていた。


見慣れたオレンジと緑のツートンカラー。
どこに行っても見られるようなその車両は、何故か僕を落ち着かせてくれた。
上り電車を待つホームは、まるで人で溢れんばかりの様相を呈していたが、
下り電車ともなると呑気なものだ。
乗り込んでも座れるだろうと言う楽観的見解でいられるほど空いている訳ではなかったが、
人込みの苦手な僕をさほど不快にさせない程度の混雑ぶりだった。

僕はなんとなく近くにあった列に並ぶ。
並ぶと言う行為はそれこそ毎日このくらいの時間には延々と続いていたが、
いつもと乗る車両、進む方向が違うだけで、僕に新鮮な気持ちを与えてくれた。

視線の角度がちょっと違うだけなのに、世界は大きく違って見える。
僕はこんなパラレルワールドが好きで、時折わざと電車を乗り過ごしたりして、
いつも降りるはずの駅を通り過ぎるその瞬間を見て楽しんだりすることもしばしばだった。

毎朝同じ場所に並び、同じダイヤの車両に乗り込む人々。
それは学生やサラリーマンなど、多種多様の人間だった。
そして僕もそのメンバーの一人であるはずなのに、今日はここでこうして別の場所から眺めている。
人が普通と同じように働いたり勉学に勤しんでいる時間に休日を楽しむと言うのは、
僕にとっては得も言われぬ快感だった。

折角休みに入ったばかりなのだから、部屋でごろごろしたり、
友達と一緒に旅行にでも行けばいいと言われるかもしれなかったが、
僕には僕なりの楽しみがあり、そしてそれは今しか感じることの出来ない世界だったのだ。

しかし、僕はそんなことを思いつつも、今までこうして実行に移したことはなかった。
バイトをしたりして幾許かのお金を持っていたとしても、
大抵は好きな本を買ったりしてそれで終わるのが常だった。

そもそも僕は意味なく電車に乗り込むような旅行好きなんかじゃない。
趣味が読書で、暇な時間は大抵本を読んで過ごしていた。
そのせいか、電車に乗っても車窓の景色に目を奪われることよりも、
文庫本を一冊読破してみたり、慢性的に不足している睡眠を補っているのが常だった。
僕にとって電車とは必要な交通手段の一つであり、それ以上でもそれ以下でもないのが現実だったのだ……。

今日も鞄には数冊の文庫本を忍ばせている。
終点の高崎まで行って戻ったとして、最高でも読み切れないだろうと計算して持ってきた数だった。



しかし、僕もただ心地よい揺れに身を任せながら本を読むだけでこの日を終えるつもりはなかった。
いつもとはちょっと違ったパラレルワールドの中で、
いつもとはちょっとだけ違った経験をしてしてみたいと思っていた。
人が聞けば本当に些細なことかもしれない。
しかし、僕にとってそれが些細であればあるほど、何故かずっと後になっても不思議と胸に強く残るものだった。

なんとなく立ち寄ったドライブインで食べたカレーの味。
土産物屋でふと目に留めた安っぽいキーホルダー。
道に迷って歩き回った知らない並木道。
一時間300円の貸し自転車で感じた夏の風……。

僕にとって本当に些細なことであったにもかかわらず、それが常ならぬ時、常ならぬ場所であったがゆえに、
僕の大切な思い出として、ずっと胸に刻み込まれてきた。


そして僕にとって特に大切に思われたのが、自転車だった。
別にいい自転車に凝るとかそう言うことでもなく、僕が乗っている自転車はどこにでもあるごく普通の軽快車だった。
しかし、僕は風を切って進むこの自転車が与えてくれる感触が好きだった。

徒歩とスクーターの中間点。
まさしく爽やかと呼ぶには丁度よい風を、自転車は僕に与えてくれた。
だから、車の免許を取っても車には全く興味を示さずに、
僕はただひたすらあくせくと自転車をこぎ続ける毎日を送っていた。
そう、この風を感じる為に……。

そして自転車だけでなく、僕は風全般が好きだった。
車に乗ってもクーラーをつけるよりも窓を開ける方を好んだし、
電車に乗ってもあの重たい窓を自分から好き好んで開ける方だった。
靡くと言う形容にはあまり相応しい長さではない短く刈った髪を揺らせながら、
僕は時折思い出したように車窓の外に視線を向けるのだった。
外の流行く景色を見る為でなく、この風を見る為だけに……。




押される様にして乗り込んだ車両の中は、まだ7月中旬と言うには暑すぎる気温と人いきれによって、
僕に僅かな不快感を与えていた。
しかし、上り列車で慣れ親しんだ不快感とは比較にならないので、
僕は慣れた様子で涼しい顔をしていた。

上手く壁際の場所を確保し、鞄から読みかけの文庫本を取り出す。
そして、いつもの通学途中と何も変わらないような様子で物語の世界に没頭していった。


いくつかの駅を通り過ぎて、高校生と思しき大量の集団が降りていった。
僕はラッシュ時の上り車両で鍛え上げられているので、さりげなくボックス席の一角を確保した。
僕みたいな単なる無目的の男に席を取られると言うのも悔しいだろうな、と思いつつも、
僕は折角取った席を譲ってやるようなお人好しでもなかった。
そして僕は妙に狭苦しいボックス席で足を縮めながら、ゆっくりと腰を落ち着けて読書に浸るのだった。


なかなか足を自由に伸ばせるような空き具合にはならないが、しばらく北上したおかげで、
明らかに客層が変わってきたことに僕は気付いた。
ほんの少し前迄はサラリーマン主体であったが、今は暑苦しくスーツ姿に身を固めたサラリーマンに取って代わって、
涼しげな夏服を来た高校生がいくつもの集団を作り上げていた。

雑多な服装とも言えた今までの様子とは違って、今度は明らかに統一性と言うものが備わっている。
夏服の種類で各々微妙な違いこそあったが、基本的には上半身が白で下半身が紺系と言う、
ツートンカラーで統一されていたので、そうでない僕は妙に浮いた存在になっていた。
夏らしい目立たない色の麻のシャツとジーンズと言ういでたちで、特に変な格好でもないと言う自覚もあったが、
やはりこういう集団に囲まれるのは、いくら僕でもなかなか意識せずにいると言う訳には行かなかった。

僕の周囲に座っていた面子は、まだ頑固に目を閉じたまま居座り続けるサラリーマンもいたものの、
ちらほらと高校生の姿も混じってくる。
高校生はこういう半ば集団と言うものを形成すると周囲の目を気にしなくなるのか、
床に座り込んで勉強をする子や、大きな声で楽しそうに笑う連中もいた。
それが一層僕には居心地が悪く、とうとう読書に集中することが出来なくなって、
僕はしおりも挟まずに文庫本を閉じると、適当に鞄の中に仕舞い込んだ。



賑やかに会話する高校生達。
そして、会話する相手を持たない僕。
僕は完全に行き場を失い、車窓の景色に視線を移すと、その会話の内容に耳を傾け始めた。

大概は取るに足りない下世話な話。
しかし、僕はそんな彼らを否定するつもりは更々なかった。
過去の自分を振り返ってみれば、似たり寄ったりの会話をしていたのだし、
今でも仲間と集えばそう変わらない話で盛り上がっていた。

しかし、いつも一緒にいる友達と言うものは、高校から大学に移って激減した。
それは僕の場合だけかもしれないが、やっぱり高校にはクラスと言う存在があり、
何かにつけて行動を共にしていたせいで、やはり会話もしやすかったのだろう。
それに対して今の僕は、話の合う数人の仲間というのが精々であって、
なんとなく話をするだけの相手と言うのは存在しなくなっていた。

だが、僕はそれをマイナスイメージには捉えていない。
むしろ、近くにいるからと言うだけで付き合う無意味な人間関係の一部として、
自分がかつて存在していたと言うことを考えると、少しだけ情けなくさえ思えたりもしたのだった。

そして、そんな僕の無意味な喪失を埋めてくれたのが読書だった。
下らない会話の代わりに、文章は僕に新たな別世界を提供してくれた。
はじめはただ単に通学途中などの空き時間を潰す為だったのが、次第にそれが逆転してきて、
気がついてみたら僕は本の作り出す世界の虜になっていた。



しばらくして、僕はこのさんざめく高校生達にも次第に慣れてきた。
まるで賑やかな歓声がBGMにでもなったかのような気分になって、
仕舞ったはずの本を再び鞄から引っ張り出してきた。
そしてさっきまで読んでいた個所を素早く見つけると、
間には何事もなかったかのように再び本の世界の住人に戻っていた。

ページを捲る手の動きも、最早気にならない。
こういう時の僕は、大抵最後まで一気に読んでしまうのが常だった。
取り敢えず終点の高崎までにはまだ結構な時間があるだろうし、
それまでにはまず間違いなくこの巻だけは読破出切るだろうと思っていた。
そして僕はそう決め込むと、そう思ったことすら頭の中から追い出してひたすら読みふけった。
いや、そのいつもならそうなるはずだったのだが――


「うわっ!!」

突然強烈な風が僕を襲った。
風くらいで僕自身は何ともならないが、適当に持っていた文庫本のページは一気にページを捲られて、
まさしく襲われたと言うに相応しい有様となっていた。
そして僕は慌てて本から顔を上げ、何事かと窓の方を見る。
すると、僕の斜め前に座っていた女の子が、窓を開けた手をそのままにして、
如何にも済まなそうな顔をして僕のことを見ていた。

「あ、あの……ごめんなさい、急に窓、開けちゃって……」
「い、いや……別に構いませんから」

僕は女の子にそう答える。
僕自身、風は嫌いじゃなかったし、本のページが捲れてしまうことなど、取るに足りないことだったからだ。
しかし、それは僕の見解であって、客観的に見れば、その女の子が僕に迷惑をかけてしまったと言うのは一目瞭然だった。

「そ、そうですか?」
「ええ」
「なら……済みませんけど、このまま窓、開けててもいいですか?」

その女の子はまだ窓を開けたいらしい。
現に僕に謝っている時でさえ、窓から手を放そうとはしなかったのだから。
僕はそんな彼女の気持ちを勝手に汲んで、如何にも全く気にしませんと言うことを証明してみせるかのように、
慣れない作り笑顔を浮かべて答えた。

「ええ、構いませんよ。窓くらい開けてて……」

しかし、僕の言葉はそれ以上発せられなかった。
女の子は僕の予想を越えて、いきなり窓を全開に開いた。
そして、さっき僕の本を襲ったものとは比べ物にならない風が一帯に広がった。

「これでよし、っと……」

女の子はそう呟くと、満足そうに腰を下ろした。
その綺麗でつややかな黒髪は、僕の本のページ以上に派手に風に靡いていた。

夏の風と長い髪ほど似合わないものはない。
僕はずっとそう思ってきたはずだった。
しかし、わざわざ窓を開ければこうなるとわかっているにもかかわらず、
乱れる髪を押さえながら嬉しそうに風を感じている彼女の姿を見て、
今日、僕は風に出逢ったように感じた……。


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