妹は、座っていた。 膝を抱えたり、脚を崩してぺたんとしてみたり。 色んな座り方があるけれど、僕の隣なのは、いつもと同じ。 僕達は、海に来ていた。 海に来ていたはずだった。 でも、普段と何も変わらず、妹はただ座っている。 そんな些細な現実が、僕は恐かった。 僕と妹と猫Written by Eiji Takashima
第十一話@真顔:僕と妹と 「お前、泳がなくていいのか?」 海を見ていた妹の横顔に訊ねてみた。 妹の目線の先には、泳いだり浜で遊んだりする大勢の人がいるはずだから、何も感じないはずはない。 「えっ、うん。わたしは、別に」 急に声をかけられて驚いたらしいリアクションだったが、それ以上の動揺は見られない。 こっちを向いてぱたぱたと手を振る仕種は、いつもと何ら変わりなかった。 「それより、お兄ちゃんは? 海だよ、夏なんだよ。せっかく来たんだから、泳がなくっちゃ」 僕が訊いたことをそのまま返す、僕の妹。 泳がないのはお前がここにいるからなんだぞ、と言ってやりたくなったが、今は口にしないでおいた。 「お前こそどうなんだよ。そう言うからには、自覚してんだろ?」 そうだ、僕達は海に来ているんだ。 それなのに、家のリビングでもできることをしなくてもいい。 座っているだけなら、何も海に来る意味なんてないんだ。 「それはわかってるよ。でも、しーちゃんを置いて、泳ぎに行けないでしょ?」 そう言って、妹は椎茸を撫でる。 少しそれが鬱陶しかったのか、妹の手の中でバタついてみせた。 「あっ、ちょっと暴れないでっ」 押さえつけるでもなく、ただ逃げないようにする。 生後一年も経たない椎茸は本当に小さくて、妹は壊れ物に触れるように接していた。 これでは、どっちが主人かわからない。 少なくとも、僕が見る限りでは、椎茸の方が悠々自適で偉そうだった。 「椎茸は、僕が預かっておこうか?」 椎茸に振り回されている妹に、そう提案してみる。 言ってみて、我ながらナイスアイデアだと感じた。 「えっ、そういう訳にはいかないよ。だってお兄ちゃん、ねこさん苦手でしょ?」 少し困ったように、妹が僕に応えた。 確かに猫は苦手だが……でも、だからと言って、妹が遊んでいる間預かるくらいのことは問題ない。 「そりゃ得意じゃないけど、必要とあれば、お前と同じくらいに丁重に扱ってやるさ」 堂々と言い切った。 実は、ほんの少し皮肉混じりだ。 猫なんて、多少放任していた方がいいだろう。 妹が猫の都合に引っ張り回されて自由に行動できない方が、僕にとっては問題なのだ。 「お兄ちゃんがそう言うんだったら、問題ないんだろうけど……」 「だったらほれ、こっちによこせ」 少し考える様子を見せた妹に、畳み掛けるように手を差し伸べた。 椎茸の心配がなくなれば、妹も楽しく海で遊べるはずだ。 そう、そのはずだ。 「……やっぱり、だめ」 小さくそう言って、妹は椎茸を抱き締めた。 こっちへ渡そうとは、しない。 「どうして?」 「だって、そうしたらお兄ちゃんが遊べないじゃない。ひとりで遊んでても、つまんないよ」 妹の言うことは、至極正しかった。 わざわざ海に来て、独りで遊ぶなんて寂しすぎる。 それなら、二人で来る意味なんてない。 「そりゃお前の言う通りかもしれないけど、それなら僕も同じだぞ。お前を置いて、独りで泳ぎになんて行けるかよ」 妹の代わりに椎茸を預かるとはもう言わない。 でも、同時に独りで泳ぐ気も、僕には更々なかった。 「…………そう、かなぁ?」 簡単な理論のはずで、妹も、そのくらいわかっているはずだと思っていた。 僕は思い込んでいた。 でも、妹は考えた末なのか、椎茸を見下ろしながら、ぼそりと洩らした。 「どういうことだよ?」 むっと来て、ほんの僅かな苛立ちを声に乗せてしまった。 言った後で後悔する。 でも、既に手遅れでしかない。 「お兄ちゃんは、わたしとは違うじゃない。きっと、一緒に遊んでくれるお友達も、できるよ」 妹は椎茸を撫でていた。 椎茸はじたばたと、妹の腕の中でもがいた。 でも、妹は、椎茸を撫で続けていた。 「そうだ、ナンパでもしたらどうかな? お兄ちゃんもそろそろ、彼女さんを作った方がいいよ」 妹は笑って言った。 何かをごまかすように、ただひたすらに明るく。 「何を馬鹿な」 「ステキなひとだといいよね。そして、絶対紹介してよ。わたし、お姉ちゃんって呼んじゃうんだー。料理とか、教えてもらったりして――」 どこにもいないはずの、僕の彼女に対して思いを馳せている。 でも、僕にはそんな彼女なんて見えやしない。 それはそうだ。妹のそんな想像なんて、全て空虚なものでしかないのだから。 「……もう、言うなよ」 悲しかった。 妹に、そんな風に言わせている自分が。 そして、そう言わざるを得ない妹が、一番悲しかった。 「…………どうして?」 一瞬、心臓に針を刺されたような顔をして、きつく唇を噛み締めた。 でも、妹は音を上げずに、絞り出すような声で、僕に聞き返してくる。 「お前の嘘なんて、聞きたくない。もう、やめてくれよ」 嘘を嘘だと言うことは、非常に残酷なことかもしれない。 でも、そうなる可能性があることを理解していても、僕は言わずにはいられなかった。 「うそ、なのかなぁ……」 「そういうことに、しといてくれ。いいから」 妹は、自分で自分のことがよくわからなくなっているのだろうか。 いや、そうじゃないはずだ。 むしろ、嫌がおうにもわかってしまう自分が嫌で、わかっていないふりをしているだけだ。 「……うん、じゃあ、そういうことにしておくよ」 辛そうに発せられた僕の言葉に何かを感じたのか、妹は大人しく了承してくれた。 実際はどうなのか知らないが、少なくとも言葉の上では、そうだ。 「サンキュな」 気遣いを見せてくれた妹に感謝する。 それは形式的なようでいて形式的なものでなく、実は心からの感謝だった。 これ以上、自分を傷つけるような言葉を口にして欲しくない。 妹の言葉は、僕にとっては、剣だ。 妹を見つめる僕。 腕の中の、僕達の家族を見つめる妹。 椎茸は、隠れるように、顔を隠していた。 「――やっぱり、家族になれないのかな」 妹が、椎茸から手を放すと、顔を上げてこっちを向いた。 ようやく自由を得た椎茸は、逃げ出すでもなく、その場でじっとしている。 ただ、僕達の会話は気にもならないようで、仔猫らしく、きょろきょろとそのつぶらな瞳で辺りを見ていた。 「椎茸のことか?」 昨日の夜、妹は確かに言った。 僕が椎茸を捨てろと言ったら、大人しくそれに従う、と。 猫にべったりだった、妹のこの短い人生。 猫を捨てることを口にするなんて、一度たりともなかった。 「……うん。だって、しーちゃんがいるから、お兄ちゃんが困ってる」 「お前もだろ。お前も、困ってる」 「そんなこと、ないよ……」 「困ってるんだよ、お前もっ!」 怒鳴って言った。 でも、妹が認めようとしない事実は、確かに真実だった。 僕も、そして妹も、椎茸の存在に困っている。 たとえそれが、今だけのものだったとしても。 「そう、かな……」 「椎茸は猫だ。いいか、猫なんだぞ。猫は家族じゃない。ペットなんだ。いいか、忘れるな」 確か、親父が言っていた。 妹に猫を捨てさせる度、怒ったような顔で言っていた。 そんな時、妹は、ペットも大事だと言い返していたような気がする。 でも、親父を言い負かすことは出来なくて。 結局、妹は、何度も何度も猫を捨てていた。 「椎茸には、僕とお前で名前をつけた。だから、家族だと思ってたさ。でもいいか。僕はお前のためなら、椎茸を殺すことだってできるぞ。お前にその理由がわかるかっ?」 僕は、親父と同じように、まくし立てていた。 妹は、あの頃と同じく、反射的に首を横に振っていた。 「わからないなら教えてやる。お前は僕の大事な妹で、家族だからだ。椎茸には悪いけど、あいつは結局家族じゃないから、お前とは釣り合わないんだ。わかったか!」 家族だと思い込もうとした。 妹のために、家族を増やそうとした。 でも、結局猫は猫だ。 いくらかわいくても、ちっちゃくても、妹の友達になってくれても――家族には、絶対になれない。 「……わかった」 妹は、うなだれていた。 今までにないくらい、うなだれていた。 その瞬間、僕は妹を傷つけたと思った。 でも、僕と同じくらい妹を愛していたはずの親父も、猫のことで何度も何度も妹を傷つけ続けていた。 かつてはわからなかったその理由が、今、ようやく僕にもわかった。 傷つけることになったとしても、それが、妹のためだからだ。 「わかったら、貸せ」 また、僕は妹に手を差し伸べる。 妹は、それを見て、怯えたような顔をして、そして、椎茸を渡した。 「……渡したよ、お兄ちゃん」 妹は僕を責めていなかった。 ただ、悲しかっただけだ。 妹にだってわかっている。 悲しいけれど、これが正しいことなんだって。 「よし」 僕は椎茸を受け取ると、パラソルの支柱の根元にそっと下ろしてやった。 僕と妹の間に座らせて、きちんとこっちを向かせる。 「いいか、椎茸。お前は妹の所有物じゃない。こいつの言うことなんか、もう聞かなくていいんだからな」 猫にでなく、人間に言い聞かせるように、僕は真顔で椎茸に言いつけていた。 「だから、お前が僕達の家族でいたいなら、お前がそうするんだ」 「お兄ちゃん……」 「家族でいたいなら、ここにいろ。どこかに行ってもいいけど、必ず戻ってくるんだ」 椎茸は、僕の言うことがわかっているのかどうなのか、じっとしてこっちを見上げていた。 でも、理解しているかどうかなんてどうでもいい。 家族なら、わかるはずだ。 妹は、椎茸を家族だと言いながら、家族として扱っていなかった。 家族なら、一緒に居たいなら、捕まえていなくても、戻ってくるはずだ。 「逃げたければ、逃げればいい。一緒に居たければ、僕はそれを妨げない。お前が選ぶんだ、椎茸。お前も男だったら、自分の人生くらい、決められるだろ」 選ぶのは妹でも僕でもない。椎茸自身だ。 だから、僕は家族として、このちっちゃな猫に選択を委ねた。 「……行くぞ」 立ち上がって、妹に、手を差し出す。 もう、椎茸のことは見ない。 「えっ?」 「海に、来たんだからな。一緒に、泳いだり、砂遊びしたり、いっぱい楽しもう」 斜め下に、真っ直ぐに。 僕は真顔で、妹を誘っていた。 「おにい……ちゃん……」 妹は、驚いて、僅かに考えて、足元の椎茸をちょっとだけ見て。 そして、ゆっくりと、おずおずと、指が触れた。 確かめるように、まるで触れてしまえば消えてしまう陽炎を恐れるように、指先だけを触れ合わす。 「……うん、いく……よ……」 指が絡む。 僕は、その手を握り、引き上げて立たせる。 「後悔、しないな?」 どこかに未練を残す妹に、最後の確認を取る。 「うん、しないよ」 そんな僕に、頷いて答える。 もう、妹も、椎茸を振り返らなかった。 「よしっ!」 ビーチサンダルを放り出し、妹の手を取って走り出す。 先には、砂と海と――夏の全てがそこにはあった。 「きゃっ、お兄ちゃん、待ってよ! そんな急がないでってばぁ!」 「ほら、急げ急げ! 急がないと夏が終わっちゃうぞ!」 灼けた砂が足の裏に心地よく、僕達は跳ねあげながら駆けていく。 先に見える、僕達の夏へと。 僕と妹と。 猫は、もう、そこにはいない。 |