夏は、終わろうとしていた。
朝夕の風に、どこか涼しげな秋を感じさせるようになっていた。

楽しかったはずの夏休みは残りあと少し。
全てが終われば、妹にとって、そして傍にいる僕にとって、また憂いの時が訪れる。

妹に、まだ、友達はいない。



僕と妹と猫

Written by Eiji Takashima

第十二話@おかわり:リフレイン




とんとんとリズミカルに足が鳴らす音が聴こえる。
少し忙しなく、妹が階段を下りてリビングにやってくるところだ。

「あっ、お兄ちゃん、おはよっ!」

ソファに座っていた僕に、形式的な挨拶をすると、冷蔵庫へ直行。
振り向いて様子を確認すると、お行儀悪く牛乳のパックに口をつけてごくごくとやっていた。

「おい、口つけて飲むなよ。お行儀悪い」

妹は、こういうところはしっかりしていたかと思ったが。
でも、最近ちょっと、変わった気がする。
それがいいことなのかわるいことなのか、僕には何とも言えないけれど。

「ごめーん、でも、寝起きでのど渇いてたから」

ひとしきり飲んで、手の甲で口をごしごし拭いてから、さして気にした様子でもなく、僕に謝ってきた。
ここで逆らわずに、口だけでも謝ってくれるだけ、まだマシなのだろうか。

「理由になってないぞー。あんまりこういうのするなよな」

別に、直に牛乳パックから飲んだとて、ここでは別に困ることじゃない。
でも、余所様でこういうことをやられたら、うちの教育が疑われるってもんだ。
両親がいないことをぐちぐち言う連中も多少はいることだし、ここはしっかりしておきたいというのは、兄というよりも家長として、当然の考えなのだ。

「はぁい。ごめんなさい」
「ったく、次に飲む人のことをもうちょっと考えてだなぁ……」

素直で非常に宜しいが、こういうところはやっぱりまだまだ子供だ。
僕も大人というには程遠いが、何と言うか、感じている責任の重さが、僕達に違いを与えているんだと思う。

「別に、わたしは次にお兄ちゃんが飲んでも気にしないよぉ」
「僕が気にするんだよっ!」

暢気と言うか、何と言うか。
まあ、これも妹らしくていいのかもしれない。
それに、今はまだ、夏休みだし。
お休みの時くらいは、少しくらいラフに構えていても、許してやってもいいような気がする。

「兄妹なんだから、別に気にしなくてもいいのに……」
「ぶつぶつ言うな。もうそのパックはお前専用だからな。いいな」

びしりと人差し指を突きつけてそう決定する。
中途半端な物言いでは、妹に屁理屈のチャンスを与えてやるだけだ。
こういう時、父親っぽい強権発動は、とても便利だと最近になって知った。

「うー、わかったよ。お兄ちゃんなんか仲間外れにしてやるー」
「仲間外れ?」
「牛乳パック共有同盟にっ」

……は?
一瞬、言葉を失ってしまった。
たまに飛び出す妹の謎センスは、ついリアクションに困ってしまうことが多い。

「な、なんだそりゃ?」
「文字通り、家族でひとつの牛乳パックをごくごくやる同盟だよ」
「で、でも、家族でって言っても、僕とお前だけで――」

そう言いかけた瞬間、妹が「ふへへー」としてやったり顔でこっちを見た。

「しーちゃんがいるもんっ」

妹が、ぺたぺたと素足の音をさせてこっちに迫ってくる。
ソファの背もたれを挟んで対峙する僕達。
妹は、当然の権利と言わんばかりに、にゅっと手を突き出してきた。

「……なんだ?」
「貸して」

広げた掌をにぎにぎして、何やらこっちに求めてくる。
こういう場合の手の動きではないような気がしたが、今はそこを突っ込むところじゃない。

「しーちゃん、貸して」

僕の膝の上には椎茸が。
何故か、椎茸がいる。

「貸してと言われてもなぁ。おい、椎茸、お前はどうだ?」

めでたいことに、先日の家族旅行で、なんと椎茸に人権が与えられた。
猫なんだから猫権と言うべきなのかもしれないが、実は人権で正しい。
椎茸は、それだけ優遇されていると同時に、人間と同程度の選択の義務を有していた。

「しーちゃんおいでおいで。おいしいミルク、ご馳走するよー」
「椎茸はさっき食事を終えたばかりだ。今は食い物で篭絡されたりしないぞ」

妹の、猫よりそれっぽい猫なで声にも、冷たい現実で返す。
僕のつれない言葉に、妹はがっくりとしてうなだれた。

「お兄ちゃんずるいよぉ……」
「諦めろ。これが、僕達家族の現実だ」

そう、これが僕達家族の現実。
何故か、どういう訳か、椎茸は妹でなく、この僕を選んだ。
猫嫌いで、相手になんかしたくなかったはずなのに。
でも、べったり甘やかす妹よりも、男同士の付き合いの方がほっとするのか、椎茸は、自分の居場所を僕に選んだ。

「最近、しーちゃんってば、冷たいよ。くすん」
「泣き真似したって駄目だぞ。椎茸は思いの外、ドライな性格のようだからな」

猫らしい勝手気ままな性格の椎茸。
僕も、椎茸を可愛がるでもなく、ただ放置しているだけだった。
その距離感が、椎茸にとっては安心できる理由なのかもしれない。

「お兄ちゃんがしーちゃんの性格を語るようになるなんて……すっごく負けた気分」

不満そうにそう言うと、妹はほっぺをぷうっと膨らませた。

「まあ、勝ち負けで言うならお前の負けは確定だな。ほれ、椎茸は僕の膝の上にいる訳だし」

妹をからかうような台詞を口にしたが、実はあんまり嬉しくもない。
この暑いのに、毛むくじゃらな猫に膝に乗られて、不快でない訳がない。
正直なところ、今この瞬間にでも、妹に向かって放り投げてしまいたいくらいだ。

「ううっ、同盟を組むつもりが、反対に牛乳パック非共有同盟を組まれるとは……」
「ま、そういうことだから、諦めてくれ。以後牛乳パックは――」

そう言いかけたところで、妹が何かをひらめいたようだ。

「あっ、いいこと思いついちゃった!」

そのアイデアはよっぽどナイスなものだったんだろう。
とにかく、さっきまでしょぼんとしていたのが嘘のように、いい笑顔を見せていた。

「へへー、ちょっと待っててね」

とたとたと音を立てて逆戻り。
グリーンの冷蔵庫のドアを開くと、さっき口をつけて飲んでいた牛乳パックを取り出す。
目当てはそれだけだったのか、すぐにまたUターンして僕の目の前までやって来た。

「はい、お兄ちゃんっ」

勢いよく、僕に向かって牛乳パックを突き出す。
僕には、何がなんだかわからない。

「は?」
「は?じゃないよ。はい、飲んで飲んで」

妹は僕のリアクションの悪さに焦れて、自らパックの口を開くと、またこっちに向かって差し出す。

「ほらほら口出してー」
「って、こういうのは駄目だって僕は……」
「しーちゃんよりも、お兄ちゃんの方が、仲間にするには簡単そうだからね」

どうやらそういうことらしい。
まあ、妹の言っていることはある意味正しいかもしれないが、これはあまりに無茶苦茶だろう。

「それとも、わたしが口つけたパックじゃ、いや?」
「そういう意味じゃなくて……」
「間接キス、恥ずかしい?」

会話が繋がらない僕達。
でも、妹はそんなやり取りが楽しそうで。
にんまり笑ったかと思うと、すっと一歩、こっちに近付いてきた。

「えっ?」

不意打ちのように、予期していなかった僕の唇が、触れた。

「ほら、これで間接キスなんて、関係ないでしょ? ほらほらっ」

確かに、キス、だった。
間違いなく、触れたのは、妹の唇。
でも、妹はあまりに自然すぎる。
僕の驚きは、こんなにも激しいのに。

「……固まっちゃったね、お兄ちゃん。もう、初めてじゃないのにー」

呆れて笑う、僕の妹。
確かに、初めてのキスじゃないけれど、それでもキスはキスだ。
たとえ、相手が実の妹で、僕の家族だったとしても。

「お前……」
「お兄ちゃん、わたしね」

何かを言おうとして口を開いた僕を遮るように、妹が切り出してきた。

「わたしね、キス、嫌いじゃないよ」

そんなことを言う妹に、僕は何と返したらいいんだろう。
兄として、保護者として、ううん、僕自身として。
それでも、僕にはここで言わなければならない言葉のひとつも、思い浮かばなかった。

「あっ、変な意味じゃないよ。えっちなのとか、そういうのじゃ」
「……わかってるって」
「でもね、なんていうか、触れ合っていたいの。唇だけじゃなくて、手とか身体とか、どこでも」

そう言って、妹は片手に危なっかしく牛乳パックを持ったまま、僕に身体を寄せてくる。
ソファの背もたれが僕達の間にあったが、それでも確かに触れ合っていた。

「……恐いのか?」

妹が、そうする理由を、僕は知っていた。
だから、そう、訊ねた。

「うん、そうかも。お兄ちゃんは、ちゃんといるよね?」
「ああ、いるよ……お前の傍に、ずっと……」

妹の身体があるならば、腕も、脚も、もぎ取られていた。
妹にとって、家族はその身体の一部みたいなもので、失う度に、二度と戻らない喪失を感じるんだ。
今、妹にどれだけのものが残っているんだろう。
僕にはそれがわからないから、こうして、傍にいてあげるんだ。

「そば、なの?」
「ああ」
「そばじゃ……いやかも」
「じゃあ、どうしたらいい?」

僕が訊ねると、妹は片手を寄せ、僕の口元に例のパックを持ってきた。
まだ、その口は開いたままだ。

「同盟、組もうよ。お兄ちゃんも、牛乳パック共有同盟の一員になって」

目先には、たぷたぷと白く揺れる牛乳があった。

「くち、開けて……」

僕は、妹に言われるがままに、口を開いた。
妹は、少しくすりと笑って、僕の唇にパックの先をつけてくれる。
こぼさないように、ゆっくりと、パックが傾けられる。
牛乳が、僕の口の中に流れ込んできた。

「んぐっ!」

入ってくる量が多すぎて、僕は軽くむせた。
唇の端から、牛乳がこぼれる。

「あっ、ごめん、お兄ちゃんっ」

妹は慌てて謝ると、片手にある牛乳のパックを見て、もう片方にある、ソファを掴んでいた手を見た。
そして何を思ったのか、また、唇を寄せてくる。

「……んっ」

唇からあごへと伝った白い一条を、妹がそっと舐め取っていく。
丁寧に、丁寧に、まるで仔猫がミルクを飲むように。

「お前……」
「えへへ、手、ふさがってたし」

自分がやった行為に、照れ笑いを浮かべた妹。
でも僕は、同じように照れ笑いで返すなんて出来なかった。

「これで、お兄ちゃんも牛乳パック共有同盟の一員だよ」
「……まあ、いいよ、それで」

何とかそう言えた。
僕には、これが精一杯だ。

「しーちゃんなんかのけ者だからねっ。あっかんべーっ、だ!」

いつのまにか僕の膝の上から放り出され、ソファの上で丸くなっていた椎茸に向かって、妹が舌を突き出した。
その舌は、牛乳の色で、少し白い。

「やっぱり信じられるのはお兄ちゃんだけだよ。うん、そうだよね、やっぱり」

結果として、椎茸は妹を裏切った。
あそこまで愛されていたのに、だ。
そのことについて、妹は何も口にしない。
でも、妹が変わったのは、きっとそれが原因だろう。
失われていた身体の一部の代わりにみつけた、義手のようなものが、また妹からもぎ取られる。
血はもう流れないけど、痛みは感じる。
妹は、そういう子だ。

「……ああ、そうだな」

そんなことない、と言いたかった。
否定しなければ、妹は孤独なままだ。
友達も、きっと出来ない。
でも、そんな無責任なことは言えなくて、僕はただ肯定するしかなかった。

「お兄ちゃん、ねえ、おかわり、いる?」

きっと、言葉でもキスでも、妹は癒されない。
家族は妹に色んなもの全てをくれたけど、でも、いなくなってしまった。
だから、妹は不確かなはずの絆を求め続ける。
この、突如言い出した牛乳パック共有同盟も、数多の絆、そのひとつだろう。

「ああ、もらうよ」

妹の求めは拒めない。
妹を知る僕には、絶対に拒めない。

「……どっち?」
「え?」
「牛乳と、キス。どっちでもいいよ、わたしは……」

妹は、どちらを求めているんだろう。
妹が求めるのならば、それが妹に安らぎを与えるのならば、応えてやりたいと、今は思っていた。

「お前が、望む方を……」

そう言うと、妹は笑った。
僕が欲しかったのは、そんな、妹の笑顔だ。


――妹は、繰り返し辿ってきた道を、また戻ろうとしている。


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