どこか、懐かしかった。 いつもとは違うだぶだぶの浴衣も、窓から覗く夜景も、紛れもなく初めてなのに。 でも、僕は明らかに何かを感じていた。 言葉に出来ない何か。それは―― それはきっと、この、潮風の香りなのかもしれない。 僕と妹と猫Written by Eiji Takashima
第九話@椅子:戻る、関係 日も落ち、予約していた旅館にチェックインを済ませた僕達。 ごくありふれた海の幸メインの食事と、ちょっとだけ贅沢な温泉を堪能した後は、いつものような二人だけの夜が待っていた。 「うにゃー、お兄ちゃん、勝負だにゃん!」 旅気分なのか、妹はすこぶる上機嫌だ。 椎茸の前脚を取り、無理矢理立たせると、こっちに向かってファイティングポーズをとってくる。 「おい、やめろって。椎茸が迷惑してるぞ」 窓際の籐の椅子に腰掛けていた僕は、煩わしそうに妹をたしなめる。 だが、被害者たる当の椎茸はというと、迷惑どころか妹と一緒になってはしゃいでいるようだ。 どうにも、こいつは野生動物としてのプライドが足りないらしい。 棒組として期待していたけれど、心の底から妹に篭絡、いや洗脳されてしまったかのようにすら見えていた。 「うにゃ! 我らはいっしんどーたい! いざじんじょーに、勝負勝負!だよ、お兄ちゃん」 妹は椎茸の手を背後から操り、僕のすね辺りにねこパンチをしてくる。 何故かいきなり口調が武士っぽくなっているところは、もしかしてツッコミを入れるところだろうか。 「猫が二匹束になったところで、人間様に敵うと思ってるのか?」 ここでツッコミを入れては、妹の思った通りになってしまう。 僕はうんざりしながら、ガラステーブルの上にあった夕刊をくるくる丸めると、妹に向かって突き出して威嚇してみた。 「にゃ!? 武器を使うなんてひきょうだよ、お兄ちゃん! ずるい!」 大仰に尻込みして見せる妹。 椎茸を駆使したリアクションは、まるで人形芝居のようだ。 「うるさい。もう夜も遅いんだし、はしゃぐのはやめろよ。あんまりうるさくすると、これでぽかり、だぞ」 口ではそう言っていたけれど、妹も椎茸も、どちらも叩くつもりなんてない。 僕は妹の兄であって、親じゃない。 たとえ親だったとしても……こんな妹を、どうして叩けるだろうか。 「……ごめんにゃさい」 静まり返った海辺の小さな旅館に、独りはしゃぐ妹の声。 それがどういうことなのか、僕の言葉で悟ったようだ。 「いいから、そこ、座れよ」 しゅんとする妹に、いつもより少しだけ優しい声で促す。 そんなに叱るつもりなんてなかったことが、これでわかってくれただろうか。 「うん、そうだね」 二組の籐の椅子のもう片方に、妹が腰掛ける。 膝の上には大人しくしている椎茸を乗せて、さっきの一心同体状態を継続しているようだ。 「椎茸も大変だな、お前のわがままに付き合わされて」 何となく、そうコメントしてみた。 深い意味はない。ふと、そう思っただけだ。 「……そうかもだね。ごめんねー、しーちゃん、いつもいっつも」 妹は僕の言葉を受けて、素直に椎茸に向かって謝っている。 喉のところをくすぐって、うにゃうにゃ言わせているところを見ると、これが妹なりのお詫びの形なんだろう。 「嫌がってないか、おい?」 苦笑しながらも、そう突っ込んでみる。 冗談七割、本気三割、といったところだ。 椎茸のリアクションは、どう感じているのか僕にはイマイチよくわからなかったりするのが現状なのだ。 「えー、そんなことないよぉ。ねこさんはこれが気持ちいいんだよ。ねー、しーちゃん?」 さも当然と言わんばかりに答えて、更に椎茸の手を無理矢理挙げさせている。 自分の説に対して、賛同の「おー」なんだろう。 「無理矢理手を挙げさせて、何を言うか、お前は」 妹の一連の動作に、また突っ込みを入れた。 でも、突っ込みの口調とは裏腹に、少し笑ってしまったような気がする。 少なくとも、こういう時の妹には、どこか和まされるものがあった。 「えへへー、ちょっとずるい?」 椎茸の手を放してごまかし笑い。 ようやく解放された椎茸は、ほっとしたように妹の上で丸くなると、そのまま目を閉じておやすみモードに入ろうとしていた。 「ほら、眠そうだし。今日一日引っ張り回したんだから、そろそろ寝かせてやったらどうだ?」 「うん、そうだね……しーちゃん、まだ赤ちゃんだもん。寝るのも必要だよね」 そう応えて、妹はそっと優しく椎茸の背中に触れた。 起こさないように、静かに静かに、椎茸の毛並みを撫でる。 まだ年端もいかないながらも、そういうところはどこか母親のようなところを感じさせるのは、やはり妹も女だからなんだろう。 そう思うと、何だか複雑な心境にさせられた。 「――お兄ちゃん」 椎茸を撫でる妹を眺めていたら、その当人から声がかかる。 「ん、どうした?」 「今日はごめんね、その……はしゃいじゃって」 少ししんみりと、目を合わさずに椎茸に視線を落としたまま、妹が呟くように言った。 「いいって、別に。ほら、はじめての旅行だもんな」 はじめての旅行だから。 妹は、夕暮れの渚でそう言っていた。 でも、たとえ初めてでなかろうと、あまり関係はない。 旅行なんて、はしゃいで当然のものだろう。 「そう? でも、わたし、あんまりこういうの、どうしたらいいか、わかんなくて」 いつもより少しはしゃいでいた妹。 でも、確かにどこか空回りしていたかもしれない。 いつもと同じようにしていいのか、それとも浮かれてみるべきなのか、僕の反応をちらちらと確認したりして。 そんな風に、些細なことで不安を感じてしまう妹は、旅というもの自体を、よく知らなかった。 「好きにすればいいさ。僕もそうだし、椎茸もそうだろ?」 「うん、そうだけど……」 「間違ってても、僕は怒らないよ。お前も、僕のこと、怒らないって言ってだろ?」 はじめての旅行だから、特別なものだから。 だから、怒らない訳じゃない。 いつでもどこでも、怒っているのは単なる仕種で、それはスキンシップのようなものだ。 そんな、僕達の関係を彩るエッセンスとして、僕は考えていた。 「えー、でも、さっきも怒ってたよぅ」 沈んだ気分を打ち消して、ふざけるように妹が言う。 「怒ってたんじゃない。ちょっと注意しただけだよ」 ふざけた妹に、僕は軽くうそぶいて応えた。 「それ、どう違うの?」 「……さぁ、わからん」 「もう、お兄ちゃんってばー」 妹は口のところに手を当ててくすくすと笑う。 この、窓の外の景色が夜の水平線でなければ、いつものリビングでのやり取りそのままだった。 妹がいて、椎茸がいて、何となく静かで。 この、穏やかな空気が好きだった。 旅行に来ているのにいつもと同じじゃつまらないって思って然るべきなのに、僕はこの変わらないやり取りに、ただほっとしていた。 「ねえ、お兄ちゃん」 「なんだ?」 覗き込むようにして、妹がこっちを上目遣いで見る。 まるで椎茸の代わりを演じるように、子猫のような、くるくると変わる瞳だ。 「怒ったり、しないんだよね?」 「もちろん。注意はするけど」 「うーん、そっか、ちょっと不安だけど……お願い、あるんだ」 おねだりポーズで、妹は僕に訴えかけてきた。 細かいことでちょっと言い過ぎた気もするし、今はある程度のことは大目に見ようと思う。 「ま、言ってみろよ。僕も何だかわからないと、注意のしようもないだろ」 「うん、じゃあね……」 妹は指差す。 膝の上の、のんびりと眠る、僕達の家族を。 「しーちゃんみたいに、して欲しい、な……」 妹の上にちょこんと乗せられて眠る椎茸。 猫でなくとも、とっても気持ちよさそうに見える。 「いいかな、お兄ちゃん?」 妹のわがまま。 それは、いつもと何も変わらない。 なのにどうして、こいつは不安そうな目で、僕を見るんだろう。 いつものように、勝手に乗っかってくればいいのに。 「……いいよ、別に」 その答えを知りたくて、僕は承諾した。 妹はぱっと目を輝かせて、椎茸をそっと抱えると、こっちに向かってやってくる。 「じゃあ、お邪魔しまーす……」 妹が、僕の膝の上に乗った。 ゆったりとした籐の椅子も、二人がかりの重みに軋んで不平を唱える。 「ん……重くない、お兄ちゃん?」 「重いって言ったら、怒るだろ?」 「もっちろん」 首を傾けたちょっと無理のある姿勢で、妹はこっちを向いて頷いた。 重心が後ろに傾いて、椅子ごと倒れそうになる。 「っと、大人しく前向けよ。倒れるだろ」 「あ、ごめんごめん。じっとしてるね」 慌てて姿勢を正す妹。 別に前を向いてくれるだけでよかったのに、ぴしっと背筋を伸ばして、前を向いて、ご丁寧に両手を膝の上に乗せていた。 「おいおい、そこまでしなくてもいいって」 「あ、うん、でも、なんとなく、ね」 曖昧な返事をして、妹は首だけ僅かに動かした。 視線の先は窓の外。 彼方には、青白く光る波間が見えた。 「……外、何が見える?」 何となく、そう訊いてみた。 途切れた会話の切れ端を探しているようなものだ。 深い意味なんて、どこにもない。 「海、見えるよ」 「そっか」 「お兄ちゃんにも、海、見えるよね」 「ああ……」 意味のない会話。 ただ、言葉を交わすためだけにすら思える、単語の羅列だ。 それは落ち着くと同時に、どことなく不安で、心細い。 アンバランスな僕達の関係を、象徴しているかのように。 「――お兄ちゃんはどう思う?」 「え?」 唐突に、妹が訊ねてくる。 何についてかの説明すらない。 「わたしはね、やっぱり違うと思うんだ」 まだ、説明はない。 「しーちゃんをこうして抱いててもね、実感がないの」 そう言って、妹が椎茸を撫でる。 当人は、小さく鼻を鳴らして、妹の手に応えた。 「……どういうことだ?」 妹の顔が見えない。 それが、今は不安だ。 「うん、お父さんのこと」 「親父?」 「お父さんの気持ちだよ。ほら、お父さん、よくこうして抱っこしてくれたじゃない」 記憶の糸を手繰る。 楽しかった家族旅行とか、リビングでくつろいでた時とか。 確かに、小さい頃は、膝の上に乗せてもらったっけ。 「でもね、わかんないんだー。なんか違うんだよ、うん」 改めて納得したように妹が言う。 こくこく頷く様子が、後頭部で見て取れた。 「…………どういうことだよ?」 妹の顔が見えない。 それが不安で不安でたまらなくて、無理にでも振り返らせたくなる。 「しーちゃんを抱いてても、お兄ちゃんに抱っこしてもらっても、あの時の感じ、思い出せないんだ……」 泣いてなんかいない。 それは、見えなくてもわかる。 でも、僕は妹の顔がみたくて、無理矢理振り返らせた。 「あっ」 妹は、泣いてなんかいない。 このくらいじゃ、妹は泣かない。 「ど、どうしたの、お兄ちゃん、急に?」 「…………お前の顔、見たくなった」 驚く妹に、気の利いた理由も考えつかなくて、つい本音が洩れた。 自分でもわかるくらいに、うろたえた顔をしてたんだろう。 妹は、くすりと笑って見せた。 「ふふっ、お兄ちゃん、かわいい」 「……うるせー」 「でも、うれしいよ、何となく」 言葉通りの嬉しそうな顔を見せる妹。 そんな笑顔に、不安な気持ちが穏やかに引いていった。 「やっぱりね、思うんだ……」 「ん?」 「わたし達、変わるべきなんだ、って」 妹は真面目にそう語っていた。 その言葉が何を意味するのか、僕にはまだわからない。 「わたしはもう、抱っこしてもらうにはおっきくなり過ぎちゃったし、それにね……」 妹が、眠っている椎茸を胸に抱えて、ちょうど僕との間に入るように持ってきた。 「それに、お兄ちゃんは、お父さんじゃない」 親父が死んで、僕は兄であることをやめようとした。 妹のために、僕は親父の代わりになって、兄としての椎茸を宛がった。 でも、そこには明らかに無理があって。 そのことは、僕ももちろん自覚していた。 妹も、きっと今、悟ったんだろう。 「戻ろうよ、お兄ちゃん。昔通りの、わたし達に……」 僕と妹の間には、椎茸がいた。 まるで、兄妹の結び付きを阻むかのように。 きっと、それは別に意図的なものじゃないだろう。 でも、椎茸がここにいたら――妹を、抱き締められない。 「そうだな、お前がそう言うのなら……」 それが一番正しいことなのかもしれない。 歪んだ偽りの関係はただの誤魔化しでしかなくて、前に進むことはできないって。 「ごめんね、無理させちゃって。わたしが……その、こんなだから……」 「お前が悪い訳じゃないよ。気にするな」 妹は悪くない。 でも、他に誰が悪い訳でもない。 だったら僕達兄妹は、誰を恨んだらいいんだろう。 「あのね、お兄ちゃん――」 言いにくそうに、妹がまた僕を呼ぶ。 「どうした、何でも言えよ」 妹の言うことなら、何でも聞ける。 今は、そう思っていた。 「お兄ちゃんが言うなら、わたしはいいよ……」 何のことだろう。 すぐにはわからなかった。 「もう、わたしは黙って言うことを聞くよ。お兄ちゃんが、しーちゃんを捨てろって言っても……」 そう言って、妹は椎茸をぎゅっと抱き締めた。 僕達が家族だと認めて、名前をあげた、この茶色の子猫。 僕と妹との関係が元に戻ろうとしているように、僕達と椎茸との関係も変わろうとしていた。 それがたとえ、妹の涙に繋がるものであったとしても。 |