――海に来ていた。 僕と妹と猫と。 なだらかなカーブを描く砂浜は、彼方の灯台まで続いている。 陽が傾き金星が瞬き始め、波の狭間にタンカーの灯りが見え隠れしていた。 ただ、僕達は座っている。 僕と妹と猫と。 潮騒が、言葉の代わりに静かに響いていた。 僕と妹と猫Written by Eiji Takashima
第八話@潮騒:潮騒 「寒くないか?」 傍らに座る妹に呼びかける。 パーカー姿の妹は、膝を抱えて海を見ていた。 「ううん、平気。しーちゃん、あったかいから」 「そっか」 「ありがと、心配してくれて」 妹は微笑んで見せる。 僕は言葉通りの妹の様子を確認すると、また水平線に視線を戻した。 「もう少し早く来れば、泳げたのにな……」 意気揚々と家を出たのがお昼より少し前。 結局、宿に荷物を置いて浜辺に来れたのは、夕方過ぎになってしまった。 「いいよ、明日泳げばいいから」 「まあ、そうだけどな」 「それよりごめんね、お兄ちゃん。しーちゃんをどうやって連れてくるか、全然考えてなくって」 「あ、いや、それはお互いさまだ」 椎茸は猫だ。 茶色でふかふかの仔猫だ。 でも、僕にとっても妹にとっても、単純にそれだけでは言い切れない。 僕と妹が家族と称するこの猫。 人間と同じように扱うことが出来ないことに気付いたのは、家を出ようとする寸前だった。 「しーちゃんを閉じ込めるのは可哀想だけど……」 「しょうがないだろ、椎茸は猫なんだから」 「うん、そうだね」 妹は、口では納得して見せた。 だが、その口元には、割り切れない感情が見え隠れしている。 「移動中だけだ。そのくらい我慢しろよ」 「うん」 妹は膝の上に載せた椎茸を撫でている。 丁寧に毛繕いするようなその手つきは、飼い猫に対するそれではなかった。 「ちょっといいか?」 「あ、なに、お兄ちゃん?」 妹が椎茸の毛並みから顔を上げる。 声をかけられただけで嬉しそうな顔をする妹を見て、僕は気付かれないようにほんの少し視線をずらした。 「いや、その……」 「もう、はっきり言ってよ〜。なに言っても、怒ったりしないから」 「え?」 「あ、うん、驚いたりはするかもしれないけどね。でも……」 言葉を濁して恥ずかしそうに俯く。 そして何故か頬を赤くしたかと思うと、がばっと勢いよく顔を上げて、僕に向かって叫ぶように言った。 「りょ、旅行だもん! はじめての旅行だもん! だからっ!」 「……初めて?」 家族旅行は初めてじゃない。 今までに、何度も行ったことがある。 海だって山だって。 想い出は、その分だけ積み重ねてきたはずだ。 「うん、しーちゃんとお兄ちゃんと一緒の旅行は、ねっ?」 「そっか、言われてみればそうだな」 生後半年にも満たない仔猫の椎茸。 椎茸自身にとっても、こういった遠出は初めてのことだろう。 だが、意味してるのはそれだけじゃない。 僕達二人の親父が死んでから、初めての旅行だった。 「だから、楽しもうよ、お兄ちゃん。家だと怒ったりすることも、みーんな許してあげるからっ」 「別に……僕は怒ってもらってもいいけど……」 「わたしが決めたのっ! 怒らない、って」 「そっか……」 妹の機嫌はよかった。 いつもと違う空の下で、少し興奮しているのかもしれない。 「じゃあ、ちょっとお願い、してもいいか?」 「うん、いいよ、なんでも」 妹は、僕の言葉を待っている。 僕のお願いを待っている。 きっとそれは僕の我が侭であっても、自分を悲しませないと信じて。 そんな妹の信頼を……僕は裏切り続ける自信がなかった。 「寒いな、って」 「えっ?」 「お前は椎茸を抱いてるから寒くないかもしれないけど……」 だから椎茸をこっちに貸してくれ、そう言うはずだった。 でも、椎茸は妹の膝の上で、目を閉じていた。 そこがまるで一番居心地のいい場所だと言わんばかりに。 「あっ、ごめんね、お兄ちゃん。わたしばっかりしーちゃんを独占しちゃって」 「あ、いや……」 「しーちゃんはふかふかだもんね。ちょっと羨ましく見えちゃったかな?」 妹は笑っている。 でも、目は笑っていない。 少しだけ視線は泳いで、迷って、そして―― 「わたしの猫はしーちゃんだけど……」 妹は、そっと目を閉じた。 「お兄ちゃんの猫は、いつでもわたしだよ……」 静かに寄りかかってきた。 ふんわりと、その感触を肌で伝えてくる。 「どう、あったかい?」 目を閉じたまま、妹が訊ねる。 僕はうろたえて、どう返事をしていいか迷った。 「……ぎゅっとして、いいよ、お兄ちゃん。もっとくっつかないと、あったかくなれないかもしれないし」 妹がそう言う。 あくまで僕任せ。 そんなところが、如何にも妹らしい。 「…………わかった」 僕は妹の身体に腕を回す。 そして求められたまま、ぎゅっと抱き寄せた。 「うん……」 何に対しての肯定なのか。 妹はただ、うんと頷く。 僕はそんな頷きに、かけられる言葉もない。 代わりに、潮騒が静かに響いていた。 「お兄ちゃん?」 僕の腕の中で、妹が瞼をあげた。 見上げるように、上目遣いで僕に話し掛けてくる。 「ん、どうした?」 「えへへ、お兄ちゃん、あったかいね」 嬉しそうな笑顔。 いつもの陰りは、どこにも見当たらなかった。 「そうか?」 「うん、しーちゃんより、ずっとあったかいよ」 「そいつはよかった」 妹は顎をすり寄せて来る。 まるで猫みたいだ。 「実はね……」 「うん?」 「さっきも寒かったの。寒くないって強がっちゃったけどね」 そう言って照れ笑い。 そんな妹に合わせて、僕も小さく笑った。 「お兄ちゃんはいつも、こうしてわたしをあっためてくれたよね……」 妹を抱き締めたことは、そんなにない。 今までで、たった二回だけだった。 「そんなこと、ないだろ」 「ううん、あっためてくれたよ。涙も、拭いてくれた」 涙を拭くハンカチなんてない。 だから、僕は涙の粒を指ですくった。 僕の指先は涙で濡れ、妹はそれを見ていつも笑っていた。 「お前は、よく泣くからな……」 「うん、おんなのこだもん」 「そういうもんか?」 「別に、泣きたくて泣いてるわけじゃないんだけどね……」 妹はよく笑い、よく泣く。 嘘の笑いはよくしたが、嘘で泣いたことは、今までに一度もなかった。 「お兄ちゃん、わたし……」 「うん?」 「ねこさんに、なりたかったな。しーちゃんみたいに……」 しみじみと、本当にしみじみと訴えかけてきた。 それが、一時の冗談でないことくらい、瞳の色を見ればよくわかった。 妹は、本当に猫になりたいんだ。 「……どうして?」 理由は聞かない方がいいのかもしれない。 でも、妹は僕のこの問いを待っているような気がして、僕はそのまま口に出した。 「だって、泣いててもかわいいもん……」 椎茸の甘い鳴き声。 鼻を鳴らすところが、妹は好きだった。 「かわいかったら、お兄ちゃんは心配しないでしょ? だから……」 「お前……」 「お兄ちゃんに、心配かけたくないもん。あんまり心配かけると、お兄ちゃんもまた――」 「言うなっ!!」 母さんが死んだ時、妹は泣いていた。 妹のために、親父は泣かなかった。 「でも、でもっ!」 親父が死んだ時も、妹は泣いていた。 妹のために、僕は涙を見せなかった。 「バカ野郎っ!」 妹を引き寄せる。 その顔を、僕の胸に押し付ける。 「お兄ちゃんだって、本当は泣きたいんでしょ? 我慢するのはよくないよ……」 「別に泣きたくなんかないっ、泣きたくないからっ!」 僕が涙を流す相手は、もうたったひとりしかいない。 僕の、大切な妹だ。 「じゃあ、お願いだよ、お兄ちゃん……」 妹は僕の胸の中で、くぐもった声を出す。 「わたしのために泣いてよ……お兄ちゃんが泣いてくれないと、わたしも泣けないから……」 妹は、鼻をすすっていた。 でも、泣いてはいない。 必死で泣くのを堪えていた。 「……僕のことは気にせず泣けよ」 「そんな、冷たいよ……」 「お前が泣いたって、今は見なかったことにしてやるからさ」 「でも、お兄ちゃんは見なくても気付くよ。わたしが泣いたら、すぐに気付いちゃうよ」 妹は何でもすぐ顔に出る方だった。 独りで泣いた夜はいつも、目尻を赤く腫らしていた。 「じゃあ、どうしたらいいんだよ?」 「泣いて。わたしと一緒に泣いて欲しいの。お願いだから……」 妹は泣いていた。 僕に見せないように、涙を流していた。 でも、僕は気付いている。 妹が堪えきれずに泣いていることを。 「…………」 でも、僕は泣けなかった。 妹に請われて、涙を流すことを望んでいるのに、僕の願いは叶わなかった。 あの日以来、僕は一度も泣いていない。 妹のために、泣かないように誓った。 少なくとも、妹の前では涙を見せないようにと。 「泣いてても、お前はかわいいよ……猫なんかより、ずっとかわいい……」 そう言ってやることしか出来なかった。 一緒に泣いてやれないなら、僕に出来るのはせめて心配しないでやること。 僕は妹の背中を、まるで毛繕いするように優しく撫でながら、ただ安心させようとしていた。 「……本当に?」 「ああ、本当だ」 「しーちゃんよりも?」 「比較にならない」 だから、泣きたい時には泣いて欲しい。 泣くのは辛いことだけど、泣くのを我慢しているよりはずっといい。 僕はそのことを、誰よりもよく知っていた。 「じゃあ、信じることにする……」 そう言って、妹はひとつ鼻を鳴らす。 「泣けよ、好きなだけ」 「……ありがとう、お兄ちゃん」 妹は泣いた。 静かに僕の服を涙で濡らしていた。 声はあげない。 声押し殺した泣き方は、もう妹の中に染みついていた。 「お兄ちゃん……」 ひとしきり泣いて落ち着いたのか、妹が僕に呼びかけてきた。 「何だ?」 「わたしから、ひとつだけお願いがあるんだけど……聞いてくれる?」 潮騒が響いていた。 夜はもう、そこまで来ている。 「何でも言えよ。好きなこと、聞いてやるから」 灯台が彼方を照らす。 月明かりの下、顔をあげた妹の目尻には、涙の跡が光っていた。 「いいの、本当に?」 「本当だよ。僕を信じろ」 波音が繰り返される。 僕の言葉も、あの日と同じく繰り返されていた。 「これだけは絶対だよ。わたしを信じさせて、お兄ちゃん」 妹が念を押す。 僕が信じろと言った時、妹はいつも僕をそのまま信じてくれた。 こんな風に繰り返させるのは、これが初めてのことだ。 「信じろ。お前の言うこと、何でも聞いてやる」 潮騒が響いていた。 僕の言葉も、波音がかき消してしまう。 「じゃあ、言うね……」 妹が口を開く。 僕に、たったひとつのお願いをするために。 「死なないで、お兄ちゃん。わたし、もう残されたくない……」 その時、妹は泣いた。 僕も、声をあげて泣いた。 あの日以来の涙。 忘れていたはずの涙。 妹をきつく抱き締めたまま、僕達兄妹は潮騒の中で、ただ泣き続けていた。 |