僕に家族が増えた。
変な名前の小さな仔猫だ。
妹は猫可愛がりし、僕はそんな妹に流されるように、猫を受け入れていく。
ぶつぶつ文句を言いながらも、結局は猫のいる生活に馴染んでしまう。
そう、人は慣れる生き物のはずだ。
今の僕には、頑なにそう信じるしかなかった。



僕と妹と猫

Written by Eiji Takashima

第六話@瓶詰め:震える指先




「お兄ちゃ〜ん、明日の朝ご飯はパンとご飯、どっちがいい?」

妹もそろそろ一日の仕事を終える頃。
明日の朝食の都合もあって、リビングでくつろぐ僕に訊いて来た。

「んー、どっちでも。お前に任せるよ」
「そうなの?」

妹がエプロンで手を拭きながらこっちにやって来た。
基本的にのんびりさんな妹だが、家事のことになると妙な細やかさを見せる。
今までずっと妹にやってもらってきたせいか、この辺がいい加減だと生活が立ち行かないからだろう。

「ま、どっちかって言えばご飯だけど、そんなにご飯気分でもないしなぁ」
「そうだね。お兄ちゃんは昔っからご飯党だし」

特に質問がない時は、朝ご飯は大抵パンでなくご飯だ。
ということは――

「もしかして、パンが食べたいとか?」

妹の考えを察してそう切り出してあげる。
でも、妹は笑いながら手を横に振って否定した。

「違うよぉ。まあ、いつもはそうかも知れないけど……」
「ん? じゃあ、今日は違うのか?」
「うん。実は今日ね、お友達にジャムをもらったんだ」

と言って、妹はどこからともなく瓶詰めを取り出して、僕に向かって差し出してくる。
どうやら準備万端だったらしい。

「へぇ、これを?」
「うん、だからちょっと試してみたいな〜って」
「なるほど」

つまり、パンを食べたいんじゃなく、ジャムの味見をするために、明日はパンにしたいということだ。

「手作りジャムで、普通に買えるやつじゃないらしいんだって」

平静にそう言いながらも、妹は興味津々だ。
僕にジャムの説明をしながらも、その視線はジャムの瓶に釘付けになっている。
そこは女の子の常と言うか、こういう甘いものは大好きらしい。
家事をしているせいか背伸びをしたがる妹だけど、こういうところは実に微笑ましかった。

「どれ、ちょっと貸してくれよ」
「あ、うん、いいよ」

妹からジャムの瓶を受け取る。
そしておもむろにその蓋に手をかけた。

「あっ、ちょっと待って、お兄ちゃん!」
「えっ?」
「蓋、勝手に開けないでよ〜」

妹は瓶の蓋を開けようとした僕を慌てて制止する。

「って、別に蓋くらいいいだろ?」
「でも、お兄ちゃんは蓋を開けたら絶対なめるでしょ?」

ご立腹の妹。
自分ではそこまで怒られる筋合いはないと思うが、そんな僕の思いは妹には通じないようだった。

「そ、そりゃまぁ……」
「ダメだよ、抜け駆けは。これはわたしがもらったお土産なんだから」

そう言って、僕から瓶を奪い返す。
妹は手の中に戻ったジャムの瓶を、まるで宝物か何かのように、さも大切そうに撫でていた。

「別に抜け駆けとかそういうつもりはなかったんだけどなぁ」
「当たり前だよ」
「でも、味見くらい、普通は先にしないか? しかもそこまで気になるなら特に」

僕がそう訊ねると、妹は大きく首を横に振って否定する。

「甘い、甘いよお兄ちゃんはっ!」
「……そうか?」
「そうだよ。ジャムは直接なめるためじゃなく、パンに塗ったり紅茶に入れたりするのに使うんだから」
「つまり、正しい使い方をしないと、その真価はわからないってことか?」
「そのとおり!」

妹は偉そうに胸を張って断言する。
そこまでのことかとも思うが、まあ、妹にとってはそうなんだろう。
僕と妹は男と女で性別の違いがある以上、全く理解できない生き物だということくらいは、僕も既に悟っている。

「わかったわかった。じゃあ、明日の朝はパンでいいから。それで試せばいいだろ?」

投げやりになって応える。
こういう態度は妹が嫌いだってこともわかっていたけれども、どうにもそうせざるをえない。
そもそも、これは僕の癖でもあるのだ。

「なーんかそういう言い方、嫌い」
「じゃあ、なんて言えばいいんだよ?」
「そんなの、わたしが教えちゃったら意味ないじゃない」
「そうか?」
「そうだよ。もうっ、お兄ちゃんってば無粋なんだから」

少しずつ、妹の機嫌が悪くなっていく。
しかし、ただの兄妹の語らいに、粋を求めるのは如何なものだろうか。

「悪いな、無粋で」
「ほんと、お兄ちゃんは気が利かないよ」
「反省するよ」
「反省したら、変わってくれるの?」
「……それはどうかな」

さっきと同じように、適当に返せばよかった。
むしろ、今日はそうするつもりだった。
でも、何故か適当な返事ができずに、僕は言葉を濁していた。

「……お兄ちゃん?」
「悪い、気にしないでくれ」

僕の態度が変わったことに気付き、妹も口調を改める。
しかし、僕はこれ以上の会話を求めずに、立ち上がって自分の部屋に戻ろうとした。

「ちょっとお兄ちゃん!」

反射的に、妹が僕の腕を掴む。
別に妹を振り切ろうとまでは思っていなかった僕は、物理的に静止させられた。

「明日はパンでいいから」

僕は妹に背を向けたまま、繰り返してそう言う。
今は、それくらいしか思いつけなかった。

「別に……わたしはパンにしたいなんて、一言も言ってないよ」

さっきとは裏腹に、妹はそんなことを言う。
反射的に、僕は妹に言い返した。

「じゃあ、ジャムはどうするんだ?」

ジャムはパンに塗るものだと言ったのは妹の方だ。
まさか、ご飯にかける訳でもあるまい。

「きっと、そのうちなくなるよ」

寂しそうで、そして少しだけ暖かい、そんな複雑な声。
でも、僕はその意味を理解することが出来た。

「いや、なくならない」

僕は否定する。
ジャムが勝手に減っていくなんて、もうないはずだった。

「ごめんね、お兄ちゃん……」

小さく妹が謝った。
そして、その手が離れる。
その瞬間、僕の身体は自由になるはずだった。

「どうして……どうして謝るんだよ?」

振り返るべきだった。
でも今、妹の顔を見てしまったら、どんな言葉をかけられるのか、僕には自信がなかった。

「お兄ちゃんは、勝手にジャムをなめたりしないもんね。だから……」

とっておきの、ジャムの瓶詰め。
妹はこういうのが好きで、よく旅行に行っては、手作りジャムをお土産に買ってきていた。

「……どうかな?」
「なめないよ、お兄ちゃんは。わたし、知ってるもん」

妹なりの強がり。
ありとあらゆる些細なことで、もう自分は平気なんだと僕に伝えようとしてくれる。
でも、僕はそんな妹を見るのが辛かった。

「なめた方がいいか?」

恐る恐る振り返る。
妹の瞳に、涙が浮かんでいないことを切望しながら。

「いらない」

妹は言い切った。
それ以上の説明はない。

「そっか」

僕も、それ以上のことは返さない。
それが、僕達のルールでもあった。

「……ごめんね、思い出させちゃって」

妹がそう言う。
まるで僕を慰めようとするかのように。

「バカ、気にするなよ」

僕に慰めなんて要らない。
そんな暇なんて、余裕なんて僕にはないはずだ。

「でも、お兄ちゃんはお父さんじゃないんだし……」
「言うな!」

あの日以来、妹の口から久し振りに聞いた「お父さん」という言葉。
それは妹が癒えた証なのかもしれない。
でも、そう断言できるほど、妹は単純な性格じゃないことを僕はよく知っていた。

「もう、気にしなくてもいいよ、お兄ちゃん。わたしだって、子供じゃないんだから」

まるで子供を諭すように妹が言った。
妹が子供じゃないことは、僕だってよく知ってる。
でも、妹はいつまでも、親父の娘であり、僕のたったひとりの妹なんだ。
そのことは、たとえ百年経っても変わったりはしない。

「ジャムはまた今度にしようね。きっと、その方がいいから」

淡々とそう言って、妹はジャムを手に立ち上がった。

「これ、仕舞ってくるよ。流しの上の、届きにくいところに」

親父はかなりの甘党で、しょっちゅう妹のジャムをくすねては、ウィスキーの肴になめていた。
ジャムが大量に減って初めて妹はそれに気付き、よく親父に怒っていたのが思い出される。
そんな時、妹がジャムを隠すのは、決まってそんな場所だった。

「待てよ」

今度は僕が妹をとめる。
手は出さなかったけど、妹はぴたりと足を止めた。

「どうして?」

妹は僕に背を向けたまま、聞き返した。

「ジャムは冷蔵庫に仕舞った方がいいぞ」

僕はさも当然のように言う。

「でも、まだ未開封だから平気だよ」

妹はそう応えると、そのままキッチンに向かおうとする。
だが、僕は妹の前面に回りこむと、その行く手を遮った。

「待てよ!」
「どいて、お兄ちゃん」
「貸せよ」
「あっ!」

妹の手から強引にジャムの瓶を奪い取った。
そして、力任せにその蓋を開ける。

「これで、未開封じゃなくなった」

妹に、その事実を告げる。

「お兄ちゃん……」
「冷蔵庫に、しまうぞ」

それだけしか言えない。
僕のエゴかもしれないけど、僕達は先に進むべきだった。

「ごめんな……」

冷蔵庫に向かいながら、呟くように妹に告げた。
謝るだけなんて簡単だけど、今の僕にはそれ以外にどうしていいのかわからない。
そして、最後にひとつだけ、訊ねる。

「ジャム、どうしたらいい?」

ジャムの瓶。
数え切れないほどある中の、たったひとつのエピソード。
思い出の全体量で見れば、占めるパーセンテージは限りなく低いだろう。

「お兄ちゃんは……どうしたらいいと思う?」

でも、思い出は確率の問題じゃなく、いくら小さなかけらであっても、その輝きは決して衰えたりはしない。
いや、むしろ小さくてささやかだからこそ、僕達はそれに涙してしまう。

「……ジャムは、パンに塗るものだろ?」
「うん、それと、紅茶に落としたりとか……」

通じる。
通じ合う。
だからこそ、僕達は兄妹なんだ。

「お兄ちゃん、ジャムの瓶、貸して」

妹が穏やかにそう言う。
僕は開けっ放しになっていた冷蔵庫から、仕舞ったばかりの瓶を取り出して妹に差し出した。

「どうするんだ?」
「うん、もう開封済みだもんね」

そう言って、さっきとは裏腹にあっさりと瓶の蓋を開ける。

「ほら、お兄ちゃん」

妹の左手にはジャムの瓶。
そして、右手には瓶の蓋があった。

「味見、してもいいよ」

妹は蓋の方を、僕に向かって差し出した。

「別に、味見なんてしなくても……」
「お兄ちゃんに、して欲しいの。それに……」

妹はそこで一拍置く。
そして改まった口調で、僕に求めた。

「それに、こっちは蓋だから。蓋についたのなら、わたしは怒らないよ」

妹は笑っていた。
それだけで、僕の不安は拭い去られる。

「いいのか?」
「もう、そんな迷うことじゃないよ〜」

躊躇する僕に埒があかないと思ったのか、妹はそう言いながら瓶の蓋を自分の方に持ってくると、いきなりぺろりとジャムを直接なめた。

「お、おいっ」
「ほら、こんな風にして。ねっ?」

妹は、同じように僕にも促す。
目の前には、ちょっぴりジャムのついた、瓶の蓋があった。

「……そうだな」

舌を出して、蓋についたジャムをなめる。
何のジャムだかわからなかったそれは、初めて僕にアプリコットの香りを運んでくれた。

「えへへ、これで共犯だよ、お兄ちゃん」

僕がなめたのを確認すると、妹は嬉しそうにそう言った。

「共犯って……僕とお前しかいないだろ」
「えー、お兄ちゃんとわたしだけじゃないよ〜」
「そうか?」
「うん、ほら、しーちゃんがいるじゃない!」

そう言って、妹は丸くなって眠る猫を指差す。

「そうだな、うちにはあいつがいたっけ……」
「もう、忘れちゃかわいそうだよ、お兄ちゃん」

妹は僕を軽くたしなめる。
でも、いつもより口調も穏やかだった。

「じゃあ、二人でジャムをなめたことは、椎茸には秘密な?」
「そうだねっ、お兄ちゃん」

これなら確かに共犯だ。
まるでかつての僕と親父の関係のように。
無論、妹はそのことを知らない。
言葉通り、僕と親父だけの秘密だった。

「でも、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「ジャムをなめるのって、結構いいもんだね」

笑って言う。
あの親父あっての、この妹らしい。
少しだけ、妹の姿が、あの夜の親父に重なって見えた。

「そうだな」
「うん、だからこれは……」
「ん?」
「しーちゃんには内緒の、お兄ちゃんとわたしだけの、ジャムの瓶だよ」

妹の両手には、ジャムの瓶が大事そうに握られていた。
やっぱり妹にとっては、思い出は忘れるべきものじゃなく、むしろ大事に守り行くべきものなんだ。

「そうだな」
「だからお兄ちゃん」
「うん?」
「瓶からジャムをなめる時は、ちゃんとわたしにひとこと言ってからじゃないとダメだよ」

妹はそう言いながらくすくすと笑っていた。

「って、結局僕に釘を刺しただけとか?」
「やだなぁ、そんなんじゃないよ」
「本当か?」

妹のことをジロリと見やる。
ようやくいつものモードに戻りかける兆しが感じられた。

「本当だって」
「本当に、僕が勝手にジャムをなめないって信じられるのか?」

いつものように言い返す。
それは、いつもと同じ、軽口のはずだった。

「信じられるよ、お兄ちゃん……」

でも、僕は迂闊だった。
少なくとも、もっと考えて発言すべきだった。

「お兄ちゃんが信じろって言ってくれた時は、いつも正しかったから。だからわたしは、お兄ちゃんを信じる」

信じるという言葉。
あまりに重い言葉。
僕はいったい今までに、何度妹にその言葉を突きつけたのだろうか。

「いつもありがとう、お兄ちゃん。ジャムは、二人で一緒になめようね」

僕が強く妹に信じろと言い聞かせる度、妹は僕に裏切られ続けてきた。
それでも尚、妹は僕を信じると言う。

「それで……それでいいんだよ、お兄ちゃん……」

嘘に塗り固められた言葉。
それはジャムのように甘いかもしれない。
ジャムをなめるように傷をなめ合って、そして僕達はどこに辿り着けるんだろう。

(……ごめんね)

小さく唇が動いた。
声帯は震えていない。
でも、僕には確かにそう届いた。

妹の手に抱えられたジャムの瓶。
その、指先の震えが、僕の胸には痛かった。


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