じめじめとする、とある日の午後。
クーラーのないリビングは、全てが湿気っぽくて嫌な気分だった。
傍らでは、妹が猫とじゃれ合っている。
猫がうちにやってきて以来、疎外感ばかりが募っていく。

「親父が猫を飼わせなかったのも、ちょっと頷けるかな……」

僕がリビングにいるのは、そこに妹がいるから。
でも、これでは全く意味がない。
僕は重い腰を上げ、リビングを後にした。



僕と妹と猫

Written by Eiji Takashima

第四話@スマイル:偽りだらけの僕達




「あっ、お兄ちゃんおでかけ?」

リビングを出てすぐ、猫と遊ぶのに夢中だったはずの妹が、僕を追いかけてきた。

「そうだけど、それが?」

気のなさそうに返事をする。
実際、僕は少し苛立っていた。

「あ、うん。どこに行くのかなーって」

興味津々の妹。
好奇心だけは昔から人一倍だった。

「ただの散歩だよ。ちょっとした気晴らし。ちょうど雨も降ってないみたいだしな」

夕方も近づいて、リビングの大きな窓からも、雲間から覗く夕焼けが確認できていた。
雨上がりの空気は澄んでいて、きっと僕を落ち着かせてくれるだろう。

「そうなんだぁ〜」

妹は僕の気持ちなど知らない。
ただ、無邪気に笑っているだけ。
そんなところもまた、猫に似ている。

「猫のこと、かまってやれよ。学校の間はあいつ、ひとりぼっちなんだろ?」

僕と妹が学校に行っている間、猫は家でお留守番だ。
だからこそ、その憂さを晴らさんばかりに、妹は家に帰ってきてからはほとんど猫と一緒にいる。

「うん、でももう十分遊んであげたから」

妹はそう言う。
その口調が何故か癪に障った。

「……僕は、猫じゃないぞ」

それだけ言うと、僕はくるりと妹に背を向けた。
同情を受けるのはごめんだ。
僕は別に、独りでだって散歩くらい出来る。
妹とずっと一緒じゃなくたって――

にゃおん♪

「え?」

背後から変な鳴き声。
振り向くと、そこには拳をグーにして猫のポーズを取る、妹の姿があった。

「……何してんだ、お前?」

白い目で見る。
僕のつれないリアクションに慌てたものの、妹は猫の真似をやめることなく、僕に向かって言った。

「ねこさんだよ〜。にゃお〜」

まあ、妹は猫っぽいところがある。
むしろ、今うちで飼っているあいつよりもずっと猫らしい。

「あいつの真似か?」

僕は妹に乗らずに訊ねる。
すると妹は僕に猫ぱんちをしながら、質問に答えた。

「違うよ、お兄ちゃん。あの子の真似じゃなくて、普通にねこさんの真似だよぉ」
「どう違うんだ?」

あいつは猫だ。
だからあいつの真似は、猫の真似だ。
なのに、どう違うって言うんだろう。

「わたし、わかってるから」
「は?」
「だから、お兄ちゃんがねこさんじゃないって」
「……どういう意味だ?」
「わたしはね、お兄ちゃんをねこさんにするつもりはないよ。反対に、わたしの方がお兄ちゃんのねこさんかな〜って」

そう言って、またにゃおんと鳴いてみせる。
どうやら妹は、自分が僕の猫だと言いたいらしい。
でも、その意図がイマイチ掴み切れなかった。

「お前が僕の猫だとして、どうなるって言うんだ?」
「お散歩、連れてって欲しいな〜」
「猫は散歩しないぞ」

そう素っ気無く返す。
妹が甘えてきても、同情されているとしか思えない。

「でも、ねこさんはね、ご主人さまとくっついていたいものなんだよ」

妹はそう言って、僕の腕を取る。

「不機嫌な時にはご機嫌取りもするの。ご主人さまがご機嫌ナナメだと、ごはんもおいしくないもんね」

僕の腕にしがみつく妹。
妹が猫ばかり構って、僕はそれに嫉妬して。
妹の行為は確かに同情かもしれないけど、それ以上に妹に迷惑をかけていたのは事実だった。

「……そうだな。ご飯はおいしく食べないと」

斜め下の妹。
ちょうど僕を見上げている。

「にゃお〜。今日のごはんはかつおぶしごはんかにゃ?」

妹は笑いながら、まだ猫の真似をしていた。

「お前、まだそれ続けるのか?」

僕も笑って問い掛ける。
苛立ちは、いつのまにか消えてなくなっていた。

「当たり前だにゃん。わたしはお兄ちゃんのねこさんなんだからっ」

そう言って、ぐりぐりと頬擦りしてくる。
呆れながらも、僕はそんな妹が嬉しかった。

「じゃあ、一緒に散歩行くか?」

しがみつかれたまま、妹を誘う。

「にゃん♪」

そんな妹の返事は、意味を為さない甘い鳴き声だった。
僕は擦り寄ってくる妹を引き連れて、そのまま家を出ようとする。
が、急に僕の中で悪戯心がむくむくと膨れ上がってきた。

「それより気になるんだけど……」
「にゃん?」
「猫なのに、靴、はくのか?」

玄関で靴を履こうとする妹。
そんな妹に、僕は待ったをかけた。

「にゃぁーっ!!」

僕の意地悪な言葉に、妹は大きく悲鳴をあげる。

「って、冗談だって。そんな大声出さなくても――」

慌ててフォローを入れる。
しかし、それは当の妹によって遮られた。

「だっことおんぶ、どっちがいいかにゃ?」
「は?」
「だから、だっことおんぶ。靴がダメならどっちかだよ、お兄ちゃん」

……形勢逆転。
妹に意地悪をしようとしたバチが当たったと言うべきか。
さっきとは正反対に、妹はにんまりと笑みを浮かべ、僕はぽかんと大口を開けていた。

「ね、猫の真似はやめにしないか?」
「真似じゃないにゃん。わたしは正真正銘、お兄ちゃんの飼い猫だにゃん」
「ぼ、僕が悪かったから。なっ?」

助けを請う。
こうなっては兄としての体面も何もお構いなしだ。

「だっこ」
「は?」
「だっこがいい」
「だっこって……」
「それとも、背中に胸の当たるおんぶの方がいいかにゃ?」
「ってー!!」

なんて残酷な妹だ。
僕はこの瞬間、痛切にそう思った。

「さぁ、お散歩にれっつごー!!」

こうなっては仕方ない。
僕は玄関のドアを開け、妹の背中に腕を回す。

「……抱くぞ」

口にしてあまりいい言葉じゃない。
僕は少し口篭もりながら、妹を膝の裏側からそっと持ち上げようとした。

「んっ」

小さく鼻を鳴らして、体重を僕に委ねる。
妹もこの時だけは、猫の真似が抜け、本来の自分に戻っていた。

「くっ……これで……どうだ?」

妹をお姫さまだっこで抱き上げ、腕の中に確認を取った。

「うん、だっこってこんなんだったんだぁ……」

どうやら感動しているらしい。
浸っている様子が、その声に感じ取れた。

「お前をだっこしたのなんて、もうだいぶ前の話だからな」

妹が小学校にあがる前の話。
本当に、随分と昔の話だ。

「わたしも、お兄ちゃんにだっこされるの、久し振りかも……」

そう言って、妹はぎゅっと僕の服を掴む。
妹はいつも、寂しくなると僕の服を掴んで離さなかった。

「たまには、こうされたいか?」

猫みたいな、僕の妹。
独りでいるのが耐えられなくて、いつもその手は誰かを探している。
きっとそんな妹だからこそ、僕の些細な嫉妬に気付いてくれたのかもしれない。

「うん、こういうのもいいかもね」

ぎゅっと掴んだ服を引っ張る。
僕の服は、そうやって所々伸ばされた跡があった。

「そうだな……」

ドアを開け放って、玄関先で妹を抱きかかえて。
僕達の時は、今だけ止まっていた。
そのことに気付いて、僕は歯車を回し始める。

「それよりもう、猫はおしまいなのか?」
「えっ?」
「お前、僕の猫なんだろ?」

意地悪い台詞。
でも、出来るだけ優しく、そう感じさせないように言った。

「そうだよ。わたしはいつだって、お兄ちゃんのねこさんだから……」
「しかも、やんちゃな仔猫なっ」
「あー、そういうこと言う?」

妹が僕の腕の中でぷぅーっと膨れる。
僕はその膨らんだほっぺたを指先でつつくと、笑いながら言ってやった。

「もう少し大きくなってくれないと困るな。でないと――」
「おっきくならなくてもいいよ」

妹が、そう言う。
笑顔でもなく、悲しい顔でもなく、どこかで見た憶えのある、透明な表情で。

「これ以上おっきくなると、お兄ちゃん、わたしのこと、だっこ出来ないでしょ?」

笑う。
ただ、音もなく笑っていた。

「ほら、お兄ちゃんの腕、震え始めてる……」

妹はそう言って、そっと僕の腕に触れた。
妹の身体の重さは感じていたが、まだ震えだすほどの時間は経っていない。
でも、妹は自分の体重を支える僕の腕を、静かに撫でていた。

「ごめんね、お兄ちゃん。わたし、重くって」

苦笑い。
これもまた、妹の覚えた笑いだ。
妹が笑うたび、僕は自分に科せられた重さを強く感じていた。

「……そんな顔で笑うなよ」

責めないように、傷つけないように。
もう既に、妹は十分傷ついている。

「お兄ちゃんはわたしが笑うの、嫌い?」

そう訊いた時、妹は初めて笑うのをやめた。
瞬間、僕はほっとさせられる。

「お前のそういう笑いはな」

笑う妹は嫌いじゃない。
むしろ妹の笑顔は大好きだった。
でも、僕は――

「じゃあ、どんな笑いがいいの?」

妹は、僕が笑えと言えば、きっと笑ってくれるだろう。
それこそ、どんなタイプの笑いでも。
でも、僕が見たいのは、そんな笑顔じゃなかった。

「そうだな……」

少し考えるポーズを見せて、妹を下に降ろす。

「お兄ちゃん?」

首を傾げる妹。
僕がこの妹に出来ることなんて、こんなことくらいだった。

「きゃっ!!」

いきなり妹に手を伸ばす。
その先は、脇の下だ。

「食らえ、くすぐり攻撃!」

大声で宣言して、手をわきわきさせる。
妹はいきなりの仕打ちに、身体をくねくねとよじらせた。

「きゃっ、やっ、やめてよっ、お兄ちゃん!」
「僕が見たいのは、お前がくすぐられてる時の笑いだぁ〜」

そう言いながら、僕は妹をくすぐり倒す。
小さい頃からのバトルのおかげで、妹のウィークポイントは承知済みだ。

「あはっ、あははははっ! く、くすぐったいよぉ、お兄ちゃぁ〜ん」

妹は弱点をつかれて、半泣きになりながら僕のくすぐりを受けていた。
僕は容赦せず、妹を攻め続ける。

「そうだ、その笑いだ〜、いいぞ〜」

僕も妹とは別の笑いを見せる。
今までもやもやとしていたものが、吹っ切れたような笑いだった。

「も、もう、お兄ちゃんがそうならこっちだって!」

遅ればせながら、妹も反撃開始。
僕はその手をブロックしながら、更に妹をくすぐろうとする。

「えいっ!」

猫のような妹。
自分から僕の猫だと言い張る妹。
そんな妹に僕がしてやれることは、こうしてじゃれて遊んであげるだけなんだろうか。

玄関も開けっ放しなのに、板の間にごろごろと転がって、くすぐり合う僕達。
しばらくして、両方とも力尽きて、ごろんと仰向けになった。

「ふふっ、ふふふっ」

妹が笑う。
僕は身体をひねって、その顔を見てみた。

「どうした、そんな風に笑って?」

ただ、笑っている。
何がおかしいのか、妹はただ笑っていた。

「だ、だって、こんな風にお兄ちゃんとくすぐりっこするの、久し振りだったから」

笑う理由になっていない。
僕は笑う妹をぽかんと見ていた。

「お兄ちゃんは、笑わないの?」

ようやく笑いやみそうな妹が、息を切らせながら僕に訊いた。

「僕? 結構笑ってるだろ?」

何を今頃、と言った感じ。
でも、妹には全く通じなかった。

「笑ってないよ、お兄ちゃんは。ぜんぜんね」

妹は笑うのをやめた。
もう、少しも笑っていない。

「お前、それって……」

がらりと態度を変えた妹。
僕はその意味に、まだ気付けずにいる。

「笑ってよ。もっと、昔みたいに」

そう言って、にこっと笑ってくれる。
何だか懐かしいような、妹の笑顔だった。

「ほらっ、スマイルだよ、お兄ちゃん!」

微笑みながら、妹は僕の頬に両手を当てた。
そして何を思ったのか、ぐにぐにと動かす。

「お、おい、そんな無理に笑わせようとしたって……」

慌ててやめさせようとする。
でも、妹はやめない。

「笑おうとしなきゃ、笑わせるようにしなきゃ。そうじゃないと、きっといつまでも笑えないよ」

妹は真剣だった。
僕はそんな妹に、魅入られたように視線を奪われる。

「そう……お兄ちゃんがずっとずっと、わたしにしてくれたようにね」

そっと両手に包み込まれる。
僕はただ、その言葉の意味を反芻していた。

「笑おうよ、お兄ちゃん。ほら、ねこさんみたいに……」

僕の妹。
僕の、猫みたいな妹。
僕には猫の真似なんて無理だけど、でも――

「わかったよ。あいつみたいに、だろ……」

猫の真似は無理だ。
でも、猫みたいな、僕の妹みたいにだったら――

「うん、そうだよ、お兄ちゃん」

妹が笑う。
そして、僕も笑っている。
僕の笑顔は、妹の真似。
でも、こうして笑っていればいつの日か。
偽りだらけの僕達も、本当に笑える日が来るのかもしれない。


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