重ねていく日常。
繰り返される日々。
ただ、漠然と時だけが過ぎてゆく。
僕と、妹と、そして妹の猫と。
そんな不思議な三角関係が、今はただ心地いい。



僕と妹と猫

Written by Eiji Takashima

第三話@キス:マーブル模様




にゃあ〜♪

暢気な鳴き声が聴こえる。
あれはきっと、お腹いっぱいになった時のまったり鳴きだ。
嫌だ嫌だと言いながらも、鳴き声でどんな状態かわかってしまう自分が恨めしい。

「はぁ……」

妹はちゃんと世話をしている。
日頃は甘いくせに、猫に対しては甘やかすだけじゃなく、きちんと厳しくしつけもしているようだった。

「ほらほらお兄ちゃんっ」

僕のため息に気付かなかったのか、猫を指差しながら呼びかけてくる。

「どうした?」
「かわいいねぇ〜。ほら、おねむだよ」

目をとろんとさせて甘い声を出している。
ただ食後の昼寝をするだけの猫に、そこまでめろめろになれるのは、ある意味大したものだ。

「そうだな。寝るんだから、しばらく放っておけよ」
「うん、わかってる」

わかってると言いながらも、妹は猫から視線を外さない。
むしろ、凝視しながらじわじわとにじり寄って行った。

「おい、いい加減にやめとけよ。猫が起きるだろ」
「うん……わかってる。起こさないように、うんと気をつけるから」

抜き足差し足。
というよりも、半ば匍匐前進だ。
妹は猫までの短い距離を、身を伏せながら縮めていく。

「ったく……」

朝から晩まで妹はこの調子だ。
ちゃんと家のことはやっているから、僕も強くは言えないけれど、それにしてもあんまりな熱の入れようだった。

「うわぁ〜」

どうやら妹は、猫を起こさずに接近できたようだ。
仔猫の小さい顔と鼻先がくっつくくらいに近づいて、至近距離で観察している。
息を殺しながらも、歓声を上げてしまうところが妹らしい。

「ふふっ、息が届いてるよぉ」

妹はご満悦だ。
別にこの猫は妹を嫌ってるでもなく、好きに触らせてくれるけれど、ここまで顔を近づけるのはそうそうない。

「おい、引っかかれないように気をつけろよ」
「平気だよ、お兄ちゃん」

仔猫とは言え牙も爪もある獣だ。
妹のぷにぷにほっぺに傷でもつけられたらたまったもんじゃない。
特に妹はどこか抜けたところがあるから、僕も気が気じゃなかった。

「平気ってもなぁ……」

呆れ半分、心配半分で、僕は妹の動向を横目で窺っていた。
そんな僕の心配をよそに、妹は猫の間近で変な歌を唄っている。

「うにゃうにゃにゃ〜♪」

どうやら猫の鳴き声の真似をしているようだ。
猫がやるならともかく、人間様がやるとなると、妙に間抜けに見える。

「……ま、猫みたいな奴だけどな」

ぼそりと呟いてみる。
確かに妹は落ち着きのないところが猫そっくりだ。

「うにゃ? お兄ちゃん何か言った?」

まだ半分猫のままで訊き返してくる。

「いや、なーんも」

ここは否定する。
すると妹は這ってこっちに詰め寄ってきた。

「お兄ちゃん、嘘でしょ」

上目遣いで僕を睨みつける。
妹の睨みなどたかが知れているが、それでもあまり気持ちのいいもんじゃない。

「何か聴こえたのか?」
「うん、聴こえたっ」
「じゃあ、何て聴こえたんだ?」
「それがわからないから、こうして訊いてるんじゃないのぉ〜」

妹はようやく完全に人間に戻ったようだ。
僕はこのリアクションを楽しみながら、妹の意識を猫に戻そうとして言う。

「それより、うるさくすると猫が目を覚ますぞ」
「あっ」

妹は両手で自分の口を押さえる。
ただ黙ればいいのだが、そこで敢えて手を使うのが何とも妹らしい。

「ほら、寝てるとこ、見たいんだろ?」

僕がそう促すと、手を当てたままこくこくと首を縦に振った。
更に手を外さずに、また猫のところに戻っていく。

「なんだかなぁ」

そして再び、妹は猫の虜になる。
こんな獣のどこがいいんだか僕には理解できなかったが、猫とセットになった妹はどことなくいつもより楽しそうだ。
少なくともその点だけは、この猫に価値を見出していた。

「わぁ〜」

息を殺しながら、妹が猫を見守る。
この至近距離でじっくり観察できるのは寝ている時だけだから、特に気合が入ると言うものだ。

「ふにゃふにゃだよぉ〜」

猫に合わせて妹も頬を緩ませてふにゃふにゃしている。
でも、僕は知っていた。
こうふにゃふにゃしている時、猫は眠りが浅いと言う証拠なのだ。

「わっ、お、起きちゃった!?」

案の定、妹がうるさくしていたせいで猫が目を覚ました。
でも、妹は驚きながらも、まだ退かずに猫を観察し続ける。

「ま、すぐ逃げるだろうな」

じっくり見られて気持ちのいいもんじゃない。
猫はいつものようにささっと妹から飛び退るはずだった。
しかし――

ふにゃあ〜っ

「きゃっ!!」

妹が短い悲鳴をあげる。
猫は逃げるのではなく、反対に妹の顔面に飛び掛ってしまった。

「おいっ!」

僕は慌てて距離を詰める。
そしてすぐさま妹から猫を引き剥がすと、顔に傷がついていないかどうか確かめた。

「平気かっ? 引っかかれてないか!?」

見たところ、特に外傷はない。
が、妹は驚きだけではない、微妙な表情をしていた。

「ふ、ふえ〜、お兄ちゃ〜ん」

妹はそのまま僕の胸に飛び込んでくる。
僕は妹をなだめながら、話を聞いてやることにした。

「おい、どうしたんだ? 何かあったのか?」
「う、うん、別に怪我とかはしなかったんだけど、でもぉ……」

妹は顔を上げ、言葉を濁す。

「どうした?」
「び、びっくりしたのと、そのぉ……」

どうにもはっきりしない。
僕は妹の背中を撫でながら、じっと続きを待った。

「んとね……は、はじめてだったの……」
「はぁ?」
「だ、だからもうっ、はじめてだったんだからぁっ!」

急に逆ギレする妹。
僕には何がなんだかさっぱりだ。

「は、はじめてって、だから何が初めてなんだよ?」
「…………」
「なに?」
「……キス」
「はぁ?」
「だから、ファーストキス、ねこさんに奪われちゃったのぉっ!!」

どーんと僕の胸を叩く。
確かにそれは衝撃だったが、妹の台詞はそれ以上の衝撃を僕に与えていた。

「つ、つまりなんだ、その……お前は今さっき、猫にキスされたのか?」
「……うん」

妹はこくりと頷く。
そのむすっとした顔は、さっきまでのとろとろな表情とは大違いだった。

「で、それがお前のファーストキスだった、と?」
「うん……」

猫のキスなんて言うが、まあ、単に舐められただけだろう。
でも、それは男の単純な理論で、妹の乙女回路にはそれだけでは済まされない重大事のようだった。

「ねこさんは悪くないんだろうけど、でもぉ……」
「そうだな……」

しょぼんとする妹の背中をぽんぽんと叩いてやる。
すると妹も落ち着いたのか、そっと僕の胸に顔を伏せた。

「ごめんな……」

それだけしか、僕にはかけてやる言葉がなかった。
でも、妹だって、何を言われても起きてしまったことは戻らないことを知っている。
今はただ、こうして行き場のないぼんやりした感情を受け止めてやるだけだった。

「セカンドキスは、絶対に好きな人とするんだぞ。いいな?」
「うん、お兄ちゃん」

兄らしく、励ましてあげる。
妹も少しだけ照れくさく、それ以上に嬉しいのか、僕の胸に顔を埋めたまま、ぐりぐりと動物のように擦り付けてきた。

「そうだな、僕のシャツでいくらでも拭いていいから」

猫のキスを拭う。
でも、それは口実。
口実を与えられて、妹はぎゅっと僕を抱いたまま、顔をすり寄せ続けた。

「それと……」
「うん?」
「猫のこと、許してやれよ……」

兄として、妹に猫は必要だった。
親父には、僕がなればいい。
じゃあ、僕の代わりは……今のところ、その役目を担えるのは、あの小さい仔猫しかいない。

「うんっ!」

妹がようやく顔を上げて、僕に大きく頷いて見せた。
そして喜びの勢いに任せて、妹は僕に向かって訴えかける。

「それとお兄ちゃん」
「何だ?」
「お兄ちゃんもねこさんのこと、許してやって」
「えっ?」
「ねこさんは、なんにも悪くないから。ねっ?」

少しだけ媚びるように、妹は甘えた顔を見せた。
別に僕は猫をそういう風には悪く思っていない。
でも、妹にとっては、そうじゃないようだった。

「わかったよ、あいつのことは、許すことにする」

別に特別な感情があったわけでもないのに、こうして「許す」と言うと、何だか悔しくなってくる。
そんな感情がむくむくと沸いてきて、結局僕は苦々しげな表情をしていた。

「ありがと、お兄ちゃん」

僕の許しを得て、妹は喜びを露にする。
両手でぎゅっと僕の手を握り締めて、嬉しそうに微笑んでいた。

「それとね……」
「なんだ?」
「ねこさんの保護者として、ねこさんに代わって、ごめんなさい」

妹は僕の手を掴んだまま、ぺこりと頭を下げる。
さっきのは妹として。そして今のは猫の保護者としてらしい。

「でね……」

妹は顔を上げて、ちょっと照れくさそうにして、そして――

「許してくれたやさしいお兄ちゃんに、これがお礼っ!!」

ぺろっ!

妹は僕を逃げられないようにして、いきなり鼻先をぺろりと舐めてきた。

「うわっ!!」

僕はびっくりしてそのまま後ろにひっくり返る。
その衝撃でも妹は僕の手を離さなかったせいで、僕に引っ張られて上にかぶさるように倒れこんできた。

「どう、びっくりした?」

妹は僕に馬乗りになって、にこにこ笑っている。

「び、びっくりしたってお前、そんないきなり舐められたら……」
「びっくりするよね?」
「当たり前だろ。ったく」

妹に文句を言う。
でも、上に乗られているせいで、言葉に重みはなかった。

「あと、ひとつだけ訊きたいんだけど……」
「な、なんだよ?」
「お兄ちゃんってさぁ……」
「うん?」
「キス、したことある?」

少しずつ、妹の顔が赤く染まっていく。
しかもそれだけでなく、どうもその状況を妹なりに楽しんでいるとしか思えないから、また複雑な心境だ。

「そ、それはその……」
「確かお兄ちゃん、彼女さんっていなかったよね?」
「あ、ああ……別にいいだろ、そんなことどうだって」

むすっとして妹に言い返す。
しかし、妹はそんな僕の些細な不機嫌など、全く無視してそのまま続けた。

「それよりキス。したことないんだよね?」
「ああ……」
「よかった。じゃあ――」

と言ったかと思うと、妹は音もなく身体を前に倒してきた。
仰向けになっていた僕の唇と、妹の唇がそっと触れ合う。
そしてそのやわらかさを感じるか否かのところで、妹はまたするっと身体を起こした。

「へへっ、お兄ちゃんのファーストキス、奪っちゃった〜」

してやったりと言った顔で、にへらっとしている。
僕は一瞬言葉を失ったが、慌てて妹に怒鳴った。

「お、おいっ、どういうつもりなんだよっ!?」

いい加減乗られっぱなしでは叱ることも出来ない。
僕は腹筋を使って上体を起こした。

「あ……」

それは少し、考えなしだったかもしれない。
身体を起こしたことによって、僕と妹の顔がまた急接近した。

「…………」
「お、おい……」
「わたしばっかりじゃ、不公平だもん」

うろたえる僕とは対照的に、妹は開き直ったようにそう言う。

「不公平?」
「うん、わたしがファーストキス奪われたのに、お兄ちゃんだけ大事に守ってるなんてさぁ……」
「お前なぁ……」

きっと、それはいつもの妹らしい、ただの衝動でしかないんだろう。
でも、そう言って、またキスが出来るくらいに近づいて、妹はそれがどういうことか、ようやく理解し始めた。

「うん、ちょっと恥ずかしいよね……」

照れて妹が言う。
実に今更な台詞だ。

「恥ずかしいってなぁ、お前、さっきセカンドキスは好きな人としろって言っただろ?」
「あっ、言われてみれば」

自分の失態に気付かされて、妹は気まずそうな表情を浮かべた。

「ごめんね、お兄ちゃん。せっかくお兄ちゃんが、わたしのことを想って言ってくれたのに……」
「そうだな。お前は馬鹿だよ……」

ちょっと抜けた妹。
でも、そこが愛らしい。
僕はもう、この目の前にいる妹を叱る気になれなかった。

「じゃあ、サードキスは……お兄ちゃんの言う通り、ちゃんと好きな人とするね……」
「忘れるなよ。お前はすぐ、大事なことを忘れるから……」

忘れっぽい妹。
こっちが念を押しても、すぐに忘れてしまう。
そんな妹のことを、都合のいい相手だと思ったこともあった。

「そうだね……」

でも、肝心なことは、いつもしっかり憶えている。
忘れさせたくても、そう強く願っても、妹は忘れてくれなかった。

「絶対だぞ。いいな?」

絶対にといつも念を押す。
その度に、妹はいつも笑って頷いてくれた。
忘れるなと言った時も、忘れるんだと言った時も。

「でもね、お兄ちゃん」

変わらない笑顔。
そう、あの日から少しも変わらない。

「何だ?」

でも、僕はそんな妹の笑顔を見る度、悲しい気持ちにさせられる。
こういう笑顔の妹は、いつだって――

「お兄ちゃんだけが、セカンドキスを守ってるなんて、ずるいと思わない?」

小さく笑って言う。
僕はそんな妹に、返してやれる言葉がなかった。

「……冗談だよ、お兄ちゃん」

悲しみに彩られた微笑み。
繰り返す度、僕達はより色濃く染められていく。
不確かな、うねうねと流れるマーブル模様。
それが何色になるのか、僕にも妹にも少しもわからない。
でも、その濃さは明らかに、増して行くのだった。


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