雲間から覗く太陽。 じりじりとした陽射しは、初夏を過ぎ、真夏の兆しを感じさせていた。 梅雨の合間の晴れ模様は、心までウキウキさせてくれる。 物干し竿にかかったシーツの白が、濡れた芝生の緑に光って眩しかった。 「さてとっ」 休日でも、妹は忙しく働いている。 雨降りでたまった洗濯物を片付けるので精一杯だ。 「僕も何か手伝うかな」 家族の一員として、そして、妹に自慢してもらえるような兄として。 梅雨の合間の日曜日。 いつもと違う太陽は、ほんのちょっと、僕をいつもと違う僕に変えてくれた。 僕と妹と猫Written by Eiji Takashima
第二話@目玉焼き:3つの卵 「ふんふんふふ〜んっ♪」 キッチンの一角では気色悪い鼻歌が響いている。 これはもちろん僕の鼻歌だが、そんなことはどうでもいい。 気色よかろうと悪かろうと、人には鼻歌を歌いたくなる時もあるのだ。 「ベーコンと卵3つとっ」 僕は男の癖に料理好きだ。 別に妹の作るご飯に不満があったからとかそういう悲しい理由があるわけでもなく、単に気がついたら好きだったというだけだ。 まあ、親父がいない時も多かったから、小さかった頃は兄と妹、二人して色々冒険したこともある。 その辺の協力して料理をしたという楽しかった経験が、僕の料理好きの原点なのかもしれない。 「たまには作ってやるのも面白いよな」 洗濯に忙しい妹。 きっと昼飯のことまで頭が回っていないだろう。 そこで僕がご飯を用意してやれば、びっくりして喜んでくれるはず。 それにキッチンだけはあのいまいましい猫も不可侵だ。 視界の隅っこでちょろちょろされる心配もないから好都合だった。 簡単なレタスのサラダと、ちょっとお洒落にコンソメスープなんか用意して。 メインディッシュはただのベーコンエッグ。 本当に簡素な普通の軽食だけど、ちょっとした気配りの範疇なら、このくらいが適当に思えた。 「うしっ、できたっ!」 久し振りに差し込んでくる陽射し。 キッチンはいつもより明るく暖かい。 テーブルの上には淡いグリーンのランチョンマットがお揃いで並べられていた。 その上には出来たての昼食。 誰がどう見ても、穏やかな日常のワンシーンだった。 「うわぁ、お兄ちゃん、これどうしたの?」 洗濯を終えてリビングにやってきた妹が、綺麗に並べられたお皿を見て歓声をあげた。 「いや、腹も減ったしな。たまには僕が作ってもいいかなーなんて思って」 妹のために、なんてことは決しておくびにも出さない。 でも、見破られそうなのが照れくさくて、さり気に視線を外した。 「すっごくおいしそうだよ。ほら、このコンソメスープとかっ」 カップの中のコンソメスープ。 まあ、インスタントじゃないのだけが唯一誇れるところだ。 その辺をきちんと見抜いてくれるところが嬉しい。 「でも、市販のコンソメ入れただけだぞ」 「でもでもっ、たまねぎのみじん切りとパセリが入ってるじゃない!」 「あと、トマトもな」 「ほらぁ〜」 それみたことかと言わんばかりの妹。 この十数年の間で、僕が一緒にいた時間が長いのはこの妹だし、一番会話した量が多いのも妹だ。 きっと、妹も全く同じだろう。 そういう意味では、こっちの意図くらいわかって当然だった。 でも、お互いの気遣いは口にしない。 それが野暮だってことは、僕と妹の共通認識だった。 「それよりパンとご飯、どっちにする?」 話を変えて妹に訊ねる。 流石にご飯を炊き直すとまではいかないけれど、朝の分が残っていたのでパンもご飯もどっちもオッケーだ。 「うーん、どっちにしようかなぁ〜?」 「ちなみにご飯は今朝の残り。パンはいつも食ってる奴だな」 「そうだねぇ……」 妹はうんうん考え込んでいる。 こう、どうでもいいことに悩むのは、妹の特徴と言うよりも、女の子全体に言えることなんだろう。 でも、同じ女の子の悩み方でも、クラスメイトの子のよりも、妹の方が何となく可愛い。 これは贔屓目なのかもしれないけど、少なくともこんな妹が僕には可愛らしく映っていた。 「そうそう、お兄ちゃんはどっちなの?」 「うん?」 「だから、ご飯とパン。お兄ちゃんはご飯派だったよね?」 妹の指摘通り、僕はご飯派だ。 でも、だからと言ってパンを食べないわけでもなく、その時々で分けていた。 「どっちでもいいけど……ご飯を片付けちゃいたいから、今日はご飯かなぁ?」 「なるほど。釜にどのくらい残ってたっけ?」 妹はトタトタと炊飯ジャーの中身を確認しに行く。 かぱっと開けて、そしてこっちを振り向いて訊ねてきた。 「お兄ちゃん、お代わりするー?」 つまり、僕がお代わりすれば、妹の分のご飯はなくなるという寸法だ。 「お前次第だなー」 「えっ、どういうこと?」 「お前がご飯を食いたいならお代わりしないし、パンにするなら片付けちゃいたいからお代わりする」 「あっ、なるほどぉ」 そんな単純な理論に、妹は納得して見せる。 納得して、少し考えて、そして何か閃いたのか、ちょっと緩んだ笑顔をにぱっと見せて僕に問い掛けてきた。 「お兄ちゃんのお腹の空き具合は?」 妹に合わせようとした僕。 妹もそれならと言うことで、僕に合わせようとしたんだろう。 でも甘い。 そのくらいでは反撃など不可能なのだ。 「お前次第、かな」 しれっと言ってのける。 すると妹のリアクションは、実に思った通りのものだった。 「えーっ、ずるーい!」 「ずるくないずるくない。兄は妹に合わせるもんだぞ」 してやったり。 僕はにんまり笑いながら、さも当然のように妹に言った。 「そんなことないよっ。そんなの反対だもん。妹はお兄ちゃんに合わせるもんなんだよ」 「その理由は?」 「えっとぉ……妹の方が年下だから?」 「下の人間に優しくするのは、上の人間としては当然だろう?」 「そ、それはぁ……」 屁理屈で僕に勝とうなど、妹には百年早い。 簡単に言いこめられて、妹はへこんで見せた。 「うーっ、ひどいよ、お兄ちゃん……」 しょぼくれる妹。 まあ、一時的なものだけど、こうなってしまうと僕の当初の目的からは大きく外れてしまう。 僕は慌てて妹の頭に手をやると、そっと撫でながらフォローしてあげた。 「じゃあ、二人でご飯にしような。どっちか迷った時は、年上の僕がリードしてあげるべきだし……」 さらさらと、髪が流れていく。 妹は小さく俯いていたが、すぐに顔を上げて僕をじっと見つめてから、こくんと頷いて答えた。 「うん、じゃあ、ご飯にする……」 「待ってろよ、ご飯、よそってやるから」 そう言って、妹の傍を離れようとする。 が、反射的に妹は僕のシャツの裾をぎゅっと握り締めた。 「えっ?」 「あっ、あの、そのぉ……」 「どうした?」 「あ、うん。お兄ちゃんがしなくてもいいよ。ご飯なら、わたしがよそうから……」 それは、単に言い訳だったのかもしれない。 少なくとも、妹は僕の目をちゃんと見てはいなかった。 「でも、今日のお昼は僕が用意するって決めたんだし、やっぱり僕が――」 「ううん、わたしがするっ」 「いや、僕がっ」 お互いに自分がすると言い合う。 でも、争う雰囲気は全くない。 そして妹はまだ、僕の服を握り締めたままだった。 「そうだな……」 ふと見ると、テーブルの上には食パンの包みが。 「じゃあ、ご飯はやめてパンにしよう。そうすれば、どっちも行かずに済むからな」 「うんっ!」 妹は笑顔で頷く。 やっぱり妹には、いつもこの笑顔でいて欲しい。 些細なことで揺れる僕達だけど、でも、揺れてもこの微笑だけは失いたくなかった。 「はい、お兄ちゃん」 妹が横から食パンを一枚渡してくれる。 僕はパンを受け取りながら、複雑な心境で妹を見やった。 「ん、ありがとな」 いつもは相向かいに座る僕と妹。 でも今日は何となく、横並びに座った。 「変な感じ?」 「そうだな。ちょっと違和感あるよ」 そうしようと言ったのは、この横に座る妹。 大して深く考えずに、僕は妹の意見に従った。 「でも、わたしはちょっといいかなーなんて」 「そうか?」 「うん、そうだよ。だって……」 そう言って、妹は僕のシャツの裾をぐいぐい引っ張る。 「ほら、お兄ちゃんを引っ張れるんだもん」 「おい、あんまり引っ張ると伸びるぞ」 はしゃぐ妹を軽くたしなめる。 でも、いつもは素直な妹も、今日はちょっとだけわがままだった。 「でも、お兄ちゃんにくっついてたいし」 照れくさい台詞。 とても自分じゃ言えない台詞。 でも、妹はさらりと言いのけてしまう。 「ほら、このベーコンエッグみたいにさぁ……」 つんつんと箸の先っぽで冷めかけたベーコンエッグを突付く。 カリカリに焼けたベーコンはともかく、卵の黄身の部分は簡単にその無造作な仕打ちに屈して破れた。 「どういうことだ?」 3つの卵。 そしてそれらを繋いでいるベーコン。 「つながってるってこと。わたしとお兄ちゃんは、いつでもつながってるんだよ」 妹の小さな手が、僕を捕まえている。 でも、つながってるのはそれだけじゃない。 そんなものは、ただの象徴にしか過ぎなかった。 「あっ、でも卵は3つだね」 3つの卵。 反射的に3つ使って、その重さに今気付かされて、僕は後悔した。 「……どうする?」 妹は上目遣いで僕に問い掛ける。 いつもなら視線を逸らす僕だけど、今だけは、許されないとはっきりわかった。 「ちょっと訊くけど」 「なに?」 「猫は卵、食えるのか?」 僕と妹と猫。 ちょうど3人分の卵。 それで、数は合うことになる。 「えっ、それはちょっと……やめておいた方がいいかも。まだ子供だし……」 「そっか、確かに仔猫に目玉焼きは危険か」 妹の言葉に納得して、僕はそのまま皿に箸を伸ばした。 3つある卵の真ん中に、妹の見ている前でずぶりと先端を進入させていく。 「あっ……」 「猫が食えないなら、僕達ではんぶんこだ。いいな?」 妹に確認する。 それは確認と言うより、懇願だったのかもしれない。 少なくとも、ここで拒否されたら、この後どうしたらいいのか僕には見当もつかなかった。 「……うん。そうしよ、お兄ちゃん」 「わかった」 箸でベーコンエッグを半分にする。 もう、3つにはならない。 3つでも4つでも、割るのは半分だ。 「……ありがと、お兄ちゃん」 また、ぎゅっと裾が握られた。 でも、それは妹の方に引っ張られるのではなく、そこにあることを確かめる行為。 繰り返す度、僕達はまた、戻らない日々を想い返してゆく。 |