雨が降る。 網戸から流れ込む空気は、水と土と、そして微かに紫陽花の香りがした。 六月の梅雨のこの時季。 家にいる分には悪くない。 太陽の日差しよりも、何故か雨降りの日の方が好きだった。 それはやはり、あの出来事が原因なのかもしれない……。 僕と妹と猫Written by Eiji Takashima
第一話@あめ:紅茶色の猫 「う゛〜っ」 折角の雨降り。 ひんやりしていい匂いのする藺草のマットにごろんと寝転がりながら、のんびりと文庫本に向かう。 網戸にした窓からは、しとしとと心落ち着かせる雨音が聴こえて来る。 そう、それは素敵な休日のはずだった。 でも僕は今、情けないうなり声をあげている。 「どうしたの、お兄ちゃん、変な声だして?」 少し離れたところで同じようにごろごろしている妹が、僕のうなり声を聞きつけて、ごろりとこっちに転がってきた。 ちょうど、目と目が合う。 「ちょっとうなってたんだよ」 それだけ答える。 自分でも、うなり声だっていうのはわかっていた。 「うなる?」 妹は小首をかしげる。 まあ、いきなりうなり声をあげられても、リアクションに困るだろう。 「そうだ、うなってるんだ。だから気にしないでくれ」 追求されたくなくて、ごろりと転がって反転する。 ちょうど妹に背を向けるような格好だ。 「気にしないでくれって言われても、聞こえれば気にしちゃうよぉ」 肩越しに聴こえる妹の声。 少しだけ心配してくれる様子が可愛らしい。 「悪い、無視してくれ」 「無視してくれって言われてもぉ」 心配の色が変化する。 ちょっとむっとした態度。 でも、僕は気にせずそのまま背を向け続けた。 「お兄ちゃん!」 妹の声。 そして、外からの雨音。 いつもつけているテレビは切ってあった。 僕に聴こえてくるのは、自分の呼吸と、妹の声と、雨音だけのはず―― (にゃあ…) 「あっ、こら、ダメだよぉ」 そうだ、これだ。 これが僕を悩ませている。 一昨日妹がもらってきた仔猫だった。 「あっ、ダメっっ!!」 がり。 「いてっ!」 背中に痛みが走る。 どうせ妹の猫が、僕の背中に爪を立てたんだろう。 僕はかっとして立ち上がると、妹に向かって怒鳴りつけた。 「おい、僕に迷惑をかけないってのが、そいつを飼う時の約束だろ!」 妹は慌てて僕の背中から飛び離れた猫を回収している。 そして胸にぎゅっと抱き締めながら、僕のことを済まなそうに見上げた。 「ごめんなさい、お兄ちゃん……」 妹のことは好きだった。 本当に大切に思っていた。 だから、滅多にない妹のわがまま、僕が嫌いな猫を飼いたいっていうのも、条件付きで許してやった。 でも今、それは裏目に出ている。 妹が如何に努力しようと、猫は僕の生活に侵入してくるのだ。 「……別にいい。お前が悪い訳じゃないんだからな」 妹は悪くない。 悪いのは猫だ。 僕だって、妹に怒鳴りたくなんかない。 ただ、猫が気に入らないだけだ。 でも、それは即ち、妹を責めていることになる。 「でも、ねこさんのすることは、飼い主のわたしの責任だから……」 妹は済まなそうに僕に頭を下げる。 胸がズキッと痛んで、僕はぶっきらぼうに背を向けた。 「そっか」 猫のすることを全て妹が管理するなんて不可能だ。 だから、尻拭いして回ることになる。 そんな、たかが獣一匹に振り回されている妹が、何となく不愉快だった。 「それとな、窓、絶対に閉めるなよな」 「お兄ちゃん?」 「猫くさくなるんだよ。ったく、猫屋敷なんてごめんだからな」 そう言い放って、そのまま妹の顔も見ずに自分の部屋へと去っていく。 せっかくの雨降りなのに、せっかくの休日なのに……猫のおかげで台無しだった。 「あっ」 勢いのままに、自分の部屋に戻ってきたが、僕はとあることに気付いた。 「文庫、リビングに置いてきたか……」 部屋に戻ってもすることなんてない。 机に向かう気になんてさらさらないし、別の本に手をつけるのもしゃくだ。 「ったく、取りに行くか」 ドアのノブに手をかける。 ぎゅっと握って回そうとして、僕はその手を止めた。 「いや……」 やめておくことにした。 今リビングに戻るのは気まずい。 それだけだったら僕も気にしなかったけど、多分……。 「待とう、かな」 僕の知るあいつなら、そのままにはしておかない。 何かきっと行動を起こしているだろう。 ちょうど今頃、キッチン辺りでドタバタしているに違いない。 バレンタイン前日のキッチンを覗こうとするような行為は、野暮以外の何物でもなかった。 ベッドの上にごろんと横になって、その辺に転がっていた漫画雑誌を手にとる。 リビングの藺草マットとは違って、どうもじめじめしていた。 エアコンの除湿をかけてもあまり改善されない。 いつも布団を干せとうるさい妹の言葉をちゃんと聞かなかったことが、今になって悔やまれる。 「猫さえいなかったらな……」 あの猫がいなければ、僕達の関係は至って良好、リビングも平和な空間であり続けるはずだった。 でも今は、あいつのせいで、居心地が悪いだけじゃなく、猫くさい場所へと変貌している。 「猫、か……」 昔から、妹は猫が好きだった。 よくその辺で拾ってきては、親父に怒られて捨てに行かされていた。 何度も何度も拾ってきて、その度に大泣きしながら捨てていた。 拾っても飼えないって知っているのに、それでも妹は猫を拾う。 そして、不必要に悲しみを積み重ねていく……。 僕も親父と同じで、猫が大嫌いだった。 でも、親父に泣かされる妹を慰めてやるのは好きだった。 妹を泣かせたくないから、親父がいなくなった今、猫を飼うのを許した。 妹は大喜びで仔猫をもらってきて、そして溺愛している。 コンコン! ノックの音がする。 同時に、妹がドア越しに呼びかけてきた。 『お兄ちゃん、いる?』 少しだけ、声は震えていた。 でも、気丈に振舞おうとしている様子も聞き取れる。 「いるよ。何か用か?」 『う、うん、さっきはごめんなさい……』 「別にいいって。それより、ドア越しに会話か?」 そう訊いてやる。 中に入って欲しかった訳じゃないけど、顔を見ずに話すのは、何となく嫌だった。 『でも、わたしねこさん触ってるから、きっとねこさんの臭い、すると思うよ』 僕が猫嫌いなのは、猫のその獣くささが嫌いだからだ。 それは妹もよく知っている。 「そっか。じゃあ、入らないなら何だ?」 『うん。お詫びの印にお茶とお菓子、持ってきたの。よかったら食べてくれる?』 「わかった。わざわざありがとな」 『ううん。じゃあ、ここに置いておくから、わたしが下に降りたら取ってね』 凄い念の入れようだ。 別にそこまで猫の臭いがつくこともあるまいに。 でも、その徹底振りが実に妹らしく、微笑ましかった。 『……お兄ちゃん』 「うん?」 『猫さんのこと、ありがとう。わたし、うれしかったから』 「そっか」 『それだけ。じゃあね、お兄ちゃん』 言いたいことだけ言うと、妹はトントンと音をさせて階下に降りて行った。 僕に謝って、お詫びのお茶を用意して、最後にお礼を言って。 それで吹っ切れたのか、ようやく元気を取り戻してくれた。 「ま、これでよかったのかな」 妹が元気でいてくれれば。 猫のことはそのためのアイテムとして、我慢してもいいようにすら思えた。 「さてと、せっかく煎れてもらったんだし、冷めないうちに……」 ドアのノブに手をかける。 ぐいっとひねって、そのままドアを外側に押し出して―― ガチャ! 「あ?」 耳障りな音。 陶器が割れるような音だ。 「ちょ、ちょい待ち!」 慌ててしゃがみ込むと、ドアの隙間から外側を覗いてみた。 「あちゃ〜」 お盆の上に載せられたティーカップは無惨に横倒しにされていた。 ドアがストレートにお盆に当たって、その拍子にひっくり返ったに違いない。 「ったく、あいつ……これは新手のトラップか?」 普通にドアを開ければせっかくのお茶もぐちゃぐちゃ。 妹のことだからいたずらと言うよりもただのドジだろうけど、まさにやれやれといった感じだ。 「あーあ、せっかくの紅茶が……」 ドアをゆっくりと開けて、これ以上滅茶苦茶にしないようにお盆をずらす。 そして改めて妹が僕のために用意してくれたものを見た。 滅多に食器棚から出されない、お客様用の白いティーセット。 その隣にはお皿がひとつ置いてあって―― 「これがお菓子?」 妹が言ったのは、お茶とお菓子だ。 でも、皿の上には飴が3つ。 お菓子と言うにはあまりにあんまりな内容だった。 「飴が3つって……」 しかも見てみると、普通のタイプの飴玉じゃない。 金太郎飴のような輪切りの飴だ。 「しかも、絵柄は猫ときたか」 猫の絵の飴。 横倒しになったティーカップ。 当然、飴の載った皿にはたっぷりと紅茶が注がれていた。 「なるほどね」 獣くさい猫。 いい香りのアールグレイ。 紅茶でひたされた猫は、きっと獣くさいと言うよりも、紅茶くさい猫だろう。 「――かわいい奴」 紅茶びたしになった猫の飴をひとつまみ。 口の中に放り込むと、それは不思議とミルクティーの香りがした。 |