銀の翼、彼方にWritten by Eiji Takashima
第十六章 闇に潜むモノ 「クッ!」 血が滾る。 自分の理性とは裏腹に、本能が蠢く。 感情が昂ぶると、つい我を忘れそうになる。 初音を抱いた夜、それが出なかったのが救いだった。 「コントロール出来る自信はある。しかし――」 本能で何かを感じている。 闇の中、感受性がいつもより増して、明らかな敵意を感じる。 その発生源がどこかも、今の俺にははっきりしていた。 「奴、どういうつもりだ?」 あからさまな気配。 距離はあるものの、遠慮はなかった。 ウルサの俺に対する敵意は日増しに強くなっていく。 それを感じるのは常に夜だ。 初音が完全に眠りに就いてから、俺を挑発するかのように気を放っている。 うなじのところにビリビリ伝わるくらいのものなのに、感じ易い初音が目を覚まさないところを見ると、俺個人に宛てられた特殊なメッセージのようなものなのだろう。 「さて、どうしたらいいものかな?」 挑発に乗るのは簡単だ。 しかし、奴がそれを望んでいることを考えると、少し慎重にならねばならない。 傍らには初音が穏やかに眠っている。 何も言わないが色々と考えていることは俺にもわかる。 きっとまた俺を気にして言えないのだろう。 「如何にも初音らしいよな。でも、もう少し頼ってくれてもいいのに」 初音のことを想うと表情が緩む。 本当にかわいい娘だ。 イサドの連中が言っていたように、たとえ何の力もなくても、初音は特別な存在になっていたに違いない。 「俺には勿体無いくらいのいい娘だよ、ホントに」 そう、俺には相応しくない。 ウルサの挑発に反応し、身体が変容しかけている。 既に鬼化している右手の鋭い鉤爪は、まさに獣のものだった。 「初音はウルサすら殺したくない。誰も傷つけずに全てを包み込みたいと思っている。確かにそれは正しい。しかし不可能なこともまた真実。だからこそ、初音は今、独りで悩んでいる」 俺に言おうとしては言葉を引っ込めている。 そんなもどかしい様子は俺にもはっきりと見て取れた。 「イサドを汚してはならない。無論、初音も同じ。そのためにこの俺がいる。どっちみち、奴とは一度やっておかないといけないみたいだしな」 軽く笑う。 自分の中で結論づけると、今までもやもやしていたものが一気にすっきりした。 初音を起こさないように寝台をそっと抜け出す。 闇の中、星々だけが瞬く。 地上では見ることの出来ない、幻想的な光景だった。 「ウルサの奴も用意周到なことだ」 静かに独り呟く。 俺達の居住区から出ると、いつもはいるはずの不寝番が今夜に限っていない。 衛兵がサボっているのではなく、明らかにウルサの差し金によるものだった。 「果たして正々堂々と来るか、奇策を練ってくるか……?」 俺が行動を始めた途端、ウルサの気はぱったりと感じられなくなった。 そこが少し不気味でもあり、厄介に感じる。 単純に力と力でぶつかり合うだけなら話は簡単だが、どうやらそういう訳には行かないらしい。 「しかし――」 血が滾る。 ウルサと違って俺は自分をコントロールするのに慣れていない。 奴の気に刺激されて、俺は完全に鬼化していた。 無論、気配を消すこともままならない。 空気が裂けんばかりの気を垂れ流し、いつでもかかってきて下さいという状態だ。 通路を歩く時、足音こそしないもののこれでは意味がない。 俺は次第に、自分の不利を感じ始めていた。 しかし、俺の予感とは裏腹にウルサの奇襲はない。 俺は奴の執務室の前まであっさりと辿り着いた。 「さて、ご対面と参りますかね」 案の定、ここにも衛兵の姿はなかった。 早速俺はドアに手を触れる。 ロックされていなければ触れると開くタイプのドアだ。 微かな油圧の音と共に、すうっと俺の前に口を開く。 目の前に広がる暗闇。 俺はその闇に向かってそっと足を踏み入れた。 「取り敢えず……いないみたいだな」 気配は感じない。 執務室は少し広かったものの、人が隠れる場所など殆どない。 周囲を二、三度見渡し、俺はこの部屋にウルサがいないことを悟った。 「まあ、ここは執務室だしな。執務中でないのにいる方がおかしいか」 そう結論づける。 ウルサの気の源の方向性はこっちだったが、俺はまだ場所を確定出来るほどの緻密な察知能力は持ち合わせていなかった。 恐らくウルサの私室はこの近辺にあるに違いない。 俺はそう判断し、それを探しにかかろうと執務室を後にしようとした。 そしてドアに再び手を触れようとした瞬間、空気が上下に動いた。 「なにっ!」 油断していたものの、すんでのところで俺は危機を脱した。 鋭利なものが背中をかすめ、俺の体毛を僅かに散らした。 「猿の分際で小賢しい……」 闇に潜むモノ、ウルサだった。 姿は殆ど普段のウルサのままだったが、今はあからさまに蔑視の色を隠さない。 唯一鬼化している鉤爪を軽く舌で嘗めると、瞳をギラリと光らせた。 「貴様こそ、とうとう本性を表しやがって。この下衆め」 「何とでも言うがいい。猿の戯言を聞いている時間も惜しいわ。この俺が引導を渡してくれる」 「フッ、出来るかな、貴様に?」 「……愚かな。自分の実力もわきまえず大口を叩きおって」 「なら、試してみればいいだろう。行くぞッ!」 俺はウルサに向かって突進した。 奴の力は未知数だが、全身を鬼化していない以上、俺とのウェート差は歴然としている。 旋風のような俺の体当たりは、ウルサの身体を完全に捕らえたかに見えた。 しかし―― 「グウッ……」 「どうした、その程度なのか、お前の力は?」 ウルサは片手で俺を受け止めながら余裕を見せて冷笑した。 俺は奴の鉤爪が皮膚に食い込むのも気にせずそのまま身体を押し込む。 しかし、ウルサは俺の全力を持ってしてもびくともしなかった。 「所詮は古代エルクの力に過ぎぬ。イサドの戦士の前には赤子の手を捻るようなものよ」 そう言って手首を捻る。 ウルサの鉤爪は俺の皮膚を裂き、肉を抉った。 「グオオッッ!」 痛みに咆哮する。 自分の耳に届く悲痛なそれは、情けなくも獣じみた自分を感じさせた。 俺はウルサから飛びすさって間合いを取ったものの、右肩の筋肉は無惨に抉り取られている。 ウルサはそれを見せつけるように、俺の目の前で口に含んだ。 「不味い。猿の肉の味だ」 そう言って下品に吐き捨てる。 それが奴の挑発とわかっていても、怒りと血の滾りで理性を失いつつある俺は、愚かにも奴に挑みかからずにはいられなかった。 「フオオッ!」 呼気と共に一閃。 今度は体当たりでなく間合いを詰めながら鉤爪を縦に振りかざした。 「笑止」 しかし、ウルサは動じない。 空気を裂く俺の一撃も紙一重のところでかわし、体勢を崩しかけた俺の背中に痛烈な肘打ちをお見舞いした。 「ガッ!」 俺は無様に床に倒れ込む。 地面に這いつくばらされた俺は、奴との違いをまざまざと見せつけられた心地がした。 「お遊びはこのくらいにしようか。お前の心臓を抉り出し、部屋で寝ている『巫女』に見せ付けてやる。そして驚愕しているところを拘束し、俺のものにするのだ」 ウルサは下劣極まりない言葉を発する。 やはり滲み出る本性は取り繕った姿とは全くの正反対だった。 初音の身に危険を感じた俺は奴の言葉に怒気を閃かせ、飛び起きると低姿勢のまま脚部に回し蹴りを繰り出した。 「グウウゥゥ……」 しかし、ウルサは驚くこともなく、軽く片脚を上げて足の裏で俺の蹴りを受け止める。 そしてそのまま何事もなかったかのように脚を下に降ろして踏みつけた。 「ガアッッ!」 鈍い音がする。 音と痛みから、俺は自分の脚の骨が折れたことを悟った。 だが、ウルサは容赦などしない。 俺を踏み越えるようにして進むと、今度は脇腹を踏んだ。 何とか腰をやられることは免れたものの、脚を掌握されている今、比較的緩慢なウルサの動きも完全に避けることが出来ない。 この状態では、奴に抵抗することすらままならないのだ。 「身体を重ねている状態であれば流石のスレートも攻撃出来ぬであろう。そして交配によって新たな『巫女』が産まれるまでは決して離さぬ。俺の『巫女』が産まれれば、初音は用済みだ。スレートの危険を回避するために殺す。フハハハッ!」 ウルサは余裕の高笑いをした。 そしてもう一度俺を痛烈に踏みつける。 臓器に直接ダメージを受け、意識が反転した。 それと同時に力が抜け落ちて行く感覚が伝わる。 「く、くそっ……耐えろ、俺の身体っ!」 咆哮から人語へ。 戦闘開始時の獣性が薄れ、理性が戻ってくる。 理性と共に痛覚も敏感な人間のものに近付き、俺は焼けるような痛みを感じた。 「どうした? 身体が元に戻っていくぞ」 「クッ!」 ウルサの嘲笑も否定出来ない。 俺の身体は力を失い、柏木耕一のそれに戻りつつあった。 ウルサはそれを見て完全に自分の勝利を確信したのか、俺の脚を踏みつけていた右足を床に降ろす。 これで俺への拘束度は減少したが、反対に安定性が増した。 ウルサは俺の脇腹を踏む足を捻って、俺をうつ伏せにさせる。 踏み付けこそしなかったものの、その手荒な応対に俺の人間の背骨は軋んで悲鳴を上げた。 「心臓こそが命の源。お前の心臓、この俺がいただくぞ」 ウルサが身を屈める。 ゆっくりと、その鉤爪が背中から俺の心臓に迫った。 「くそっ!」 踏みつけられる圧迫感に呼吸すらままならない。 しかし、俺は生命の危機の前に最後の抵抗を見せた。 「無駄だ。お前も戦士なら観念せよ」 無傷のウルサには俺のか弱い抵抗など無意味だ。 俺がいくらもがこうともウルサは微動だにしない。 奴の鉤爪が俺の背中の皮膚に刺さり始めた時、俺は言葉通り観念しそうになった。 「は、初音……ちゃん……」 今ここで俺が死ねば、初音ちゃんはウルサの道具となり、用が済めば処分される。 そのことを思うと死んでも死にきれない。 だが、ウルサを食い止めるための力が俺にはなかった。 「ぐっ! 初音ぇっ!」 ぶすりとウルサの鉤爪が侵攻してくる。 焼け付くような痛みに俺は声を上げた。 だがその時、俺は信じられない声を耳にする。 「やめなさいっ! 耕一お兄ちゃんをいじめる奴は許さないんだからっ!」 それは紛れもなく、初音ちゃんの声だった。 |