銀の翼、彼方に

Written by Eiji Takashima

第十七章 銀の翼



どろりと濁った意識。
それがわたしを内部から犯すように、口や鼻や耳から入ってくる。
まるで生き物のようなそれはわたしの中を暴れまわり、わたしを不快にさせた。

「んん……」

悪夢。
自分でも、何となくそう意識していた。
意志を傾けて追い払おうとする。
しかし、なかなか出て行ってはくれない。
わたしは縋るように手を握り締めて――

「はっ!」

そこで目が覚めた。
握ってくれているはずの手がない。
わたしは妙な違和感を感じた。
さっきまで眠っていたのか嘘のように、意識がはっきりしている。
わたしはそのまま上体を起こすと、ベッドを抜け出した。

「耕一さん? 耕一お兄ちゃん!?」

嫌な予感がする。
嫌な夢は、そのまま嫌な現実に繋がっていることが多い。
わたしは大きな声で呼んでも返事のないことに戦慄を覚えると、慌ててスレートさんに意識を傾けた。

「スレートさんっ!」
『初音、大変よっ!』

スレートさんにもいつもの落ち着きがない。
明らかに、緊急事態だった。

「お、お兄ちゃんがいないの! もしかして……」
『そのもしかしてよ、初音! 耕一さんが危ないわ!』
「じゃ、じゃあウルサさんに?」
『そうよ。あいつ、耕一さんを挑発しておびき寄せたのよ。早く初音が気付いてくれないものかと思ってイライラしてたんだから』
「そ、それよりわたしは……」
『耕一さんはウルサの執務室よ。そのくらいの距離なら私が空間を歪曲させるから、初音はそこに飛ぶようにイメージして!』
「わかった!」

スレートさんの言っていることはよくわからなかったけど、とにかくわたしは耕一お兄ちゃんを助けたい一心で、執務室を頭で思い描いた。
そして自分がチェスの駒を動かすように移動して行く様子をイメージする。

「きゃっ!」

途端に世界がぐにゃりと曲がった。
不自然に視界が歪んだかと思うと、突然浮遊感を感じた。
その不思議な感覚は本当に一瞬だったけど、気がついてみるともう、そこは見覚えのあるウルサさんの執務室だった。

『成功よ、初音。流石ね』
「あっ……」

わたしはスレートさんの言葉で我を取り戻した。
そして目でお兄ちゃんを捜すと、すぐに発見することが出来た。
何故か裸でうつ伏せになっているお兄ちゃんが、ウルサさんに踏みつけられている。
わたしはそれを見て慌てて叫んだ。

「やめなさいっ! 耕一お兄ちゃんをいじめる奴は許さないんだからっ!」

すると、ウルサさんが振り返ってこっちを見る。

「い、いつのまに……これも『巫女』の力なのか?」

驚愕の眼差し。
でもすぐにそれは好奇の視線に変わる。

「これが俺のものになる……素晴らしいことだ」

そう言ってにんまりと笑うウルサさんの表情は、生理的に受け付けないものを感じさせた。

『気をつけて、初音。あいつは素早いわよ』

スレートさんの注意が入る。
わたしは小さくうなずくと、再びウルサさんに叫んだ。

「お兄ちゃんから離れて、ウルサさん!」

しかし、ウルサさんは笑うだけ。
私に応えようとしない。

「は、初音ちゃん、逃げろ……こ、こいつは……」
「うるさい、黙れ下郎が」

お兄ちゃんが首を傾けてわたしに訴えかけてくる。
ウルサさんはようやく口を開いて、お兄ちゃんを罵倒した。

「グアッ!」

同時にお兄ちゃんの悲鳴が聞こえる。
よく目を凝らしてみると、ウルサさんの不気味な爪がお兄ちゃんの背中に刺さっているのが見えた。

『鉤爪で心臓を抉り出そうとしていたのよ』

不快そうにスレートさんが教えてくれる。
あまりに嫌な現実にわたしは身の毛がよだった。

「ひ、ひどい……」
「やめて欲しくばこちらに来い」

冷たくウルサさんが言う。
お兄ちゃんの命でわたしを脅迫しようとしているのだ。

『行っちゃ駄目よ、初音。あいつの言うことを聞いても意味がないわ』

スレートさんの声も厳しい。
私がしようとしなければ実質的な力を発揮出来ないだけに、スレートさんも苛立たしいのだろう。

「で、でも……」
「どうした? 心臓までもう少しだぞ」

わたしが逡巡していると、ウルサさんの爪が少しだけ沈む。
既に爪の殆どがお兄ちゃんの身体の中に入っていた。

『初音っ!』
「わ、わたし……」
「お前が来なければこの男は死ぬ。絶対にな」
『行っても殺されるわよ! 耕一さんも、それからあなたもっ!』

わたしはどうしたらいいのかわからない。
行ってお兄ちゃんが助かるのならいいかもしれないけど、スレートさんの言葉も真実をついているような気がした。
わたしがなんとかしないと、みんな助からない。
だから、だからわたしは――

「わたしが、なんとか、しないと……」

優しさを力に変えて。
わたしには、そのための力がある。
スレートさんを介して、意識を動かした。

「なっ……!」

瞬間、乳白色の光線が部屋の壁を貫いて侵入してきた。
そしてお兄ちゃんとウルサさんを切り離すように左右に横切る。

「せ、船内で高出力のレーザーなんて……」
『それでいいのよ、初音!』

私の意思に従って、お兄ちゃんに触れていたウルサさんの腕と脚をスレートさんの放ったレーザーが切断していく。

「俺の腕がぁっ!」

突然支えを失ってウルサさんが崩れ落ちる。
それから少し間を置いて、ようやく切断面から大量の出血が始まった。

『別に止めを刺せとまでは言わないわ。そのまま放って置いても問題ないでしょうから』

スレートさんが冷たく言う。
実際、それくらい惨たらしい出血だった。
ウルサさんは大きすぎる傷のために、痛みに苦しむ様子もなくだらりとしている。
とにかくわたしは慌ててお兄ちゃんの元に駆け寄った。

「お兄ちゃん!」
「は、初音ちゃん……」
「ま、待ってて。今取ってあげるから」

そう言って、わたしは背中に刺さったウルサさんの手を引き抜いてあげる。
取り敢えず既に肉片と化した腕を傍らに置くと、わたしはお兄ちゃんを抱き起こした。

「だ、大丈夫……?」
「あ、ああ、何とか。でも初音ちゃんにはカッコ悪いとこ見せちまったな」
「いいんだよ、そんなの。お兄ちゃんが無事ならそれで……」
「でも凄いな、初音ちゃんは。俺が手も足も出なかったウルサをこんなにあっさり――」
「まだ、終わりじゃないよ」

お兄ちゃんの言葉を遮って言う。
わたしがしたかったことはそういうことじゃない。
このままでは、意味がなかった。
わたしは天を仰いでスレートさんに訊ねる。

「スレートさん、わたしに出来るかな?」
『……言ったはずよ、あなたに出来ないことはないって』

スレートさんは不機嫌そうに答えた。
わたしがこれからしようとすることを理解している。
恐らく歴代の乗り手も、わたしと似ていたんだろう。
だからこそ、やれやれと思いつつも諦めてわたしの行動を止めようとはしない。

「じゃあ、頑張ってみるね」

わたしはここにはいないスレートさんに微笑んで見せて、そっとお兄ちゃんを仰向けにして床に寝かせた。
そして傍らに置いておいたウルサさんの腕を拾う。

「は、初音ちゃん、一体何を……?」
「いいから見てて、お兄ちゃん」

安心させるように言う。
わたしはぐったりとしているウルサさんに向き合うと、手にした腕を切断面に合わせた。

「初音ちゃん、まさか!?」

でも、こればっかりはお兄ちゃんの言葉でも聞けない。
わたしは意識を集中させた。

『こんなことに私が使われるなんてね……』
「ご、ごめんね、スレートさん」

わたしの力がスレートさんによって無限大に近いくらいに増幅される。
スレートさんはただの星船じゃない。
わたしの力をより大きなものへと変えてくれるのだ。
ウルサさんの腕の切断面がさっきと同じように乳白色に輝く。
見えなくなるくらいまで光り輝き、それが収まると――腕は元通りにくっついていた。

「うん、出来た」
『当たり前じゃない、このくらい』

悔しそうにスレートさんが言う。
でも、わたしは嬉しかった。
そして腕を終えると今度は脚に。
脚も腕と同じように接合させた。

「ど、どういう……?」

五体が元通りになると、ウルサさんは一応の意識を取り戻した。
が、切断されてくっつけるまでの短い間にも多量の血液を失っている。
最早動き回る元気はなかった。

「こういうこと、したくなかったんだけどね」
「……理解出来ぬ」

確かにウルサさんには理解出来ないかもしれない。
でも、それは今の話。
きっといつかはわかってもらえる日が来る。
わたしはそう信じていた。

「でもお兄ちゃんを助けなくちゃいけなかったから。ねっ、お兄ちゃん?」
「あ、ああ……初音ちゃん。いや、初音」
「あっ、二人とも元に戻っちゃってたね」

ついうっかり忘れていた。
呼び方は耕一お兄ちゃんじゃなくって耕一さんだった。

「まあ、馴れてないから。そのうち馴れるさ」
「そうだね。わたし、頑張るよ」
「俺も」

ほのぼのした空気。
耕一さんの笑顔もほんわかしていた。
それからウルサさんは――

「これからどうするつもりだ?」
「えっ?」
「自分達の星に帰るのか? このままイサドに来てもお前達に利はないだろう」

ウルサさんはもう自分の敗北を完全に認めていた。
わたし達に心を開くなんてことはないみたいだけど、逆らっても無意味なことだけは悟っている。

「そんなことないよ」
「って、初音っ!?」

わたしの答えに耕一さんは驚く。
二人とも地球に帰れるものなら帰りたいと思って当然だった。
でも、今は違う。
確かにお姉ちゃん達とまた一緒に楽しく暮らしたい。
それがわたしにとって一番楽しいことだってことは否定出来ない。
だけど――わたしには、わたしにしか出来ないことがあるから。

「みんなをやさしさで包むのがわたしの仕事だからね」

だから、わたしはイサドに行く。
わたしを待ってくれている人達がいるから。
その人達を裏切って自分だけ楽なんて出来ないよね。

「初音……」
「ごめんね、耕一さん。わたし、わがまま言って」
「いや……初音は偉いよ。俺にはせいぜい……初音の傍にいてやることくらいしか出来ないからな」

耕一さんは恥ずかしそうに言った。
自分からこんなことを言うのも照れ臭いんだろう。
でも、そんな優しさがわたしは嬉しかった。

「それだけで充分だよ、わたしは。それに里帰りしたくなったらすぐに帰れるんだよね?」
『それはあなたの想いの強さ次第ね、初音』

スレートさんが答えてくれる。
想いの強さならわたしは誰にも負けない。
きっとスレートさんは一瞬でわたし達をあの懐かしい柏木家に連れて行ってくれることだろう。

「帰りたい時はいつでも帰れるよ、耕一さん」
「ホ、ホントか?」
「うんっ! だから心配しないで。二人一緒なら、きっと素敵な世界を作ることが出来ると思うよ」
「そうだな。俺も……今はそう思えるよ」
「頑張ろうね、二人で!」
「ああ!」

わたしの優しさが種となって、世界中に広まる。
みんながみんな、優しくなればそれだけでいい。
そのためにわたしは頑張る。
イサドの人々を幸せに出来たら、次はもっと他の星々へ。
地球の人達だってみんな優しくしてみせる。
だから――

わたしの翼はまだ開いたばかり。
でも、わたしの翼は銀の翼。
誰よりも遠くへ、そして誰よりも光り輝く。
わたしはこの銀の翼を背に、これからも羽ばたき続ける。
わたしの銀の翼よ、もっともっと遥か彼方に――


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