銀の翼、彼方に

Written by Eiji Takashima

第十二章 別れ



「うわぁ、凄い……」

初音ちゃんが声を上げる。
スレートは初音ちゃんの命により、日没直前の空を疾走していた。

「どう、こういうのを自分で操る感想は?」
「自分で操るって言うよりもタクシーみたいなものだよ、耕一お兄ちゃん」
「そ、そうなのか……」

初音ちゃんはクスクス笑っている。
さっきまでの深刻なやり取りが嘘のようだった。

「…………」

しかし、一方の楓ちゃんは黙って前方を見つめたまま、身じろぎ一つしない。
あまりに対照的な光景で、俺は言葉もなかった。

結局俺達の中では結論が出せないまま、このスレートに乗り込むことになった。
奇しくも定員が三人と言うことなので、初音ちゃんに選んでもらってこうして俺と楓ちゃんが同乗している。
楓ちゃんは自分の心情を吐露した後、黙って涙を拭きそのまま初音ちゃんの判断を待った。
初音ちゃんにこんな重大な選択が迫られるなんて、後にも先にも恐らく一度きりのことだろう。
俺達は自分のことばかり考えていたけど、これからの結果次第では地球そのものがどうなっていくのかが決まるのだ。
初音ちゃんでなくても恐怖を抱くはずだった。

「でもこれ、どうやって敵の船に接触するんだ?」
「うーん、どうなんだろ? よくわかんないけど、多分すっごく目立ってると思うから、このままぐるぐるしてれば向こうから何か反応が返ってくるんじゃないかな?」
「何だかいい加減な話だな……」

でも、俺と楓ちゃんはこの船の中では無力な存在だ。
だから初音ちゃんの意見を尊重するしかない。
多分俺らなんかよりもこの船の方がずっと色々知ってるだろう。
初音ちゃんはどうもスレートと女同士のお喋りに興じているような感じだし、任せておいた方が無難に思えた。

「スレートさん?」

唐突に初音ちゃんが声を上げる。

「ん、どうした初音ちゃん?」
「うん、何だか通信が入ってるんだって。モニターに映すね」

初音ちゃんがそう言うと、正面のパネルが半透過になり、何やら映し出された。

「これはスレートさんとの対話とは違って、お兄ちゃん達も参加出来る奴みたいだから協力してね」
「了解、初音ちゃん」

そして敵の代表と思しきいかつい顔をした奴が重々しく話しかけてきた。

「我はイサド帝国第十三地区辺境調査団団長、ウルサである。貴船は古代エルクの儀式船とお見受け致すが、相違あるまいか」
「な、何だか仰々しい奴だな。ええと、左様である。してそちらの用件は?」

取り敢えず、俺が代表してそれなりに答えてみた。
付け焼き刃だが、細かいことを言われても困る。

「我々は『巫女』の探索のために当惑星に調査に訪れた者である。貴殿に心当たりはあろうか?」
「ある……と言ったらどうする?」

ニヤリと笑ってみせる。
初音ちゃんは心配そうな顔をしているが、まだ充分に余裕がある。
恐らくこっちのメンバーに『巫女』たる初音ちゃんがいることくらい、あちらさんはとっくにお見通しだろう。
だからこその、持って回った言い回しなのだ。

「情報を頂きたい」
「情報?」
「左様」
「何の情報だ?」
「貴船に『巫女』がいるかどうか?」
「……あんたもわかってんだろ? この船がどういう船かくらい?」
「そう言っていただけると話が早い」

奴もニヤリと笑った。
こう言う奴の方がいくらか話もしやすい。

「簡単明瞭に申し上げよう。『巫女』をこちらに引き渡していただきたい。要望事項はそれだけだ」
「なるほど。で、渡したらどうなる?」
「耕一お兄ちゃん!」

慌てて初音ちゃんが俺をたしなめる。
が、楓ちゃんが軽く制して言った。

「耕一さんに任せましょう、初音」
「で、でも……」
「これは交渉よ。と言うよりも、耕一さんは相手の腹を探ろうとしている……」
「そ、そうなんだ……」
「そうよ。だから大人しくしていて」

楓ちゃんに言われて、初音ちゃんも大人しくなった。
ただ、固唾を飲んで成り行きを見守る。
そんな中、敵の親玉が俺の問いに答えて言った。

「『巫女』さえこちらに来ていただければ、この惑星にも用はない。『巫女』を連れて退去しよう」
「それだけか?」
「それだけだ」
「それではこちらに利益がない」
「果たしてそうかな?」
「……どういうことだ?」

奴は不敵な笑みを浮かべている。
何か思うところがあるらしい。

「我らは惑星軌道上に一個艦隊を待機させてある。このような辺境の惑星など大した価値もないが、一応調査に来た以上、我ら帝国の勢力下に置かねばならない。それがどういうことか、貴殿にはわかっていただけると思うが」
「クッ……」

恫喝だった。
明らかに、俺達を脅している。
初音ちゃんを渡さなければ、奴等は地球を植民地化しようと言うのだ。

「その船に関してはこちらにもそれなりの知識はある。実に素晴らしい優れた船だ。その船ならば、我らの艦隊など殲滅するのはたやすいであろうな」
「わ、わかっているなら話は早い。俺達は戦ってもいいんだぞ」
「だが、一瞬のうちと言う訳には行くまい。貴船が我らを全滅させる間に、恐らくこの惑星の七割は戦いの余波を受け焦土と化すであろう。ちなみにこれは低く見積もった数字だ」
「…………」

悔しいが、否定は出来なかった。
相手の戦力がどのくらいあるのか、そしてこっちの戦力がどのくらいあるのか、実際全く把握していない。
このスレートが漠然と凄い船だと言うことはわかるけど、そうであればあるほど奴の発言には真実味が増してきた。

「楓お姉ちゃん……」

初音ちゃんが心配そうに傍らの楓ちゃんに囁く。
その不安げな表情は、初音ちゃんの内面を痛いほどよく表していた。

「…………」

そして楓ちゃんはただ黙って初音ちゃんを抱きしめるだけ。
その眼差しは厳しいものだったけど、よく観察すれば微かに震えていることがわかる。
楓ちゃんも表にこそ出さないものの、初音ちゃんと同様に恐れていたのだ。

「我らには『巫女』が必要だ。古の儀式を復活させ、我らの心の支えとして『巫女』には帝国の女帝になってもらわねばならぬ。しかし、我らも辺境に派遣されたとは言え栄えある帝国の軍人である。戦いを挑まれたとあらばたとえ勝機なくとも全力を賭して戦うまで。そして勝利のためには手段を選ばぬ。こうして脅迫紛いなことも辞さぬと言う訳だ」

長々とした弁舌だった。
が、俺達が選択を迫られていることには変わりがない。
戦って焦土と化した地球を守り続けるか、それとも初音ちゃんを差し出すか、だ。

「俺には……初音ちゃんを差し出すことなんて……」

出来ない。
出来るはずがなかった。
いくら地球のためとは言え、愛する女性を生け贄に差し出すなんて無理な話だ。

「耕一お兄ちゃん、わたし……」
「駄目だッ! 俺が認めない!」
「で、でもっ!」

初音ちゃんが何を言いたいのか俺にはよくわかる。
自分が犠牲になろうと言うのだ。
大局的な目で見れば、初音ちゃんが言おうとしていることは正しい。
しかし、正しいとわかっていても尚、認められないことだってあるのだ。

「いくらか相談する時間は与えよう。我も心無い訳ではない」

何を言ってやがる。
コイツはふざけたことを言っている。
だが、今やこの異星人に全てを握られているも同然だった。

「楓ちゃん、何かいい方法はないのか? 折角こんな船があるのに、俺達は何も出来ないなんて……」

俺は藁にも縋る気持ちで楓ちゃんに訊ねた。
しかし、返ってきたのは冷たい言葉だけだった。

「……無駄です、耕一さん。敵将の発言は事実です。避けようがありません」
「だ、だけどっ!」
「私達はどちらかを選ばねばなりません。戦うか、初音を差し出すか」

現実を再認識させられる。
でも、聞きたくなかった。

「お兄ちゃん、わたし……」
「言うなッ!」
「わ、わたし……」
「言うなったら言うな! 俺は聞きたくない!」
「耕一さん!」

駄々をこねる俺に楓ちゃんが厳しく一喝する。
そしてすぐに穏やかな声に戻してこう言った。

「初音の言葉も聞いてあげて下さい。一番苦しいのは、この初音なんですから……」
「…………」
「私達には相談する権利くらいはあるでしょう。でも、どちらを選んでもやっぱり初音の人生です。最後の選択は、初音に委ねられると思いますが……」
「わ、わかったよ、楓ちゃん。初音ちゃん、俺、ちゃんと聞くから」

俺は初音ちゃんの方を向く。
これから訪れる悲劇を思うと、真っ直ぐ初音ちゃんの顔を見るのが辛い。
でも、視線を逸らす訳には行かなかった。

「うん、じゃあ言うよ、耕一お兄ちゃん……」
「ああ……」
「わたし、あの人のところに行くよ。それが一番いいんだろうから」
「……そう言うと思ってたよ、初音ちゃんならな」
「うん……」

初音ちゃんはうつむく。
自分で言っていても辛いんだろう。
でも、俺はそんな初音ちゃんに何もしてあげられないんだ。

「でも、耕一お兄ちゃんは反対なんだよね?」
「当然だろ、俺の初音ちゃんを差し出すなんて……」
「……俺の、なんて言ってくれるんだね」
「ああ、俺の初音ちゃんだ」

そう言って初音ちゃんを抱き締める。
楓ちゃんが見ていたけど、俺は一向に気にしなかった。
俺が初音ちゃんを好きなのは、紛れもない事実なんだから。

「お兄ちゃん……」
「初音ちゃん……」

しばし時が流れる。
が、沈黙を保っていた楓ちゃんが口を開いた。

「耕一さん、初音……」
「あ、楓お姉ちゃん……」
「私の意見も、聞いてくれる?」
「もちろんだよ、楓ちゃん」

決めるのは初音ちゃん。
そう言ったのはこの楓ちゃんだ。
それでも楓ちゃんはこんなことを言う。
何か思うところがあるようだった。

「初音の意志は、もう変わらないと思います。だから私はそれについては何も言いません」
「ああ」
「でも一つだけ、付け足したいことがあります」
「付け足したいこと」
「はい。初音が行くなら、耕一さんも御一緒に――」
「何だって!?」

楓ちゃんが口にしたことは、それだけ驚きだった。

「ですから、初音と一緒に耕一さんも行って下さい。そうすれば、初音も寂しくないから……」
「で、でも楓ちゃん……」
「耕一さんはこの私の目の前で初音が好きと言いました。その言葉は偽りなんですか?」

俺を糾弾するような楓ちゃんの瞳。
そこにはうっすらと涙の色が滲んでいた。

「い、偽りじゃない。俺は初音ちゃんが好きだ」
「なら、問題ないはずです。耕一さん、初音のこと、守ってあげて下さい。二人一緒なら、誰もいないところに行っても耐えられるでしょうから」
「か、楓お姉ちゃん、それじゃ耕一お兄ちゃんが可哀想だよ。行くのはわたし一人で充分だから」

慌てて初音ちゃんが割って入る。
しかし楓ちゃんはまるで千鶴さんのように初音ちゃんを諭した。

「たまには我が侭言ったらどう、初音? そのくらい、許されてもいいって私は思うけど」
「で、でも、そうしたら楓お姉ちゃんが……」

初音ちゃんは楓ちゃんの独白を聞いている。
楓ちゃんがどれだけ俺のことを想っているかも、重々承知しているのだ。

「わたしがいなくなれば、みんな丸く収まるんだよ。お姉ちゃんだって耕一お兄ちゃんと一緒に――」
「それ以上言うと怒るわよ、初音。私は耕一さんの幸せを第一に考えているの。そして耕一さんがあなたのことを愛しているなら、あなたと一緒にいた方がいいのよ」
「で、でも……」
「耕一さんは如何ですか? 初音が行くかどうかは初音の自由ですが、耕一さんが初音と一緒に行くかどうかは、耕一さんに選ぶ権利がありますから」

楓ちゃんは初音ちゃんの言葉を無視して俺に訊ねた。
彼女が言う通り、俺の身の振り方は俺に選ぶ権利がある。
だが、既に俺の腹は決まっていた。

「俺は初音ちゃんと一緒に行くよ、楓ちゃん」
「そうですか……わかりました、耕一さん」
「お、お兄ちゃん!」
「初音ちゃんを独りにはさせないよ。いつまでも、俺が一緒だから」
「そ、そんなっ!」

初音ちゃんはまだ納得出来ない。
しかし俺はさっきの楓ちゃんと同じように無視して敵の大将に返事をすることにした。

「待たせたけど、答えを出すよ」
「うむ」
「『巫女』はそっちに引き渡す。だが、付添人として俺も同行する」
「付添人?」
「そのくらい認めないとは言わさないぜ、鬼の大将」

俺はもう開き直っていた。
俺達の結論はもう出ている。
あとは、行動を起こすだけだった。

「わかった。貴殿の付き添いを認めよう」
「待って下さい」
「か、楓ちゃん?」

俺達の会話に割って入ったのは、なんと楓ちゃんだった。
予想外の出来事に驚いたが、楓ちゃんは静かに敵将に語る。

「この人――耕一さんはただの付添人ではありません。『巫女』の夫として、初音と同行するのです」
「お、おい、楓ちゃん……」
「ですからそういうことで、二人のこと、お願いします」
「わかった。この者を『巫女』の夫として遇しよう。それでよいか?」
「はい」

最早、俺が言うことはなかった。
今、余計なことを言えば、楓ちゃんを辱めることになる。
もうお互いを遠慮し合うような状態ではないのだ。

「これで俺達二人があんたについていくことが決まった。でも、最後に家族に別れを告げたい。少し時間を貰えるか?」
「いいだろう。夜明けまで待とう。それまでの間、大切に過ごすがいい」
「ありがとよ。じゃあ、初音ちゃん、帰ろうか」
「う、うん……」

こうして異星人との話はついた。
俺達はみんなに結果を伝え、別れを告げるために家まで戻ることとなった。

「お兄ちゃん、これでいいのかな……?」

初音ちゃんももう我が侭は言わない。
既に決まったことだった。

「ああ、これでいいんだよ、初音ちゃん。これで……」

俺はそう初音ちゃんに返す。

「…………」

二人のやり取りを聞いている楓ちゃんに言葉はない。
ただじっと目を伏せていた。



「わかりました」

帰って俺が事情を告げると、千鶴さんはそれだけしか言わなかった。

「ごめん、千鶴さん。こんなことになって……」
「いえ、耕一さんは出来る限りのことをして下さいました。文句なんてありません」

千鶴さんは至って静かだ。
まるで何でもないことのように俺の謝罪に応えている。

「ちくしょう……」

梓は唇をきつく噛み締めている。
その苦悶の表情は口惜しさの表われだ。

「梓……」
「触るなっ!」

俺が軽く肩に手を触れようとすると、梓は激しく振り払った。
しかし、俺はそんな梓をなじることも出来ない。

「ちくしょう、どうしてこんなことに……」

だが、事実は変えられない。
梓の理性も、これが最善の策だと言うことを認識しているのだ。
俺も梓と似たような気持ちだからよくわかる。
でも、だからこそ梓にかけてやる言葉が見つからなかった。

「夜明けまで……時間があるんですよね?」

千鶴さんが訊ねる。
完全に夜も更け、今が何時かわからないほどの闇に包まれている。
しかし、俺達に与えられた時間は決して長くはなかった。

「荷造り、したほうがいいでしょうか?」
「初音はどう? 何か持っていきたいもの、ある?」
「ううん、何も要らない。それよりも、みんなでお話したいな。これが最後なんだから……」

初音ちゃんはそう提案した。
それについて誰も反論することはない。
俺達は残された時間を語り明かした。
ともすれば泣き出してしまうような状態の中で、千鶴さんは気丈に振る舞う。
長女として、千鶴さんは率先して話のネタを持ち出した。
梓はずっと塞ぎ込んでいて駄目だったから、代わりに俺が千鶴さんの相手をする。
専ら千鶴さんと俺、初音ちゃんの三人で会話が進んだ。
ちょっとした取るに足りない言葉。
どうでもいいような下らないエピソード。
最後の最後になって出てくるのは、そんな話ばかりだった。
でも、それは本当の思い出。
実に俺達に相応しい内容だった。



「そろそろ……時間でしょうか?」

東の空が白んできた。
約束の夜明けまで、もう間近と言うところだ。

「ですね、千鶴さん」
「いつまでもきりがありませんから……」

だから、そろそろお別れ。
これが、最後の別れだ。

「初音」
「うん……」

千鶴さんは最後に初音ちゃんを呼んだ。
初音ちゃんは小さく返事をすると、千鶴さんの元にやってくる。

「……元気でね、初音」
「うん、お姉ちゃんも」
「最後に……抱き締めてもいい?」
「うん……」

千鶴さんはわざわざ許可を取ってから初音ちゃんを抱き締めた。
身長に開きがあるせいで、包み込むような感じ。
でも、その方が千鶴さんにとっては好都合だった。

「初音っ……」

千鶴さんの顔は、初音ちゃんには見えない。
でも、俺達には見えていた。
あの千鶴さんがむせび泣いている姿を。

「千鶴……お姉ちゃん……」
「初音、初音っ……」

戸惑う初音ちゃん。
決して千鶴さんは妹に泣き顔を見せない。
姉としての立場を最後まで貫きとおした千鶴さんの、美しい姿だった。

「もう、きりがないから。私が独占してたらよくないしね」

そう言って、千鶴さんは初音ちゃんを放す。
その時にはもう、笑顔に戻って初音ちゃんに微笑みかけていた。
初音ちゃんも千鶴さんの泣き声が聞こえなかった訳じゃない。
でも、敢えて口には出さなかった。
それが千鶴さんの優しさに報いるための、唯一の方法だったから。

「そうだね、お姉ちゃん」

初音ちゃんは笑って言う。
見せた笑顔は少しの陰りもなく、見事に千鶴さんの望みに応えていた。

「じゃあ、次は梓――」
「あたしはいい!」

千鶴さんの申し出に、梓は冷たく突っぱねた。

「どうしてなの、梓?」
「そんな、最後のお別れみたいなのなんて……」
「でも、後悔するわよ」
「…………」

梓はうつむいて拳を握り締める。
が、とうとう折れて初音ちゃんを呼び付けた。

「初音、ちょっと来な」
「うん」

初音ちゃんが梓の元に駆け寄る。
梓は無造作に初音ちゃんを抱き寄せると、その耳元でしっかりと言った。

「あたしが教えた料理、忘れるなよ」
「うん……」
「それから耕一のこと、頼んだからな。あいつは誰かが見てないといい加減な奴だから」
「うん、わかった」
「あたしの言いたいことはそれだけだ。次は楓のとこに行きな」

言うだけ言うと、梓は素っ気無く初音ちゃんを突き放した。
でも、誰も梓を責めることなんて出来ない。
みんな梓の気持ちは痛いほどよくわかっていたから。
そしてこれが梓に出来る、精一杯の愛情表現だったから。

「かえで……お姉ちゃん?」
「うん、初音」

ゆっくりと、初音ちゃんが楓ちゃんの元に歩み寄る。
二人の間には並々ならぬ葛藤があっただけに、想いも複雑だった。

「来て、初音……」

そっと抱き締める。
初音ちゃんは何も言わずに、ただ楓ちゃんに従った。

「耕一さんのこと、宜しくお願いね」
「うん……お姉ちゃんも、元気で」
「初音も」

二人の間に身長差はそんなにない。
頬と頬が軽く触れ合うような抱擁を交わし、そっと別れた。

「……ごめんね、楓お姉ちゃん」

最後に一言、初音ちゃんが謝る。

「うん」

楓ちゃんは小さくうなずくだけ。
何も言わなくとも、何についてなのかはよくわかっていた。

「お姉ちゃん、これで最後だから……」

初音ちゃんはそっと促すように言う。
それを受けて、楓ちゃんが俺の方を向いた。

「耕一さん……」
「ああ」

何と言っていいかわからない。
俺にはああとしか言えなかった。

「私のこと……抱き締めて下さい」
「わかった」

余計なことは要らない。
ただ、俺は楓ちゃんを抱き締めた。
その小さな身体を力強く。
今は、楓ちゃんのことだけを想った。

「うれしいです、耕一さん……」

俺の背中に楓ちゃんの腕が回される。
ぎゅっと俺を引き寄せるその力が切なかった。

「楓ちゃん……」

包み込むように抱いてその名を囁く。
自然と、愛おしさが募った。

「……もう、このくらいで……」
「いいの?」
「はい」

俺は楓ちゃんに言われて身体を起こす。
二人の視線が一つになった瞬間、楓ちゃんは何かを求めるように手を差し伸べ、俺の頬にそっと触れた。

「楓ちゃん……」
「最後に……あなたをずっと憶えていられるように……キス、して下さい……」

それが、楓ちゃんの最後の願いだった。
俺は黙って小さくうなずくと、そのまま楓ちゃんを引き寄せる。

「あっ……」

楓ちゃんは微かに震えながら俺の唇を受けている。
薄く開いたその瞳からは、静かに涙の雫が零れている。
俺はその涙を拭おうともせず、ただひたすらにくちづけをした。
今はただ、楓ちゃんだけを見つめて。

そして長いキスを交わした後、俺は自ら楓ちゃんを振り切って言う。

「……行こう、初音ちゃん」

もう、楓ちゃんのことは見なかった。
視線を合わせれば、二人とも辛いだけだったから。

「お兄ちゃん……」
「何も言わないで。もう時間だ」

俺は初音ちゃんの発言を許さなかった。
何故なら俺は今、楓ちゃんに自分の涙を見られたくなかったから。

「……うん、わかったよ、お兄ちゃん」

俺は黙って船に向かう。
初音ちゃんも俺の隣に寄り添うように並んだ。

「じゃあみんな、行ってくるから」

最後に初音ちゃんがみんなに手を振る。
しかし俺はその時もまだ、背中を向けたままだった。

「いってらっしゃい、初音」
「元気でな」

千鶴さんと梓が初音ちゃんに応える。
それを確認した後、俺に続いて船の中に消えた。
音もなくドアが閉まり、微かな振動音と共にスレートが浮上した。

「さよなら、みんな……」

眼下に姉達を見下ろしながら、そっと初音ちゃんが呟く。
しかし、その声は誰の耳にも届かなかった。




「楓……」

千鶴さんがそっと屈んで楓ちゃんの背中をさする。
ただ、周囲には楓ちゃんの鳴咽の音のみが響き渡っていた。

「よく……我慢したわね……」

涙は止まらない。
堰を切ったように溢れていた。
そんな千鶴さんの目にも涙が。
でも、千鶴さんはただ優しく、楓ちゃんの背中をさすり続けていた。


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