夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第四十一話:変化の刻


「姉さん、姉さん、起きて……」
「んっ……ううん……」
「姉さん、お願い、千鶴姉さん……」
「ん……」

誰かに身体が揺さ振られる。
それに合わせて頭がガンガンと響く。

「んん……か、楓? お願いだからもう少し……寝かせ……」
「姉さん、姉さんっ」

頭が痛い。
やっぱり二日酔いかしら?
私、そんなに飲んだつもりは……。

「姉さん、起きて。大事な話があるの……」
「……わ、わかったから……ちょっと静かにして。頭が痛くって……」
「う、うん……」

ようやく静かになった。
揺さ振りも止まって、頭痛も幾分治まる。
眠気も頭痛のおかげで大分吹き飛んで、このまま二度寝をしちゃうようなこと
もなさそうだった。

「……う、うーん……ああ、楓? おはよう」
「おはよう、千鶴姉さん。起きてくれてよかった」

まぶたを開くとそこには楓の姿があった。
声で楓だろうってことは何となく感じていたけど、どうも寝起きのせいか思考
能力が低下してるみたい。でも、きちんとセーラー服に着替えてある楓を見て、
徐々に頭がはっきりとしてきた。

「んー、楓が起こしてくれたってことは、もしかして私、寝坊しちゃった?」
「ううん、そんなことない。さっきも言ったけど、ちょっと姉さんに聞いて欲
しい話があって」
「そう……わかったわ。大事な話なのね?」
「うん」

楓の表情はいつになく神妙だった。
それと言葉の端々に、妙に張り詰めたようなものを感じさせている。
楓の持つ空気がこれだけ普段と違っていると、寝ぼけまなこの私でさえ、すぐ
に特別な何かを感じ取ることが出来た。

「……急ぎなの?」
「ううん、そういう訳でもない」
「じゃあ、顔を洗ってくる時間くらいはあるのね? 少し頭をしゃきっとさせ
てから聞いた方がいいんでしょう?」
「うん、そうして、姉さん」
「わかったわ。じゃあ、すぐ戻ってくるから座って待ってて」
「……うん」

私は楓を部屋に待たせて顔を洗ってくることにした。

でも……一体何が起こったと言うの?
叔父様がお亡くなりになる前後以来、楓がああいう顔をしたことはない。
確かにここしばらくずっと塞ぎ込んでいる様子はあったけど、それは時が解決
してくれるものだと私は思っていた。

楓は人の死を胸に刻み付ける子だ。
それは誰しもそうなんだけど、楓はそれが人よりもずっと深かった。

姉妹の真ん中と言うのは、往々にして宙ぶらりんになる。一番上は強くあるこ
とを望まれ、下の規範となるように求められる。そして一番下はただひたすら
に可愛く愛される。
うちの一番上は私で、一番下は初音だった。そして真ん中には、梓と楓がいる。
梓は妙に対抗心が強かったせいで、気の強い子に育って行った。恐らく、梓に
は両親よりも私の姿が多く映っていたんだと思う。
そして楓には……私じゃなく両親や叔父様の姿が、より映っていたんだろう。

求めても求めただけ愛されない。
そのことが、楓を強く縛り付ける。
みんなの愛をいっぱいに受けていつもにこにこしている初音が太陽ならば、楓
はそんな太陽を静かに見つめ、追いかけ続ける月のような存在だった。

「……さてと、楓にはちょっぴり頼りない姉だけど、ちゃんとしないとね……」

鏡に向かって自分に言い聞かせる。
楓とは、姉妹関係と言うよりも同志だった。
でも、もう少し楓には私を頼って欲しいという思いもある。
確かに楓はしっかりしているけど、歳相応の悩みも弱さも、充分過ぎるほど抱
えていることは明らかだった。



冷水を叩きつけるように顔を洗う。
二日酔いの頭が鈍い悲鳴を上げたけど、それを気合で無理矢理ねじ伏せること
にした。
楓がああいう顔をした時、必ず何かとんでもないことがある。
私はそれをよく知るだけに、いい加減な心構えで楓の話を聞くことは出来なか
った。



「お待たせ、楓。まだ朝ご飯には少しあるみたいね」
「うん。だから初音が呼びに来る前に……」
「わかったわ」

楓と向かい合わせで座る。
表情を引き締め、その話を聞く態勢を作った。

「姉さんはよく知ってると思うけど……耕一さんは叔父様の実の息子さんです」
「え、ええ……」
「つまり、そういうことです……」

楓はそれだけ言うと、そっと静かに目を伏せた。
これ以上言う必要がない、つまり、私もよく理解しているはず、ということだ。

「もしかして、もう……?」
「はい。さっき、耕一さんの部屋で」
「そんな……早過ぎる」

鬼の覚醒。
それは柏木家の男性を襲い続けた悪夢だった。

「あれには早いも遅いもない。何かきっかけさえあれば目を覚ますのは、姉さ
んだって嫌と言うほどわかってると思うけど……」
「そ、そうね。でも……」

でも、早過ぎる。
耕一さんがうちに来てまだ日も浅い。それなのにもう兆候が見え始めてるなん
て、私は信じたくもなかった。

「別に、姉さんのせいじゃないわ。それに姉さんだってこういう可能性がある
と知っていて、耕一さんを呼んだんじゃないの?」
「そうよ。逃げていても、何も始まらないわ。あの辛さはもう、味わいたくな
いもの」
「……うん」

両親を失い、そして叔父様をも失う。
私達は大切な人を柏木の血のせいで失うたび、大きな悲しみと、苦しい混乱の
時を押しつけられてきた。
両親が亡くなった時には叔父様が私達をかばってくれたけど、叔父様が亡くな
り、更に耕一さんまでも失ってしまったら、もう私達姉妹を守ってくれる人は
誰もいない。私達にはもう、後はないのだ。

「……耕一さんには、戦ってもらうしかないわね」

わざわざ何と、とは口にしない。
楓も敢えて問うことなく、小さくうなずいて答えた。

「うん」
「とにかく知らせてくれてありがとう、楓。でも……」
「何?」
「ここしばらく楓がずっと元気なかったのは、もしかしてこれを心配していた
せい?」

楓は表面にこそ出さないものの、とてもやさしい子だ。
初音のような無条件のやさしさとは違い、よく考えた上でそっと自分の感情を
表現する。
深い思慮に裏打ちされたやさしさは、その気持ちを察しようとすればするほど
胸に痛く響いてきた。
そんな楓に同情したりするのはお門違いもはなはだしいけど、そのさり気なさ
に気付いた時には、出来るだけ報いてあげたいと思ってしまう。梓や初音はま
だ子供っぽいところがあるから楓のこういうやさしさには気付かないかもしれ
ないけれど、だからこそ私は楓にやさしくしてあげたい。
私を理解してくれるのが楓だけであるように、楓を理解できるのも私だけだっ
たから……。

「それだけじゃないけど……」
「そう、やっぱり。だから私のこと、少し怒ったりしたの?」

楓は別に私に対して怒っているような素振りは見せていない。
でも、その可能性は充分にあった。
私が耕一さんを呼ぼうと言い出さなければ、こんな結果にはならなかったから。

「ううん。どうして姉さんがそう言ったのか、色々私も考えてみたから」
「そう……ごめんね、楓」

私は楓に謝る。
いくら理解しあっている同志とは言え、口で言わなければわからないことばか
りだ。それを察してもらおうと思うのは、ちょっと私の勝手だったかもしれない。

「そんな……姉さんが謝る必要なんてない」
「でも、楓に色々負担かけちゃって。何だか楓には頼ってばっかりね」

私は顔では笑みを見せながら軽くため息をついた。
事実、私は多くの部分で楓を頼り、助けてもらっている。
それも、頭に浮かべるのも辛すぎることばかりでだ。
いくら頼る相手が楓くらいしかいないとは言え、姉としてちょっと情けなく思
えてしまう。
でも楓は首を左右に振って私の言葉を否定すると、そっと微笑んで慰めてくれた。

「私も姉さんには頼ってばかりだから。姉さんが気に病むことなんてない」
「……ありがと、楓」
「叔父様が亡くなって、姉さんが頼れるのはもう耕一さんだけだから。姉さん
にずっとおんぶにだっこだった私達が、姉さんのちょっとしたわがままを責め
ると思う?」
「楓……」

やっぱり楓はわかっていた。
耕一さんの全てに白黒つけるため、と言えば私が耕一さんを呼んだ言い訳は立つ。
でも、そんなことが目的じゃなかった。
この家族も、叔父様が遺してくれた鶴来屋も、私独りで全てを背負うにはあま
りに重すぎる。私にも誰か、一人でもいいから甘えられる相手が欲しかった。

「きっと耕一さんだったら、姉さんのこと、支えてくれると思う」
「うん」
「だからそんなに無理しないで」
「そうね……」

食欲がなくなって、お酒の量も増えてきた。
梓は耕一さんが来てはしゃいでるだけだって言うかもしれないけど、真実はそ
れだけじゃなかった。
耕一さんの問題も、私達姉妹を取り巻く問題も。
全てが私を押し潰そうとしている。
多分、そんな精神的圧迫感が、そういうところに出てきているんだろう。

「……そうそう、楓には報告しておかないと」
「何、姉さん?」
「また、あの長瀬って刑事が来たわ」
「そう……」
「それに、悪いことにそこを耕一さんに見られてしまったのよ」
「……姉さんはどうするつもり?」

楓は神妙に訊ねた。
なるべくことを大きくしたくはないけど、耕一さんの鬼によくない影響を与え
るんだったら、少し考えなければならない。楓にもそのことがわかっているか
ら、その声も幾分トーンが下がったものに変わっていた。

「だから、それを楓と相談しようと思って。別に放っておいても平気かしら?」
「さぁ……? 耕一さんのことよりも、鶴来屋への影響の方を考えた方がいい
と思うけど……」
「やっぱりそうよね。でも、楓の話を聞くとちょっと耕一さんのことが心配で……」

耕一さんには鬼に打ち勝って欲しい。
もう、今までみたいな悲しみはごめんだった。
耕一さんが勝利する可能性を少しでも高めるのならば、障害物は排除しなくて
はならない。私には、それだけの覚悟が既に備わっていた。

「それはわかる。でも姉さん、下手に動くと厄介じゃない?」
「そうね。だから正攻法で、あの刑事を納得させないと行けないわ」
「うん……」
「私達の周囲を調べられるということ自体が、今は問題なのよ」
「わかってる。疑いは晴れ、捜査なんてもうされないってことをはっきり耕一
さんに示してもらわないと……」
「そうね。余計な目は、邪魔なだけだわ」

そう、これから起こる試練には、何人たりとも邪魔はさせない。
私の、私達姉妹全員の幸せのために。

「じゃあ、どうするの、姉さん?」
「そうね……今まで避けていたけど、ちょっと対応を変えてみるわ」
「具体的には?」
「明日……って言うよりもう今日ね。今日、お昼休みにでも警察署に行ってみ
るわ。それでとことん、あの刑事と話し合ってみる」
「なるほど……それが一番かもね」
「結果はどうなるかわからないけどね。失敗すれば、刑事の好奇心を煽るだけ
で終わってしまうかもしれないし……」
「つまりは姉さん次第、ってことね」
「ええ。だから少し足立さんとも相談してみようと思うの。足立さんなら、私
なんかよりずっと交渉事にも長けてるだろうし、柏木のこともよく知ってるから」

足立さんには迷惑をかけることになるかもしれない。
でも、頼りになるのは事実だ。
私ももう、こうなった以上なりふり構ってはいられなかった。

「わかった。じゃあそっちの方は姉さんに任せるから」
「ええ」
「そして耕一さんのことは……」

そこで楓は一旦言葉を区切る。
私が楓を促そうと口を開きかけたその時、楓は先に私に向かってこう告げた。

「耕一さんのことは初音にも、少し知ってもらおうと思う……」
「えっ……!?」

まさか、ここで初音の名前が出てくるとは思いもよらなかった。

「梓じゃないの? 梓だったらわかるけど、初音は……」

そう、梓だったらわかる。
梓は一応鬼のことも知っているし、それなりに自分の能力を引き出すことも出
来る。
でも初音は……初音はまだ子供だ。
柏木の血が示す能力の片鱗も、今まで少しだって見せようとしたことがない。
私にはどうして楓がこんなことを言い出したのか、少しも理解できなかった。

「もしかして、耕一さんが初音にキスしたことを気にしてるの? あれは……」
「そんなことは関係ないわ」

考えられ得る可能性はそれくらいしかなかった。
何も知らない、何の力も持たない初音を巻き込んで得ることなど、何もないよ
うに思われた。
楓がこんなことを言う原因なんて、それこそ耕一さんと初音の仲を嫉妬して、
嫌がらせをしようとしているからってことくらいしか思いつかない。

でも、楓はきっぱりと否定した。
そもそも楓は大事な話にこんな下らない私情を挟むような子じゃない。
もう私にはさっぱり、訳がわからなかった。

「じゃあどうして……?」
「力だけで考えるだけなら初音よりも梓姉さんの方が有用かもしれない。でも、
私達は耕一さんの鬼を力でねじ伏せようとしているわけじゃないのよ」
「そんなこと……私にだってわかっているわ。でも、それと初音とは全然関係
ないじゃない」
「ううん、だからこそ、初音なの。それに……」
「それに?」
「それに、初音はもうすぐ目覚めるわ。耕一さんの覚醒に先んじて……」

楓は目を伏せながら、語尾をフェードアウトさせていった。
しかし、私の耳にはしっかりと届いた。
初音の覚醒。
そして、それが耕一さんの覚醒よりも先だということ。
それは聞き流すことなど出来ない、重大事だった。

「楓、それって……」
「初音ももう大人になってもおかしくない歳。ただ、それだけ……」
「楓……」

楓のそれは、答えになっていなかった。
でも、私の追及を、ううん、介入を許さないような何かが楓を包んでいた。

「……初音だけが特別じゃない。初音は私達三人の血を分けた妹だもの。それ
に初音は、初音は……」

そっと楓の表情の中に辛そうなものが混じる。
涙こそ流さなかったけれど、それは悲しみの色に染められて行く。

諦めの色?
ううん、それだけじゃない。
色んなものがない交ぜとなって、楓を不思議な色へと染めていた。

「そうね、楓……」

私に楓のことはわからない。
そして、楓が初音の中に何を見出したのかも感じることが出来ない。
楓は初音が特別じゃないと言ったけど、楓自身、初音を特別だと感じているに
違いなかった。
そして私から見れば、そんな楓もまた私や梓とは違って見える。

でも、私は楓の姉だった。
わかってあげられなくてもわかってあげた振りをする。
それで人は救われることがあることを、私はよく知っていた。

私は黙って楓の髪を撫でる。
楓はそれを静かに受け止める。
相互理解には程遠い私達。
でも、心のどこかで理解し合っていた。

楓は私の嘘を受け止める。
それで楓も、私に全てを語っていない罪悪感を和らげることが出来た。

私は楓に言葉を求めない。
楓は私に理解を求めない。
ただ、血と、悲しみとでつながっているだけだった。
でも、こうして撫でてあげることが出来る。
それだけで充分、癒される気がした。

私も楓も、悲しみと苦しみに彩られている。
小暗い秘密が私達をそうさせていた。
でも、でもいつかは……それから解放される日が来るのだろうか。
だから私はそれを期待して、耕一さんを招いた。
この、夏と秋との狭間、変化を迎えるこの刻に……。


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