夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第四十二話:逆


「……うわああっっ!!」

叫び声と共にがばっと身体を起こす。
おぞましいイメージから解放されて、俺はようやく目覚めることが出来たよう
だった。

「お、お兄ちゃん、大丈夫!?」

すぐ傍から声が。
首を傾けると、心配そうな顔をした初音ちゃんが身を乗り出してこっちを見て
いた。

「は、初音ちゃんか……い、いや、平気だよ。ちょっと悪い夢を見てね」

安心させようと思って笑いかけてみる。
正直まだ夢の中の血の臭いを引きずっていたが、昨日の朝ほど酒に酔ってなか
ったのが幸いしてか、気持ち悪さはすぐに回復していった。

「そ、そう……ほんとに平気なの?」
「平気だって。たかが夢なんだし」
「うん……」

初音ちゃんが完全に安心した様子はない。
まあ、あれだけ派手に叫んでりゃな。悪夢は悪夢でもとびきりどぎつい奴だっ
てことは、初音ちゃんにも容易に想像がついたんだろう。

「まあ、確かにちょっとうなされてたかもな。心配かけちゃってごめんね」
「あ、ううん、そんな気にしないで、お兄ちゃん」
「初音ちゃんが気にしちゃうと俺も気にしちゃうな。だからお互いに……ねっ?」
「うん、そうだね。お兄ちゃんが平気だって言うんなら、もう気にしないこと
にする」
「よしよし……」

そう言って俺は初音ちゃんの頭を撫でてやる。
さらさらな髪の毛の手触りが心地いい。
こうやってスキンシップを取ることで、俺も初音ちゃんも、心を穏やかにする
ことが出来た。



「あっ、そう言えばお兄ちゃん、今日は二日酔い、平気?」

しばらく俺の手の平を受けていた初音ちゃんは、突然顔を上げてそう訊ねてきた。

「二日酔い? ああ、今日は平気だよ。千鶴さんはどうか知らないけどね」
「あはは……昨日は散々だったね。わたしも梓お姉ちゃんから聞いたよ」

初音ちゃんは苦笑いを浮かべている。
俺もこれに関しては否定することも出来ない。

「ったく、あの梓の友達の、ええと……なんて名前だっけ?」
「日吉かおりさん……だったと思うよ、確か」
「そうそう、その日吉さんだ。あの娘はもううちには出入り禁止だな」
「そうだね。って言うか、あのお姉ちゃんの切れっぷりを味わったんだから、
もう二度と来る気にはならないんじゃないかな」
「……それもそうだな。ま、梓も充分懲りただろうし、あの娘を連れてくるこ
とはないだろ」
「うんうん」

初音ちゃんと朝の楽しい雑談をする。
射し込む朝日と、吹き抜けるまだ涼気を帯びた空気と、そしてこの笑顔がある。
俺はさっきまで見ていた悪夢のことも忘れて、ただ笑っていた。

「でも、お兄ちゃんが二日酔いじゃなきゃ、今朝は大丈夫だよね?」
「えっ、大丈夫って?」
「朝ご飯。梓お姉ちゃん、すっごい早起きして気合入れてたんだよ」
「そ、そうだったのか……。昨日もなんだかんだで梓には悪いことしたし、今
朝はちゃんとゴチになるかな」
「うん! お姉ちゃんも待ってると思うから、一緒に行こ!」
「ああ」

こうして初音ちゃんに連れられて居間に向かう。
居間までの短い距離の間も、初音ちゃんは妙に嬉しそうだった。
俺もそんな初音ちゃんを見て気分が悪いはずもない。自然と笑みがこぼれて、
何だか不思議な感じだった。

「梓お姉ちゃん、耕一お兄ちゃん起こしてきたよ」
「おう、初音。ご苦労様。っと、おはよう、耕一。朝から初音に起こされるな
んて幸せもんだな」
「うるせー」

からかうように梓が言う。
が、その表面上のからかいの裏には梓の思惑が垣間見えて、俺も言葉のままに
捉えることが出来ず、気恥ずかしさを隠すことが出来なかった。

「もう、二人とも……。お姉ちゃん、ご飯の準備、手伝おうか?」
「あー、いいって、初音は。そこに座って耕一と一緒に話でもしてな」

梓はどうやら俺と初音ちゃんを一緒にいさせたいらしい。
初音ちゃんが俺を起こしに来たのも、恐らくこの梓の差し金なんだろう。
でもまあ、それが梓の作戦だろうと、結果を見れば別に嫌なことでもなんでも
なく、反対に俺にとっては喜ばしい限りだ。
梓のこの台詞に初音ちゃんは困ったような顔をしていたが、俺は梓の厚意に甘
えることにした。

「っと、初音ちゃん。じゃあ少し座って話でもするか」
「えっ、でも……」
「耕一の言う通りだって。別にもうすることもそんなないんだしさ」
「う、うん……」

見てみると、ちゃぶ台の上にはずらりと皿が並んでいる。
皿の中身は別に目新しいものでもなく、ごく普通の朝食のメニューだった。
そして梓の言う通り、もうこれ以上追加のしようもないように俺には見えた。

「メシを盛って味噌汁を注ぐくらいなら梓を手伝おうとしても邪魔なだけだっ
て、初音ちゃん」
「……それもそうだね。じゃあ、お姉ちゃんに甘えて座っていよ、お兄ちゃん」

初音ちゃんも納得したようで、ようやく腰を下ろした。
取り敢えず俺は初音ちゃんの相向かいに座り、じっと見つめてみる。

「お、お兄ちゃん……な、なにかな?」
「ん? いや別に」

初音ちゃんはちょっぴり顔を赤らめてもじもじしている。
まあ、いきなり無言で見つめられては、初音ちゃんも恥ずかしいんだろう。

「そんな……見つめられると恥ずかしいよ」
「別に見つめてるつもりもないんだけど。初音ちゃんがちょうど正面にいるん
だし、不可抗力って奴だよ」

俺はそう言ってわざとぐいと身を乗り出すと、初音ちゃんに視線を固定させる。
初音ちゃんに意地悪をしてはそのかわいい困った顔を楽しんでるなんて、俺も
まだまだ子供なのかもしれない。

「もう、いじわるやめて。お願いだから……」

初音ちゃんが懇願してくる。
俺としてもそんなに困らせる気は毛頭ない。すぐに笑って初音ちゃんを解放し
てあげることにした。

「ごめんごめん。いや、ちょっとした冗談だって」
「うん……もうこれっきりだよ、お兄ちゃん」
「うんうん」
「お兄ちゃんも……色々あるんだもんね。いいよ、許してあげる」

初音ちゃんはすぐに笑顔を見せてくれる。
でも、その色々というのが俺には少し引っかかった。

「色々?」
「うん、昨日はご苦労さま。千鶴お姉ちゃんの相手、お兄ちゃんがしてたんで
しょ?」
「ん、まあね。でも、俺相手だと千鶴さんもそんなでもなかったから」

まあ、初音ちゃんや梓が知る部分では、千鶴さんはとんでもないだけなんだろう。
しかし、あの梓の友達が帰った後、千鶴さんはすぐに大人しくなってくれた。

「そうなんだ……だったらいいんだけど」
「まあ、俺にとっては有意義な時間だったよ。千鶴さんとゆっくり話も出来た
しね」
「へぇ……」

一昨日は俺も酔っ払ってしまって話どころじゃなかった。
でも、昨日の俺は前日の失敗を教訓にして、調子に乗って飲むこともなかった。
そのおかげで俺は割と冷静に千鶴さんの話を聞くことが出来たし、俺が正気だ
ったこともあって、千鶴さんもアルコールの勢いに任せて色々と語ってくれた。

「千鶴さんも、やっぱり色々大変なんだよな。まあ、あの若さでいきなり会長
だ。そりゃ苦労も多いさ……」
「……わたしも千鶴お姉ちゃんの役に立てたらいいんだけどね。でも、お姉ち
ゃんみたいな大人じゃないし……」
「いや、初音ちゃんは今のままでいいって。初音ちゃんがいてくれるから、千
鶴さんも頑張ってお仕事に打ち込めるんだしさ」
「そうかなぁ……?」

初音ちゃんは小首を傾げる。
まあ、これは恐らくだけど、千鶴さんはみんなの前では滅多にああいう話はし
ないんだろう。たとえしたとしても、冗談混じりにして相当ごまかした本音に
してるに違いない。
そもそも千鶴さんにとって三人もいる妹とは、所詮妹でしかない。
頼られこそすれ、決して自分が頼る相手ではないのだ。
無論、家事全般については梓や初音ちゃんに全て支えられていると言ってもいい。
しかしメンタルな部分では、千鶴さんは決して妹達に弱みを見せようとしなか
った。

「そうだって。初音ちゃんや梓のこと、助けてもらってるって言ってたよ」
「うん……」

これは事実だった。
現に昨日の夜、千鶴さんは何度となく二人について感謝の言葉を口にしていた。
しかし、反対に楓ちゃんのことについては何も述べようとしない。俺が気にな
って聞いてみても、笑ってごまかすか聞こえない振りをして違う話を進めてし
まうばかりだった。
楓ちゃんのことはずっと気にかかっていて、それでふざけ半分ではあるけれど、
昨日みんなの前でああいう話をした。
でも、結局梓の友達のせいでそれもぶち壊しになって……楓ちゃんには学校が
あるから話す時間も限られているだけに、俺も少し焦りのようなものを感じて
いた。

「それより初音ちゃん、楓ちゃんのことなんだけど……」
「えっ!?」

初音ちゃんがビクッと身体を震わせる。
その様子はただ驚いたにしては妙に不自然で、俺は嫌な違和感を感じていた。

「っと、どうしたの、初音ちゃん? そんなに驚いて……」
「あっ、ううん、なんでもないよ。びっくりしただけだから」
「……そう? それならいいけど……」
「ご、ごめんね、おっきな声だしちゃって。ちょっと考え事してたから……」

微かな嘘。
それも下手な嘘だった。
でも、嘘にはそれなりの理由がある。
初音ちゃんが俺に真実を告げることを拒むのだったら、俺は無理矢理それを聞
きだそうとはしない。それなりに、俺は初音ちゃんのことを信頼していたからだ。

「そっか。それならいいけど……でも、びっくりさせてごめんね」
「ううん、お兄ちゃんのせいじゃないよ。それよりも楓お姉ちゃんがどうかした?」
「いや、ちょっと元気がないと思って。昨日の朝とかも何だか思いつめてる様
子だったし……」

楓ちゃんに何かあるのは俺にも感じられていた。
でも、楓ちゃんは俺に答えを保留している。待ってくれと言われた以上、俺に
は待つことしか出来ない。
しかし、この初音ちゃんが嘘をつく。
千鶴さんが酔っ払っていても頑なに言及を避ける。
梓はどうか知らないけど、ただ待つだけではまずいような気がしてならなかった。

「うん……楓お姉ちゃんが思いつめてるのは……確かだと思うよ」

少し悩んでいた様子だったが、初音ちゃんはその小さい唇を開いて、そう俺に
教えてくれた。

「そっか……やっぱりな」
「楓お姉ちゃんは何も言わないけど……だからこそ、わたしたちよりもずっと
色んなことを考えてるんだ。ここ最近いろんなことが立て続けに起こったし、
お姉ちゃんが悩んでも当然だと思う……」
「ああ、確かに色々あったな……」

少し思い返してみる。
初音ちゃんも千鶴さんも口を揃えて、親父に一番なついていたのは楓ちゃんだ
と言っていた。
恐らく、それは事実なんだろう。
みんな俺が来ても親父のことはほとんど話さないけど、それは俺を気遣ってい
るのと同時に、自らを過去へと引きずり込まないためでもある。
口にすれば思い出してしまうから、敢えて口にしないようにしているのだ。
楓ちゃんのことは、多分それを他のみんなよりも過度に意識してしまっている
だけなんだろう。
親父のことだけでなく、何かをしゃべるだけで辛いに違いない。
そして俺は……そんな楓ちゃんに、何をしてあげることが出来るんだろうか。

「……初音ちゃん?」
「なに、耕一お兄ちゃん?」
「俺さ……やっぱり来るの、断った方がよかったかな?」
「えっ!? どうしてそんないきなり……」
「いや、だってさ、何だか俺が来ても楓ちゃんのこと、全然癒してあげられて
ないみたいだし……」

楓ちゃんは癒しを求めていない。
それどころか、親父の姿を思い起こさせる息子の俺が傍にいると、視界に入る
だけで親父が思い出されて辛いんだろう。
楓ちゃんは俺のことは嫌いじゃないと言ってくれた。
俺もそれは信じられると思う。
でも、それは俺、柏木耕一というひとつの人格についてでしかない。
それとは別の次元で、俺の存在は楓ちゃんを苦しめていた。

「そんな……そんなことない……よ……」
「でも、現に楓ちゃんは苦しんでる……」
「確かにお姉ちゃんは苦しんでるよ。でもね、それはお兄ちゃんのせいじゃな
いから……」
「わかってるさ。でも、俺は親父に似ている……」

それが全てだった。
俺はこれ以上の説明を初音ちゃんにするつもりはない。
する必要もなかった。
しかし初音ちゃんは俺に向かってきっぱりと言い放つ。

「違うよ、お兄ちゃん!」
「……俺、親父には似てないかい?」
「そ、そういうんじゃなくって……その……」

現実から目を背けるつもりはない。
初音ちゃんの慰めも、今は余計なだけに思えた。

「その、お兄ちゃんはね……逆……なんだよ……」
「逆? 逆って何が?」

俺は少し声を高める。
もうこの話題は、出来ることなら終わりにしたかった。

「お兄ちゃんが叔父ちゃんに似てるんじゃないの。多分……多分叔父ちゃんの
方が、お兄ちゃんに似てるから、楓お姉ちゃんは苦しんでるんだよ……」
「…………」

どういうことかさっぱりだった。
でも、初音ちゃんの様子は真剣で、冗談でもその場凌ぎのごまかしでもないよ
うに思える。
そもそも俺は親父の息子で、まず親父があってこの俺が成立しているんだ。
それに、楓ちゃんにも初音ちゃんにも、俺より親父の方がより親しみがあるに
決まってる。だから俺に親父が似ているなんて、そんな話が通る訳がなかった。

「きっとお姉ちゃんは、叔父ちゃんが死んじゃって擬似的にお兄ちゃんの死を
体験しちゃったんだろうね。だから……だからつらいんだよ、きっと……」
「そんなことって……」

俺は息を飲む。
否定の言葉すら、うまく口に出来なかった。
そして初音ちゃんは俺の目を見て言う。

「耕一お兄ちゃん」
「……あ、ああ」
「さっきみたいなことを楓お姉ちゃんが聞いたら、きっとお姉ちゃんは悲しむ
と思うよ。だからお願いだから、もうあんなことを言うのはやめて」
「……わかった。でも――」
「でもはなしだよ。わたしもお姉ちゃんと同じ。あんなこと言うと怒るよ」

初音ちゃんは軽く睨み付けるようにして、俺をたしなめた。
別に恐くはなく、むしろかわいいだけで恫喝の役には全く立たなかったけど、
俺がこれ以上余計なこだわりを見せれば、初音ちゃんを悲しませるのは確かな
ようだった。

「ああ、もう二度とあんなことは言わない。初音ちゃんの頼みだもんな」
「楓お姉ちゃんのためでもあるんだよ。わたしより、お姉ちゃんを優先して」
「わかったわかった。もう、初音ちゃんにかかったら俺も形無しだな」
「ふふっ、ごめんね、生意気言っちゃって。でも、わたしの言ったことは全部
ほんとのことだから。冗談なんかじゃ全然ないんだよ」

初音ちゃんは笑いながら言う。
俺もそれにつられてようやく笑顔を見せることが出来た。

「お兄ちゃんも色々大変だと思うけど、もっと楓お姉ちゃんのこと、見ててあ
げてね。お姉ちゃんもきっと喜んでくれると思うよ」
「ああ、わかった。初音ちゃんの言う通りにするよ」
「うん……お姉ちゃんのこと、よろしくお願いね」
「うん、お願いされる」
「ありがと、耕一お兄ちゃん……」

やわらかな感謝の言葉。
でも、微かに寂しげな表情が初音ちゃんをよぎった。
俺は一瞬口を開きかけたけど、結局言葉をそのまま飲みこむことにした。

楓ちゃんに色々あるように、きっと初音ちゃんもその小さな身体の中に色々と
溜め込んでいるんだろう。
そして初音ちゃんはそれを俺に見せたくはないに違いない。
人にはそれぞれ秘密があり、それは守られてしかるべきものだ。
俺にだって胸の中にずっと仕舞い込んでいる大切なものがある。
そんな誰にも触れられたくないものがあって……それがあるから、人は強くな
ることが出来る。

初音ちゃんは初音ちゃんの強さを俺に見せてくれる。
それは昨日の千鶴さんの言葉でもよくわかった。
だから、俺は踏み込まない。
そう、初音ちゃんが自分から、俺に自分を開いてくれるその日まで……。


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