夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第四十話:不安と苛立ち


「……じゃ、行ってくるね」
「頼んだよ、初音」

わたしは梓お姉ちゃんに見送られて居間を後にした。
お姉ちゃんはこれからお味噌汁を作って、朝ご飯をちゃぶ台いっぱいに並べる
んだろう。お父さんたちが死んじゃってからずっと、この朝のお仕事は誰に言
われるでもなく、梓お姉ちゃんのものだった。
梓お姉ちゃんはお料理が苦手で朝にも弱い千鶴お姉ちゃんに皮肉っぽく言うこ
とはよくあったけど、この朝ご飯作りに関してはひとことも文句を言ったこと
がなかった。
それをわたしはすごいことだと思う。
きっと梓お姉ちゃんも色々考えてああしてるんだし、それを思うとわたしもお
姉ちゃんに甘えっきりじゃ駄目だって思うんだよね。

「梓お姉ちゃんの……ためだもんね。だから……」

お姉ちゃんはわたしに、耕一お兄ちゃんを起こしてくるように言った。
そしてわたしには、それを拒む理由なんてどこにもない。
でも、でも、楓お姉ちゃんが……。

迷い。
そしてためらい。
わたしは居間を出てすぐ、行き場所を失ってそこに立ちすくんでいた。
お兄ちゃんを起こすことくらい大したことじゃないんだから、別に気にせずさ
らっと起こして来ればそれでいい。そう考えるのが自然だし、これくらい割り
切らないとこれから辛い思いをするのは目に見えていた。
でも、一方では割り切れない自分がいる。
昨日の夜の、楓お姉ちゃんの告白。
いつもは口数の少ない楓お姉ちゃんなだけに、きっとあれは真剣なものなんだ
ろう。

楓お姉ちゃんはなにも求めない。
そしてなにも拒まない。
ただ、静かにそこにいるだけ。
昔から、お姉ちゃんはそうだった。
たったひとりの妹のわたしがいて、そのわたしが甘えんぼうだったから、きっ
と叔父ちゃんや千鶴お姉ちゃんに甘えるわたしを前にして、自分の願望を表に
出すことが出来なかったんだと思う。
それは、千鶴お姉ちゃんにも梓お姉ちゃんにも笑い飛ばされちゃうような些細
なことなんだろう。確かにわたし達家族の絆は、そんなちょっとしたことにこ
だわる必要なんてどこにもなかった。
そして、わたしもそう思う。だから今でもお姉ちゃん達に甘えている。
でも、楓お姉ちゃんだけはそうじゃなかった。
欲しいものを欲しいって言わないし、したいことがあったとしてもそれを口に
はおろか顔にも出さない。それは今までも、そして今現在も変わらなかった。

「でも……」

そんな楓お姉ちゃんがはっきりと口にした。
耕一お兄ちゃんが好きだ、って。
今までのお姉ちゃんを考えれば、それはびっくりするくらい特別なこと。
それだけに、きっと想いも強いんだと思う。

わたしの耕一お兄ちゃんに対する気持ちはなんとなくのもの。
楓お姉ちゃんみたいに、ああ断言することは出来ない。
好きなのに変わりはないと思うけど、まだ頭の上にはてなマークがついてるよ
うな、よくわかんない状態なんだよね。
だから、そんなわたしがお姉ちゃんの邪魔をしちゃうのもどうかと思う。
それよりもむしろ、お姉ちゃんに協力した方がいいよね。
梓お姉ちゃんは楓お姉ちゃんのことをまだ知らないから、昨日のことだけでわ
たしとお兄ちゃんをどうにかしようって考えてるみたいだけど、楓お姉ちゃん
のあれを聞いたらどう思うかな。わたしは梓お姉ちゃんじゃないから、なんと
も言えないんだけど。

「うーん……あっ、そうか、先に楓お姉ちゃんを起こしてお姉ちゃんに耕一お
兄ちゃんを起こしてもらえばいいんだ」

これは名案。
きっとこれですべて丸くおさまると思う。
わたしは決断を下すと、足早に楓お姉ちゃんの部屋に向かった。



「……さてと、楓お姉ちゃんだったら、もしかしたら起きてるかもね」

お姉ちゃんは結構寝起きはいい方だと思う。
まあ、やっぱり起き抜けだとぼんやりしてるんだけど、それでも起こせばちゃ
んと起きてくれるからありがたい。こういうとこは、千鶴お姉ちゃんとは違う
んだよね。
だからわたしが起こしに行ったりしても、既に起きててベッドの上に腰かけて
ることなんかも多かったりする。楓お姉ちゃんの場合、ほっといてもちゃんと
起きてくるしね。まあ、それでも遅刻するとまずいし、起こしてあげないのも
冷たいと思って一応ちゃんと起こそうとはしてるんだけど。

今朝の空気はいつもよりちょっぴり涼しくて、秋の訪れをわたしにも感じさせる。
梓お姉ちゃんが言うように、あったかいお茶がおいしい季節も近くなってきた。
変な夢はまた見ちゃったけど、それでもそんなに寝苦しい感じはしなくて、わ
たしもすっきりと目覚めることが出来た。
だから楓お姉ちゃんもきっと……。

「……楓お姉ちゃん、起きてる?」

確信もなにもない勝手な予想で、わたしはお姉ちゃんがもう起きてるだろうと
思っていた。それでも一応声をかけながら音を立てないように静かにゆっくり
とドアのノブを回して部屋の中をのぞきこんだ。

「あれっ……?」

でも、部屋の中に楓お姉ちゃんの姿はなかった。
見まわしてみても、その中には誰もいない。

「っと、だったら洗面所かな?」

そう思ってわたしは洗面所に行ってみる。
しかし、そこももぬけのからだった。

「トイレにもいないみたいだし……どこ行ったんだろ?」

楓お姉ちゃんがいない。
もしかしたら入れ違いで梓お姉ちゃんのところに行っちゃったのかとも考えた
けど、すぐにそれはないと思った。二人とも、別に嫌いってわけじゃないんだ
ろうけど、ちょっとお互いに苦手に思ってるみたいなんだよね。
まあ、タイプは正反対だし、しょうがないかな。それに二人ともあんまり相手
に合わせるって感じでもないしね。だからあんまりあの二人が二人っきりでい
ることはずっと一緒に暮らしてきた妹のわたしでも、あんまりお目にかかった
ことがない。
だとすると――



わたしの足はある場所へと向かう。
こういうわたしの直感、結構当たるんだよね。沙織ちゃんにも将来は占い師に
なるべきだってからかわれたこともあるくらいだし……。

そして、静かに障子を開く。
夏の名残を感じさせる、ちょっと強めの朝日が部屋の中に注ぎ込んで……楓お
姉ちゃんのさらさらした髪の毛を照らした。

「楓お姉ちゃん……」

やっぱりここにいた。
お姉ちゃんを見つけてから、最近のお姉ちゃんだったら仏間っていう可能性も
あったなー、なんて全然意味のないことを思った。

「……初音?」

突然入りこんできた朝日を感じて、お姉ちゃんはゆっくりと振り向いてこっち
を見る。その表情の中には、微かな驚きと共に、やっぱりというものも感じさ
せた。

「う、うん……おはよ、楓お姉ちゃん」
「おはよう、初音。耕一さんを起こしに来たの?」
「う、うん……」

布団の上で寝ている耕一お兄ちゃんは、わたし達がそばにいるのも気付かずに
よく眠っていた。わたしの視線がお兄ちゃんの顔に移ると、楓お姉ちゃんもそ
っとお兄ちゃんの寝顔を見つめた。

「も、もしかして、お邪魔だったかな……?」
「ううん、そんなことない……」

気まずい雰囲気。
でも、お姉ちゃんはわたしを拒まない。
客観的に考えれば、わたしに出て行けって言う権利なんてお姉ちゃんにはない。
だけどわたしが耕一お兄ちゃんとの二人きりの時間を邪魔したようで、なんと
なく悪者になったような感じがしていた。

「お姉ちゃんも……耕一お兄ちゃんを起こしに来たの?」

真実は違う。
わたしはお兄ちゃんを起こしに来たんじゃなく、楓お姉ちゃんを探してここに
やってきた。
でも、楓お姉ちゃんの場合は……きっとそういうことなんだろう。

「……違う」
「えっ?」

お姉ちゃんは小さく首を左右に振る。
わたしは驚いて、お兄ちゃんが寝ているにもかかわらず声をあげた。

「ち、違うの?」
「うん……今日は耕一さんの、寝顔を見に来ただけだから」
「そ、そうなんだ……」

なんとなく、立ち入ることの出来ない空気。
寝顔を見に来ただけってさらっと言えるお姉ちゃんが、今までとは別人のよう
に見えた。

「だから初音、悪いんだけどもう少しだけ、待ってくれない?」
「わ、わたしは別にいいけど……」
「耕一さんを起こす役目は、ちゃんと初音に任せるから」
「そんな、わたしは別に……」
「いいの?」

お姉ちゃんがやさしくわたしに問いかける。
お姉ちゃんはわたしの気持ちを知って、それで自分の気持ちもちゃんと理解し
てて、それなのにこんなことを言う。
楓お姉ちゃんは口数こそ少なかったけど、昔からとってもやさしかった。でも、
今はそれ以上のやさしさをお姉ちゃんから感じている。

どうしてそんなにやさしそうな顔が出来るの?
お姉ちゃんの強い想いを察すれば、わたしに対して嫉妬したりしても全然不思
議じゃないのに。

「初音も……耕一さんのことが好きなんでしょう?」
「でも……お姉ちゃんはお兄ちゃんのこと……」
「遠慮してくれてるの?」
「う、うん……」

わたしの気持ちは遠慮なんて言葉だけじゃ語りきれない。
でも、ひとことで言えば、そういうことになるんだろう。

「……別に、いいのに」
「どうして?」
「耕一さんは、別に私のことが好きって訳じゃないもの」
「それは……」
「だから、遠慮するなら耕一さんが私のことを好きだってはっきり言ってから
にして。それまでは、私も初音の優しさに甘えるつもりなんてないから」

これは強い自信?
それとも大切な妹に対するやさしさ?
わたしには、なんとも言えなかった。

「ちゃんと、公平にしないとね。そうでしょ、初音?」
「う、うん」
「私のことも、別に気にしなくていいから」
「そんなこと言われても……わたしには無理だよ」

これがわたしの本音だった。
気にするなって言われても、気にしないでなんかいられない。
わたしは昔っからなんでも気にするタイプだったから、今更それを変えること
なんて出来そうもなかった。
でも、そんなわたしに対して、楓お姉ちゃんは少しだけ厳しい目をしてわたし
に言う。

「無理だと思ったらそれでもいい。別に、初音に無理してどうこうしろなんて、
私は言わないから」
「うん……」
「私も初音と同じ。無理して自分を変えるつもりなんて少しもない……」
「えっ?」
「でも、耕一さんが好きだから。だからそれに合わせて勝手に変わっていくの。
もし初音が心から耕一さんのことを想っているなら、私と同じように変わって
いくわ。下らない遠慮なんて、きっとしなくなるはず」
「お姉ちゃん……」

やっと、どういうことかわかった。
楓お姉ちゃんを前にしてずっと感じていた違和感は、これが原因だったんだ。
お姉ちゃんは耕一お兄ちゃんに恋をして、そしてその恋がお姉ちゃんを変えた。
そしてわたしは……わたしはこれから、どうなって行くんだろう?

「わたしも……わたしも変わっちゃうのかなぁ?」
「……さぁ? 私には、初音のことはわからない」
「……それもそうだね」
「ええ」
「お姉ちゃんはわたしに……変わって欲しい?」
「どっちでも。それが自然なことなら、私は貴方を受け入れるわ」
「そ、そうだよね。わたしにも、楓お姉ちゃんは楓お姉ちゃんだし」
「うん」

笑顔でうなずいてくれる。
わたしもそんなお姉ちゃんに導かれて、にっこりと笑って見せた。
色々と変わることはあるけど、でも、わたしがお姉ちゃんの妹で、お姉ちゃん
はわたしのお姉ちゃんで、そしてお互いに大事な家族なんだってことは少しも
変わらない。
何があっても、いつまで経っても。



穏やかな空気が流れる。
こういう空気が、わたしは大好きだった。
お姉ちゃんがいてわたしがいて、そして耕一お兄ちゃんがいる。
言葉はなくても、一緒にいるだけで心が和んだ。
でも――

「……うっ、ううっ……くっ……」
「お、お兄ちゃん!?」

わたしと楓お姉ちゃんが和んでいるのに、眠っているお兄ちゃんはいきなりう
なされはじめた。
わたしはあわててそばに行って起こしてあげようとしたんだけど、それをお姉
ちゃんが静かにとめた。

「待って、初音」
「えっ、で、でも、お兄ちゃんうなされてるよ」
「いいから。黙って見てて」

楓お姉ちゃんの視線はとたんに厳しいものへと変わる。
それがわたしを食いとめていた。

「ど、どうしてなの、楓お姉ちゃん?」
「夢を……夢を見てるの」
「そ、それはわかるよ。でも、いい夢じゃないからうなされてるんでしょ?」
「多分ね。でも、歯車は回り始めてしまった。私と千鶴姉さんはずっと気にか
けていたのに……」
「それって……?」
「初音は知らなくていいことよ。でも、始まってしまったからには、それから
逃げることは出来ない。姉さんも、それは覚悟していたこと」

お姉ちゃんの表情は厳しさを増して行く。
うなされるお兄ちゃんを見守るその様子は、ただの悪夢と戦うそれじゃなかった。

「ただの……ただの悪い夢じゃないの?」
「ええ」
「じゃあ……わたし達のみたいに?」
「それとは……多分違うと思う」
「じゃあ……」

それに対するお姉ちゃんの言葉はなかった。
お姉ちゃんは耕一お兄ちゃんと同じように額に汗を流している。
くわしいことはよくわかんなかったけど、二人ともとっても辛そうだった。

そしてしばらくお兄ちゃんの苦しそうな表情を見守った後、楓お姉ちゃんはお
もむろにこっちを向いて言った。

「そろそろ起きると思うから。だから初音は傍にいてあげて」
「えっ?」
「私はもう、行くから」
「で、でも……」
「耕一さんを起こす役目は、初音のものだから。じゃあ……」

そう言うと、お姉ちゃんはわたしの反論を聞こうともせず、そのまますっと立
ち上がると部屋を出て行ってしまった。
わたしはぽかんとしたまま、楓お姉ちゃんが出て行った先をぼんやりと眺めて
いる。

「……どういうこと?」

よくわからない。
でも、お姉ちゃんが言うように、なにかが起こり始めていた。
単純に好きとか嫌いじゃ語りきれない、そんななにか。
わたしはわからないっていうだけじゃない不安を感じていた。

「……やな感じ。わたし、恐いよ……」

でも、苦しんでるのはわたしじゃない。
ここで誰にも救ってもらえずうめきながら油汗を流して……。

わたしにいったいなにが出来るの?
わたしは自分の子供っぽい無力さに、少しだけいらだちを感じていた……。


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