夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第三十九話:震え

「うしっ、こんなもんだろ!」

煮物の味見をして、あたしは取り敢えず朝食の準備を完了させた。
あとは弁当を詰めたり味噌汁を作ったり塩鮭を焼くだけだ。

「それにしても、今日こそちゃんと食えるんだろうなぁ?」

一昨日の晩飯はビールだった。
そして昨日の朝飯は味噌汁だけだった。

「んで、昨日の夜は……あれ、何食ったっけ?」

自分でもよく覚えていないくらいだ。
これも全ては千鶴姉のせい。ったく、耕一にビールを飲ませたり勝手に暴走し
て温かな家族の団欒を台無しにしてみたり、全く以ってタチが悪いったらあり
ゃしない。だから今日の朝こそちゃんとしたものを食わせてやろうと、あたし
はかなり意気込んでいた。

「ん〜、おはよ、梓お姉ちゃん」
「っと、おはよう、初音。今日はちょっと遅いんだな」

エプロンを外してちょっと朝のニュースでも見ようかと思った時、丁度初音が
起きてきた。
初音はまだちゃんと目が覚めてないのか、パジャマ姿で眠そうに目をこすって
いる。それでもちゃんとまず最初にお勝手に来て朝食の進行状況を確認すると
こなんかがかわいいんだよな。楓なんかもそういう女の子らしいところがあれ
ば、もう少し角が取れて男にももてるんだろうに。

「あ、うん……ごめんね、お姉ちゃん。ちょっと夜更かししちゃった」
「ん、別にいいよ、初音。遅いって言っても、初音が二番手だしさ」
「そ、それはあんまりなぐさめになってないよ〜」
「それもそだな。あははは」

そう言ってからからと笑う。
初音も苦笑いを浮かべているけど、まだちょっと笑えるほど目覚めてないんだ
ろう。
それはともかく、初音の発言は的を得ている。
うちでは黙っててもあたしと初音が全部やるから、こう、他の連中はことごと
くだらしなくなるんだよな。だからあたしも初音には遅いって言ったけど、そ
れはいつもと比較しての話で、千鶴姉や楓に比べれば随分と早い。初音びいき
のあたしとしては、もうちょっとあたしに甘えてゆっくりしててもいいかな、
なんて思うんだけど。

「顔洗って着替えてから、すぐに手伝うね、お姉ちゃん」
「あ、いいって、もう終わりだよ」
「え、そうなの?」

少し驚いた様子で、初音は台所を覗き込む。
そこにはあたしの早起きの成果が綺麗に並んでいた。

「うわぁ〜、お姉ちゃん、気合たっぷりだね。朝からごちそうじゃない」
「そ、そんなでもないって。ちょっと冷蔵庫の整理をしただけだよ」

あたしは鼻先をぽりぽりとかいて、恥ずかしそうに否定する。
でも、やっぱり初音にすらバレバレだよな、こりゃ。朝から真面目に時間のか
かる煮物なんか作ってる時点で、あたしの気合は隠せない。

「……うん、じゃあ、そういうことにしとくね」
「あ、ああ」
「じゃ、お姉ちゃん、もうわたしに出来ることないかもしれないけど、一緒に
お茶でも飲も?」
「そうだな。じゃあ、待ってるから着替えて来な」
「はーい」

初音はぱたぱたとスリッパを鳴らしながら洗面所の方へと消えて行く。
あたしは初音の背中を見送ると、これ以上初音に何もさせないように、そんな
に散らかってもいない台所を片付けることにした。

「はぁ……ホントにいい子だよ、あたしの初音は」

ため息が出るほどかわいい。
普段もそう思ってるんだけど、こう、朝一ではあたしにだけあの笑顔が注がれ
てるから、それが何とも言えないんだよな。初音は誰にでもあんな風にやさし
いけど、だからこそそれが独占できるのは幸せってもんだ。
それを思うと耕一の奴は――

「畜生……」

つい、憎まれ口を叩きたくなってしまう。
でも、初音の気持ちも耕一に向いてるみたいだから、これが何とも言えないん
だよな。



片付けをしながら先に弁当を詰めることにする。
焼鮭も入れるつもりだったから、それに合わせて詰めるつもりだったんだけど、
今日はおかずも豊富だし、やめることにした。
何となく、ちょっと初音との語らいの時間が欲しかったからだ。
初音が耕一と仲良くなったからって、別にあたしとの関係が変わるはずもない
んだけど、気持ち的にあたしの初音が取られちまう気がして、心のどこかで微
かに不安を感じていたのかもしれない。

テレビをつけて朝刊をちゃぶ台の上に置いて、それからお茶の準備をする。

「今日は……そだな、緑茶にするか」

朝の爽やかな空気が、あたしに熱い緑茶を選択させた。
初音はキンキンに冷やした麦茶が好きなんだけど、多分緑茶でも文句は言わな
いだろう。
うちの面子は総じて年寄りくさいからな。これは千鶴姉だろうと初音だろうと
変わらない。ま、いい意味で庶民っぽいってことだ。あたしはそういうところ
がこの柏木家のよさだと勝手に思っている。

「ふふっ、準備万端だね、お姉ちゃん」
「お、初音か。早かったな」

思いのほか早く初音があたしの前に姿を見せた。
丁度あたしもお茶の準備を終えたところだ。

「あっ、今朝は緑茶?」
「ああ。嫌だったか?」
「そんなことないよ。ごくごく飲めないけど、おいしいから」
「そう言ってくれてうれしいよ」

早速ポットから急須にお湯を注ぐ。
初音も慣れたもので、無言で逆さにしておいた湯のみを二つ、ちゃぶ台の上に
並べた。

「はぁ〜、たまにはいいね、熱いのも」
「そうだな。まだ寒いって訳じゃないけど、すぐにこれが合う季節になるだろ
うし……」

あたしと初音は向かい合わせになって熱い緑茶をすする。
このまったりとした時間は、普通の慌しい家庭の朝にはないものだ。
人一倍早起きをして、黙ってみんなの朝食の準備をして……その報酬がこれだ
とあたしは思っていた。

「もう……秋になっちゃったのかな?」
「そろそろそう言ってもいい季節だな。でもなんだ、やっぱり初音はまだ夏の
方がいいのか? あたしはもういい加減この暑苦しさも勘弁して欲しいけど」

両手で湯のみを握り締めながら、しみじみと初音が呟いた。
あたしは普通に返事をする。あたしも夏は嫌いじゃないけど、もう充分夏は堪
能させてもらった。夏休みも終わったことで切りもいいし、夏をお開きにする
ことに然程未練はなかった。

「うん……わたしも暑いのは嫌いなんだけどね。でも……」
「夏休みももう終わったんだぞ。そろそろ夏気分ともおさらばしていいんじゃ
ないか?」
「そうだね……梓お姉ちゃんの言う通りかも」
「……初音?」

初音らしくもない、物憂い感じ。
あんまし初音に似つかわしくもないだけに、あたしは少し気になってその名を
呼んだ。

「ん、なに、お姉ちゃん?」
「……どうかしたのか?」
「別に……なんでもないよ」
「そうか?」
「うん、あっ、もしかして心配させちゃった?」
「あ、ああ……」

初音は明るい顔を見せる。
これが本当の笑顔なのか、微妙過ぎてあたしには判別がつかなかった。

「なんでもないよ。ちょっと変な夢みただけ」
「そっか。ならいいけどさ」
「うん。だから心配しないで。耕一お兄ちゃんも来てるんだし、初音は元気い
っぱいだよ」

そう言って初音はガッツポーズをして見せる。
まあ、初音にも色々あるのかもしれないけど、あたしはこの子がそう簡単には
挫けない子だってよく知ってる。明るく振舞えるってことは、誰よりも強いっ
て証なんだ。
反対に……うちで弱いのはあたしとか楓だ。そのことは二人ともよくわかって
ると思う。
楓は自分の殻に閉じこもることで弱さを隠し、あたしはわざと粗暴に振舞うこ
とで自分をごまかしてる。あたしも初音もうちの中ではよく笑う方だけど、そ
の笑いの質は全然正反対だ。初音の笑顔は周囲に元気を振り撒く、何かを与え
るプラスのものなのに、あたしの笑顔はそんなんじゃない。きっとみんなはそ
うじゃないって否定してくれるだろうけど、あたしはそんな慰めをほいほい受
け入れるにはちょっと大人になっちまった。自分のことは自分が一番よくわか
ってるんだしな。

「そうだな。んじゃ、そろそろ二人で奴等を起こしに行って来るか?」
「うん! でも……」

気分を改め、みんなを起こしに行こうと思ったけど、何故かここで初音が言葉
を濁した。あたしは疑問に思って初音に聞き返す。

「んっ、どうした、初音?」
「あ、うん。ほら、昨日の千鶴お姉ちゃん……」
「あ、そっか。初音はあたしが部屋に帰したんだし……」
「昨日はありがとね、お姉ちゃん。わたしも助かったよ」

初音は心から感謝の言葉を述べる。
まあ……昨日は凄かったからな。あたしが初音や楓を部屋に逃がさなかったら
一体どうなっていたことか。初音にもそれが容易に想像できるだろうから、こ
の心の底からほっとした顔は掛け値なしのものだと言えた。

「ま、まあな」
「でも、昨日はあれからどうしたの?」
「いや、あたしも知らん。あんなとこに長居できるはずないだろ」
「あはは、それもそうだよね……」

初音が乾いた笑いを見せる。
千鶴姉も自分の言動にこんな笑いを初音が浮かべるってことをちっとは考えて
見ろってもんだ。あたしだけじゃなく千鶴姉も初音にはべたべただから、少し
は悔い改めても当然だろうに。

「だから、あたしもかおりを送る……いや、逃がすって言った方がいいな。と
もかくかおりを外に出して、そのまま自分の部屋に戻ったんだよ」
「じゃあ、千鶴お姉ちゃんの相手は……」
「ああ、耕一ひとりの手に委ねられた」
「そ、それって結構哀れだよ……」
「言うな。初音だってあの千鶴姉の相手はしたくないだろ?」
「でも……」
「安心しろ、初音。あたしはちゃんと責任を持って夜中に確認しに来たから」
「あっ、そう言えば……ここ、ぐちゃぐちゃだったんじゃないの?」
「いや、それがそんなでもなかった」
「嘘ぉ……」

初音は目を丸くして驚いている。
でも、それは当然の反応だよな。正直あたしもそれなりの覚悟をして臨んだも
んだ。しかし居間を覗いて見れば、割れている皿もなく、使った食器はみんな
流しに運ばれていて、洗われてはいなかったもののちゃんと水に浸けられていた。
これにはあたしも驚かずにいられるかってもんだ。

「洗い物は残ってたけど、それは別に普通だったから、朝飯作り始める前にぱ
ぱっと洗っちまったしな」
「って、それだけ?」
「ああ、それだけ。びっくりするだろ?」
「う、うん……」
「あたしもびっくりだ。もし千鶴姉がやったんなら……」
「お皿、割れてるだろうね」
「その通り。ってーことは……?」

そう、耕一だ。
千鶴姉でなければ、残るは耕一の奴しかいない。

「耕一お兄ちゃん? だったら何だかものすごーく悪いことしちゃったね」
「あ、ああ……確かに。千鶴姉を押しつけた上に、事後処理まで……」
「そうだね。じゃあ、少しゆっくり寝かせてあげた方がいいかな?」
「まあ、耕一はあたし達と違って特に朝早くどうこうする用事もないしな。こ
のまま惰眠を貪っても――」

と、そう言いかけた時、初音の表情が変わった。
そして言葉をとめたあたしに向かって、申し訳なさそうな声で言って来る。

「でも、梓お姉ちゃん……頑張って朝ご飯、作ったんでしょ……?」
「あ……」

そう、今日の朝飯は気合が入っていた。
その気合がどこに向けられているものなのか……初音でなくてもわかるだろう。
そして初音は自分も耕一のことが好きなだけに、あたしの影の努力に秘められ
た気持ちを察することが出来るに違いない。

「だったらお兄ちゃんには悪いけど、ちゃんと起きてあったかいうちに食べて
もらおうよ。お姉ちゃん、ずっと頑張ってきたのに、まともに食べてもらって
こと、まだないんだし……」
「初音……」
「耕一お兄ちゃんもはじめはぶつぶつ言うかもしれないけど、きっとひとくち
食べれば起きてよかったって思うに決まってるって。梓お姉ちゃんのご飯、お
いしいもんね」

初音はあたしのことをわかってくれてる。
変な意味じゃなく、純粋にあたしの努力に対して理解し、それに報いようとし
てくれてる。
そのことがあたしはうれしくて、うれしくてたまらなくなって、思わず初音を
抱きしめてしまった。

「ううっ、初音っ!!」
「あっ、お姉ちゃん……」
「うう、あたしゃうれしいよ。こんなやさしい妹を持てて……」
「そんなぁ……恥ずかしいよ。わたし……」
「あたしはいつでもずっと、初音の味方だからなっ」

ぎゅっと抱き締める。
腕の中の初音は柔らかくて、少しだけ石けんのいい匂いがした。

「うん、わたしも……梓お姉ちゃんの味方だよ」
「もう、耕一だろうとなんだろうとみんな初音にくれてやるよ。千鶴姉にも楓
にも、この梓姉さんが文句言わせないから……」

あたしの発言は勢いに任せたものだった。
そんなに深い意味もなかった。
でも、一方でそれは否定されるべきものでもなく、気付いたあたしも気にせず
そのまま流すことにした。
しかし――

「お姉ちゃん、それは……」
「……初音?」
「それは、別にいいよ。わたしは別に……」

あたしの腕の中で初音の小さな身体が微かに震える。
か細い声が、あたしの不安を煽った。

「おい、初音……どうしたんだよ?」
「ううん、別に……でも、わたしはなにも要らないから。ずっとずっと、お姉
ちゃん達が元気でいてくれれば、それで……」
「…………」

あたしはそんな初音に言葉を返すことが出来なかった。
何か初音の触れられたくない部分に触れてしまったんだろうか。
初音の震えは恐れと……何とも言えない感情に包まれていた。

人は恋をすると変わってしまうと言う。
初音も恋をして、変わってしまったんだろうか。
それが大人になるって言うことなのかもしれないけど……あたしには素直に受
け止めることが出来なかった。
初音に変わって欲しくない訳じゃない。
かわいい妹の成長は、よき姉として喜ぶべきことだった。
でも……あたしの心はそれを否定している。
あたしの本能は……あたしの中に棲む鬼は、初音の言葉によくないものを、何
か感じ取っていた……。


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