夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第三十八話:はじまり

色々なことがあった一日が終わろうとしている。
最後はドタバタのうちに終わろうとしているけれど、これはこれでよかったの
かもしれない。
窓の外からは小さく秋の虫の音が。
秋の静寂さは、少しも私達に妨げられない。

「…………」

夜も更け、みんながみんな、眠りに就こうとしている。
千鶴姉さんだけはまだふてて耕一さんに絡んでいることだろうか?
困った表情で姉さんの相手をしている耕一さんの姿を思い浮かべて、私は少し
穏やかな気持ちになった。

「でも……」

初音のことは驚きだった。
ただ、詳しく話を聞いてみれば、なるほどと思える節もあった。
初音のやさしさが耕一さんを包み込む。
それは初音以外の誰にも出来ることじゃない。初音だからこそ、耕一さんを融
かしたのだ。

初音のように振舞うことが出来れば。
そうすれば何と楽になれることだろう。
でも、私は初音じゃない。
この星の中に柏木初音はたったひとりだけで……そして柏木楓も、たったひと
りしかいない。
初音には初音のよさがあり、私には私のよさがある。
そんなことは誰に言われるまでもなく、自分が一番よく知っていた。

「それなのに、私は耕一さんに告白なんて……」

今夜、するつもりだった。
藤田君に励まされて、自分でもそれが一番正しい道だと思っていた。
そしてそれは今でも変わらない。
でも、初音の面影が私の脳裏をよぎって……どうしてこんなに初音のことが引
っかかるのだろう?

そう思っていると、静かに部屋のドアをノックする音が響いた。

「楓お姉ちゃん、ちょっといいかな……?」

それは、初音だった。
声もまさしく初音のそれだったし、私のことをお姉ちゃんと呼ぶのは、後にも
先にも初音ただひとりだった。

「いいわよ、初音。まだ寝てないから」
「うん……」

私が促すと、初音は音を立てないように静かにドアを開けて、その姿を私の前
に見せた。

「……どうしたの、初音?」
「あ、うん。ちょっと楓お姉ちゃんとお話したくって」

初音は笑みを見せる。
それは夜になっても少しも曇ることのない、おひさまの笑顔だ。
これだけで、誰もが少しだけやさしくなれる。
色々思い悩むところがあった私だったけれど、初音の笑顔の前に一気に吹き飛
ばされてしまっていた。

「今日は何だかぐちゃぐちゃだったね、お姉ちゃん」

初音は私のベッドに腰を下ろすと、そう言って苦々しく笑った。

「そうね……あの梓姉さんのお友達、物凄かったから……」
「うんうん、千鶴お姉ちゃんにあんなこと平気な顔して言うなんて、結構勇者
だよね」

私達は取り敢えず、今夜の食卓について話をする。
客観的に見れば、あれは本日の柏木家に振りかかった最大の事件だと言えるだ
ろう。

「千鶴姉さんはああ見えて大人気ないところ、あるから」
「でも、それが千鶴お姉ちゃんのかわいいところだよね。やっぱり堅苦しいだ
けじゃつまんないよ」
「そうね。私も同感」

私は軽く笑みを洩らして初音の言葉に賛同する。
千鶴姉さんは決して納得しないだろうけど、周囲の人間は誰しもそう思っていた。
少なくとも、初音や梓姉さんはあれを姉さんの魅力のひとつだと思っている。
そして多分、耕一さんも……。

「梓お姉ちゃんもそれがわかってるから、いっつも千鶴お姉ちゃんを挑発する
のかなぁ?」
「さぁ? そこまで深く考えてもないんじゃない?」
「……やっぱり?」
「うん」

私と初音は顔を合わせて笑う。
両者の笑顔は全く違うけど、本質は同じところから来ていた。
私も初音も、自分のことでないなら細かいこともよくわかる。でも、自分のこ
ととなるとさっぱりだった。
そしてだからこそ、初音は今日、ここに来たんだろう。

「……色々あったよね、今日は……」

初音がしみじみ言う。
今日は初音にとって、記念すべき一日になったことだろう。
その内容を思うと私も心中複雑だったけど、同じ女の子として、初音の喜びは
私にもよくわかった。

「ファーストキス、初音に先、越されちゃったわね……」
「あっ……」

事実は覆されない。
だから正面から受け止める必要があった。
今の私には勇気が一番求められている。こんなことくらいから目を逸らしてい
る訳には行かなかった。

「ご、ごめんね、お姉ちゃん……」
「どうして謝るの、初音は?」
「う、うん……」

初音は明確な答えを口に出来ない。
恐らく、何となく口に上ったものなんだろう。でも、それは少しもいい加減な
ものではなく、初音の本能がそう言わせたものだった。

「お姉ちゃんには、謝るべきだと思って」
「そう……」

私はそんな初音を否定しない。
自分の気持ちも、もう否定しない。

「初音は……」
「うん?」
「初音は耕一さんのこと……好きなの?」
「…………うん……多分だけど」

答えは最初からわかりきっていた。
初音の様子を見れば、そんなことは聞かずともわかる。でも、私は敢えて初音
の口からそれが聞きたかった。初音の嘘を期待した訳じゃない。この耳で、現
実を認識したかったからだ。

「そう……」

でも、だからと言ってそれを喜べるほど、私も大人じゃない。
初音の恋は祝福できるけど、それとこれとは話が別だった。
恐らく千鶴姉さんなら、大人の振りをして初音の全てを喜んで見せることがで
きるんだろう。
でも、私は千鶴姉さんじゃない。
だから、辛いことは辛いって言いたかった。

「あ、あのね、でも、お姉ちゃんが心配することはないよ」
「……どうして?」

また、あのいつものやさしさが。
痛いほどの気遣いは、初音だけでなく、私をも苦しめる。それが初音らしさな
んだから、そして周囲を思ってのことだから、私はそれを否定することは出来
ない。
初音は誰よりも初音らしく。
それが一番だった。

「え、ええと、何となくなんだけどね……」
「ん?」

初音は言いにくそうに切り出す。
その様子に、私は少しだけ違和感を覚えた。

「耕一お兄ちゃんね、きっと……楓お姉ちゃんのこと、好きだと思うんだ……」
「えっ……?」

驚き。
そして微かな喜び。
たとえそれが他人から言われたものであっても、私の心は素直にそれを喜びと
して受け止めていた。

「だ、だからね、わたしとお兄ちゃんのはちょっとしたじゃれ合いみたいなも
のだと思うけど……」
「初音……」

でも、根拠がない。
初音がそんなことを思う根拠はどこにも見当たらなかった。
私は初音の発言に対して更に訝しむ。初音はそんな私の視線に晒されて、おた
おたと言い訳じみた説明を始めた。

「た、確かにキスはしちゃったけどね。でも、ほんとにそれだけだから。好き
とか嫌いとかそういうんじゃなくて、ええと……」
「……どうしてそう思ったの、初音?」

私の言葉は厳しさを増す。
そこには真実を追究する心と、あるひとつの確信めいたものがあった。

「あ、あの……何となく、だよ。それだけ」
「本当に?」
「う、うん。さっきとかも楓お姉ちゃんと耕一お兄ちゃん、お似合いだったし……」
「千鶴姉さんじゃなく、私なの?」
「何となく、なんだけどね。何となく」
「そう……」

初音がそう言うならば嘘はない。
初音も大人になればそのうち嘘を覚えると思うけど、目を見ればそれが真実か
どうかわかる。だから私はこれ以上初音を追求するのをやめた。
すると初音もそんな私に気付いたのか、落ち着きを取り戻して小さく訊ねてきた。

「あの……余計なお世話だったかな?」
「ううん、そんなことない。有り難う、初音」
「うん……」

こんなことで姉妹関係を崩したくはない。
そもそもこれで崩れるような私達の関係ではなかった。
でも、初音はまだ、どこか引っかかるような表情を見せている。私はそれが気
になって、やさしく初音に訊ねてみた。

「……どうしたの、初音?」
「う、うん……」
「言ってみて。聞いてあげるから」
「うん……実はね、夕方のことなんだけど……」

夕方のこと。
初音は耕一さんにキスをされた。初音にとってもそれ以上の事件はないように
思われた。
でも、初音はそれを自慢げにひけらかすような子じゃない。それに今のこの様
子は、今までの初音とは違い、戸惑いを多分に含んだものだった。

「お姉ちゃん、昨日わたしに聞いたよね、夢を見るか?って」
「ええ……でもそれが?」
「わたし、ちょっとうたた寝してね。ほんの短い間のことだったんだけど……」
「うん……」
「夢、見たんだ……」

夢。
不思議な夢。
それが何を意味するのか、私にはよくわかる。
そして今、初音にもわかってしまったのだ。

「そ、そう……」
「今までに見たこともない、不思議な不思議な夢だったの……」

不思議な夢。
でも、私の夢とは違う夢。
恐らく私が見ることの出来なかった夢の欠片を初音は見たんだろう。
私はその内容を渇望している。あの続きが一体どうなるのか知りたくてたまら
ない。また一方で、続きを知ることを恐れてもいた。

「お姉ちゃん、あれは何だったのかな? 今までに見たことないような、妙に
リアルな夢だったんだけど……」
「…………」
「楓お姉ちゃん?」

初音の声はちゃんと聞こえている。
でも、私は口を開けずにいる。それが初音の不安感を煽り、私の瞳を覗かせた。

「あ、あの……」
「……初音?」
「あ、な、なに?」
「その夢を見て、まだ初音は耕一さんのことが好き?」

私は尋ねた。
どうしても、聞かずにはいられなかった。

「う、うん……まだ好きとかそういうの、よくわかんないんだけどね」
「よくわからなくてもいいの。何となくでもいいの。あなたの心は、耕一さん
を求めているの?」
「……うん」

初音は小さく、しかしはっきりとうなずいた。
私はそれを見て、鈍器で殴られたかのような衝撃を受ける。それは、どうして
も知りたくなかった現実だった。

「そう……」
「で、でも、わたしなんてお兄ちゃんには不釣合いだよね。わたし、背も小さ
いし、胸もぺったんこだし、それにそれに……」
「でも、初音は耕一さんのことが好き……違う?」
「あっ……」
「別に私の前だからって、無理に否定しなくてもいいわ」

軽く笑って見せた。
それは初音を安心させるためだった。
でも、自然な笑みが見せられない。多分、私の顔は違和感に溢れていると思う。

「う、うん……」
「初音はどうして私が昨日、あんな質問をしたか、わかる?」
「わからない、けど……」
「でも、私もあの夢を見たから。そう思うんじゃないの?」
「……う、うん」
「そうよ、初音。私もまたあの夢を見る、夢の中の囚われ人なの……」

初音は驚いた様子を見せない。
恐らくそのことを何となく感じた上で、初音は今宵、私のこの部屋に来たんだろう。
ただ、改めて知るその現実に、初音は圧倒されていた。
そう、現実は常に何よりも人を圧倒するのだ。

「だから……初音にだけ、教えてあげる……」
「…………」
「私は耕一さんが好き。誰よりも好きなの……」

言ってしまった。
もう、後には戻れない。
夏が終わり、秋が始まってしまえば、もう夏には戻れないように。

秋の夜風がレースのカーテンをなびかせる。
揺れた髪が、私の頬をくすぐる。
そして同じく初音の栗色の髪も揺らして……。

これが私達のはじまり。
そして終わりは……まだ、どこにも見えなかった……。


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