夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第三十六話:少女から女へ
微かに、血の味がした。
俺は呆然となりながら、畳の上に仰向けに横たわっている。
何となく天井の木目を眺めてみる。
それは思いの外単調で、気晴らしにもならない。
でも、今の俺には視線を動かすことなど、思いもつかなかった。
まるで真綿で締め付けられたように、思考が麻痺してしまっている。
梓に拳で思いっきり殴られたことも、俺にとっては最早どうでもいいことにな
ってしまっている。
責められて、殴られて、それで終わりだったらよかった。
でも、梓も俺の前から姿を消した。
初音ちゃんと一緒になって、破廉恥大学生と謗られた方がよかった。
しかし、俺に残るのはただ頬の痛み。
殴られた時にわずかに切れた、唇の傷。
鉄のような血の味さえ、俺に不快感を与えるどころか、麻痺してしまっている
自分を強く感じさせる要素の一つとなっていた。
「初音ちゃん……」
そっと、その名前を呟く。
年下の従妹。
まだまだ甘えたい盛りの子供にすら見えた。
でも、でも俺は……。
そっと、唇を手で押さえる。
そこにはまだ残る、初音ちゃんの唇の感触。
梓に殴られた衝撃で忘れるべきなのに、何故か後の拳よりも前のキスを覚えている。
それは勢いに任せたキスだった。
でも、俺は後悔していなかった。
その時、初音ちゃんにキスしたいと思ったのは事実だったし、俺は自分の気持
ちに従うのは悪いことじゃないと思いたかった。
しかし――
「ごめん」
誰も聞いていない、謝罪の言葉。
俺の気持ちはいい。
でも、初音ちゃんの気持ちは……俺の行為は、明らかに一方的な、押し付けが
ましいものだった。
きっとあの初音ちゃんのことだ。
俺に謝罪を求めたりはしないだろう。
ただ、苦笑いを浮かべて、全てを水に流そうとするに違いない。
俺の知ってるあの子はそういう子だ。
キスをされた痛みよりも、間違いなくこれからの関係が気まずくなることの方
を厭う。
それは別に表面上のことにこだわっている訳じゃなく、初音ちゃんは誰よりも
自分の柏木家での役割を理解していたから。
若くして妹達の『父親』になることを求められた千鶴さん。
母親役としての姉を失い、代わりに母親になることを迫られた梓。
そして、不幸続きの柏木家の中で、いつのまにか心を閉ざすようになってしま
っていた楓ちゃん。
事実、柏木家の娘として残されたのは、初音ちゃんただ一人だった。
そんな初音ちゃんに与えられた役は、かわいい末娘の役。
だからこそ、初音ちゃんは苦労を背負う姉達の苦しみを和らげるべく、ムード
メーカーになる。
初音ちゃんにとっては、自分のせいで人が悲しむのを見るのなんて、絶対に耐
えられないに違いない。
そして、俺はそんな初音ちゃんを知っているからこそ、初音ちゃんを悲しませ
たくない。
でも、俺のしたことは確かに初音ちゃんに悲しみを与えてしまった。
恐らく、あれが初音ちゃんにとってファーストキスだろう。
女の子にとっては、一生残る、重いものだ。
しかし、それなのにこの俺は勢いに任せて奪ってしまった。
そう、まさしく奪ってしまったと言ってもいい。
それは言ってみれば、最低のファーストキスだろう……。
軽く、身体をひねり体勢を変える。
横向きになって、押入れの襖を、そして丈夫そうな柱を眺める。
しかし、何も変わらない。
別に、俺だって何かを期待したわけじゃないけど、何となくこのままでいるの
が嫌だった。
どのくらい時間がたったろう?
窓の外の色は、もう夜の色に染まり始めている。
物音のしない世界は、俺に普段は耳に入らないような囁き声を伝えてくれる。
それがここは死んだ世界じゃないことを証明しているのに、反対にこの誰もい
ないように静まり返った屋敷を強く感じて俺の心は辛くなる。
いつもだったら、もう梓と初音ちゃんが一緒になって夕食の支度を賑やかに始
めている頃だろうに……。
しかし、そんな暖かな日常を壊してしまったのは俺。
だから、責められこそすれ、責める資格なんてどこにも存在しない。
そして更に、今の俺には責められる資格すらないのだ。
誰も俺を責めてくれない。
誰かが責めてくれれば、少しは気が紛れるはずなのに……。
そっと目を閉じる。
これもまた、ひとつの逃げだ。
眠ってしまえば、全てを忘れられるかもしれない。
そして目が覚めたときには、いつものように楽しく顔を合わせることが出来るだろう。
それもまた夢物語だ。
でも、人は必ず、何かに縋らなければ生きていけないのも事実だった。
しかし、そんな時、静かに音を立てて障子が開く。
背を向けていた俺は、それに気付いていたものの、身動きもせずにただじっとしていた。
そしてまた、静かに障子が閉められる。
中には人の気配。
俺は、変化を待っていた。
「耕一お兄ちゃん……」
初音ちゃんだ。
すぐに俺は声でわかった。
しかし、あまりに気まずくて、振り返ることすら出来ない。
ただ、寝たふりをするだけだ。
「寝ちゃってるの……?」
返事はない。
しかし、初音ちゃんはそれで退散することもなく、俺の傍に近づいてくる。
俺の心臓は、少しずつ高まっていった。
「…………」
初音ちゃんは俺の傍らにすっと腰を下ろす。
ただ、それだけだった。
そしてまた、時が流れる。
そこに初音ちゃんの存在を感じないくらいに静寂だ。
しかしまた、初音ちゃんの息づく音が聞こえてくる。
初音ちゃんがそこにいる。
それだけで、さっきとは何も変わらないのに、俺にとっては大きな違いだった。
「ごめんね、耕一お兄ちゃん……」
突然、初音ちゃんが呟く。
俺は驚いて、思わず起き上がりそうになってしまった。
だが、初音ちゃんは俺が眠っていないことなど気付かずに、そのまま眠ってい
るはずの耕一に向かって話し掛ける。
「わたし、あの、ちょっとびっくりしちゃって。だから……」
「…………」
「お兄ちゃんにキスされても、嫌じゃなかったんだよ。でも、わたしはお兄ち
ゃんから逃げちゃって……だからごめんね、耕一お兄ちゃん」
初音ちゃんが俺を責めないことはわかっていた。
しかし、まさか自分から謝るとは……流石に俺もそこまでは考えが至らなかった。
実際、客観的に見れば被害者は初音ちゃんで、この俺が加害者だ。
それは誰が見ても明らかだし、だからこそ梓は俺を殴った。
それなのにこの子は……。
涙が出そうになった。
そして、今になって梓に殴られた頬が痛む。
何故、今になって痛みを感じるのだろう?
それは、初音ちゃんに申し訳ないと感じる痛みなのか、それとも……初音ちゃ
んが感じた痛みなのかもしれない。
そしてそんな痛みを感じながら、再び時が流れた。
初音ちゃんは、いつまでここにこうしているつもりなんだろう?
もしかしたら、俺が目覚めるまでここで待っているのかもしれない。
そう思うと、初音ちゃんを騙している自分が辛かった。
俺は今すぐにでもきっかけを見つけて、そして初音ちゃんの顔を見たかった。
「わたしね……」
ずっと沈黙を守っていた初音ちゃんの声が聞こえた。
しかし、それは何故かさっきまでの初音ちゃんとは違う何かが感じられた。
「わたしね、夢を見たんだ。何だか不思議な、切なくなるような夢……」
「…………」
「夢の中のあの人は、多分わたしなんだろうと思う。そしてね……」
初音ちゃんは一旦そこで言葉を切る。
そして少し間を置いてから、真剣でありながら、なおかつ穏やかな口調でこう
言った。
「わたし、お母さんになるんだよ。わたしのここには、赤ちゃんがいて……」
そう言う初音ちゃんは、いつもよりずっと大人びて聞こえた。
俺の目には見えないけれど、そっと自分のお腹に手を当てる様子が窺える。
まさしく、自分のお腹の中の子供を気遣う母親のようだった。
「何だかね、不思議だった。でも、嫌な気持ちは全然なくって。おかしいよね。
わたし、そういうのまだ全然知らないのに」
「…………」
「本当に、よくわからないんだよ。でもね、耕一お兄ちゃん。わたしはそれが
耕一お兄ちゃんの……ううん、やっぱりいい。お兄ちゃん、辛いだけだから」
「…………」
「でも、どうしてなんだろうね、そう思うの?」
少しだけ、わかる気がした。
それは俺の思い上がりなのかもしれないけれど、初音ちゃんは自分が俺を独占
出来ないことを知っている。
特に姉思いの初音ちゃんのことだ。
それが必ずどこかに悲しみをもたらすことを肌で感じているのだろう。
そして、それは初音ちゃんには似合わない。
だから、初音ちゃんは悩むんだ。
「ごめんね、耕一お兄ちゃん。寝てるとこ、お邪魔しちゃって。わたし、お兄
ちゃんが起きるまで待ってようと思ったんだけど、そろそろ千鶴お姉ちゃんも
帰ってくるし、梓お姉ちゃんの手伝いをしなくっちゃ。じゃあ、お兄ちゃん、
わたしは――」
「……俺こそごめん」
ほとんど、呟くような声。
よく耳を澄ましていなければ、聞き取れないような小さな声だった。
でも、初音ちゃんは聞いた。
そして、驚いたように聞き返す。
「耕一お兄ちゃん……?」
「ごめん、俺、初音ちゃんのこと、傷つけちまって……」
まだ、初音ちゃんに向かって背を向けている。
俺は自分が恥ずかしかった。
こんなに初音ちゃんはいい子なのに、俺はそんな初音ちゃんの気持ちを弄んでいる。
まるで初音ちゃんの言葉を盗み聞きしているようで……。
「お兄ちゃん、もう起きて……?」
「だからごめん。なかなか言い出せずにいて……」
俺には見えない初音ちゃんの視線が辛い。
初音ちゃんが俺を責めないとわかっているからこそ、余計に辛かった。
明らかに、俺は初音ちゃんのやさしさに甘えていた。
初音ちゃんが許してくれるとわかっていて、こんなことを言うのだ。
「いいんだよ、耕一お兄ちゃん。お兄ちゃんの気持ち、わたしもよくわかるか
ら。だから、これでおあいこにしよ?」
初音ちゃんが少し明るくそう俺に呼びかける。
自ら閉じた、俺の心。
しかし初音ちゃんはそれを開こうとしている。
そして俺は情けなかったけれど、そんな初音ちゃんに甘えてしまった。
「初音ちゃん……」
ゆっくり起きあがる。
俺の見た初音ちゃんは、いつもの笑顔の初音ちゃんだった。
「これで、お兄ちゃんの顔を見て話せるね」
「うん」
初音ちゃんは、俺の顔を見れたことをただ喜んでいる。
果たして今の俺にそんな価値があるのか……でも、それも今更だった。
「あ、お兄ちゃん、その顔……」
「ああ……何でもないよ、気にしないで、初音ちゃん」
俺は忘れていた。
梓に殴られてから鏡を一度も見ていなかったけど、もしかしたら結構腫れ始め
ているのかもしれない。
梓のパンチはかなり強烈だったからな……。
ともかく、俺は初音ちゃんを心配させないように笑ってごまかす。
しかし、初音ちゃんにはそんなごまかしは通用しなかった。
「何でもなくないよ、耕一お兄ちゃん。すっごくほっぺが腫れてるよ。どうしたの?」
「あ、いや……」
「と、とにかく冷やさないと駄目だよ。あとが残るとよくないから」
初音ちゃんはそう言うと、いきなり立ち上がって部屋の外へと飛び出していく。
そして息つく間もなく戻ってきたかと思うと、その手には氷の入った洗面器と
絞ったタオルがあった。
「あ、そんな別に……」
「駄目だって。はい、これで冷やしてあげるから」
初音ちゃんは遠慮する俺の言葉も無視してタオルを頬に宛がう。
ひんやりした感触が火照る頬に心地いい。
そしてすぐ傍には心配するような初音ちゃんの顔があって……それが妙にくす
ぐったくもあり、また心地よくもあった。
「あ、ちょっと唇の端っこが切れてるみたいだね。梓お姉ちゃんとでも喧嘩したの?」
「ま、まあ、ちょっとね」
俺は苦笑いを浮かべながら肯定する。
流石に初音ちゃんも、どうして俺が梓と喧嘩したのかと言うことまでは考えつ
かないのかもしれない。
俺にとってはありがたかったけど、同時にまだ初音ちゃんは何も知らない子供
なのだと言う思いが蘇り、俺を複雑な心境にさせていた。
しばらく初音ちゃんは黙って甲斐甲斐しく俺の手当てをしてくれる。
俺も黙って初音ちゃんの世話を受けていた。
そして俺の頬の火照りもだいぶ引き、もう終わりになろうかと思ったその時、
初音ちゃんが俺に小さく呼びかけてきた。
「お兄ちゃん……?」
「ん、何、初音ちゃん?」
「あのね……」
「うん」
「キス……したい時は言ってね。わたしもわかってたら、今度は逃げないから」
「は、初音ちゃん……」
「わたし、嫌じゃなかったから。そ、それだけだから」
初音ちゃんはもじもじしながらそう言うと、真っ赤な顔をして俺から視線を逸
らした。
それは、初音ちゃんは初音ちゃんなりに、俺を思っての言葉なんだろう。
しかし、俺はそれをどこまで捉えていいのか……実際のところ、わからなかった。
ただ、俺にもわかったことがひとつだけある。
それは……この初音ちゃんは、見かけのままの女の子じゃないということ。
明らかに初音ちゃんは、少女から女への階段を登り始めている。
そのことに、本人はまだ気付いていないかもしれないけれど……。
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