夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第三十五話:初秋の夕暮れ
バタン!!
大きな音を立てて、あたしの背後でドアが閉まる。
いや……閉めたのはこのあたしだ。
もう、何が何だかわからない。
あたしはドアにもたれるようにすると、そのまま崩れ落ちる。
「くっ……」
身体が、上手く言うことを聞かない。
情けないことに、これは世間でよく言う腰が抜けた状態とでも言うんだろうか?
ともかく、あたしはカーペットの上にぺたんと尻餅をついたまま、自分の膝に
顔を埋めていた。
「せ、先輩……?」
あたしの頭のてっぺんから聞こえたのは、他ならぬかおりの声。
でも、今は顔を上げる気力さえなかった。
「な、何かあったんですか? 先輩、普通じゃ……」
かおりがそこで言葉を途切れさせる。
やっぱりこのかおりにも、今のあたしの状態がわかるんだろうね。
いつものようにふざけられる感じじゃないってことに。
「先輩……」
顔を伏せていても、かおりの様子がわかる。
このあたしのことを、不安そうな目で見つめているんだろう。
いつもは鬱陶しいだけだけど、何故か今はそれがあるってことに安らぎを感じる。
どうしてなのかは自分でも分からないけど、でも、今はかおりに傍にいて欲しかった。
「畜生……どうして、どうして……あいつ……」
そんな言葉が口をついて出てくる。
でも、こうして考えてみると耕一が悪い訳じゃない。
あいつが誰を好きになろうとあいつの自由だし、好きな女の子にキスをしたって……。
つい、カッとなった。
でも、耕一は知らないけどあたしは知ってる。
初音は耕一にキスをされたけど、そして逃げ出したけど、初音は泣いちゃいなかった。
耕一は、初音を泣かせた訳じゃないんだ。
あの初音のことだ。
間違いなく、そのキスが初音のファーストキスだろう。
今まで初音に浮いた話なんて聞いたことがなかったし、あたしも初音のことは
まだまだ子供としてしか見ていなかった。
でも、考えて見ると初音も高校生なんだよな。
人を好きになってもおかしくない年頃だよ。
いや、好きな男の一人くらいいて当然だと思う。
初音はずっと耕一に懐いていたし、それが恋になったとしても少しもおかしくない。
初音はただ突然のこと、初めてのことに驚いただけで……別に嫌じゃなかった
んだろうな、やっぱり。
あたしは姉妹の中でも家事をよく手伝ってくれる初音のことを一番かわいがっ
てたし、だからこそいくらかはその気持ちもわかってるつもりだ。
耕一の奴も確かにふざけた大学生だけど、初音がどういう子なのか、それがわ
からないほど目が曇ってる訳じゃない。
だから、耕一のキスは本気だ。
確かに勢いってもんはある。
でも、欲情に駆られたキスじゃない。
初音に対する想いはあったはずだ。
だからこそ、初音もそれがわかっていたからこそ、耕一にキスをされても泣か
なかったんだ。
初音も聡い子だ。
耕一のキスの意味、わかってるんだろう。
あたしも……考えてみればこれくらいはすぐにわかる。
でも、でも、つい拳が出た。
耕一を、本気で殴り飛ばした。
やっぱりあたしは……耕一のこと、好きなのかな……?
「先輩、先輩……」
気がつくと、かおりがあたしの肩を揺さ振っていた。
一体どのくらい時間が経ったんだろう?
ともかく、あたしに声を掛けることさえ躊躇っていたかおりが業を煮やしたく
らいだ。それなりに時は経過していたんだろう。
「かおり……?」
あたしはゆっくりと顔を上げる。
するとそこには、今にも泣きそうな顔をしたかおりがいた。
「せ、先輩っ、私、私っ、心配したんですよっ!!」
「わ、わっ、やめろ、かおり!!」
いきなりかおりがあたしの首根っこに縋り付いてくる。
あたしのことがよっぽど心配だったんだろう。
あたしは辟易してるけど、この娘はこの娘でなかなかにかわいいところがある。
だからこそ、あたしもなかなか無下に出来ないんだけど……。
「先輩……」
激情が止むと、後に残されたのはすすり泣きだった。
あたしのために、こんなあたしのために、誰かが泣いてくれる。
心配して泣いてくれる。
そのことが、今はうれしかった。
だから、そんなかおりのために、そしてお詫びの意味も込めて、少しだけ、胸
を貸してあげようと思った。
「悪かったな、かおり。心配かけて」
「いいんです、梓先輩。私のことなんて……」
かおりに小さく謝る。
そしてかおりは、あたしの耳元で囁く。
こうしていると、耕一のことが忘れられる気がした。
今のあたしは、あいつのことを考えちゃ駄目だ。
あたしは別に、あいつでなくてもいい。
でも、うちにはあいつじゃなきゃ駄目な奴がいるじゃないか。
初音然り、千鶴姉然り、そして楓も……。
みんな何も言わないけど、あたしにはわかる。
耕一じゃなきゃ駄目なんだよ。
そりゃ、叔父さんと似てるってのもあるさ。
でも、それだけじゃないんだよ。
耕一は叔父さんと同じ匂いがする。
なんて言うか、柏木の男の匂いだ。
だから、耕一はあたし達と同じでいて、それでいてどこかが絶対的に違うから、
あたし達はそばにいて心地いい。
安らぎを感じることが出来るんだ。
みんな、自分の心の中にぽっかり空いちまった穴を埋めようとしてる。
それは、叔父さんの死が、そして父さん達が空けた穴だ。
みんなそれを頑張ってお互いに埋めようとしたけど、結局あたし達だけじゃ埋
められない。
そして、そこに耕一がいる。
どうして耕一に手が伸びないはずがあるだろう?
実際、あたしもいつのまにか耕一に惹かれかけてた。
やっぱり、耕一と一緒にいるとくつろげるもんな。
でも、あたしは強い。
それに、かおりや他にも友達が沢山いる。
別に、初音達から奪ってまでして心地よくならなくてもいいじゃないか。
耕一ほどの満足は得られないかもしれないけど、それでも寂しくはない。
初音は耕一にキスをされても泣かなかった。
でも……あたしが耕一を殴ったら、そしてあたしが耕一を奪ったら、初音が泣
かないって保証はどこにある?
何があっても初音はあたしを責めたりはしないだろう。
初音はそういう子だ。
でも、初音に悲しみを与えるのは事実。
初音の笑顔が曇るのなんて見たくない。
そんなことなら、あたしが諦めた方が遥かにマシだ。
あたしは別に、心を痛めたりなんかしない。
ただちょっと、残念なだけ。
それだけなんだよ。
だからあたしは……。
「かおり?」
「何ですか、梓先輩?」
「あたし、やっぱり耕一のこと、好きだったみたいだ」
「ええっ!?」
突然の告白。
でも、それで吹っ切れる気がする。
かおりには悪いけど、色々聞いてもらおう。
そうすれば、あたしも耕一のこと、諦められる気がするから……。
「でも、あたしは身を引くことにするよ。耕一の奴、好きな女がいるみたいで……」
「な、な、なんて破廉恥なっ!!」
どうやら、かおりもいつものかおりに戻ってくれたみたいだ。
でも、その方があたしにとっちゃ好都合。
今みたいな時は、シリアスでいられるよりも、笑い飛ばせるくらいがいい。
「まあ、いいじゃないか、かおり。あいつだって子供じゃないんだし」
「で、でもっ!! い、言ってみれば、その破廉恥漢は、こ、事もあろうにっ、
梓先輩を、そ、そのっ、ふ、振ったんでしょう!?」
「そんな興奮してどもるなよ、かおり。言いたいことはわかるって。でも、別
にあたしは告白した訳じゃないし……」
「じゃ、じゃあどういうことなんですかっ!?」
くっつくくらいに迫られる。
流石にあたしもこれにはたじたじになる。
まあ、開き直ったあたしとは違って、かおりにとっちゃ冷静ではいられないん
だろうよ。
でも、かおりには悪いけど、かおりが興奮すればするほど、あたしの方は反対
に落ち着くことが出来る。
「いや、ちょっとな。それは耕一のプライバシーだからな……」
「関係ありませんっ!!」
「ま、まあまあ……つまり、あたしとの会話の中で、間接的にではあるけど、
耕一はあたしに好きな娘の存在を告げた訳だ。そこであたしはカッとなって耕
一を殴っちまったんだけど……」
「勿論、ノックアウトですよね!? いいえ、一寸刻みにしても許されませんっ!!」
流石はかおり。
あたしが見込んだ過激派少女だ。
かおりからしてみれば、あたしが耕一に振られた方が都合がいいはずだし、現
に似たような意味でうちに来たんだろう。
でも、今はあたしの恋の終わりを自分のことのように嘆いてくれてる。
まあ、嘆くって言うにはちょっと元気過ぎるかもしれないけど……。
「いや、そこまでは。でも、流石にあん時はあたしも本気だったよ。思いっき
り殴った」
「それでこそ梓先輩ですっ!!」
一体こいつはあたしに何を求めているのか?
まあ、かおりのおかげで大分すっきりして、いつものあたしに戻ることが出来る。
何だか今朝の一件で耕一と妙なことになって以来、あたしはどうかしてたんだよ。
普通だったら耕一と喧嘩をしてそれで終わりのはずなのに。
でも、これで元通り。
さっきまでのあれは、まあ、ちょっとしたはしかみたいなもんだ。
「おいおい、あたしは一体何者だよ? これでも年頃の女子高生なんだぞ」
「わかってます、梓先輩が誰よりも女らしいってことくらい。だから、だから
私は……」
「ちょ、ちょっとかおり……」
ちょっと調子に乗せすぎたか?
何だかいつのまにかかおりの雰囲気が変わっている。
潤みかけた瞳が、熱っぽくあたしを見つめて……。
耕一のことを忘れるためにかおりを利用しようとしたのは確かだけど、あたし
にはそんなつもりは更々なかった。
でも、あたしの意図とは裏腹に、かおりはどんどんとあたしに詰め寄る。
あたしの背後には部屋のドア。
そしてかおりはあたしのすぐそばにいる。
……逃げられないっ!!
あたしの本能は危険を訴えてきた。
でも、かおりを殴って気絶させるくらいは訳ないかもしれないけど、それじゃ
あまりにかおりが可哀想すぎる。
こいつのしようとしてることは絶対に、どんなことがあっても受け入れられな
いことだけど、それでもこいつはこいつなりにあたしを想ってくれてるんだよな。
それを思うと、ちょっと胸が痛い。
かおりの想いに応えられないのは確かだけど、こいつにはきちんとあたしの言
葉で引き下がって欲しかった。
「先輩、梓先輩っ、私、先輩のことが……」
「ま、待てかおり、ちょっとだけストップ!!」
「私のハートはノンストップです、梓先輩っ!!」
「だ、駄目か……と、とにかくお前の気持ちは嬉しいよ、でもな……」
「う、うれしいっ!! とうとう憧れの先輩と相思相愛に……」
「だ、だから違うんだって。ちゃんとあたしの話も聞くんだ。お前の気持ちも
わかるけど、あたしはだなぁ……」
「さあっ、先輩、私とめくるめく倒錯の世界へっ!!」
「いい加減やめんかっ!!」
……結局、こういう結果になっちまった。
あたしは自分の身を守る為にかおりをどつき、かおりは今、軽い気絶状態に陥
っている。
「ったく、大人しく人の話を聞いてりゃ、こんな目に遭わずに済んだのによ……」
そう、言い訳がましく呟く。
でも、本心からかおりにこんなことをしたくはなかった。
出来ることなら、かおりに納得してもらいたかったんだ。
確かにかおりの想いはアブノーマルかもしれない。
でも、それが純粋なものは確かだった。
だからこそ、あたしもこの娘を憎めないんだろうと思う。
現にこうして気絶しているところは、なかなかにかわいらしかった。
「……ったく、ちょっとだけだぞ、ちょっとだけ……」
あたしはこれまた言い訳がましく呟くと、誰が見ている訳でもないのにきょろ
きょろと周囲を気にしてから、そっとかおりの力ない身体を抱き起こす。
そして一度だけ、あたしの両腕でぎゅっと抱き締めてやる。
これはあたしのかおりに対するお詫びのつもり。
この娘がいなければ、あたしはこんなにすぐには立ち直れなかっただろう。
あたしだって、かおりのことは嫌いじゃない。
現に、単なる後輩としてだけなら、かわいいと思う。
あたしはかおりの求める形には応じられないだけで……それだけのことなんだ。
そう思うとあたしはもう一度、今度はそっとかおりを抱き締める。
そしてそのままやさしく持ち上げると、ベッドの上に運んでやった。
乱れた前髪を軽く手で直してやると、かおりの穏やかな寝顔をじっと見守る。
それは、何だか不思議と心地よかった。
ゆっくりと静かに、あたしの心が穏やかなものになっていく。
「これで……いいんだよな、これで……」
かおりに言うでもなく、そっと呟く。
でも、これがあたしの中でのひとつの区切り。
そして何となく、窓の外に視線を向けてみる。
もう、初秋の夕暮れは、夜へと移り変わりつつあった……。
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