夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第三十四話:不思議な不思議な夢

また、遠く星空を眺めている。
あの人には一体何が見えているのだろう?

秋の夜長、虫達の囁きが周囲に木霊する。
星々が照らす明かりのみで、あの人は黙ったまま、縁側に腰掛けている。

もう、数刻になるだろうか?
夜はまだ深くないものの、夏の終わりと共にその闇は深さを増し始めていた。

人の気配もなく、わたし以外にはただ、あの人のみが息づく。
しかし、あの人はまるで死んでしまっているかのように、身動き一つ見せない。
わたしはそれを不安に思うこともなく、ただそっと見守っていた。

あの人は遠く星空を眺める。
それはわたしとあの人が一緒に暮らし始めてから、幾度となく繰り返された。

しかし、あの人はわたしと一緒に星を見ない。
喪われたものは二人とも同じなのに、あの人にとっては違っていた。

「……エディフェル…………」

小さく、そう呼ぶ声が聞こえる。
あの人は……やさしいから、わたしの前では決してそれを口にしない。
でも、わたしは知っている。
あの人はまだエディフェル、わたしの姉さんを想い続けていると言うことを……。



「次郎衛門様……」
「ん? リネットか……どうした、こんな夜遅くに?」

そっと、あの人の背中に呼びかける。
するとあの人、次郎衛門様は何事もなかったかのように振り向いてわたしに微
笑みかけてくれた。

「次郎衛門様こそ。もう夜も更けております。そろそろおやすみになられては……」
「ああ、そうだな。少し星空に見とれてしまったよ」

次郎衛門様は恥ずかしそうに笑って応える。
そしてゆっくり立ち上がると、わたしの方に歩み寄ってくる。

「雲一つない、いい夜空です」
「ああ、この分だと明日も晴れだな」
「そうですね」

わたしはそう応えて、次郎衛門様に微笑み返す。
次郎衛門様はただ小さくうなずくと、わたしに向かって促した。

「リネットももう寝ろ。腹の子に障るとよくないからな……」
「……はい」

わたしはそっと自分のお腹に手をやる。
そして次郎衛門様もさもいとおしそうに、わたしの手にその手を重ねてくれた。
次郎衛門様はわたしを見送った後、自らも寝所に消える。
こうして、また一夜が過ぎ去っていった……。



次郎衛門様はあの後、御領主の天城様に鬼討伐の功を認められ、その家臣とし
て採り立てられることになった。
次郎衛門様の働きは誰もが認めるところで、少ないながらも領地と郎党を抱え
持つ、一人の侍として立派に成功していた。

わたしの裏切り行為によって私の同胞達は壊滅状態になり、捕まえられた者達
は皆、念入りに首を刎ねられ、止めを刺されていった。

そんな中、わたし一人が取り残される。
わたしは人間達の言う『鬼』の一人だったが、同胞から寝返り、次郎衛門様の
協力をしたと言うことで、次郎衛門様の庇護と監視の下、特別の計らいでお咎
めなしの処遇を受けた。

行き場所のないわたし。
わたしの居場所は、もうここ、次郎衛門様のお屋敷しかなかった。
一歩も屋敷を出ることを許されず、与えられた部屋に篭る日々。
天城様の家臣の中では、呪われた鬼の血を引くわたしを殺すべしと言う声も多
かったけれど、次郎衛門様は最後までわたしを庇ってくれたらしい。

「済まない、リネット。これが俺の限界なんだ」
「いえ……有り難う御座います、次郎衛門様。お心遣い、このリネットは大変
感謝しております」

姉さんが愛した人。
そして、姉さんを愛した人。
たとえ屋敷に軟禁されたとしても、あの人がいてくれれば寂しくなかった。
現に、次郎衛門様はわたしの身を案じて、一日に何度となく顔を見せてくれる。

「もう屋敷のみんなはリネットのこと、理解してくれたようだよ」
「本当でしょうか?」
「ああ。リネットが心やさしい乙女だって言うこと、傍にいればみんなすぐに
理解出来るさ」
「そんな、わたしなんて……」
「いやいや、謙遜せずともよい。まあ、ともかく皆の許可を得て、庭に出るく
らいは認めてもらったよ」
「本当ですか!?」
「ああ。だから、一緒に行こう」

次郎衛門様はそう言ってわたしに手を差し伸べてくれた。
そしてわたしは、そっとその手を取る。
温かな手、大きな手、それは久し振りに感じる、体温の感覚だった。

「陽はいい。冷たい血を温めてくれる……」

そう言って、次郎衛門様は日差しの下、伸びをしながら日光を全身に浴びる。
そして細めていた目を軽く開くと、わたしに手招きをして言った。

「ほら、リネットもおいで。陽の光も久し振りだろう?」
「あ、はい、次郎衛門様」

足元には、わたしのためにあらかじめ用意されていた赤い鼻緒の草履。
次郎衛門様がわざわざ気を配ってくれたことを思うと、少しくすぐったい。
でも、それ以上に嬉しかったりもする。
わたしは隠し切れない笑みをこぼしながら草履を履くと、次郎衛門様の隣まで
歩み寄った。

「どうだい、その草履は?」
「はい。わざわざわたしのために、有り難う御座います」
「いや、礼には及ばんよ。まあ、屋敷の者には散々からかわれたがね」
「……と言うことは、次郎衛門様お手ずからこれをお求めに?」
「まあな。流石に恥ずかしかったが、こればかりは仕方ないだろう?」

次郎衛門様は笑ってそう言う。
わたしなどのために、勿体無いお言葉。
でも、そんなわたしに次郎衛門様は続けてこう言う。

「リネットが俺を怨んでも怨み足りないのはわかっている。だから、少しでも
リネットの気が晴れれば、と思ったんだ。もうリネットは、この地でしか生き
て行くことは出来ないのだから……」
「次郎衛門様……」

確かに、一時は怨みもした。
話が違うと、詰め寄ったこともあった。
でも、次郎衛門様もおっしゃるように、もう全ては終わってしまったこと。
エルクゥは皆死に絶え、残っているのはこのわたし……と次郎衛門様だけ。
ヨークとの交信も、もう途絶えて久しかった。

だから、わたしはこの星、この地で生き、そして死んで行くしかない。
真の意味で、孤独になってしまったわたし。
そして次郎衛門様は知っていた。
そんなわたしの孤独を癒せるのは、わたしを孤独にしてしまった次郎衛門様御
本人だけであると言うことを。

あの人のやさしさは同情と贖罪。
それはわたしにだってわかっていたこと。
でも、それで惹かれずにはいられない。
次郎衛門様のやさしさがわたしを包み、温めてくれた。

エルクゥの冷たく熱い獣の血は、この女のわたしの中にも流れている。
でも、次郎衛門様はそれを忘れさせる微笑みをわたしに見せて下さる。
もう、わたしにとって同胞と言えるのも、次郎衛門様ただ一人。
だからわたしには、彼に縋るしか道はなかった。



「情けない話だよ、家臣はおろか使用人にまで馬鹿にされている。主としての
威厳も何もあったものじゃない」

そう言う次郎衛門様の表情は、その言葉とは裏腹に、喜びに満ちていた。
わたしはそんな次郎衛門様の傍らに佇みながら、そっと言葉を返す。

「でも、皆さん次郎衛門様を慕っておいでです」
「ああ、わかっている。皆可愛い奴ばかりだ」

そして、そっと目を細める。
それは本当に、愛情の篭った視線だった。

「おやさしいのですね、次郎衛門様は」
「やさしい? この俺が?」
「ええ、おやさしいです。だからこそ……」

と、言いかけたところで、わたしは言葉を失う。
次郎衛門様は、それを訝しく思い、わたしに問い掛けてくる。

「どうした、リネット?」
「い、いえ……だからこそ皆さん、次郎衛門様に着いてきて下さるのだと思い
ます」
「そうだな。有り難いことだよ、こんな俺なんかの為に……」

次郎衛門様は、わたしのちょっとしたごまかしには気付かない様子だった。
わたしはほっと胸を撫で下ろす。
次郎衛門様は何も言わないが、わたしは知っていた。
今もまだ、次郎衛門様がわたしの姉、エディフェルを想い続けていると言うことを……。



月夜。
満月の夜は、星々の瞬きも存在感を失う。
そしてそれ以上に、わたし達エルクゥには意味のある夜だった。

エルクゥの力は月の満ち欠けによって比例する。
恒星の反射する光が、不思議な力をもたらすのだそうだ。
それは学者にしかわからないようなことだったが、少なくともエルクゥの力は
増大する。

わたしはここしばらくずっと続けてきた行為、ヨークに向かって呼び掛けをし
ようと、月の見える場所に行こうとした。
次郎衛門様が許可を下さるまでは、ずっと月明かりなど見られなかった。
だから、ヨークもわたしの呼び掛けに応えてくれなかったのかもしれない。
しかし今宵は満月。
わたしの交信能力も、最高潮に達しているはずだった。
しかし――

「あっ、次郎衛門様……」

そこには先客がいた。
他ならぬ、次郎衛門様だった。
次郎衛門様は独り庭に立ち尽くし、その満月を眺めている。
わたしは声を掛けようと思い、戴いたばかりの草履を履いた。

しかし、次郎衛門様の呟きをひとこと、わたしは耳にしてしまう。
今にして思えば、聞かない方が幸せだったかもしれない。

「……エディフェル…………」

それは、亡き姉の名だった。
エルクゥだと言うのに、その狩りの獲物でしかない人間を愛した姉さん。
以前は理解できなかったわたしだけど、今なら少しわかる。
姉さんは『人間』でなく、『次郎衛門』その人を愛したのだと言うことを。

そしてまた、次郎衛門様もエディフェルを愛した。
種族を超越した愛。
しかし残念ながら、それは果たせぬまま終わってしまった。

「エディフェル、俺は、俺は……」

うめくような声。
そして、次郎衛門様はまるであの満月が姉さんであるかのように、それに向か
って手を伸ばす。
しかし、当然の如く次郎衛門様の手は空を切り、後には喪失感だけが残された。

次郎衛門様の痕はまだ癒されていない。
わたしに見せてくれるあの微笑みは、次郎衛門様の心の奥底を垣間見せるもの
ではない。
本当の次郎衛門様は……そう、ここにいる次郎衛門様だ。
エディフェル姉さんを喪ったことを嘆き、悲しみ、そして再び朝を迎える。

もしかしたら次郎衛門様にとって昼間は偽りの時間であり、本当の時間はこの
夜にあるのではないだろうか?
日中の次郎衛門様は一族郎党を養っていかなければならない立場にある。
そしてその中に、このわたしも含まれている。
しかし夜は……そう、夜の次郎衛門様は、全てエディフェル姉さんただひとり
のものだった。

だから、次郎衛門様はこうして月を見上げ、亡きエディフェル姉さんを想う。
それは決して叶わない、悲しいだけの想いだけれど、それでも二人の絆が強け
れば強いほど、次郎衛門様はエディフェル姉さんを想い続けるのだった。

「じ、次郎衛門様……」

そっと、背中に向かって呼びかける。
すると、わたしの存在に気付いた次郎衛門様は、ゆっくりと振り向く。
しかし、その時わたしが見た次郎衛門様は、いつもの次郎衛門様ではなかった。

「……エディフェル、ようやく再び相まみえて……」
「えっ……?」
「逢いたかった。ずっと、ずっと……」

月明かりを正面から浴びるわたし。
そんなわたしは、混乱した今の次郎衛門様にとっては、姉のエディフェルに見
えてしまったのかもしれない。
突然の次郎衛門様の様子に戸惑うわたしにも気付かず、次郎衛門様はいきなり
わたしを強く抱き締めた。

「あっ……」

力強い腕。
その強さが、身体に感じる微かな痛みが、次郎衛門様の想いの強さを証明している。

「エディフェル……」

次郎衛門様はわたしを抱き締めながら、わたしの肩口に顔を埋める。
そして、耳元で聞こえてくる嗚咽。
それに混じってくる、謝罪の言葉。
そんな悲痛な声を聞いてしまったわたしは、もう何も出来るはずもなかった。

「済まない、エディフェル。俺は、俺は……お前を守ってやることが出来なかった……」

わたしは黙ったまま、そっと次郎衛門様の背中に腕を回す。
そしてその身体を軽く抱き締めると、次郎衛門様の鳴咽も次第に小さなものへ
と治まっていった。

「次郎衛門……もういいわ。貴方が悪かった訳じゃない。わたしは、貴方のエ
ディフェルはここにいるから……」

それは、わたしがついた小さな嘘。
エディフェルを演じることで、わたしがエディフェル姉さんの身代わりになる
ことで、次郎衛門様の悲しみが少しでも癒されるのなら……。
それが、わたしの想いだった。



そして、その夜わたしと次郎衛門様は結ばれた。
次郎衛門様は最後までわたしがリネットだと言うことに気付かなかったけれど、
わたしはそれでもよかった。
次郎衛門様はまるで壊れ物を扱うかのようにわたしを抱き、愛してくれた。
それと同時に、潮が引くように次郎衛門様の悲しみが癒されて行く。
わたしは初めての痛みにも耐え、ただ次郎衛門様を感じていた。

そして、次郎衛門様はその腕にわたしを包み込んだまま眠りに落ちて行く。
わたしは次郎衛門様の安らかな寝顔を間近で見守りながら、ただ時だけが過ぎ
ていった。
それは何故か不思議と、心地よさをわたしに感じさせてくれていた……。





「んっ……」

眠りから覚める。
まだ重いまぶたを手でこすりながら、わたしはベッドから上体を起こした。

「眠っちゃったんだ、わたし……」

時計を見ると、もう七時を過ぎている。
楓お姉ちゃんが部屋を出て行ってから、どうにも気まずくて自分の部屋を出る
ことが出来なかった。
だからちょっとベッドに横になってたんだけど……。

「でも、変な夢……」

それは夢。
でも、妙にリアルな、不思議な夢。
わたしはあまりに生々しい夢で見た光景に、思わずそれが現実みたいな錯覚を
覚えた。

そして、わたしは自分の手のひらを見つめ、それからそっと下に降ろしていく。
わたしは手のひらを自分のお腹に当てて――

「わたしの……子供?」

それは夢。
でも、不思議と温かい。
子供なんているはずないのに、何故かここにわたしの子供が宿っているような、
そんな感じがした。
そして、わたしは今まで見ていた夢を思い起こしてみる。
そこにはわたしと男の人がいて――

「これはわたし? だとするとこれは……」

でも、そこに答えはなかった。
それはわたしが見た、不思議な不思議な夢。
まどろみの中で見た、心に残る夢だった。

そして、わたしはふと現実に戻る。

「あ、そうだ……やっぱり耕一お兄ちゃんに謝ってこよ。お兄ちゃん、きっと
傷ついてるだろうし……」

そう決意すると、わたしはベッドから降りて部屋を後にする。
その時にはもう、束の間に見た不思議な夢のことなど、頭の中から完全に消え
去っていた。
それがわたしにとって、後々まで続く重要な夢だったと言うのに……。


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