夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第三十三話:変化の時


「もう、この辺りで結構ですから……」
「そうか? まあ、楓ちゃんがそう言うならここで」
「はい、送ってくれて、有り難う御座いました」
「いやいや、可愛い女の子を送るのは男の義務。気にしなくってもいいよ」
「はい。じゃあ、また明日……」
「じゃあな、楓ちゃん。頑張れよ」
「はいっ」

喫茶店を出た私と藤田君は、途中まで一緒に帰った。
藤田君の家がどの辺なのか、私はよく知らなかったけど、彼は笑って私の家の
近くまで送ってくれた。
流石に途中で長々と寄り道をしたせいか、既に夕方とも言える時間になっている。

夕焼けが辺りを茜色に染め抜いていた。
こんな夕焼けは、私にちょっとした季節の変化、秋の訪れを感じさせる。
夏の夜の入りはかなり遅くて、本当にこのまま夜になるのかと思わせるほど、
明るい時間が続くものだった。

でも、確かに秋は近付いていた。
風の囁きが、私にそっとそれを告げる。
丁度今は、季節の変わり目。
緩やかに流れ行く時の中で、狭間の時を迎えていた。

そしてそんな時、耕一さんが来る。
今まで何も変わらずに楽しかったあの夏の日々は、もう終わりなのだと告げるように。

「…………」

私はそんなことを思いながら、そっと空を見上げる。
昼の青と、夜の黒と、そしてその狭間のオレンジ……。
その三つが共存して、私に不思議な感覚を与えていた。

夏の最中に、叔父様は亡くなった。
蝉の声も賑やかな、あの夏。
でも、今ではもうそれは昔のことにさえ感じてしまう。
日にち的にはほんのちょっと前のことだと言うのに。

季節が変わる。
そして、それと共に何かが変わる。
耕一さんが来る。
千鶴姉さんがいる。
そして、私がここにいて……。

揺らいでいた。
この茜色の空は、何故か私を不安にさせる。
まるでこのまま私をどこか遠いところに連れていってしまうようで。

「……ごめんなさい」

そっと、小さく呟く。
誰の耳にも届かないその呟きは、一体誰に向けられたものなのだろう?
でも、私は今、明らかに罪を犯す。
誰かに必ず悲しみを与えるとわかっているのに、それでもせずにはいられなかった。

心がどんどん加速して行く。
もう、私自身もそれには着いていけない。
きっかけは藤田君の助言だったけど、それでもいつかこの日が来ることはわかっていた。
耕一さんに再び出逢ってしまった今、もう戻ることなど出来ないのだから。

茜色の空が私を運ぶ。
秋の風が、そっと私の背中を押す。
そして私は、耕一さんの待つ家に向かって歩き始めていた……。



「ただいま……」

小さな声で、挨拶をする。
そして、感じる小さな違和感。
まるで無人の家の如く、静まり返っていた。

「初音達は……もうちゃんと帰って来てるみたい」

誰も出迎えてくれない。
まあ、私が帰ってきた物音に気付かないほど、みんなで何か楽しんでいるんだろう。
私は自分の中でそう結論付けると、靴を脱いで家に上がる。
きちんと靴を揃えて、ついでにみんなの靴も整理しておくと、そのまま自分の
部屋に向かうことにした。

「…………」

しかし、家中が静まり返っていた。
割と音の響きやすいこの旧式の柏木屋敷だったけど、ここまで静まり返ってい
るのはちょっと異常だった。
もうそろそろ、梓姉さんが夕食の下ごしらえに入り始めたとしてもおかしくな
い時間だと言うのに。

私はそんな違和感を感じながらも、取り敢えず自分の部屋に入った。
そしてさっと着替えると、ベッドの上にちょこんと腰を下ろす。
そうすると、初めて自分が疲れていたことに気付く。

本当に今日は、色々なことがあった。
まだ新学期が始まって間もないけれど、長い夏休みは私に学校の感覚を忘れさせていた。
学校生活のサイクルに再び馴染むまで、そう時間はかからないだろう。
でも、明らかに今はまだ馴染んでいなかった。
夏休み気分は、まだまだみんなの中に残っている。
そしてそれは、秋が始まり、夏の残滓が消えるまで続くのだろうか?

そう思いながら、私はそのままぱたんと後ろに倒れ込む。
柔らかなベッドがそっと私を受け止める。
見上げた天井はいつもと何も変わらないはずなのに、何故か全てが違って見えた。

変わり始める時、そう、変化の時だ。
私の中で何かが、全てが音を立てて変わっていく。

夏から秋へ。
昼から夜へ。
叔父様の死と、耕一さんの来訪。
憧れから恋。
そして、夢から現実へ。

私は変わる。
子供から大人へ。
そして、少女から女へと。

そんな私を変えるのは時間?
環境?
それとも、私自身?

でも、それが何だったとしても事実は変わらない。
私は変わり、もう元には戻れない。
そう、喪われた叔父様がもう二度と私達姉妹に微笑みかけて下さらないように……。

そっと瞳を閉じる。
そして数瞬後、目を開ける。
それは私の、私への訣別。
私の中のスイッチが、ぱちんと音を立てて切り替わる。
それは目に見えない変化だったけれど、私にとっては大きなものだった。
そして私はベッドから身体を起こす。
何事もなかったかのように立ち上がると、自分の部屋を出た。



「初音、いる?」

軽くノックをして、隣の初音の部屋に呼びかける。
玄関の靴を見たところでは、誰か来客がいるらしい。
耕一さんが来ていると言うのに友達を連れてくるなんて初音のすることじゃな
いから、恐らく梓姉さんの友達だろう。
だとすれば、初音と耕一さんは一緒にいる訳で、場所はこの初音の部屋か、耕
一さんに貸し与えられている客間のどちらかだった。

「あ……楓お姉ちゃん? うん、いるよ」
「ちょっと、入ってもいい?」
「え、う、うん、いいよ。どうぞ」
「うん……」

初音はいた。
私は初音の許可を得ると、ドアのノブを回して中へと入る。
耕一さんがいるかどうかはわからなかったけど、少し、初音と話をしたい気分だった。

「おかえり、楓お姉ちゃん。今日は遅かったんだね」
「ただいま、初音。ちょっと友達と一緒に寄り道を……」
「へぇ、お姉ちゃんにしては珍しいね。何かあったの?」
「ううん、別にそういう訳じゃないんだけど、ちょっとね」

私はそう初音に答えながら、軽く初音の部屋の中を見渡す。
何も変わらぬ初音の部屋。
壁紙は私の部屋と変わらない素朴なものなのに、部屋を飾るパステル調の小物
達がお互いに主張しあって、私の部屋とは全く違った世界を作り上げていた。

「あ……ここにはいないよ、楓お姉ちゃん」
「えっ?」

私の視線に気付いた初音が小さく言う。
初音は何も言わないけれど、私が耕一さんを捜しに来たと思ったのだろう。
私としてもそんな気がない訳じゃなかったけれど、ちょっと初音に反論して答えた。

「違うのよ初音。別に耕一さんを捜しに来た訳じゃないから」
「そう?」
「う、うん」
「ともかく、耕一お兄ちゃんは自分の部屋にいると思うよ。お兄ちゃん、楓お
姉ちゃんのことも心配してたんだから、話をしてあげるといいと思うな」

笑ってそう言う初音。
それは如何にも初音らしい、思いやりのこもった台詞だった。
しかし私は気付く。
初音の笑顔に、どことなく翳りの色があると言うことに。

初音の笑顔はおひさまの笑顔。
本当に心から幸せを感じているような、そんな笑顔だった。
それは、初音がまだまだ子供の純粋さを多分に残しているからだと言えるかも
しれない。
でも、それだけじゃないこともまた、私は知っていた。

初音は初音で何も考えていない訳じゃない。
初音は初音なりに色々考えて、その結果、私達のかわいい初音でいてくれる。
私達はそんな初音にいつも元気付けられて……だから、初音の笑顔を偽りのも
のだと謗ることは出来ない。
初音はいつもやさしい娘だったし、それは初音が演じていると言うよりは、初
音自身の性格からだろう。

初音の笑顔は初音のやさしさから来ていた。
初音のやさしさに曇りはないから、その笑顔が曇ることもない。
でも今……今初音が見せている笑顔は、何故か初音を別人にも思わせるような、
そんな笑顔だった。

「……な、何かな、楓お姉ちゃん?」

初音が私の凝視に耐えかねたようにそう訊ねてくる。
声には若干の震え。
明らかに、初音は何かを隠していた。

「……どうしたの、初音?」
「えっ、どうしたって?」
「今の初音、どこかおかしいから」
「べ、別になんでもないよ、うん」

まるで何かを誤魔化すかのように、初音がぎこちなく笑ってみせる。
でも、私はそんな初音を見たくなかった。
それは私の勝手なエゴかもしれないけど、それでもそう思わずにはいられなかった。

「そう……」
「うん。わたしはいつもの初音だよ」

いつもの初音……。
その『いつもの』とは何を指しているのだろうか?

人は常に変わり続けている。
そしてそれは私だけでなく、初音にも当てはまること。
叔父様の死は、そして耕一さんの来訪は、私と同じように初音にも変化をもたらす。
二人とも私達にとって掛け替えのない存在だからこそ、私達は変わらずにはいられない。

ここにいるのはいつもの初音なのだろうか?
少なくとも、ここにいる楓はかつての楓じゃない。
なら初音は……初音もまた、少しずつ大人への階段を登っているのだ。

そのことに気付いた私は、いつものように軽く笑ってはこう言う。

「いいのよ、初音。別にそれは、少しも悪いことじゃないから……」
「えっ? どういうこと、楓お姉ちゃん?」
「ここにいるのが柏木初音だってこと。初音は他にいないんだから」
「……わかんないよ、お姉ちゃん」

まだ、初音には難しすぎることなのかもしれない。
だから、私が理解を求めてはいけない。
でも、初音にはそんな自分を責めて欲しくはなかった。
大人になることは、罪ではないのだから……。

「そのうちわかるわ、初音にも」
「そのうち?」
「ええ、そのうち。だから、自分を責めちゃ駄目。誰も初音を責めたりなんて
しないから……」

私が笑ってそう言うと、驚いたような顔をして初音はこっちを見ていた。
少し、私らしくない発言だったかもしれない。
でも、初音にも言ったように、それは罪じゃない。
変わることは、悪いことではないのだ。

そして初音はしばらく黙ったまま、私を見たりうつむいたりしていたけれど、
しばらくして自分の中で何か結論が出たのか、そっと私にこう告げてきた。

「わからないんだ、わたし……」
「わからないって?」
「自分のこと。あと、耕一お兄ちゃんのこと」
「うん……」

初音は戸惑っていた。
そう、私がずっと戸惑っていたように。
変わり行く自分が理解出来ずに、悩んでいるのだろう。
私はそんな初音に親近感を覚えて、もっと話を聞いてみることにした。

「耕一お兄ちゃんはわたしのやさしいお兄ちゃんで、大好きなお兄ちゃんで……
ただそれだけのはずだったんだよ。でも……」
「…………」
「でも、それだけじゃないんだ。友達はわたしが耕一お兄ちゃんのことを、そ
の、男の人として好きなんだよって言ってたけど、正直そんなの自分じゃよく
わからない」

初音はまだよくわからない。
だからこそ、こうしてストレートに物事を口に出来る。
きっと梓姉さんなら、こんなことは何があっても絶対に口に出来ないだろう。
ともかく、初音は間違いなく、耕一さんに恋し始めていた。

「それに、わたしにとってはともかく、耕一お兄ちゃんにとってはわたしなん
てまだまだかわいい妹でしかないし、だからわたしの冗談も笑って受け止めて
くれたんだけど……」
「冗談?」
「う、うん。お兄ちゃんが寂しいなら、わたしがお兄ちゃんの彼女になってあ
げるって」
「初音、あなたそんなことを耕一さんに……?」

驚きだった。
まさか冗談でも初音がそんなことを言うなんて、思いもよらなかった。
そしてそれは初音にとっても同じで、初音自身、自分の行動を理解出来ていな
いようだった。

「う、うん。ほんと、ちょっとした冗談のつもりだったんだよ。耕一お兄ちゃ
んが笑ってそれで終わり、のはずだったんだけど……」
「…………」
「でも、耕一お兄ちゃんはわたしのこと、色々考えてくれてたんだと思う。叔
父ちゃんがいなくなって、寂しく感じていた私を慰めようと思って……」

それは、如何にも耕一さんらしかった。
事実、私達四人は耕一さんに慰められてばかりいる。
耕一さんは男だから、私達に弱いところを見せないようにしているのかもしれ
ないけど、それでも私達に慰めてもらうようなところが全くないのは少し不思
議だった。

「わたし、そんなお兄ちゃんがうれしかったんだ。そして、やっぱり耕一お兄
ちゃんはわたしの大好きな耕一お兄ちゃんなんだって。でも、でも……」
「でも?」
「おふざけのカップルなのにわたし……えっと、耕一お兄ちゃん、わ、わたし
にその、キ、キスしてきて……で、でもうれしかったんだよ。それなのにわた
し、そのままお兄ちゃんから逃げてきちゃって……どうしたらいいと思う、楓
お姉ちゃん?」

……頭が真っ白になる。
まさか、初音に耕一さんのことで恋の相談をされるとは思ってもみなかった。
そして更に、耕一さんが初音にキスをしたと言う事実。
この初音が言うのだから、それは嘘じゃない。
果たしてどんな想いで耕一さんが初音にキスしたのかどうか知らないけれど、
そのキスは今の初音には重いくちづけだった。

そして、湧き上がる不安。
耕一さんのことでは千鶴姉さんのことしか見えていなかった私だけど、ここで
また、初音と言う存在が現れてくる。
初音はまだ、自分の気持ちを明確に理解していないみたいだけれど……。

夢と幻。
それは同じものなのだろうか?
私の中に現れる夢は、私しか知らない。
だから、私の想いは一方通行。
耕一さんは、私を愛していたことなど何も知らないのだ。

だから、それは幻。
幻が現実になるかどうか、それは私にはわからない。
そして私には、どうしようもないこと。
たとえ耕一さんが、私でなく初音を愛したとしても。

知らない方がよかった。
知らなければ、苦しまずに済んだ。
初音の笑顔に涙は似合わない。
私にとって、初音と千鶴姉さんは全く別の存在だった。

千鶴姉さんになら、私は甘えられる。
姉さんなら、私のわがままも許してくれる。
でも、初音は……。
初音は何も知らない。
だからこそ私は辛い。
折角決めた私の想いが、また揺らぎ始める。
耕一さんを愛していることは、何の変わりもないと言うのに。

「初音……」
「あ、ご、ごめんね、楓お姉ちゃん。ちょ、ちょっとした冗談だから、本気に
しないで」

呪縛が破られる。
でも、何かが変わってしまった。
私と初音、そして、耕一さん。
今の私には、何もすることが出来ない。

「あ、え、ええ……じゃ、じゃあ私は自分の部屋に戻るから」
「あ、うん。ごめんね、楓お姉ちゃん……」

そして、逃げるように初音の部屋を後にする。
でも、逃げたのは私だけじゃない。
それは初音も同じだった。

お互いに気付く。
初音もまた、私と同じように気付いたはずだ。
私の想いが初音のものと同じだということを。

そして、だからこその謝罪。
初音の口にした『ごめんね』という言葉。
私にはその言葉が理解出来る。
だから私は、初音の部屋のドアを背にしたまま、小さくそっと呟いた。

「……ごめんね、初音……」

その声は、部屋の中の初音には届かない。
しかし、届かなくても伝わるはずだ。
そう、私の大切な妹、初音になら……。

贖罪にもならない言葉。
そんなことくらい、私にはわかっている。
自分の罪を購おうなんて、そんな思い上がったことは考えない。

あの夢の中の少女も、自分の想いのためにその命を落とした。
でも、それで自分の罪が償われただなんて思いはしないはずだ。

人を愛することは罪じゃないけれど、それが誰かに悲しみを与えてしまう。
そんな悲しみなんて要らないのに、それでも人を想わずにはいられない。
それは人の性。
でも、それでも私は涙を流す。
私と同じく、ひとりのひとに流された涙を想って……。


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