夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第三十二話:頬を濡らした涙

初音と耕一の声が聞こえた。
遅まきながらも、うちに帰ってきたんだろう。
しかし、初音と一緒だなんて……。

「……行かないんですか?」

あたしを見てかおりが言う。
行きたかったんだけど、何故かかおりに言われて行けなくなったような気がした。

「ああ……まだいい」
「そうですか……先輩がそう言うのなら……」
「別にいいんだよ、もっと後でも……」

でも、それじゃいつまで経っても始まらない。
あたしだってよくわかっているけど、でも、行けなかった。
やっぱり……勇気が足りないのかな?

そしてあたしはそう思いながらコップを手に取る。
何かしていないと、落ち着かない気がしていた。

「先輩……」

かおりが心配そうな声であたしに言う。
こうしてると、かわいい後輩なんだけどな……。

ともかく、耕一は初音と一緒に帰ってきた。
ぱたぱたとした初音の足音とわかる音が近付いてくる。

「…………」

あたしは息を潜めた。
別に初音が入ってくるのを恐れた訳じゃないけれど、でも、初音の優しさが恐
かったのかもしれない。
あの子、妙に察しのいいところがあるし、あたしの考えてることくらいならな
んとなく気付いてると思う。
だから、あの初音ならきっとあたしと耕一を仲直りさせようと思って、ちょっ
としたお膳立てくらいしようとするかもしれない。
でも、やっぱりあの子はまだまだ子供なんだよな。
別にそれは初音の罪じゃないけど、でも男と女はそんなことされれば却ってこ
じれるってもんだ。初音にはまだそういう細かい男女の機微みたいなものはま
だ理解出来ないと思うから……だからあたしにとっては初音はかけがえのない
妹だったけど、でも、耕一と話をする時は初音にだけは傍にいて欲しくなかった。

しかし、あたしの心配は杞憂に終わったようで、初音はあたしの部屋の前で立
ち止まりもせずに、そのまま自分の部屋に入っていった。

「ふぅ……」

あたしは大きく息をつく。
何だかやけに緊張してたみたいだ。
我ながらなかなか情けない。

そしてあたしのことをずっと見守っていたかおりは、あたしの緊張の糸が緩ん
だのを見て、早速訊ねてきた。

「ど、どうしたんですか、先輩? まさか妹さんとも交戦状態とか?」
「ば、馬鹿、そんなことある訳ないだろ? 初音はかわいいあたしの妹だ」

あたしは慌てて否定する。
しかし……こいつ、どうしてこんな極端な表現しか出来ないんだ?
まあ、そこがかおりらしいと言えばかおりらしいんだけど。

「そうなんですか……私にはよくわかりませんけど、相談になら乗りますからね」

胸を張ってそう言うかおり。
まあ、有り難い話だよな。
喜んで相談に乗ってくれる相手って言うのも、改めて探してみるとなかなかい
ないもんだ。
うちではもっぱら千鶴姉がその役目だけど、千鶴姉には言えないことも色々あ
るしな。かといってこのかおりに言えることがあるかって言うと、そりゃあも
うお話にもならないだろうし。
かおりに相談するくらいなら、自分独りで悩んでた方が遥かにマシだと思うよ、
あたしゃあ。

「ああ……まあ、そのうちな」
「……そのうちって……いつなんですか?」
「…………」

こんなかおりを見ると、ちょっと申し訳ない気がする。
かおりがあたしに聞こえるか聞こえないかの小さな声で口にした反抗に、あた
しは敢えて聞こえない振りをした。
悪いのはかおりじゃなくて、間違いなくこのあたしなんだから。
でも、あたしはそんなかおりに素直になれない。
済まないと思いながらも、やっぱり冷たく当たってる。
どうしてこいつはそんなあたしにしつこく着いてくるんだろう……?

そう思いながら、あたしはスナック菓子を手に取り、ちらっとかおりに視線を
向ける。するとかおりは待ち焦がれたように瞳を輝かせてあたしの視線に応える。
あたしはそんなかおりを見ると、吹っ切るように視線を逸らして口の中いっぱ
いに菓子を放り込んだ。

「…………」

ただ、ぼりぼりと菓子を貪り食う。
お茶請け程度に持ってきたこれだけど、開いた口を塞いでおくには丁度いい。
あたしは何もしゃべらないようにひたすらにスナック菓子を頬張り続けていた。
そしてかおりはそんなあたしを見ながら自分は菓子を食わずにコップを口元に
当ててちびちびとジュースをすすっている。
あたしはそんなかおりの視線が辛くて、外の初音の方に意識を向けることにした。

初音はかなり素早く着替えたのか、さほど時間も経たずに部屋を出て行く音が
聞こえた。
そして小走りでどこかに向かう。
まあ、耕一のところだろうと思って、あたしは気にしないことにした。
どうせ初音のことだ。
耕一と仲良くトランプでもやろうとか言い出すんだろう。
耕一には悪いけど、しばらく初音のお相手をしてもらうことにしよう。
退廃した都会の大学生なら麻雀でもやりたいところなんだろうけどな。
残念ながらうちには麻雀牌もなければ、ルールのわかる奴もいない。
耕一の奴ならこの短い期間であたしたちに叩き込もうって考えたりするかもし
れないけど、まあ、千鶴姉が怒っておしまいだろう。
耕一の奴も千鶴姉にだけは頭が上がらないからな……。

「…………」

何だかこんなことを考えていると楽しかった。
やっぱり家族ってのはいいもんだよな。
たまには喧嘩もしたりするけど、やっぱり一緒にいると落ち着く。
かおりには悪いけど、初音達とは同一視出来ないよ。
夕食に呼んで一緒に千鶴姉をからかってやろうなんて言ったけど、でも、何だ
か今ではあまり気乗りもしなくなった。
あたし達は家族だから千鶴姉をからかっても笑って許されるんであって、他人
のかおりが同じようにしていい訳がない。
千鶴姉も、そんなかおりには間違いなく悪印象しか持たないだろう。
千鶴姉、礼儀とかには結構厳しいから……。
でも、案外そういうのに一番こだわらないのは楓だったりする。
一番大人しくてあまりしゃべらない子なのに、時々こっちでもびっくりするよ
うなことをしてのけるからな、楓は。
ちょっとここんとこ耕一が来てから様子がおかしいけど、何か思うところがあ
るのかもしれない。
もしかして、いきなり『好きです、耕一さんっ!!』とか言って告白なんかし
たりして。
あながちないことでもないかな?
楓の奴、かなりの叔父さんっ子だったから……。

そんな時、いきなりバタバタと言う慌しい足音が聞こえた。

「初音……だよな?」

あたしはまだ口をもぐもぐさせたまま、変な声で小さく呟いた。
そして案の定、その足音はピタリと初音の部屋の前で止まった。

「……何かあったのか?」

あたしは少し不安になる。
ここで初音が泣き出したりしたら、耕一の奴を一発ぶん殴ってやらないと。
そう思ってあたしは慌てて口の中のものを全部飲み込んだ。
そしてジュースを一口。
口の中のものを整理してさあ行こうかと思うと、初音はドアをばたんとさせて
部屋の中に入ってしまった。
別に泣いている様子でもなかったけど……でも、普通じゃなかったよな。
あたしはいいきっかけだと思って、耕一のところに行くことを決意した。

「かおり……ちょっと待っててくれ」
「行くんですか、梓先輩?」
「ああ……ちょっと初音のことも、気になるしな」
「わかりました。先輩のご留守は不肖この日吉かおりがちゃんとお守り致しま
すので」

かおりは急に元気になると、胸を叩いてそんなことを言う。
ったく、こいつはいっつも大袈裟なんだよなぁ……。
でも、今は悪い気分はしなかった。

「そんなんじゃないって。ちょっと行ってくるだけだから」
「いいんです、わかってますから、私。ちゃんとお待ちしてますから」
「そっか? まあ、とにかく行ってくるよ。暇なら適当にその辺の本でも読ん
でて構わないからさ」
「はいっ!!」

かおりはビシっと敬礼なんかしてる。
まったく飽きない奴だな、こいつは。
あたしはそう思うと少し顔をほころばせて部屋を出ていった。



耕一に宛がわれた部屋は、うちでも割と日当たりのいい客間だった。
天気のいい日はみんなで縁側でひなたぼっこなんかしたりして……うちの中で
もみんなが好んだ部屋だった。
ここでは普段寡黙な楓も心なしか色々しゃべったし、耕一が来る前からなんと
なくみんなが集まっていたりもしていた。
そして耕一が来てからも、それぞれの部屋に呼ぶよりも耕一のこの部屋に来て
話をしたもんだ。
まあ、女の子の部屋にいい年をした男を呼ぶこと自体、おかしな話だから当然
なのかもしれないけど。

ともかくあたしは割と行きなれた様子で耕一の部屋に入った。
すると……中では耕一が半ば呆然として、座り込んでいた。

「よっ……おかえり、耕一」

あたしはちょっと明るく挨拶してみた。
少し遅れたけど、まだおかえりの挨拶には許容範囲内の時間だろう。
それに耕一だって、あたしがかおりを呼んできてることくらい、気付いてるん
だろうし……。

「ああ、梓か……ただいま」

耕一はなんだか上の空だ。
まあ、さっきの初音の様子からして、何かあったんだろうとは察しがつく。
でも、あたしは敢えてそのことにはすぐに触れずに、勝手に話を進めた。

「ちょっと友達呼んでて。だから悪いけど、挨拶遅れた」
「うん……わかってる」
「そっか……それより今日はどうだった?」
「パチンコ。結構勝ったかな?」
「お、またか? 見かけによらず強いな耕一も」
「おいおい、その見かけによらずってのはなんだよ……」

耕一は渋い顔をする。
でも、ようやく気分もほぐれてきたみたいだ。
あたしは取り敢えず初音のことよりも先に、今朝のことを謝ることにした。

「まあ、いいじゃない。それよりも今朝は悪かったな、急に怒って飛び出した
りして」
「いや、俺こそ悪かったよ、梓。俺だってお前が何を言いたかったのか、わか
ってたんだし……」

あたしが謝ると、耕一も素直に謝ってくれた。
やっぱりこういう時は二人ともふざけずに素直になれる。
初音には悪いけど、少しだけあたしは今のこの状況に感謝していた。

「ちょっとしたことだけどね」
「ああ。すれ違いってのは往々にしてあるもんだ。でも、悪かったな、本当に」
「いいんだって、お互い様だよ。あたしが素直に言わなかったのも悪いんだし……」
「俺も、そんな梓のこと、察してやるべきだったな。なのにいつものようにふ
ざけたりして……」
「しょうがないさ。所詮あたし達の関係は、そんな関係なんだから……」

あたしは穏やかにそう言う。
このままで行けば、間違いなくあたし達は同じようなすれ違いを何度となく繰
り返すに違いない。そしてその度にこんな風にして仲直りをするんだろう。
それはそれで別に構わなかったけど、それならすれ違わない方が……。

あたしはそんなことを思って耕一の方に視線を向ける。
耕一も、何か考えているかのようだった。

「耕一……」
「ん、何だ、梓?」
「その……」

あたしはそう言いかけて、ふと思った。
このあたしは一体何を求めているんだ?
そして耕一に何を言ったらいいのかわからなくなった。
しかし開きかけた口は止まらない。
あたしは自分では思ってもいなかったことを口にしていた。

「初音の奴、どうしたんだ?」
「…………」

後で聞くつもりだったこと。
それがちょっと早まっただけだった。
しかし、あたしのその問いを聞いた耕一は明らかに顔色を変えた。
あたしはそれを見て不安に思って訊ねる。

「まさか耕一、初音に何か……」
「初音ちゃん、泣いてたか?」

あたしの言葉を遮るようにして、耕一が訊ねる。
初音は泣いてなんかいなかった。
でも、耕一はあたしに泣いていたかどうかを聞く。
つまり、初音を泣かせるようなことをしたと言っているようなもので……。

「何かしたのかよ、初音に!?」
「…………」
「答えろよ、耕一!!」

あたしは耕一に詰め寄る。
そんなつもりなんて、全然なかったのに……。
しかし、あたしの詰問は耕一の重い口をゆっくりと開かせる。

「……キス、した…………」
「なんだって!?」

耕一の言葉を聞いて、あたしの頭は一瞬真っ白になる。
だが、身体はすぐに動いていた。
いきなり耕一の胸倉を掴んだか思うと、思いっきり殴り飛ばしていた。

「…………」

耕一はあたしに殴られても何も言わない。
ただ、目を伏せるだけだった。

「ど、どうしてっ!?」
「…………」
「どうして初音にそんなことしたんだよ、耕一っ!?」

そしてあたしは感情の昂ぶるまま、耕一のもう反対の頬も殴り飛ばした。
でも……あたしはどうして耕一を殴るんだろう?
初音のため?
それとも……あたし自身のため?

あたしにはわからなかった。
ただ、あたしは感じていた。
あたしは耕一を殴りながら、自分の頬が涙で濡れていたことを……。


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