夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Taikashima

第二十八話:お兄ちゃんなら……

九月に入っても、まだ残暑は厳しかった。
隆山は田舎とは言っても避暑地ではなく、冬の寒さは厳しかったが夏もまた暑かった。
俺は都会人の常と言うか、暑さにはとことん弱く、あまり昼日中に出歩きたい
などとは思わなかった。
しかし、いくら誰もいないからと言って屋敷の縁側に寝転んで昼寝するだけな
んて言うのもあんまりだ。
だからこそ、俺はわざわざふらふら外出したのだが……その結果がこれ。
俺は別にいいとしても、初音ちゃんにはちょっと気を遣わせちゃったかな?

「じゃあ、あたしはそろそろお暇するよ、初音、耕一さん」

しばらくしてそろそろ柏木邸に到着しようかと言う頃、初音ちゃんの友達の沙
織ちゃんが唐突にそう切り出してきた。

「あれ、うちに遊びに来るんじゃなかったっけ?」

俺が驚いて訊ねると、沙織ちゃんは明るくぴょこんと俺の前に飛び出してきて
こう答えた。

「いいんだって。あたしの目的は、達成されたんだから」
「目的?」
「耕一さんには関係ないよ。あくまであたしの話」
「そ、そう?」
「沙織ちゃん……」

初音ちゃんはちょっと気にしたように言う。
やっぱり二人は隠しているけれど、何かあったに違いない。
まあ、実害があった訳じゃないから、どうでもいいけど。

「初音、頑張んなよ。あたし、応援してるからさ。ところで……」

沙織ちゃんは初音ちゃんに答えつつ、声をひそめて訊ねた。

「今日は家の人、いつ頃帰ってくんのよ?」
「えっ?」
「だから、二人っきりになれるのはいつまでかって聞いてるの」
「あ、ああ、えっと……梓お姉ちゃんは部活で遅くなるかもしれないけど、耕
一お兄ちゃんが来てるから早めに帰ってくるだろうし、楓お姉ちゃんはそんな
に帰り遅くないから……」
「つまり、ほとんどないってわけ?」

まるで詰め寄るように訊ねる沙織ちゃん。
小さな声で言っても、その程度なら俺にもちゃんと聞こえるんだけどなぁ……。

「う、うん。もしかしたら、もう誰かいるかも?」
「ほ、本当? ったく、折角いい感じになったってのに……」
「もぉ……いいんだよ、沙織ちゃん。わたしはそんなのじゃないから」
「そんな謙遜しなくてもいいって。さっきのあれ、なかなかよかったよ。初音
もなかなかやるもんだと感心しちゃったわよ。だから、後は初音自身の才覚に
任せるってことで、お邪魔なあたしはとっとと退散するから。じゃ、二人でし
っぽりやるのよ、いいわね?」
「し、しっぽりって……」

そして沙織ちゃんは言葉を失う初音ちゃんを残して去っていった。
少し遠ざかってから振り返って俺達の方を確認したものの、戻ってくるという
こともなく、結局俺と初音ちゃんは二人で家路に就くこととなった。



「何だかドタバタしちゃったね、初音ちゃん」

一息ついて初音ちゃんにそう言う俺。
やっぱり沙織ちゃんは初音ちゃんの友達であって、俺とは間接的なつながりし
かない。
そのせいなのか何なのか、三人でいた時よりもこうして初音ちゃんと二人きり
でいる方が俺にとっては遥かに落ち着ける環境だった。

「う、うん……ほんと、ごめんね、耕一お兄ちゃん」
「だからもうそれはいいって。俺も別に沙織ちゃんのこと、怒ってなんかいないし」

やっぱり俺に対しては罪悪感を拭い去れないのが初音ちゃんだった。
初音ちゃんには何度言っても納得してもらえないが、とにかく俺はただ初音ち
ゃんを安心させようと、さっきから似たようなやり取りを繰り返していた。

「で、でもぉ……」

もじもじする初音ちゃん。
何だかかわいい。
俺はそんな初音ちゃんを見ると、困るだろうとわかっていながらもからかって
みたくなった。

「俺にとっては沙織ちゃん様々だよ。こんな初音ちゃんがいつの間にやら俺の
彼女なんて……ううっ、これぞ棚ぼた」
「お、お、お兄ちゃん……」
「このくそ暑い中パチンコに行って俺は幸せだよ。派手に儲かったし、隣に初
音ちゃんはいるし……」

俺は如何にもわざとらしくそう言うと、既につなぐのをやめていた初音ちゃん
の小さな手を取った。
それは突然のことだったので、初音ちゃんも小さく驚きの声を上げる。

「あっ……」

だが、そんな初音ちゃんに気付かない振りをして、俺はそのままこんな調子を
続けた。

「やっぱりこのまま初音ちゃんを連れて帰っちゃおうかなぁ? なんたって彼
女だし、かわいいし、傍にいて欲しいし」
「…………いいよ」
「えっ!?」
「お兄ちゃんがそうしたいなら……わたしはそれでもいいよ」
「初音ちゃん……」

ふざけ半分……と言うか、全ておふざけだったのに、俺の予想に反して初音ち
ゃんは真剣な口調でそう答えた。俺はそんな初音ちゃんに対してどう対処して
いいのかわからず、言葉を失ってしまった。

「……しょうがないよね、耕一お兄ちゃん寂しいんだし……。わたしたちばっ
かりわがまま言ってちゃ駄目なんだよね……」
「…………」
「わたし……ううん、わたしたち四人全員、お兄ちゃんに隆山に来て欲しいっ
て思ってるんだよ。もちろん千鶴お姉ちゃんには立場があるし、楓お姉ちゃん
には何かあるみたいだから、絶対口には出さないと思うけど……」
「そ、そうなんだ……」
「うん。耕一お兄ちゃんが叔父ちゃんの代わりだなんて思いたくないけど、で
も、それでもみんな寂しいんだよ。だから……」

うつむいたまま、初音ちゃんは語った。
俺も自分がここに呼ばれたと言う時点で、俺を慰める為だけではないことを知
っていた。
みんなは知らないことだが、俺は親父が死んでも悲しいなんて思わない。
しかし、俺にとっての本当の肉親、母さんが亡くなった時の悲しみは、今でも
俺の心の一部に残っていた。
だから初音ちゃん達の悲しみは客観的によく理解出来たし、俺は親父に対する
よりも、むしろこの従姉妹達に近親としての親しみを感じていた。

それは俺の幼かった遠い夏の記憶。
親父との思い出は汚されてしまったが、夏休みに隆山に来てみんなで遊んだ思
い出は、今でも俺の中に美しいまま残されている。
特に都会とは違って自然に溢れた隆山は、子供にとっては遊び場の宝庫だった。

どこに行っても全てが目新しく、楽しく映る。
もうどこで遊んだかなんてほとんど覚えていなかったが、それでもとにかく楽
しかったという事実だけが、却って俺にとっては心地よかったのかもしれない。



「……でもね」
「ん?」

初音ちゃんは急に顔を上げて俺の方を見る。
その表情もさっきまでの落ち込んだものではなく、明るいいつもの初音ちゃん
だった。

「わたしにはまだ、お姉ちゃん達がいるんだよね。だから……誰もいなくなっ
ちゃったお兄ちゃんには、凄くわがまま言ってる風に感じると思う。わたしも
なるべくお兄ちゃんに迷惑かけないように、って思ってるんだけど、それでも
やっぱり迷惑かけてるし……」
「…………」
「なのにお兄ちゃんのわがままを誰も聞いてあげないなんて、そんなの不公平
だよ。だから、わたしがお兄ちゃんのわがまま、聞いてあげる。お兄ちゃんが
寂しいって言うなら、寂しくないようにそばにいてあげるから……」
「初音ちゃん……俺……」
「わたしにはもう叔父ちゃんはいなくっても、お姉ちゃん達もいるし耕一お兄
ちゃんもいるからね。でもお兄ちゃんはもうすぐ独りぼっちで……」

どうしてこの子は笑顔でこんなことが言えるんだ?

俺はそう思った。
確かにそれはいつもと同じ笑顔ではなく、わずかにぎこちなさが感じられた。
しかし、自分が何を言っているのかわかっているのだろうか?
俺にそんなつもりはないにしても、俺が求めたなら間違いなくこの子は応えて
くれるだろう。

確かに形だけは恋人同士だ。
でも、単なる笑い話の範疇だったはずだ。
少なくとも俺はそう認識していたし、まあ、恋人ごっこのひとつでも出来たら、
それなりにお互いに面白いかもしれないという程度だった。

しかし、そんな俺に対して、初音ちゃんは真剣そのものだった。
確かに沙織ちゃんの発言が示唆していたから、そう不思議でもない。
だが、初音ちゃんもやっぱり俺のことを『お兄ちゃん』って呼んでいるし、初
音ちゃんも今回のことは沙織ちゃんに巻き込まれただけなんだと言うことはわ
かっているはず。
それなのに……それとは違った意味で、初音ちゃんは俺について行く、と言っ
ているのだ。
自分が今まで生まれ住んできた隆山を捨て、大好きな姉達を置いて……それが
どういうことなのか、この子にはわかっているのだろうか?

俺は、初音ちゃんは全てわかった上で、そう言っているのだと思う。
だから、俺はそんな初音ちゃんがいとおしくなって、そっとパチンコ屋のビニ
ール袋を下に置くと、空いた手で初音ちゃんの頭を優しく撫でてあげた。

「いい子だな、初音ちゃんは……」
「お兄ちゃん……」
「俺は初音ちゃんにそう言ってもらえただけで、それだけでうれしいよ」
「…………」

俺はそう言いながら、ただ初音ちゃんの頭を撫で続ける。
初音ちゃんは恥ずかしそうにしながらも、別段嫌がる訳でもなく、反対に嬉し
そうに顔を赤くして俺の手を受け止めていた。

「……俺は初音ちゃん達とは違って男だからね。だから独りでも寂しくないん
だよ……」
「で、でも……」
「わかってるよ、初音ちゃん。だからこうして、時々初音ちゃんに甘えること
にするから」
「う、うん……」

年下の初音ちゃんの頭を撫でることが甘えることなのだろうか?
俺はふと思ったが、すぐにそんな疑問を捨てた。
間違いなく、今の俺は初音ちゃんに甘えていたのだから……。

「……また、今みたいにさせてもらってもいいかな……?」
「うん……いいよ、お兄ちゃんがしたいのなら……」
「ごめんね、わがまま言っちゃって……」
「いいんだよ。わたしもおにいちゃんにはわがままばっかり言ってるんだし……」
「お互い様……かな?」
「うん、そうだね、耕一お兄ちゃん」
「初音ちゃんも、いつでも俺に甘えていいから。俺も、初音ちゃんのわがまま
なら、いつでも聞いてあげるから……」
「……ありがとう、耕一お兄ちゃん……」

いつのまにか、初音ちゃんの頭を上から撫でていた俺の手は、後頭部を優しく
撫でるようになっていた。
そして傍から見れば、抱き合うようになっていたかもしれない。
少なくとも初音ちゃんは俺の身体にそっと身を委ね、ただ頭を撫でさせていた。

行動は仲のいい兄妹だった。
だが、雰囲気は恋人同士だと言われてもおかしくない。
そんなちょっと不思議な俺と初音ちゃんだったが、二人は全く違和感など感じ
たりはしなかった。

「…………」

そして、初音ちゃんの、俺と手をつないでいない方の残された手は、そっと俺
の身体に回された。
抱き締める訳でもなく、ただ回すだけ。
それは俺が初音ちゃんの頭を撫でるのと同じような行為だった。

「…………」

俺はそんな初音ちゃんの甘えを黙って受け止める。
そして初音ちゃんは、俺の無言の答えを受けて、そっと俺の胸に顔を埋めた。

「もしかしたら……」
「んっ?」
「もしかしたら俺、やっぱり初音ちゃんを連れてくことになっちゃうかもしれ
ないな……」
「…………」

初音ちゃんは何も言わなかった。
しかし、俺にはわかっていた。

お兄ちゃんならいいよ……。

言葉では言わなくとも、初音ちゃんはそう俺に答えていることを。


続きを読む

戻る