夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Taikashima
第二十九話:二つの水滴
難しいこと。
簡単なこと。
どっちとも言えること。
明確な答えは見つからないけど、でも、私にはわかってる。
私が私らしく自然に振る舞うことが、一番いい方法だってことを。
でも、私は恐い。
私の選択がどんな結果に繋がるのかが。
そんなことは恐れてもしょうがないことだというのに。
だから私は考える。
答えなど絶対に見つからない、無意味な行為だというのに。
でも、私はほんの少しだけ喜びも感じている。
今の自分は、耕一さんのために時間を使っているのだという事実に。
「よう、楓ちゃん、お疲れっ!」
「あっ、藤田君……」
放課後、薄ぼんやりとしていた私に声をかけてきたのは藤田君だった。
「授業終わったのにまだ帰んないの?」
「え、あっ……」
別に帰らなければいけない訳でもなかったけれど、残っている必要性も全くない。
だったら帰るのが自然だった。
「いやさ、よかったら一緒に帰ろうか、と思って」
「……私と?」
「そう、楓ちゃんと」
藤田君は真面目くさった顔をしてそう言った。
私がこんな風に一緒に帰ろうって誘われることなんて滅多にない。
やっぱりあまりしゃべらない方だから特定の親友っていうのもいないし、きっ
と私といてもそんなに楽しくないんだろうと思う。
クラスの女の子達でさえそうなんだから、男の子に誘われるなんてことは多分、
これが初めてかもしれない。
「でも……どうして私?」
嫌じゃないけれど、慣れないことに警戒心を見せる私。
でも、そんな私に藤田君はあっさりとこう答えてくれた。
「クマの件だよ、クマ」
「あっ、あのお風呂のこと?」
「そうそう。あかりはぼけぼけっとしてるから気付いてないけど、聡明な楓ち
ゃんのことだ、とっくに気付いてるだろ?」
神岸さんには悪いけど、私には藤田君の言いたいことがわかってしまう。
それよりも私はこの藤田君のお誘いが用件ありだからだということに気付くと、
穏やかに相づちを打ってみせた。
「うん。ライオン風呂が熊になるって……」
「当然、ありゃあ俺の出任せだ。でも、楓ちゃんを誘っちまった手前、もうう
やむやには出来ないと思ってさ」
「私もそう思います。でも、いくら姉さんが鶴来屋の会長でも、あのライオン
風呂をそんな些細なことで改装させる訳には行かないし……」
「そんなのわかってるって。いくら俺でも、楓ちゃんにそんな無理は言わないよ」
「じゃあ、私はどうしたら……」
「だから、楓ちゃんにはもうこうなった以上、俺の棒組として口裏を合わせて
欲しいんだよ。もしかしたら嘘をつかせちまうかもしれないけど、その辺はま
あ、あかりの奴が相手だってことで……」
「…………」
私は藤田君とは違う。
神岸さんに嘘を言ってもいい……って言うのは語弊があるかもしれないけれど、
嘘を言っても笑って許される関係なのは藤田君だけだ。
それに、私には神岸さんはとても純粋で、同性の私から見てもかわいい女の子
だと思う。なんとなく、妹の初音に重なるような……。
「……やっぱ駄目か? 俺はいつものことだから平気だけど、楓ちゃんは俺と
は違うしな……」
私の沈黙を拒絶の言葉として受け取ったのか、藤田君は少し残念そうにそう言った。
そして私はそんな藤田君を黙って見つめる。
藤田君が神岸さんと幼なじみの関係なのは周知の事実だ。
そしてまた、クラスではそれだけにとどまらない関係だと噂されたりもする。
そんな時、藤田君は怒り、神岸さんは困った顔をして頬を赤く染める。
藤田君は絶対に肯定しないだろうけど、でも、やっぱりその噂は本当に違いな
いと思えてならなかった。
どうして藤田君がこんなに熊のお風呂に拘泥するのか……第三者の私から見れ
ば、まさに手に取るようにわかる。
藤田君はやっぱり神岸さんと一緒に鶴来屋に泊まってみたいんだ。
私はそう思うと、珍しく軽く微笑みを見せて藤田君に言った。
「いいよ、藤田君……」
「えっ、楓ちゃん?」
「嘘をつくのは嫌だけど、私も藤田君に協力します」
「い、いいのか、ホントに……?」
「はい。ここだけの話、神岸さんが妹の初音に見えて……」
「妹? 楓ちゃんの?」
「神岸さんに雰囲気が似てるんです」
「そ、そうなのか……いや、大変だな、楓ちゃんもあかりみたいな妹を持ってよ」
私の突然の発言に驚き覚めやらぬ感じで、藤田君は私にそう言った。
でも、藤田君にとっては自分の隣にいて当然の相手だから普通かもしれないけ
ど、神岸さんみたいな女の子ってそうはいないと思う。
私にとって、初音がかけがえのない妹であるように……。
「そんなことないです。初音はとてもいい妹ですよ」
「そ、そうなのか?」
「はい」
今の私の笑顔は、きっと曇りがないと思う。
私には少しの疑問の余地もないから。
そして藤田君にもそれが伝わっていると思う。
ああは言ってるけど藤田君、やっぱり神岸さんのこと、かけがえのない存在に
思っているだろうから。
「でも……」
「なんだい、楓ちゃん?」
「やっぱり……神岸さんも一緒に帰った方がいいのでは?」
私は藤田君と学校を出ようと校門のところに差し掛かった時、今更ながらにそ
う訴えかけた。
すると藤田君は笑って私に応える。
「なに言ってんだよ、楓ちゃん。あかりがいたら、風呂の話が出来ないじゃねーか」
「でも……なんだか気まずいです」
「……気にし過ぎだって。それともどっかに腰を落ち着けて話した方がいいか?」
藤田君は私にそう提案する。
私はそう言われてみて、初めて今の自分が置かれた状況について考えてみた。
やっぱり耕一さんには顔を合わせにくい。
間違いなく、耕一さんの顔を見てしまえば私の想いは溢れてしまうから。
だから、話をするなら二人きりでがいい。
梓姉さんや初音達の前でそんな私の顔を見せたくない。
そして千鶴姉さんには……。
「そうですね、どこかお店にでも入りましょうか……?」
「そうか? いや、楓ちゃんがオッケーしてくれるなんてちょっと意外だった
けど……」
「そうかもしれませんね。でも、私も少し、藤田君に聞いてもらいたいことが
あって……」
私はそう藤田君に告げた。
なんとなく、この人なら私が耕一さんのことを相談しても、親身になって聞い
てくれるような気がした。
いつもふざけたことばかり言ってるけど、神岸さんには時々どきっとするよう
な真剣な眼差しを向けている。
そんな藤田君を見る度、神岸さんが彼のことを好きな理由がなんとなくだけど、
わかるような気がしていた。
「そうだな、俺も楓ちゃんに無理言ってもらう訳だし……喜んで相談くらい乗るよ」
「有り難う御座います。結構込み入った話なんですけど……」
「そっか? なら尚更楽しみだな。深窓の楓お嬢様の素顔に迫るってか」
「……やめて下さい。そんなのじゃありませんから……」
「わりいわりい、冗談だって。じゃ、行こうか」
困ったように言う私。
そんな私をまるでからかっていたかのように笑いながら藤田君は私に呼びかけた。
冗談だとわかっているけど、ちょっと複雑な気分。
やっぱり私って、そんな風に周りには見られているの?
わかってはいたことなんだけど……でも、だからこそ藤田君がこう話してくれ
てほっとする。
耕一さんがいる今、家では初音達とも話をしづらいだろうから……。
藤田君が私を連れてきた場所は、静かな喫茶店だった。
手ごろな席を確保すると、藤田君は腰を下ろしながら私に言った。
「俺、あんましこういうとこには来ないんだけど……」
「じゃあ、どうして?」
「いや、楓ちゃんにはファーストフードよりこういうとこの方が落ち着けるかと。
ああいうとこは人が多くてうるせーしな」
「私は別に、どっちでも構いませんけど……」
そう応えた私の声は、少し固かったかもしれない。
やっぱり普通に扱ってもらいたいから……。
「もう遅いって。ほら、楓ちゃんはなんにする?」
「じゃあ、アイスティーを……レモンで」
「俺は……クリームソーダ」
「クリームソーダ、ですか?」
「ああ。男のロマンだ」
「そ、そうですか……」
少し、出鼻を挫かれた感じ。
これが冗談なのかそうなのか少し迷って、結局私は冗談だと思うことにした。
そしてそんな一人で戸惑う私をよそに、藤田君は早速話を切り出してきた。
「それより例のクマの話だけど……」
「ああ……こればっかりはどうしようもないですよね」
私はあっさりと言う。
でも、本当にどうしようもない。
ライオンを熊になんて不可能だし……後はどうごまかすかだった。
「そうだよな。だから、その代わりに何を用意するかだ」
「やっぱり、熊関係がいいと思いますけど……」
「だよな。やっぱ、でかいぬいぐるみとかか?」
「それとも、藤田君が熊の着ぐるみを着てお風呂に来るとか……」
私はくすっと笑ってそう言う。
ライオン風呂に藤田君が熊の格好で侵入?
想像してみると、何だか面白かった。
「おいおい、楓ちゃん、それじゃ変質者だって。ライオン風呂、別に混浴じゃ
ねーんだろ?」
「あっ……」
「俺は別にいいけどな。あかりはともかく、目の保養に……」
「だ、駄目です。絶対に」
私を見ながらニヤニヤして言う藤田君に、困ったような顔をして私は慌てて応える。
冗談だとはわかっているけど、それでもやっぱり……。
私って、冗談には慣れていないのかな?
千鶴姉さんの変なギャグはよく聞いてるんだけど、やっぱり姉さんと藤田君と
じゃセンスが全然違う。千鶴姉さんのギャグって、世間でよく言う親父ギャグ
だから、みんな白けるだけだし……。
「ま、風呂はともかく、着ぐるみってのはいいアイデアなんじゃねーか?」
「そ、それもそうですね」
「どっかでレンタルして来るか……でも高そうだな」
「でも、ライオン風呂を改修する事を考えるなら、さしたる金額では……」
「そだな。これも必要経費って奴か。とほほ……楓ちゃん、やっぱり宿泊費ま
けてくれよな」
「え、ええ……姉さんには一応掛け合ってみます。あんまり期待されても困る
けど……」
「お、思いっきり期待してるからなっ。俺にはもう楓ちゃんしか頼る相手がい
ないから」
「え、ええ……頑張ってみます」
何だか藤田君のペースに押されっぱなしだったけど、でも一通り話はついた。
期待されても困るとは答えたけど、宿泊費をいくらか安くしてもらうのはそん
なに難しい問題じゃないと思う。まあ、それにも限度ってものがあるけど。
「まあ、こんなとこかな? ちょっと芸がないけど」
「しょうがないですよ。充分神岸さんを驚かせられると思うし」
「そっか? でも、あかりの奴は俺のこういうのには馴れてるからな」
「こんなこと、しょっちゅうしてるの?」
私が驚いて訊ねると、藤田君はちょっと恥ずかしそうに私に答えた。
「ま、まあな。だから、浩之ちゃん、またなの?なんて平然と答えるかもしれ
ねー」
「そんな……わざわざ藤田君が準備してくれたことだから、神岸さんも喜ぶと
思いますけど」
「だといいんだけどな……」
そう小さく呟いて、藤田君は遠い目して窓の外を眺めた。
私はそんな藤田君の横顔を見ながら、ストローでアイスティーを軽くかき回す。
氷がグラスに当たる音が心地いい。
藤田君のクリームソーダは、もうアイスがかなり溶けかかっていてグラスから
溢れそうになっていた。
「藤田君、こぼれます……」
私は藤田君の想念を遮ってそう告げる。
「っと、すまねーな、楓ちゃん」
そして藤田君は慌ててグラスに直接口を付けてクリームを啜った。
私は黙って傍らのナプキンを一枚取ると藤田君に差し出す。
「気が利くな、楓ちゃんは……これならきっといいお嫁さんに……ってお約束
過ぎるな、これは」
口を拭きながら藤田君はこう言って自己完結する。
私はそんな藤田君を笑って見ていた。
しばらく藤田君はクリームソーダを飲むことに専念していた。
私のアイスティーはまだ結構残っていたけど、それでも黙ってただストローを
弄んでいた。
「…………」
私はグラスが残したテーブルの上の水滴を見つめる。
次は私の話の番だった。
藤田君に聞いてもらおうと思ったけど、でも、やっぱり言いにくい。
藤田君と神岸さんの関係はとても爽やかに感じるけれど、私の場合は――
「……楓ちゃん?」
「あっ……」
私が顔を上げると、藤田君が私を見ていた。
クリームソーダはもう空になっていて、私一人が浮いた形になっていたみたい。
「相談、あるんだよな、確か……この俺でよければ、話聞くけど……」
「…………」
「言いにくいのか?」
「……ええ」
「そっか……いや、無理に言う必要はないからな、別に」
「…………」
私はそう言われて、またうつむいた。
そしてなんとなくテーブルの水滴を指で触れる。
二つの水滴をくっつけてみたり、別のひとつを引き伸ばしてみる。
そんなことをしながら、私はそっとこう呟いた。
「……私、好きな人がいるんです……」
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