夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第二十六話:ライオンとくま

「…………」

耕一さんにああ言ったものの、私の心は乱れに乱れていた。
千鶴姉さんが今回耕一さんをうちに招待したことは、私だけでなくみんなにと
って一つの契機になるだろうと思う。

みんながみんな、耕一さんに対して特別な感情を抱いているかどうかはわからない。
でも、千鶴姉さんは賢治叔父様の面影を残す耕一さんに何らかを感じていない
はずはない。そしてまた、鶴来屋グループの美しい女会長としての立場も耕一
さんの存在によって変わってくるだろう。

梓姉さんも初音も、耕一さんとは仲良くやっている。
でも、その反面どっちも兄妹としての関係に終始しているような気がする。
それもまだ子供だった頃にはそれでよかっただろう。
しかし、末っ子の初音でさえもう高校生なのだ。
まだまだ子供っぽさを多分に残すとは言え、時折大人びた一面も垣間見せて、
私達をどきっとさせることも少なくない。
果たしてこの二人は耕一さんのことをどう思っているのだろうか……?

「ふぅ……」

嫉妬、という言葉が私の脳裏を過ぎる。
単なる不安にしか過ぎないのに、それが大きく膨らんで嫉妬という感情へと変
化していくかのようで、私は自分が辛かった。

授業にも全く身が入らない。
私は学校の成績も悪くない方だけれど、それ以上に寡黙だと言うことが災いし
てか、先生に指されることも滅多になかった。
だから私がぼんやりと考え込んでいても、傍目にはいつもの私に見えていると
思う。
まあ、だからと言ってちゃんと授業を受けない訳にも行かない。
でも、頭では解っていても、私の心がついていかないのだった。

自分の気持ちだけを優先させるのだったら、私は今すぐにでも耕一さんにずっ
とひた隠しにしてきた私の想いを打ち明けることだろう。
それが一番簡単な解決方法だと言うことくらい、私にもわかる。
でも、あの夢の問題はさて置くとしても、柏木家に伝わる鬼の力の問題を忘れ
る訳には行かなかった。

千鶴姉さんは黙っている。
父さんと母さんの自殺、そして同じようにして叔父様もこの世を去った。
そのこと、重要さは千鶴姉さんが一番よく知っているはず。
でも、姉さんは何も言わない。
姉さんは一体何を考えているの?
誰よりも、自分のことよりも人を思いやる千鶴姉さんだったら、こんな危険は
冒さないはず。少なくとも、耕一さんを大切に想っているのであれば……。

でも、私は考えてみる。
耕一さんにもいつの日か必ず試練の日は訪れる。
父さん達は今の耕一さんよりも遥かに後に鬼に敗亡を喫した。
そしてそれまでの間、脅え続けていたとまでは言わないけれど、強い不安を感
じていたに違いない。
私にも、千鶴姉さんほどではないにしても鬼の力がある。
だからこそわかる。
その力の大きさと、それ故に感じる恐怖を。
この強大な鬼の力が自分の意思を越え、勝手に動き回るようになったとしたら……。

だから、みんな逃げていた。
結局のところ、結果を先送りにしていたに過ぎない。
でも……果たしてそんなことに意味があるの?
私は考える。
そうやって逃げて脅えて暮らすうちに、人間としての精神は鬼に打ち勝つ強靭
さを失い、結果として鬼に屈してしまうのだ。
私は知らないけれど、祖父が鬼に打ち勝ったと言う年齢を知ることが出来れば……。
糸口はそこかもしれない。

そしてもしかすると……千鶴姉さんもそう思って、耕一さんをわざわざ呼んだ
のかもしれない。耕一さんが大切だから、その耕一さんのことを想って……。

やっぱり千鶴姉さんは強い。
家庭的なことは梓姉さんの足元にも及ばないけれど、柏木四姉妹の長女として
私達を支えてきてくれた。
千鶴姉さんは私にだけ、弱い自分を垣間見せることもあるけれど、そんな千鶴
姉さんを見ても私は弱いとは感じなかった。
むしろそういう感情を強く抱いているにもかかわらず、私だけに対して、しか
もほんの一瞬しかそれを表面にあらわさないということは、千鶴姉さんの強さ
を改めて私に感じさせてくれた。

そして、そんな強い千鶴姉さんに対して一体私はどうしたらいいのか……?
でも、頭に浮かぶのは耕一さんの顔ばかり。
私は叔父様のお葬式の時に耕一さんと再会してから、ずっとこんな調子だった。

夢の中の男女。
でも、それは夢にしか過ぎない。
たとえ、そこに私と耕一さんの面影を感じたとしても。
だから、私は普通でいられた。
ただ夢から醒めた後、静かに涙の雫を流すだけで……。

でも、今は違う。
夢と現実が重なり始めている。
それまでずっと耕一さんの顔を見ない月日が長かったせいで、私は耕一さんの
姿を思い描くことさえ出来なかった。
でも、今の私は知っている。
耕一さんの笑顔。
耕一さんの微笑み。
耕一さんが、差し伸べてくれた手……。
それは私の夢の男性と重なるものだった。

そして、二つが一つになって、私の想いは膨らむ。
夢の中の人、次郎衛門と、耕一さんを想って……。



「あの……柏木さん?」
「えっ?」

物思いに耽っていた私に誰かが声をかけてきた。
私は急なことに驚いて少し素っ頓狂な声を上げながら声のした方を向いた。

「ちょっと、いいかな?」
「ええ……神岸さん」

彼女は同じクラスの神岸さん。
誰に対しても分け隔てのない明るさを振り撒いているところが、私にだけでな
くクラスの中でも好印象を持たれていた。

「ごめんね、考えごと中に」
「ううん、それより何?」
「えと、その……」

神岸さんは言いにくそうにしている。
そんな彼女の様子は、顔かたちは全然似ていないのに、不思議と初音を思い起
こさせるものがあった。
多分、それは彼女の性格から来ていると思う。
初音も神岸さんも、穏やかでのんびりしている。
そんなほのぼのとした家庭を感じさせるところに共通点があって、そのせいも
あって私は神岸さんに他人とは思えない感情を持っていた。

「あのね、柏木さんって……あの、鶴来屋のお嬢様なんだよね?」
「お嬢様って……」
「ううん、そんな変な意味じゃなくって。ただ、あの旅館のこと、よく知って
るんじゃないかって」
「それなら……多分、普通の人よりは知ってると思うけど」

私は少しほっとして答えた。
やはり鶴来屋と言うと隆山温泉随一の旅館で、近隣での発言力も絶対的なもの
がある。
だから、その鶴来屋を経営する柏木家というのは一流の家柄であって、その考
えからすると私もお嬢様ということになるらしい。
別に私はそんなつもりもないけれど、高校に入学した時は相当騒がれたりもした。
今ではそんなこともないけれど、時折からかわれたりもするもので、あまり心
地よいものではなかった。
神岸さんは優しく穏やかな性格だから、まずそんなことで私を差別したりする
ことはなかった。そのせいもあって神岸さんの会話の出だしは私を少しだけ不
安にさせたのだった。

「そうだよね……」
「で、何? 鶴来屋について知りたいことでもあるの?」
「うん……恥ずかしいけど、笑わないでね」

恥ずかしそうにそう言う神岸さん。
彼女は結構色んなことに恥ずかしがるタイプだけれど、初音と同じでそれが絵
になるから、私は羨ましいと思っていた。

「気にしないで、言ってみて」
「うん……」

そして、神岸さんは顔を上げて私の目を見てこう言う。

「鶴来屋って……色んなお風呂、あるよね?」
「うん」
「私、実際入ったことないからよく知らないんだけど、その、ライオンのおっ
きな顔があるお風呂って、有名なんでしょ?」
「ライオン風呂?」

神岸さんが言ったのは通称ライオン風呂。
鶴来屋の内輪ネタと言う訳でもなく、隆山では割とメジャーな話だった。
そのライオン風呂と言うのは正式名称ではなく、大きな顔のライオンからお湯
を供給している露天風呂のことを指す。
アラブかどこかのハーレムにでもあるなら様になるそのライオン像も、のどか
な湯治場の露天風呂にあるとなると場違いも甚だしい。
だから、従業員の間でそのライオンは悪趣味だとされてきたけど、意外に子供
連れの家族客には人気が高く、数ある鶴来屋のお風呂の中でもいつも盛況のお
風呂だった。

「う、うん。そのライオン風呂」
「でも、それが何か?」
「え、う、うん……そのね、浩之ちゃんがね……」

ここからが神岸さんの恥ずかしい話らしい。
その『浩之ちゃん』がそう呼ぶのを耳にしたら怒り出すのを彼女は知っていた
けれど、それも忘れてしまっているところからして、相当言いにくい話らしい。

「うん」
「そのライオン風呂、改修されるんだって……」
「えっ?」

そんな話、私は聞いていない。
でも、たかがひとつの施設の改修をわざわざ私に知らせるほどのことでもない
のも事実だったから、真偽のほどは定かじゃなかった。
そしてそんな私をよそに、神岸さんは続けて言う。

「そのね、浩之ちゃんが言うには……ライオンは金持ちじみてて印象がよくな
いから、ライオンをやめて、その……」
「なに?」
「ライオンじゃなくって……くま、にするって……」
「熊?」
「う、うん。それもかわいい奴。がおーって」
「が、がおー……?」

同い年とは思えない神岸さんの発言。
まるで初音そっくり、ううん、初音の方がもっと落ち着いてるかも?
でも、何だか微笑ましくて、今までのごちゃごちゃした考えも忘れて私も笑み
を取り戻した。

「うん……浩之ちゃんがそう言うの。だからあかりも今度行ってこい、って」
「そ、そうなんだ……」
「で、本当はどうなの? 柏木さんなら知ってると思って」
「う、うん……ごめんなさい、私も知らないの……」

ふざけてよかったのかもしれなかったけど、でも私はその考えをすぐに捨てた。
そんな風にふざけていいのは、神岸さんと藤田君との関係においてだったから。
そう、梓姉さんと耕一さんのように……。

だから私はありのままを神岸さんに話した。
嘘をついても仕方がなかったから。
すると神岸さんも冷静さを取り戻したのか、軽く笑いながら言う。

「そ、そうだよね。うん、柏木さんは気にしなくってもいいよ。あ、でも後で
知っていそうな誰かに聞いておいてくれるとうれしいな」
「うん、それだったら……ごめんなさい、何だか役に立てないで……」
「あ、いいんだって。こんな下らないこと、柏木さんが知らなくっても当然だ
よね」

謝る私を安心させようと、慌ててそう言う神岸さん。
私はそんな神岸さんにつられるように微笑んでいた。

「うん。じゃあ後で姉さんに聞いておいてもらうように頼んでみるね」
「うん、お願い。ごめんね、変なお願いしちゃって」
「気にしないで。そんな大したことじゃないから」
「ありがとう、柏木さ……あいたっ!」

私にお礼を言おうとした神岸さんだったけど、その時、丁度背後に藤田君が現
れた。

「おい、反則だぞ、あかり」

軽いげんこつの痛みで神岸さんは振り向く。

「ひ、浩之ちゃん……後ろから急にげんこつなんてひどいよ……」
「あかり、お前が悪い。わざわざ楓ちゃんに訊くなんて……無粋な奴め」

この藤田君は私のことをいつも『楓ちゃん』と呼ぶ。
彼曰く、『柏木』と言うよりも『楓』の方が響きがいいのだそうだ。
私はどっちでも構わないけれど、いつも神岸さんと一緒にいるように見える藤
田君は私のクラスの中でもかなり癖のあるキャラクターだった。

「ぶ、無粋って……別に訊いたっていいじゃない」

神岸さんは頭をさすりながらふくれる。
そんな神岸さんに向かって藤田君は少し咎めるように言った。

「あかり、お前はそんなに俺の言葉が信用できないのかよ?」
「…………そ、そんなことないよ」
「おい、その妙に長い間はなんだ?」
「な、なんでもないよ。ひ、浩之ちゃんの気のせいじゃない?」

藤田君の鋭い指摘を受けて、完全に動揺する神岸さん。
当然藤田君もそれを察して、ちょんと指先で神岸さんのおでこを突っつくとこ
う言った。

「ばーか。それにしてもお前、嘘つくの下手だな。すぐわかるぞ、そんなんじゃ」
「ご、ごめん……」
「とにかく、楓ちゃんに訊くのはなし。いいな?」
「う、うん……」

どうして『なし』なのかわからないままに、藤田君の勢いに押されて神岸さん
は了承してしまった。
そして済まなそうにうつむく神岸さんをよそに、藤田君が私にウインクしなが
ら言う。

「そうだ、よかったら今度楓ちゃんも俺達と一緒にクマの風呂、見にいこーぜ」
「えっ、私?」
「そうだよ。クマはいいぜー、クマは。な、あかり?」
「え、う、うん。かわいいよね、くま」

突然藤田君に話を振られて慌てて返事をする神岸さん。
でも、神岸さんは相当熊に思い入れがあるのか、その辺は抜かりなくしっかり
肯定していた。
そしてそんな神岸さんを煽るように藤田君が言う。

「本物じゃないけどな、がおーってやってんだぞ。もしかしたら改装記念で本
物の小熊かなんかをよんだりしてよー……」
「うんうん、いいよね」
「ライオンなんかよりずっといいだろ、クマの方が?」
「うん。やっぱりかわいいから」
「だから、楓ちゃんも含めた俺達三人で見に行くんだよ。ほら、楓ちゃんが一
緒なら、特別にクマに触らせてもらえるかもしれねーぞ」
「ほ、ほんとに!?」

いつの間にやらライオン風呂の像が熊になることが決まっていて、更にイベン
トで小熊を呼ぶことにまでなってしまっている。
藤田君にとってはいつものことなのかもしれないけれど、その神岸さんを騙す
口車は称賛に値すると思った。
今にして思うと、藤田君が私にしたウインクは、私に余計なことを言わないで
くれって言う合図だったのかもしれない。

でも、そう考えてみるとライオンが熊になるってことも、相当眉唾物だと言わ
ざるを得ない。
一時は神岸さんだけでなく私までも騙されてしまったのだ。
とにかく凄い、としか言いようがなかった。

でも、私が勝手に独りで感心していると、藤田君は私にこう言ってきた。

「だから、頼むよ、楓ちゃん。俺達もただの高校生なんだしさ……」
「えっ?」
「ほら、鶴来屋って高級旅館だろ? 庶民には軽々しく手が出ないのさ」
「…………」
「浩之ちゃん、柏木さんに失礼だよ……」
「あかりはだまってろ。と、とにかく楓ちゃんも一緒ってことで、ちょーっと
安くしてくれると、貧乏人の俺としては有り難いんだけどなー……」
「ご、ごめんね、柏木さん。浩之ちゃんの言うことなんか適当に聞き流してれ
ばいいから……」
「だから黙ってろっての、あかり」
「だ、駄目だって、浩之ちゃん。鶴来屋だって商売なんだから……」
「わかってる。何も俺はただでだなんて……」

二人の掛け合いは、何だか楽しかった。
梓姉さんと耕一さんのみたいに、衒いもなく本当に仲良しなんだと私に感じさ
せてくれる。
こんな二人を見ていると、私も色々悩んでいた自分が馬鹿らしくなってきてし
まって、藤田君に向かって軽く笑いながら答えた。

「うん、社員割引とか、あるみたいだからよかったらそれを……」
「か、柏木さん!!」
「おっ、流石は楓ちゃん。あかりとは違ってしみったれてないねー」
「そんなにたくさん安くなるって訳には行かないみたいですけど……」
「わかってるって。楓ちゃんが一緒なら、フロントも黙って余計に引いてくれ
るって」
「そ、そんな浩之ちゃん、無茶な……」
「あかり、クマはいいのか、クマはよ?」

藤田君は失礼にも『しみったれ』と評したけれど、いい意味神岸さんは堅実だった。
でも、神岸さんの弱点を知り尽くしている藤田君は、ひたすらごねる神岸さん
を軽くあしらうようにそう言った。

「えっ?」

当然、神岸さんは動揺を露にする。
そんな神岸さんは何だかかわいい。

「楓ちゃんにお願いしないと、クマにはあえねーぞ、あかり」
「そ、そんな……」
「だから、お前からもお願いしろよ。二人で言えばクマだぞ、クマ」
「……うん、わかったよ。でも、浩之ちゃん?」
「何だよ、あかり?」
「どうしてそんなに鶴来屋に泊まってみたいの?」
「えっ? そ、それはだなぁ……」
「どうして?」
「と、とにかくだ、俺もクマが見てみたいってことかな?」

藤田君はごまかすようにそう答えた。
しかし、藤田君は騙すのは上手でも、神岸さんと同じように嘘をつくのは下手
だと見えて、神岸さんに答えたそれも、はっきりと嘘だとわかるようなものだった。

「そう……うん、わかったよ、浩之ちゃん」

だが、そんな私の考えとは裏腹に、神岸さんは穏やかな表情でそう言った。
そして、藤田君もそんな神岸さんに驚きながら応じる。

「そ、そっか……よし、じゃあ、改修の時には頼むよ、楓ちゃん」
「ごめんね、柏木さん。迷惑かけちゃって……」
「ううん、気にしないで。私は別に……」
「じゃあ、詳しいことは後で。ほれ、あかり、休み時間も終わるぞ」
「あっ!! じゃ、じゃあ柏木さん、またね!」
「…………」

こうして、二人は嵐のように過ぎ去っていった。
そしてまた私は一人になる。
でも、さっきまでの私とは少しだけ、違っていた。
神岸さんと藤田君の自然な関係を見せつけられ、少しだけ、羨ましく思ったり
もした。
自分の姉が経営する旅館に泊まるって言うのも馬鹿らしい気がするけど、でも、
この二人から何らかのものを学び取れるような予感を、私は感じていた。
そして耕一さんとのことの糸口になればいいけど……。

残念ながら熊は見れないけれど、きっと神岸さんは不満には思わないと思う。
それよりもずっと、見たいものが見れるだろうから……。


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