夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第二十三話:鶴来屋と私と
「おはようございます、会長!」
「おはようございます!」
いろんなごたごたをくぐりぬけて、ようやく私は鶴来屋に到着した。
黒塗りの仰々しい車から私が降りてくると、従業員たちが大きな声で私を出迎
えてくれる。
「おはよう、みなさん。今日も一日頑張りましょう」
私は軽く微笑みながらみんなに言葉を返す。
でも、実際のところ心苦しい部分がなくはない。
だって、私がこうして出社する時間には既にみんなは働いているんだから、そ
んなことを言っても上っ面だけの言葉ととられてもおかしくはないと思う。
でも、そんなことを後でそっと足立さんに打ち明けると、足立さんは私に笑っ
てこう言うの。
「ちーちゃんは真面目過ぎるんだよ。私から言わせるなら、今でも充分早く来
過ぎだと思うよ」
「でも、お父さんも叔父様もこのくらいの時間だったと思うんですが……」
「確かにちーちゃんと変わらないか、それよりちょっと遅いくらいかな?」
「ええ。私も叔父様たちより少しだけ早く来るように心掛けてるんです」
「なるほど。実は私は遅く来るようにずっと言い続けてきたんだよ。しかしま
あ、ちーちゃんも同じだけど、柏木家の人間は頑固だからなぁ……」
「頑固……ですか?」
確かにお父さんも叔父様も頑固だったかもしれない。
でも、私もなの?
私は足立さんの言葉にわずかな引っ掛かりを感じていた。
「そうだとも。昨今稀に見る頑固者揃いだな」
「そ、そうでしょうか……?」
「まあ、本人からはよくわからないだろうし、頑固な反面生真面目だからね。
私は別に悪く思ってはいないよ」
「…………」
笑ってそう言う足立さん。
私はそんな足立さんに、どう返事をしてよいやら困ってしまった。
すると足立さんは話を元に戻して私に告げる。
「それよりもっと遅く来る方が、我々には有り難いんだよ、ちーちゃん」
「えっ?」
「丁度このくらいの時間はお客様のチェックアウトの時間と重なるんだ。お客
様を放っておいて会長に挨拶しているなんて失礼だろう?」
「はい。だから私は……」
私が反論しようとすると、足立さんは私の言葉などお見通しなのか、あっさり
と遮ってこう言った。
「いやいや、会長に挨拶しないわけにはいかないよ。その辺はけじめというこ
とでちゃんとしておかないとね」
「そうかも知れませんけど、会長とは言っても私はまだ新入社員のようなもの
ですし……」
「だから、けじめなんだよ、ちーちゃん」
「…………」
「確かにちーちゃんの言う通り、仕事が出来る出来ないで考えるのなら、ちー
ちゃんより上の人間はたくさんいるだろう。でも、ちーちゃんは鶴来屋グルー
プ全体のオーナーなんだ。一応株式登録はしてあるけど、その八割以上をちー
ちゃん個人が所有しているんだよ。だから他のみんなと自分とを同じに考えち
ゃいけない。わかるだろう、ちーちゃんなら?」
「ええ……」
私はいつものように教え諭してくれる足立さんの言葉にも、心からうなずけな
かった。
確かに私は鶴来屋の会長職にあって、実質そのすべてを個人所有していると言
ってもおかしくない。
でも、そんなことで自分が他の社員のみんなとは違う世界の人間なんだって思
いたくなかった。
みんなと一緒に楽しく働いて……。
「わからないか……まあ、しょうがないかな、ちーちゃんはまだまだ若いんだし」
「ごめんなさい……」
「でも、私が言ったのは建前だ。そして、建前は大事にしなくちゃいけないと
言うことなんだよ。しかし、一方で建前だけにとらわれろって言うわけでもな
いんだ」
「……どういうことですか?」
「つまりだ、みんなの前、公式な場所ではちーちゃんは鶴来屋グループのトッ
プだ。それを絶対に崩しちゃいけない。そして……今はどういう場だと思う?」
「ええと……私的な場だと思います。」
私がそう答えると、足立さんはよく出来ましたと言わんばかりに嬉しそうにこ
う言った。
「その通り。だから私もちーちゃんって呼ぶんだよ。みんなの前ではそう呼べ
ないだろう?」
「そうですね。なんとなく足立さんが言いたいこと、わかった気がします」
「うんうん。そして私だけじゃなく他のみんなも同じなんだ。ちーちゃんは大
きな声でお出迎えされているだけだからわからないかもしれないけど……」
「……なんですか?」
途中で言葉を止めた足立さん。
私はその続きが気になって足立さんに訊ねた。
すると足立さんはおかしそうに笑みを見せながらこう言った。
「うちの連中、ちーちゃんのこと、仲間内でどう呼んでると思う?」
「えっ? 仲間内で……ですか?」
「そうだよ」
「会長……じゃないんですか?」
「ああ。実際そんな会長なんて感じじゃないだろう、ちーちゃんは?」
「それはそうですけど……」
「実はね……ここだけの話、千鶴姫、って呼んでるんだよ」
「ひ、姫ですか!?」
私は足立さんの言葉に驚いて、思わず大きな声を出してしまった。
そして足立さんはそんな私の反応が如何にもおかしいのか、笑いを堪えきれな
い様子で肩を少し震わせていた。
「そうなんだ。麗しの千鶴姫、とか、我らがお姫様、とか言ったりしてね。ま
あ、確かにちーちゃんは美人だからな。連中にとっても自慢なんだろう、きっと」
「で、でも……」
「恥ずかしいかい? でも、ただ会長って呼ばれるより、親しみがあるだろう?」
「そ、それはまあ……そうですけど……」
「それに私がちーちゃんって呼んでるのを知ってる連中はそれを真似してちー
ちゃんって呼ぶこともある。まあ、いい意味での愛称と捉えるべきだろうね」
「……複雑な心境です」
「ははは……まあ、慣れだよ、慣れ。ちーちゃんも一度連中がこそこそ言って
るところを見つけてからかってみるといい。それでおあいこだろう?」
「…………」
きっと足立さんから見ると、今の私はどうも釈然としないような、複雑な表情
をしているように見えることだろう。
確かに足立さんが言うように一律に「会長」って呼ばれるよりも、愛称で呼ん
でくれた方が私もうれしい。
でも……流石に姫って言うのはちょっとね……・
「それよりちーちゃん?」
「え? 何です、足立さん?」
私の気持ちを察してか、足立さんは話題を切り替えようとしてきた。
「耕一君、どうだった?」
「あっ……済みません、報告もしないで……」
「いやいや、ちーちゃんにそんな義務はないよ」
「でも……」
「いいっていいって。それより実際のところどうだったんだい?」
気にする私に手を振りながらそう言う足立さん。
私は足立さんに迷惑ばかりかけていることを済まなく思いながら、静かに足立
さんの問いに答えた。
「はい。かなり元気そうでした。ついこの間叔父様を亡くされたばかりなのに、
何だか却って私たち姉妹のほうが元気付けられているような感じで……」
「まあ、耕一君は男だからね。ちーちゃんたちとは違うよ」
「ええ。それで私も少し気が緩んだのか、ちょっと羽目を外しちゃって……」
私はちょっぴり恥ずかしくなって、つい舌をちろっと出した。
足立さんはそれが私の癖だって知ってるけど、それをいつも何も言わずに微笑
ましく見ていてくれる。
「なるほど。いつもより疲れた感じはそのせいかい?」
「ええ、多分。二日酔いはもうほとんどないんですけど……やっぱり出てますか?」
「まあね。いつもよりも色っぽいよ、ちーちゃん」
「あ、足立さん!!」
にやっと笑ってそう言う足立さん。
私をからかってるんだってわかっているけど、それでも私が対等に応じられる
はずもなかった。
「ははは……でも、お世辞じゃないよ、ちーちゃん。たまにはそういうのもい
いと思うがなぁ。下の人間にも親しみが増すだろうし……」
「も、もう!! そんなのじゃ誤魔化されませんよ、足立さん!」
「いやいや、とにかく耕一君様々だな。ちーちゃんが少しでも元気になってく
れて、私もうれしいよ」
「あっ……」
「会長が心からの笑顔を見せられないと、やっぱり社員にも影響するからね。
早くいい男でも見つけて……いや、もういるのかな?」
「もう、そんな人いませんよ」
私は何とかそう答えたけれど、実際はそんな気分じゃなかった。
足立さんはただ私をからかってたんじゃなくって、私を気遣ってのことだった
なんて……。
でも、私は全然気付かなかった。
足立さんの言う通り、偽りの笑顔じゃ本当に人を動かすこそなんて出来ないと思う。
社員のみんなの手前、笑顔を絶やさないようにしてきたつもりだったけど、や
っぱり足立さんくらいになると、それが演技だってわかるのかもしれない。
叔父様を失って以来、私の心にはぽっかりと大きな穴が空いてしまって、本当
に心からの笑顔を見せたことなんてなかった。
足立さんは今までずっと何も言わなかったけど、そんな私をずっと心配してい
てくれたんだと思う。
そして今、足立さんはさりげなくそのことを私に伝えた。
きっと……今の私、心から笑っていたんだろう。
耕一さんが来てくれて、いろいろ問題もあったけどみんな嬉しそうだった。
楓だけは何か引っ掛かりがあるみたいだけれど、それでも必要以上に耕一さん
を意識していたし、嫌っているような感じでもなかった。
まるで却って意識しすぎる自分に理性で歯止めをかけているような……。
そして、私も当然楽しかった。
久し振りにビールを飲んで騒いで……すぐ近くに仏間があると言うのに、まだ
叔父様の四十九日も過ぎていないと言うのに、随分不謹慎なことだったかもし
れない。
でも、きっと叔父様なら笑って許してくれると思う。
叔父様は悲しい顔した私よりも、笑顔の私を見ていたいだろうから……。
「それよりちーちゃん、耕一君にはここに来る気があるのかな?」
「え? いえ、そういうことはまだ……耕一さんも大学がありますし、わざわ
ざ私達姉妹のためにそんな……」
「いやいや、今すぐどうこうということじゃなくこれからの話だよ。大学を卒
業して、それから先のことだ」
「さぁ? まだそんな込み入った話なんてしてませんし……」
「ちーちゃんはどう思う? 耕一君は隆山に、いや、鶴来屋に来る気はあるかな?」
「まだ私には何とも……」
「でも、ちーちゃんには負担だろう、会長職なんて?」
「ええ。ですから私も耕一さんが替わってくれたら嬉しいんですけど、だから
って耕一さんに負担をかけるわけにも……」
実際のところ、私は少し困ってしまった。
足立さんが私にそう言う気持ちもよくわかるけど、でも、それにしてはあまり
に性急すぎる気がした。耕一さんは昨日こっちに来たばかりなんだし、いきな
りそんなことを言われても迷惑なだけだと思う。
それに今回来てもらったのはそういう話をするためじゃなくって、ただ耕一さ
んの悲しみを少しでも癒せるように、そして私達もそんな耕一さんと一緒に少
しでも元気になれるようにっていうつもりだった。
だから今、これ以上耕一さんに負担をかけるわけにはいかなかった。
しかし私がそんなことを考えていると、足立さんは笑って私にこう言った。
「やっぱり鈍いなぁ、ちーちゃんは」
「えっ? どういうことですか?」
「いやいや、私は別にただ耕一君に鶴来屋の会長になってくれって言ってるわ
けじゃないんだ」
「……よくわかりません」
「だから、つまりは結果として鶴来屋の会長になるのかと言うことで……」
「…………」
「やっぱりちーちゃんにはわからないかな?」
「済みませんが全く……」
「つまり、ちーちゃんと結婚する気はないかってことで――」
「ええっーー!?」
私は場所もわきまえず大きな声で叫んでしまった。
まさか足立さんがそんな目で私と耕一さんを見ていたなんて……。
「おいおい、そんな驚かなくってもいいだろう、ちーちゃん?」
「で、でもっ!!」
「親戚とは言え法律上は一応結婚も出来るんだ。だから何も気にする必要はな
いんだよ」
「そ、そういう問題じゃありません!!」
「耕一君のこと、嫌いかい? それとも他に誰か気になるお相手がいるとか……?」
「そういう言い方、卑怯だと思います!」
「いやいや、ちーちゃんもなかなかに手厳しいな。でも、私の気持ちは冗談ど
ころか本気だよ。やっぱり私の本音としては、いくらちーちゃんのお相手とは
いえ、柏木の血を引いていない人間にはこの鶴来屋グループを任せたくはない
しね。こんなこだわり、きっとちーちゃんは下らないと思うかもしれないけど……」
「足立さん……」
「今更血縁なんて時代遅れかもしれない。しかし私は初代から鶴来屋でお世話
になってきて、柏木の男は三人知っている。そしてその三人とも、自分がつい
ていくに相応しい特別な何かを感じさせてくれたんだよ」
「…………」
「ちーちゃんには失礼な話かもしれないけれど、私は賢治の息子の耕一君に期
待しているんだ。これからの鶴来屋を支える存在になってくれるのではないか
とね……」
「…………」
「だけど、耕一君が来たからってそう簡単にちーちゃんを会長から引き摺り下
ろすわけにもいかないだろう? それならちーちゃんと耕一君が一緒になれば
全く問題もない」
「……何だか政略結婚みたいですね」
私は足立さんに一言そう言った。
私だって足立さんがそう考えてしまう気持ちだってわかる。
そして足立さんもそう言うのが心苦しいことなんだってことも充分すぎるほど
承知している。
言いにくいことを差し引いても、足立さんは耕一さんを求めているのだろう。
でも、私は嫌だった。
二人の気持ちも気にしないで男女を結び付けるなんて……。
「……ちーちゃんなら、そう言うと思ったよ」
「済みません、鶴来屋の将来を思う足立さんのお気持ちはよくわかるんですけ
ど……」
「…………」
「それに私はともかく、耕一さんの気持ちも考えずにそういうことは言いたく
ありません」
「ああ……」
「耕一さんだって向こうにガールフレンドの一人や二人はいるでしょうし、私
みたいな娘のためにこんな田舎に縛り付けられても……」
私は静かにそう足立さんに訴え続けた。
しかし、足立さんはそんな私にひとこと訊ねる。
「それよりちーちゃん自身の気持ちはどうなんだい?」
「えっ?」
「耕一君のこと、嫌いかい? 私は今日のちーちゃんを見たから、こんな話を
したんだが……耕一君だからちーちゃんを明るくさせることが出来たんだろう
と思ってね。今まで麗しの千鶴姫から愁いの色を消せた人間は誰もいなかった
から……」
足立さんはからかい混じりにそう言った。
からかいを装わなければ言えない話なんだろうけど、でも……。
とにかく足立さんの表情の裏には、真剣さが潜んでいるように私には感じられた。
「あ、足立さん……」
「ちーちゃんはこんなに美人なのに、不思議と男っ気はなかっただろう? だ
からきっと、誰か心の中で想う相手がいたんじゃないかってね……」
「そ、そんな……」
「これは私の考え過ぎかな? 何だか自分の都合のいいように……」
「足立さん……」
「とにかく、私は賢治からちーちゃんを任されているんだ。ちーちゃんには幸
せになって欲しい、それだけなんだよ」
足立さんはそれだけ言うと、そのまま自分の仕事をするために去っていった。
そして私はぽつんとひとり、取り残される。
「…………」
叔父様と足立さん、そして耕一さんと私。
今までそんな風には考えたこともなかった。
そもそもみんなが騒ぎ立てるような恋愛なんてしたこともなかったし、自分に
は関係のないことだと思っていた。
でも、鶴来屋のことを考えると、足立さんの言うように私の結婚相手か耕一さ
んが必ず必要になってくる。
足立さんは具体的には言わないけれど、女の私がトップでは発言力も頼りなく
なるんだろう。かと言って足立さん任せでは駄目だろうし……。
それに、私が嫌だから耕一さんに押し付けるのはもっと嫌だった。
私が頑張れば何とか上手く行くんだし、妹達には自分の好きな道を歩ませたい
とずっと思っていた。そしてそれは耕一さんにも言えることで……。
叔父様は何も言わなかった。
ただ、煙草の煙をを燻らせながら遠くを見ていた。
最愛の妻と息子を残して私達に縛りつけられることが、叔父様にはどれほど辛
かったことか……。
私はそれをよく知っていた。
だから、耕一さんを叔父様と同じ目には遭わせたくない。
耕一さんは叔父様とよく似ているから、時々だぶって見えることもある。
そしてその結末さえも……。
私も考え過ぎなのはわかっている。
でも、そう考えずにはいられなかった。
しかし、なら耕一さんを隆山に呼ばなければ済む話だ。
でも実際は私がみんなに強く言って耕一さんを呼んだのだ。
足立さんの言葉じゃないけれど、私は耕一さんのこと、どう思っているのか……。
「……私もこれじゃ言えないな、楓のこと……」
足立さんに言われるまでもなく、楓以上に私自身が耕一さんを強く意識してい
るのかもしれない。私はそう思えて仕方がなかった。
これから数日間、耕一さんと生活を共にして……。
きっと私達四姉妹には色んな変化が訪れると思う。
そしてそれがどういう方向かは誰にもわからない。
でも、わからないながらも私は足掻きたかった。
みんながみんな、幸せになれるように。
そして私は……みんなを幸せにすれば、私も幸せになれるんだろうか?
悲しいけれど、私にその確信はなかった……。
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