夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第二十話:夏と秋の狭間に

朝の爽やかな空気。
楓ちゃんと話をする為にろくすっぽ周りも見ずに走っていた俺だったけど、こ
うしてすることもなくなりあとはただ柏木邸に戻るだけとなると、新鮮な空気
と朝の陽射しを全身で受け止めながら、のんびりと隆山ののどかな景色を眺め
ていた。

「やっぱりいいもんだな、ここは……」

別に見慣れた場所っていう訳じゃない。
だが、人には本来帰るべき場所、即ち田舎と言うものが存在していて、俺にと
ってのそれはここ、隆山温泉郷だった。

俺の場所というのは都会のごみごみした場所にある。
雑多な人間の集う大学の校舎。そして、複数のバイト先。
俺の生活というものはそこに集約されていると言ってもいいだろう。
だが、俺のほとんどがそこにあるからこそ、胸の中の美しい思い出、この隆山
の思い出は掛け替えのないものだったのだ。

俺にはここが、隆山と柏木家があるから……。

親父がここに健在であった頃も、俺はこの隆山の風景を懐かしく思っていた。
絶対に行くことがないとわかっていても、親父とは無関係に俺にとっての田舎
たる隆山を求めてやまなかったのだ。



夏の終わり、そして秋のはじまりを告げるように、蝉の鳴き声もどこか切なく、
楽しい時は終わりを迎えるのだと言うことを俺に伝えていた。

梓達をはじめとして、高校生以下の面々はもう学校生活を再開している。
つまりは秋がはじまっているのだ。
しかし、この俺はまだ夏休み。
終わりゆく夏と、はじまってゆく秋との狭間に揺れる微妙な時だ。

楽しかった夏。
みんなで遊んだ川辺。
蚊に悩まされながらもはしゃぎまくった花火大会。

昔懐かしい思い出が俺の胸に込み上げてくる。
純粋に何をしても楽しかったあの子供時代はもう戻ってこない。
しかし、戻ってこないからこそそれは美しく、俺の胸に強く刻みこまれていた。

俺は現実を認識している。
俺にとっての現実は、ここから帰ればまた慌ただしいバイトと下らない大学の
講義と飲み会の繰り返しが待っているというだけだった。
それはわかっていることなのに、避けられないことだというのに、俺はここに
しがみつこうとしている。
千鶴さんがいて梓がいて楓ちゃんがいて初音ちゃんがいて……俺にとっては最
高の安らぎだった。
多分、ここ以上の環境は俺には望めないだろう。
しかし、だからこそ俺は時が来れば帰らねばならない。
俺には大切な場所があり、それを失うことなく大切にとっておく為に……。

俺には限られた時間しかない。
だからこそそれを有効に使い、そしてまた来る時まで忘れてしまわぬよう、胸
の中にしっかりと刻み込む。
サンダルの音が、蝉の音が、風に揺れる竹林の音が、全てが俺の中に染み込ん
で行く。
そして――

「済みません、私、急ぎますので……」

玄関先。
アイドリング中の黒塗りの大きな車が停まっていた。
そして先へ行こうとする千鶴さんを遮るように、男二人組が立ちはだかっている。

「まあまあ、ほんの数分で結構ですからお話だけでも……」
「済みません、本当に時間がありませんので……」

男をかわして先へ行こうとする千鶴さんに執拗に食い寄る男達。
俺は慌てて千鶴さんの元へと駆け寄った。

「おい、お前ら千鶴さんに何をする!?」

俺の声を聞いて振り返る男。
如何にも胡散臭い中年男だった。

「ん?」
「おい、千鶴さんから離れろ!!」
「こ、耕一さん……」

いきなり登場した俺の剣幕に千鶴さんは完全に驚いてしまった。
しかし、当の中年男は慌てた様子もなく、平然と俺に向かって答えた。

「おっと、そいつはすいませんでした。では、我々はこれで……」

中年男はそう言うと、俺に頭を下げ、そして千鶴さんにも頭を下げた。
もう片方の、こっちは中年ではなくなかなか若いのだが、とにかくそいつも中
年男に倣って俺達に黙って会釈をした。

「あ、そうそう、また次の機会にゆっくりとお話でもさせてもらいますから。
取り敢えずお仕事頑張って下さい、柏木さん」
「ええ……済みません」

男の言葉に小さく返事をする千鶴さん。
変に馴れ馴れしくしてくる男に対して、千鶴さんの方は極力関わり合いになり
たくないといった様子だった。
しかし、それでも知り合い同士なのか、俺の詰問を許すような雰囲気でもなか
ったので、俺は敢えて男には何も言わずに、俺の脇を通り抜けて立ち去ってい
くまで剣呑な視線を浴びせ続けていた。

「……ようやく行ったな」

俺は視界から完全に二人組が消えたことを確認すると、そっとそう呟いた。
そして千鶴さんもようやく解放されたかのようにほっと息をついてから俺に向
かってこう言った。

「済みません、耕一さん。何だか朝から気分を害させてしまったみたいで……」
「いや、俺のことはいいから。それよりも千鶴さん、あいつらは一体何です?
千鶴さんに対して妙に馴れ馴れしいし、かと言って俺が睨んでも全然動じないし……」

俺は千鶴さんのことを心配して言ったつもりだった。
しかし、千鶴さんは俺の言葉を聞くとそっと目を伏せてしまった。

「……俺には言いにくいことですか?」

俺は気にして優しく千鶴さんに問う。
すると千鶴さんは慌てて顔を上げて俺に反論した。

「ち、違うんです、耕一さん。あの方々は……」
「…………」
「あの方々は、県警の方なんです」
「県警!? ってことは警察ってこと?」
「え、ええ……」

俺の確認の言葉に千鶴さんは困ったように小さくうなずく。
まあ、警察のお世話になることなんて、あまり褒められたものじゃない。
時にはいいことをして表彰されたりする人間もいるもんだが、大抵は人目には
つきたくないようなことだろう。
俺はどうしたものかと考えたが、すぐに結論を出して千鶴さんに告げた。

「……よかったら教えてよ。相談に乗るからさ……」
「済みません。ご迷惑お掛けして……」
「いや、いいんだって。俺達従姉弟同士だろう? 数日間ではあるけど同じ屋
根の下に暮らすんだし、そんなに気兼ねしなくってもいいって、千鶴さん」
「でも……」
「話してくれた方が、俺としても気楽だからさ」

俺は無理強いしているようにならないようにと気を付けながら千鶴さんを諭した。
すると千鶴さんも、黙っていた方が余計心配をかけるとでも思ったのか、俺に
向かって静かに説明を始めた。

「あの県警の方々は……耕一さんのお父さん、柏木賢治さんについて調べてい
るんです……」
「親父!?」
「ええ、叔父様です。叔父様の亡くなり方に疑問を抱いたとかで……」
「…………」
「済みません、耕一さんにはここにいる間、嫌なことは忘れて楽しく過ごして
欲しいと思っていたんですが……」

千鶴さんはそう言うと、再度俺に頭を下げた。
しかし、俺にはそんな千鶴さんの謝罪の言葉など耳に入っていなかった。
俺にはもう過去の存在だった親父が、まだ過去になどなっていなかったという
事実が、俺を驚かせていたのだ。
だが、考え込む俺の沈黙を勘違いしたのか、千鶴さんは心配そうに俺の顔を覗
きこんでくる。

「耕一さん? あの……ごめんなさい」
「…………」
「その、あの……さっきの方々は叔父様が他殺だなんておっしゃるんです。で
も、そんなことあるはずありませんよね。それに、いくら捜査したって叔父様
が帰ってくる訳じゃないんですから……」

千鶴さんはおどけてそう言う。
俺を元気付けようとしてくれているのだろう。
俺はそんな千鶴さんに気付くと、顔を上げてこう言った。

「ごめん、千鶴さん。親父が余計な死に方したばっかりに、死んでからも千鶴
さんに迷惑かけて……」
「そ、そんな、耕一さん、謝らないで下さい。謝るのは私の方なんですから……」
「いや、千鶴さんは悪くないよ。悪いのは親父さ。突然死んで千鶴さん達を悲
しませただけじゃなく、その後も余計な心配かけさせるんだから……」

俺は心底親父を怨んだ。
全く、自殺するにもわかり易いやり方ってもんがあるだろうに……。
もし他殺だとかいう噂が広まれば、千鶴さんだけでなく他のみんな、果ては鶴
来屋グループ全体に迷惑がかかるだろう。

しかし、俺がそう思っていると、千鶴さんはそっと俺に言った。

「……叔父様は、悪くなんてありませんよ……」
「千鶴さん? どうしてさ?」
「それは……叔父様だって死にたかった訳じゃないと思うんです。きっと耕一
さんを後に残して死ぬなんて……」
「じゃあ、どうして自殺したのさ? 死にたくないなら、死ななければよかっ
たじゃないか!」

俺は千鶴さんの言葉に厳しい指摘をした。
すると千鶴さんは一瞬はっとした顔を見せてから、うつむいて俺に小さく言った。

「そう……ですね。自殺なんてしなければよかったと……私も思います……」
「でしょう? 折角一つしかない命なんだ。大切にしなくちゃいけないよな」
「……」
「だから、千鶴さんも自分をもっと大切にしなきゃ駄目だよ。親父みたいな馬
鹿は気にしないでさ……」

俺は千鶴さんを元気付けようと思ってそう言ったつもりだった。
しかし、千鶴さんは元気を取り戻すどころか、更に表情を曇らせた。
俺は言い方が悪かったかと思って思考を巡らせてみたが、思いつく節は何もな
かった。
確かに千鶴さん達は親父を慕っていたみたいだし、俺みたいに馬鹿な奴だなん
て思えないのかもしれない。
しかし、自殺なんて俺は馬鹿のすることだと思っていた。
人間死ぬ気になれば、なんだって出来るだろうに……

「……耕一さん?」
「ん? なに、千鶴さん?」

千鶴さんはまだ長い黒髪で顔を隠したままだったが、俺に向かって話し掛けて
きてくれた。俺はそれが嬉しかったのか、喜びを完全に隠しきれぬ様子で千鶴
さんに応じた。
すると千鶴さんは小さな声で俺に語り掛けてきた。

「……耕一さんのおっしゃるとおり、人の命って大切ですよね。私もそう思い
ます」
「でしょう?」
「ええ。でも、だからこそ、その大切なたったひとつの命を自ら捨てるには、
相当の想いがあったんだと思います」
「想い?」
「はい。耕一さんが自殺という行動について愚かしいことだと思う気持ち、私
にもよくわかります。ですけど……」
「…………」
「叔父様をあんまり責めないであげて下さい。叔父様にだって、ちゃんとした
理由が……」
「千鶴さん……」

俺にはよくわからなかった。
ただ、千鶴さんが辛そうにしているということだけが俺にははっきりと伝わった。
やっぱり千鶴さんはまだまだ親父のことを忘れられないし、そんな親父の死を
下らないものにされてしまうのは嫌なんだろう。

俺はそう悟るとこれ以上何も言えなくなってしまった。
本音で言えば千鶴さんを苦しめる親父などいい加減にしてくれというところだ。
しかし、俺にとっては死者を弾劾して快哉を叫ぶことよりも、生者を、つまり
千鶴さんを慰めてあげることの方が遥かに重要に思えた。
だから俺はそっと千鶴さんの震える肩に手をかける。

「こ、耕一さん!?」

俺の手が触れると千鶴さんは身体をビクッとさせ、慌てて顔を上げた。
俺は思っていた以上の反応が千鶴さんから返ってきて戸惑ったが、それを隠し
て千鶴さんにそっと伝えた。

「心配する必要なんてないよ、千鶴さん。千鶴さんのことは、俺が守るからさ……」
「……ありがとうございます、耕一さん。私、うれしいです……」

千鶴さんは半分涙ぐみながら俺に向かって微笑んでみせる。
その千鶴さんが見せた涙の意味は何なのか……今の俺にはわからなかった。

しかし、千鶴さんの綺麗な笑顔に吸い寄せられるように見つめた俺だったが、
その時はたと気がついた。
千鶴さんを守るとは言ったけれど、俺にとっての夏休みが、この夏と秋の狭間
に揺れる刹那の時が終わってしまったら、俺はどうしたらよいのか。

その事実に気付くと、俺は自分の軽率さにきつく唇を噛むのだった……。


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