夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第十九話:見えない月

俺は何も知らなかった。
そして、何も見えなかった。
そう、この見えない月のように……。



俺は常に自分が誇らしかった。
誰よりも有能で、何でも知っている俺が。

善かれ悪しかれ、人の口から俺の名前が上るのを聞くのは心地よかった。
それは俺がその人間にとって特別であるということ。
どうでもいい平凡な人間は、自分のほんの少しの親しい友人くらいしか話題に
してはくれないだろう。

しかし俺は違う。
俺は小さい時から、そして大学卒業後に警察学校に入って警察官になってから
も、人から羨望と嫉視の眼差しを受け続けていた。
俺の能力は生まれつきの才能と、弛まぬ努力によって培われてきた。
果たしてどれだけの人間が、俺と同じ努力をしてきたことか……。

だが、俺はひたすら頑張った。
いや、頑張るというのもおかしいことかもしれない。
俺はそうしていて楽しかったし、充足感も味わえた。
無論、それは人から自分がどう見られているかということによるものであった
が、俺自身はそんな自分が嫌いではなかった。
しかし――

そんな俺にも変化が訪れた。
それはあいつに遭った時。
そう、俺が初めて貴之に出遭った時からだった……。

あいつは俺とは全てが違っていた。
俺にとってあいつを含めた他人というのは、観客か引き立て役でしかなかった。
しかしあいつはそんな一人きりの俺に対して心を開いてきた。
その時俺は、あいつはそういう性格なのだと思っていたが……。



貴之はコンビニでアルバイトをしながら音楽をする、どこにでも転がっていそ
うなタイプの青年だった。
もちろん俺の世界とは縁もゆかりもない人間。
そういう連中は話にはよく聞くが、実際に会って話したことなどただの一度もない。
俺はバンド活動など全く興味もなかったし、敢えて自ら進んで知ろうともしな
かった。

だが、部屋の鍵を無くしたというひょんなことから俺と貴之は知り合い、そし
て打ち解け合うようになった。
無論、最初は俺から打ち解けたのではなく、貴之が俺に色々話し掛けてきたのだが。
あいつは俺の方が年上と言うこともあってか、『柳川さん、柳川さん』と慕っ
てきてくれた。
そして俺もそんな貴之にほだされるように、徐々にあいつに話をするようにな
っていた。



「そろそろか……」

夕暮れ。
閉め切ったこの部屋からは、分厚いカーテンを通してしか、外を感じることが
出来ない。
ただ日が出ているかどうかとか、オレンジ色の漏れる明かりで時を知らせてく
れるだけだった。

普段なら俺もまだ仕事中だろう。
しかし今日は土曜日だ。
警察官は一応公務員なので、土日は休みになる。
しかし……俺にとっては仕事をしていた方がよかった。
この薄暗い部屋にいても、ただ膝を抱えて震えていることしか出来ないのだから……。

貴之はまだ帰ってこない。
日が沈む前に帰ってきて欲しい。
そうでないと俺は……。



そう、俺は何も知らなかったのだ。
そもそもどこから見ても貧乏青年と言える貴之が、こんなマンションに独り暮
らしなど出来るはずもなかった。
しかし、それはそんなことを気付くどころかいぶかしみもせずに、貴之がよく
聴かせてくれたギターの音色に耳を傾けていた。

正直俺はギターのことなどよくわからない。
しかし、熱っぽく向こうのギタリストについて語る姿や、真剣な眼差しでピッ
クを操るその手の動きに、俺は何となく魅入られていた。
俺自身がすることなど、貴之が俺に見せてくれているものほど、思い入れも何
もないのだろうから……。

だから、俺の目に映る貴之はいつも光り輝いていた。
もしかしたら、そんなに特別でもないことなのかもしれない。
しかし、俺はあまりにも人を知らなさすぎた。
他人を軽んじ、人のことなど見向きもしなかった俺。
俺はただ、ひたすら自分を中心とした世界を築き上げていたのだ。
そして人もそんな俺の考えがわかるのか、俺に近づいて来ようともせず、ただ
下らない陰口を叩くだけだった。

自分が本当にしたいことをする。
それは貴之にとってはギターだったろう。
しかし、貴之のギターのように、俺にも何かがあるのかと言うと……ない、と
言わざるを得ないだろう。
だから俺は貴之に惹かれた。
別に貴之は特別ではなかったが、俺の世界の中では特別な存在だった。
マンションの部屋が隣同士であったとしても、お互いの顔すら知らないことな
ど、今の世の中珍しいことではない。
俺も貴之と偶然出会うことがなければ、その、その他大勢の中に含まれていた
ことだろう。

そして今、俺は貴之と出会ったことについて考えてみる。
果たしてそれがよかったことなのだろうか……。
こんな惨めな状況に陥っていても尚、俺は後悔などしていない。

「貴之……」

日が沈む。
カーテンに映るオレンジ色がどんどん濃くなり、血の色、そして闇の色へと変
わっていく。
そして……今日もまた、苦悶の時が始まるのだ。
だから、俺がまだ俺でいられる間に、貴之には帰ってきて欲しい。
あいつがいれば……俺はまだ、奴に負けずにいられるかもしれないから……。



しかし、そんな俺の希望とは裏腹に、貴之は暗くなってもまだ帰っては来ない。
まだ奴が俺をその軍門に下そうとしてくるには早い時間だが、俺にもその時間
が段々早まってきていることがはっきりとわかる。
そして奴は日増しに力をつけてきている。
俺の頭の中に膨れ上がる奴の意識は強まり、それは頭をガンガンと何か鈍器の
ようなもので殴られているような感じだった。だが、それは痛みは伴わず、不
思議に吸引力を伴った心地よさがあった。
まるで全てを委ねてしまえば、俺に快楽が約束されているかのように……。

だから、客観的に見れば俺は馬鹿だったと言えるかもしれない。
今までの俺でいれば、少なくともこんなことにはならなかったと思う。
第一、あの日まで前兆のようなものは一切なかったのだ。

俺は貴之の全てを知ったつもりでいた。
しかし、それは俺の大いなる思いあがりにしか過ぎなかった。
いかにも俺らしい、自己中心的な考えの表われだろう。
毎日のように自然と俺の部屋に集まっては色々話し合った俺達。
俺にとってはそれが全てだったかもしれないが、貴之にとっては全てではなか
った。俺がそれを初めて悟った時には、もう手遅れだったのだが……。

今更ながら考えてみると、俺はあの時まで、貴之の部屋に入ったことは一度た
りともなかった。まあ、俺からたまには貴之の部屋で、と言い出したことはあ
ったが、貴之は色々言葉を濁して部屋を見せようとはしなかった。
そして俺達はいつものように俺の部屋で時を過ごしたのだった。

俺は警察官、しかもエリートと言われる部類なのだから、その辺のところでピ
ンと来なければならなかったのかもしれない。
そしてあの日、貴之が俺に拳銃のことについて聞いてきて……。

しかし、俺の中途半端な推察が却って悲劇をもたらした。
親友だと勝手に信じきっていた貴之に飲まされた睡眠薬の効果から目覚めた俺
が慌てて貴之の部屋に飛び込んだ時、目にした光景は柄の悪そうな中年の男に
後ろから犯されている貴之の姿だった。

苦痛を訴えながら助けを請う貴之。
そしてそんな貴之を罵倒する男。
俺は信じられない光景に言葉を失った。
そして男が俺の存在に気がついた時……貴之は一時的に解放された。
だが、弾丸の篭められていない俺の拳銃をその手に弄びながら男、後で知った
名前が吉川と言うのだが、奴は警官たる俺を恐れることもなく平然と詰め寄り、
そして俺の腹部を激しく殴った。
崩れ落ちる俺を嘲弄しながら更に蹴りつける吉川。
同じくぐったりと横たわっている貴之と俺の目は、その時初めて合った。

「…………」

しかし、貴之の目は既に虚ろだった。
俺の知っている貴之は、もっと瞳を綺麗に輝かせていたはずだ。
俺の持っていない、活き活きした輝きを……。

悪いのは俺だった。
貴之の本当の心を知ろうともしなかった俺。
そして、自分の都合のいいように自分の枠の中にはめようとした俺。
しかし、貴之はいつも俺の前では笑顔だった。
俺はそんな貴之の笑顔を、貴之が俺を慕ってくれている証だと思い込んでいた。

だが、その幻想はもろくも崩れ去る。
ヤクザ紛いの男にボロ雑巾のように犯される貴之。
そして、その直前に貴之が俺に飲ませたお茶に睡眠薬が入っていたという事実。
もしかしたら、貴之は俺が警官であることをはじめから知っていて、それで巧
妙に近づいたのだとしたら……。

そんなこと信じたくはなかった。
貴之の口から直接否定の言葉が聞きたかった。
きっとあの貴之なら、誤解だと言ってくれるに決まっている。
しかし……もう、貴之は二度と俺の知っている貴之には戻らなかった。

俺はその時まだ、貴之は苦痛による朦朧状態なのだと考えていた。
しかし、吉川が何やら小さな包みを取り出し、それを俺の口にねじ込もうとし
た時、俺は事実を悟った。
貴之はクスリを飲まされているのだと。

俺にも警察学校で麻薬について色々学んだ経験がある。
吉川が持っている麻薬が如何なるものなのか、俺の乏しい知識では判別できな
かったが、とにかく自分が今、かなりの危機に陥っているということを更に印
象づけた。

吐き出そうとする俺の口に無理矢理詰め込む吉川。
唾液でオブラートが溶け、不思議な甘い味を感じていた。

俺も今の貴之と同じになるのかもしれない……。

俺の中で湧きあがる恐怖。
そして、今のこの状況を作り出した原因が、他ならぬこの俺にあるという紛れ
もない事実。
俺がここでこの男の犬に成り下がるならば、俺は単なる愚か者だと言うことに
なる。
貴之の純朴そうな風体に騙され、国家を守るべき警察官という職業を汚す。俺
にはそんなことが我慢ならなかった。
俺がこの男に勝てば、全てをこいつに、こいつが全ての元凶なのだと信じるこ
とが出来る。

貴之を騙し、俺を陥れようとした卑劣漢。
それがこいつには相応しい。
そして俺は、警察官としてこいつを裁かねばならなかった。
俺がそうしなければ、反対に俺が全ての汚名を被ることになる。
つまり、弱いものが悪いのだ。
俺がこいつより強ければ俺が正しく、俺がこいつより弱ければ俺が悪い。
全ては簡単なことだった。

俺は口の中に広がる甘い感触に包まれながら、はっきりとそれを理解した。
そしてその時、強烈な動悸が起こる。
俺は麻薬の効果かと思ったが、心臓を突き破るような鼓動に俺の理性は戸惑い
を隠せなかった。

どんどん動悸は激しくなる。
胸が苦しくなり、視界もぼやけてくる。
そしてそんな中で、俺の中で明瞭にひとこと、響いてきた。

「ヤレ」

そして俺は目覚め、言葉のままに従ったのだ……。



しかし、それは俺に対する命令でありながら、そうではなかった。
ただ、きっかけに過ぎなかったのだ。
眠っていた俺の血と肉を呼び覚ます言霊。
その声は、紛れもない俺の言葉だったのだ。

そして気がついた時俺が目にしたものは、虚ろな目をして唇をぱくぱくとさせ
ながら倒れている貴之の姿と、その周囲に散らばる血まみれの肉塊だった。

俺は呆然といくつかに千切られた吉川を見下ろしていた。
信じられないという驚きと、強烈に感じる勝利の喜び。
そして、力あるものの感動があった。

血で手が汚れることも厭わずに、俺はどこの部分なのか判別もつかない肉塊を
手に取ると、おもむろにそれに歯を立てて齧り付いた。
口の中に広がる血潮の匂い。
だが、それは勝利者の証として、強者の証として、心地よいものだった。
俺はすぐにそれを壁に向かって放り投げる。
そして大きく高笑いをすると、そのままふっと意識を失った……。



俺は勝った。
そして今でも勝利者である。
だが、それは苦悶の日々の始まりでもあった。
貴之は吉川の薬で完全に壊れてしまい、夢遊病者のようにあてもなくぶらつい
ている。
俺はあのかつての貴之に戻ることを夢見て、一緒に戦おうと決意した。
だが……俺はただ、答えが欲しいだけなのかもしれない。
本当に貴之は、俺を騙そうとしたのではないということを……。

貴之と過ごす日々。
あの時俺に起こった変化は、それからも俺に誘いを、圧力をかけていた。
力あるものの歓喜を知ってしまった俺。
そして俺がその『力』を求めているのも事実だった。
しかし、俺の理性はそれに警告を発する。
野獣のように人を引き千切り、その血潮を浴びて生命の喜びに浸るというのは、
現代の社会では完全に受け入れ難い行為だった。

俺の本能はそれを求め、理性はそれをおしとどめる。
そして日が落ちて夜の闇を迎えると、その両者の戦いが俺の中で始まる。
だが、だんだんと理性が本能に押されてきて――

「……まだ……なのか……?」

なにを指しているのか?
俺は閉め切っていたカーテンを少しだけ開く。
薄暗い街灯の明かりと、微かに星が瞬いている。
しかし今日は新月の夜。
真っ黒に塗りこめられて行く俺の心のように、月は見えなかった……。


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