夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第十八話:ちょっと大きめのハンカチ

「おはようございま〜す、梓せんぱ〜い!!」

教室に着いて席に腰を落ち着けるや否や、例の黄色い声があたしの耳に入って
きた。

「……おはよ、かおり」

あたしは鬱陶しそうに素っ気無い挨拶をかおりに返した。
すると不思議そうな目であたしを見つめながらかおりは聞いてくる。

「どうしたんですか、梓先輩? 朝から元気なさそうですけどぉ」
「……ちょっとね。まあ、あんたが気にすることじゃないよ」

思いっきり顔を近づけてくるかおり。
あたしはいつもながらのその迫力に引き気味になりながら、適当に誤魔化そう
とした。
しかし、かおりはそんなことではめげずにあたしに押し迫りながら強く訴えか
けてくる。

「そんなっ!! どんな些細なことでも梓先輩のことなら私にとっては重要な
ことなんですっっ!!」
「わ、わかったから……そう顔を近づけないで、なっ?」

椅子がずりずりと後ろに移動する。
かおりのプッシュにあたしが下がっている証拠だ。
あたしは大抵の奴とは対等に渡り合えるけど、どうもこのかおりは苦手でしょ
うがない。
この娘のおかげであたしにも変な噂が立っちまうし……。
それにこの娘、それを喜んでる節がある。
まったく、しょうがないったらありゃしない。

「じゃあ、教えてくれますね?」
「わかったよ。わかったって……」
「それで、梓先輩を苦しませてる元凶って、いったい何なんですか?」

何だかいつのまにか発展してる。
確かにちょっと落ち込んでるのは事実だけど、苦しんでるってのはちょっと大
袈裟すぎるような……。

「おいおい、そんな元凶って……」
「何なんですか!?」
「……ちょっとしたことだよ。家で喧嘩しただけだ」

あたしはこのかおりには何を言っても無駄だと思って、大人しく教えてやるこ
とにした。
すると、それを聞いたかおりは聞き捨てならないといった顔をしてあたしに更
に詰め寄ってきた。

「喧嘩!? 先輩のご家族の方とですか?」
「ん? まあ……家族っていや家族かな?」
「どっちなんです!?」
「いとこだよ、いとこ。うちに遊びに来たんだ」
「いとこですか……で?」
「おい、その、で、ってのはなんだ?」
「だから、先輩にその経緯をお聞きします。そうでないと私にも対処のしよう
がありませんから……」

そこまで来ると、流石にあたしも行き過ぎだと思う。
あたしの精神状態をかおりが心配するのは勝手にしてくれって感じだけど、う
ちの家族問題にまで首を突っ込まれるとなると問題だ。

「……別に何もしなくていいよ、かおり。あたしの問題はあたし自身で解決す
るからさ」

あたしはかおりを傷つけないように、優しく諭すスタンスをとった。
かおりは非常に変な奴だけど、実はこう見えて繊細で傷つき易いところがある。
そもそも同性とは言え、人に対してこれほど入れ込むことが出来るというのも、
かおりの感受性の強さを物語っていると思う。
ゲーム感覚で恋愛をしている連中がほとんどの昨今、かおりはもしかすると、
本当に純粋な心を持っているのかもしれなかった。
まあ、相手にされる方はたまったもんじゃないけどな。

「……私、先輩のお役には立てないんですかぁ?」

あたしの言葉を聞いて、悲しそうにかおりは言う。
嘘泣きのポーズすら決めているけど、きっと本心ではちゃんと心配してくれて
いるんだと思う。

「いや、な……色々込み入ってるんだよ。あたしだけの問題じゃないし……」
「せめて相談に乗るとか愚痴を聞くとか、何か出来ませんか?」
「そうだなぁ……」
「私、梓先輩の為に何かして差し上げたいんですっ!!」

あたしはそんなかおりの熱意に負けてしまって、しょうがないといった表情で
そっとこう言った。

「……わかったよ、かおり。じゃあ、昼休みにでも話をしよっか?」
「はいっ! 授業が終わったらお弁当持って駆けつけますっ!!」



そして昼休み。
あたしとかおりは話がプライベートなことに及ぶことを考えて、教室じゃなく
校庭に出ることにした。

「いいお天気ですね、梓先輩!」

にこにこしながらかおりはあたしにこう言う。
そしてあたしも悪い気はせずに普通に答えた。

「そうだな。もうちょっとすると、暑さもなくなって丁度いいのかもしれない
けど」
「ですねっ! あ、そこの芝生が気持ちよさそうですよ!」
「ああ。じゃあ、そこにするか」

あたしはかおりの提案を受けて、丁度木陰になってる芝生に陣取ることにした。
申し訳程度の柵をまたぐと芝生を踏みしめる。

隆山もかなりアスファルトの地面が多くなってきた。
道路以外の場所ですら、気がついてみるとアスファルトに塗り固められている
ことが少なくない。
だから靴底に感じるさくっとした芝生の感触は、不思議と心地よいものだった。

「はい、先輩。ここに座って下さいね」

かおりはそう言うと、手早く普通よりひとまわり大きなサイズのハンカチを芝
生の上に広げた。

「なかなか準備がいいな、かおりは」
「そうですか? これも先輩の為ですから」

かおりは笑顔を絶やさずに言う。
実はあたしと二人きりで弁当を食べるというこのシチュエーションに、心の中
で密かに涙しているのかもしれない。
あたしの考え過ぎかもしれないけど、とにかくそれくらいかおりはご機嫌だった。

「取り敢えず座らせてもらうよ、かおり」
「はいはい、それはもう遠慮なさらずに……」

あたしはかおりの許可を得て、ハンカチの上に腰を下ろした。
そして、かおりもあたしに続いて腰を下ろす。
二人が一枚のハンカチに座る……そこであたしはようやく気がついた。

「かおり……ちょっと狭くないか?」
「そうですか? 私は丁度いいですよ」
「…………」

あたしはかおりの狡猾さを侮っていた。
しかし今更どうしようもないことを悟ると、黙って弁当の包みに手をかけた。

ちょっと大きめのハンカチ。
この「ちょっと大きめ」というのが実に曲者だ。
普通サイズならあたしも自分のハンカチを出して座る。
しかし、この大きさなら二人でも座れるか、とあたしに思わせてしまうところ
がかおりの巧妙たる所以だ。
しかも後から座ることによりあたしに逃げを許さずぴったりくっつくことが出
来るという……実際のところ、かおりはあたしにぴったりと寄り添っていた。
もし今のこの光景を誰かに見られたら……噂が実証されてしまう。
あたしはそう思うと、情けなくも周りをキョロキョロと見回した。

「どうしたんですか、梓先輩?」
「いや……なんでもない。さっさと食べよう」

あたしは早速弁当箱の蓋を取ると、おもむろに箸を取って食べ始めた。

「うわぁ、やっぱり梓先輩のお弁当って凄い!」
「…………」

あたしの弁当箱を覗き込むようにしながらかおりが歓声を上げる。
そしてそんなかおりとは対照的にあたしは無言で口を動かし続けた。

「かわいいだけのお弁当なら他にもありますけど……」
「質実剛健……ってか?」
「いえ、彩りとか栄養にも気を遣ってそうで……」
「そか?」
「ええ。先輩さえよかったら……とりかえっこ、したいな」

……上目遣いで言うな、気色悪い。
あたしは口の中のものを咀嚼しながら、心の中でそう毒づいた。
そして口の中のものをちゃんと飲み込んでから、あたしの答えを待つかおりに
向かってそっけなくこう言った。

「また今度な」
「そ、そんなぁ、今度今度って、先輩ったらいつもそればっかりじゃないです
か。お宅にお邪魔させてもらう約束も、ずっと延ばし延ばしになってますし……」
「そ、そんなこともあったっけ? 三年ともなると忙しくって、ついつい忘れ
ちまうんだよ」
「……私はずっと忘れずに憶えてました」

あたしのごまかしの言葉に、かおりはジト目でそう言う。
これに関してはあたしも後ろめたいところがあったから、あまりかおりに強く
も言えない。

「と、とにかくだ、もう手をつけちまってるんだし、流石にそれを交換する訳
には……」
「私は全然気にしません」
「あ、あたしが気にするんだって」
「そうですか……わかりました。じゃあ、また次の機会にさせていただきます」

かおりはつまらなそうにそう言うと、ようやく自分の弁当に手をつけ始めた。

「…………」

横目でかおりを観察する。
あたしはかおりに済まないと思いつつも、かなりほっとしていた。
はっきり言えばご機嫌でべたべたしてくるかおりよりも、こういう機嫌の悪い
かおりの方が安全なのだ。
あたしもそれを確認すると、今のことは完全に忘却の彼方に追いやって、弁当
に集中することにした。



一通り自分の分を食べ終えたあたしは、買っておいたパックの牛乳のストロー
に口をつける。
中学生の頃、胸がぺったんこだったあたしは、あの千鶴姉にすらからかわれる
ような体型で、それを改善しようとひたすら牛乳を飲んでたもんだ。
今でこそ千鶴姉を胸なしと罵れる身分になったけど、まだ発育途上なんだって
ことを示す為に、牛乳を飲む習慣は変えなかった。

程なくして、かおりも食事を終えた。
陸上部のマネージャーをしているせいか、かおりはいつも大きな水筒を持参し
ている。
今も丁度それから冷たいスポーツドリンクを注いで飲んでいるところだ。

「……梓先輩?」
「なんだよ、かおり? もう教室に戻るか?」
「いえ、忘れちゃいましたか、今朝の約束?」
「……約束?」
「そうですよ。私に相談してくれるって……」
「ああ……」

あたしはかおりに言われてようやく思い出した。
と言うより忘れたかったことを仕舞っておいた記憶の底から強引に引きずり出
されたと言うか……。

「ここでなら、打ち明けてくれますよね、先輩の悩み……?」
「……やっぱ言わなきゃ駄目?」

あたしは今更ながら二の足を踏む。
あたしにとって、家族とは他に代え難い大切な存在だった。
それを他人に打ち明けると言うのは……その相手を他人じゃなくするという風
にも言えるだろう。
別にかおりは悪い奴じゃないけど、でも……。

「……先輩が嫌なら……今日は諦めても構いません」

あたしの言葉に、かおりは悲しそうな顔をして答えた。
あたしにはかおりの想いに応えてやらねばならない理由も何もない。
しかし、その場しのぎのこととは言え、あたしは間違いなくかおりに約束したんだ。
それが原因でかおりを傷つけるなら……あたしには人を、耕一を責める資格な
んてないじゃないか。

「……わかった。少しだけ……だからな」
「はいっ!!」

そしてあたしは、かおりに少しだけ話してやることにした。
叔父さんの死んだことから、耕一がやって来たことまで……。

「この前ずっとあたし達のうちに住んでて面倒を見てくれてた叔父さんが亡く
なってな……」
「知ってますよ。私もお葬式の前を通りかかりましたから」
「そうか? で、その叔父さんの息子の耕一をあたしたち姉妹で慰めてやろう
ってことで、うちに招待したんだ」
「そうなんですか……その耕一って人が、問題の原因なんですね?」

今度はかおりは「元凶」という言葉を使わなかった。
今度使ったら、全ての元凶はお前だろっ!!と突っ込んでやろうかと思ってた
んだけど……ちょっと残念に思いながらも、あたしは話を続けた。

「でも、結局悲しかったのは耕一だけじゃないんだ。本当の親父とさえ思えた
叔父さんを失った悲しみは、あたしたちにも深く根を下ろしてたんだよ……」
「…………」
「だから、あたしたちは耕一を慰める代わりに反対に慰められてる。耕一は何
となく叔父さんに似てるしな……」
「…………」
「そんな訳であたしにもちょっとした負い目が耕一にあるんだ。だから素直に
なれなくって、つい喧嘩を……」
「…………」
「別に嫌いな訳でも、喧嘩したい訳でもないのにさ……仲良く楽しくやれれば
それでいいんだよ、あたしは」

あたしはそう言うと、ついかおりに説明しているところだと言うのも忘れて、
そっと本心を洩らしてしまった。

「……きっとあたしは、耕一に甘えたいのかもしれないな……でも、耕一はそ
んなあたしの気持ちなんて知らないから……」

すると、そんなあたしに向かって真剣な眼差しでかおりが訊ねてきた。

「好き……なんですか?」
「えっ?」

あたしは我を取り戻して驚く。
そして話し過ぎたことに気がついて、一気に後悔の念が押し寄せてきた。

「その耕一って男の人のこと、先輩は好きなんですか?」
「す、好きってそんなんじゃ……」
「じゃあ、嫌いなんですね?」
「い、いや、嫌いじゃない」
「じゃあ好き?」
「ま、まあ、どっちかって言うなら……」

あたしはごまかすようにかおりに答える。
しかし、かおりは有無を言わさずに大きな声で宣言した。

「私、そんな訳のわかんない耕一なんていう奴には負けませんからっ!!」
「か、かおり……」
「梓先輩をそんな風に苦しめる男は私が許しません!!」
「お、おい、許しませんって……」
「失礼します、梓先輩! 必ずその元凶は私が排除してみせますからっ!!」

かおりはそう言うと、手早く自分の荷物を手にとって立ち去っていってしまった。

「……何なんだ、あいつ?」

あたしにはもう、それしか口にすることが出来なかった。
呆然としながらも取り敢えず残った牛乳を全部すすり、ちょっと離れたくずか
ごに空のパックを放り投げた。
そして弁当箱を包んで教室に戻ろうと立ち上がった時にあたしはようやく重大
なことに気がついた。

「うっ、もしかしてこれ……あたしが返しに行かなきゃならないのか……?」

それはお尻の下に敷いていた、かおりのちょっと大き目のハンカチだった……。


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