夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第十七話:ふたり、並んで

「いってらっしゃい、楓。車には気をつけるのよ」

それは千鶴姉さんのあたたかな微笑みと共に私に投げかけられた挨拶だった。

「行ってきます、千鶴姉さん」

私はただひとこと、小さく返事をして玄関を潜り抜けた。
でも、表情の乏しい私の心中は……言葉では言い表せないものがあった。

「…………」

耕一さんは今、初音を送りに行っている。
とは言ってもほんのちょっとそこまで。
だからいくら初音と話が弾んだとしても、もう間もなく戻ってくるだろう。
そう、初音の次は、この私を送るために……。

『無理しなくてもいいのよ、楓』

微笑みながら千鶴姉さんは私にそう言ってくれた。
私が耕一さんに近づくことに痛みのようなものを感じていることを、姉さんは
既に知っていた。
だから千鶴姉さんはそう言ったのだし、私に耕一さんが戻ってくるまで待てと
は言わなかった。
むしろ千鶴姉さんは、口には出しこそしなかったものの、私に耕一さんが帰っ
てくる前に早く行きなさいと促しているかのようだった。

「でも……」

でも、それは千鶴姉さんが私を思ってのこと。
他の全てを忘れて私のことだけを考えた結果がそうなる。
しかし、千鶴姉さんには耕一さんもいる。
特に耕一さんは千鶴姉さんにとってだけではなく、柏木家全体としても大切な
お客様だった。

私達四姉妹は叔父様に多大なる恩がある。
今の鶴来屋グループが父さんの代からわずかながら成長しているのも、叔父様
あってのことだった。
そして叔父様の次に鶴来屋の柱となることになったのは他ならぬ千鶴姉さん。
もちろん足立さんという後ろ盾があればこその会長職だけど、千鶴姉さんは悲
しみ覚めやらぬ今、会長としての自覚を持つことを要求されている。

だからこそ千鶴姉さんは鶴来屋グループの会長として考えるならば、ただの妹
の私よりも亡き叔父様の忘れ形見の耕一さんを優先して然るべきなのだ。

「…………」

そして更に千鶴姉さんは、私が耕一さんを避けている理由を知らない。
だから単なる私の我が侭だと思っても当然だと思う。
それなのに千鶴姉さんは……。

「よっ、楓ちゃん! 間に合ったみたいだな」

門をくぐって路地に出ようとしたその時、そんな声が私に届いてしまった。

「あ……」
「ごめんな遅くなっちゃって」
「耕一さん……」

はにかんで手を振る耕一さん。
私は一瞬そんな混じり気の無い笑顔に思わず見入ってしまった。
でも、そんな自分に気がつくと慌てて目を伏せる。

「ちょっと初音ちゃんと話し込んじゃってね。ははは……」

頭を掻きながら耕一さんは私に謝る。
私はそんな耕一さんに悪いと思いながらも、小さくつれない言葉を返した。

「……ごめんなさい、耕一さん。私、急ぎますので……」

私はそう言うと、すっと耕一さんの脇を通り抜けようとする。
しかし……耕一さんはそんな私を黙って見過ごしはしなかった。

「ちょ、ちょっと待ってよ、楓ちゃん!!」
「ごめんなさい……」

有無を言わさず立ち去ろうとする私。
何とか脱しきれたと思ったその時、耕一さんは慌てて私を追いかけて横に並ん
できた。

「急ぐんなら俺も楓ちゃんのペースに合わせるよ。それならいいだろ?」
「…………」

私は耕一さんの言葉に返事をすることもなく、黙って歩くペースを速めた。

「…………」

そして耕一さんも何も言わない。
ただ黙って、私の横をついてくるだけだった。

「…………」

早歩きから、次第に小走りとも言えるようなペースに変わっていく。
耕一さんはサンダル履きだから時折体勢を崩しそうになるものの、やっぱり男
の人だからなのか私よりも遥かに楽そうに進んでいた。

そしてそんな耕一さんとは対照的に、私の息は次第に上がってくる。
私は耕一さんについてきて欲しくないのに、耕一さんを振り切ることが出来ない。
きっと私が直接口で、耕一さんにもうついてこないで下さいと言えば、耕一さ
んはそのまま家まで引き返してくれると思う。
でも……私は耕一さんが嫌いな訳じゃない。

耕一さんがこうして私を追いかけてきてくれる。
耕一さんだって、私が意図的に自分を避けていることくらい充分わかっている
はず。
でも、それでも何も言わずにこうして来てくれる。
別に私の本心を知っている訳でも、二人のあの夢を見た訳でもない。
ただ、私を想って来てくれる。
それを支えるものが私とは異なっていても……。

私はこんな耕一さんとの言葉の無い並走を、不思議と心地よく感じていた。
言葉はなくとも、視線は交わされなくとも、こうして二人は一緒にいる。
耕一さんに何も出来ない私には、これが精一杯のことだった。
だから身体中でそれを感じて……。

しかし、私の体力の限界はすぐにやって来た。

「はぁはぁ……」

とうとう走れなくなって息を切らしながら立ち止まる私。
耕一さんも少し息苦しそうにしながらも、何も言わずに私を見つめていた。
でも、立ち止まってから少しして、耕一さんは小さな声でそっと私に謝ってきた。

「……ごめん、楓ちゃん」
「……耕一……さん?」

私は顔を上げて耕一さんの方を見上げる。
すると耕一さんは軽く苦笑して私にこう言った。

「……楓ちゃんとはちゃんと話をしなきゃ駄目だと思ってさ」
「…………」
「何だか無理矢理みたいだったけど、そうでもしないと楓ちゃんは……」
「…………」
「話をしようよ、楓ちゃん。別に今すぐここででなくてもいい。でも俺達、も
っと分かり合う必要があると思うんだ」

心から私に呼びかけてくれる耕一さん。
それは耕一さんの優しさがいっぱい詰まった言葉だった。
本当に耕一さんは優しい人だから……。
でも、でもその優しさは、刃となって私を苛むのだった。
私が真に求めているものは、優しさだけではなかったから……。

私はうつむいて黙り込む。
絶対に顔を上げちゃいけない。
顔を上げたらどうなってしまうかわからない。
私は厳しく自分にそう言い聞かせて、唇を噛み締めていた。

しかし、そんな私に耕一さんは突然こう訊ねてきた。

「……楓ちゃんは俺のこと嫌い?」
「えっ!?」

思わぬ質問に、私は思わず顔を上げてしまった。
そして、私の視線と耕一さんの視線がひとつになる。

「もし楓ちゃんが俺のことを嫌ってるなら、俺はもう楓ちゃんに付きまとった
りはしないよ。俺が柏木家に滞在している間は、俺のことは適当に空気とでも
思ってくれればいい。でも……」
「…………」
「でも、俺のことを嫌っているんじゃないなら……」
「…………」
「俺から逃げないで欲しいな。俺、ちゃらんぽらんな奴かもしれないけど、そ
れでも人に避けられて平気でいられるほど図太くもないからさ」

そういう耕一さんの目は、少し寂しげだった。
でも、それも当然かもしれない。
実の父親に先立たれて、耕一さんの肉親はもういない。
だから、耕一さんにとっての唯一の拠り所は柏木家の私達姉妹しかない。
それなのに私は耕一さんを癒す存在にはなれず、却って耕一さんに悲しみをも
たらす。

私は何の為に、ここにいるのだろう……。

私の脳裏を、ふとそんな疑問が過ぎった。
そして私はひとつの答えを出す。

「……ごめんなさい、耕一さん……」

私は深々と頭を下げて、耕一さんに謝った。
すると耕一さんは残念そうに言う。

「そっか……やっぱり楓ちゃん、俺のこときら――」
「嫌いになれるはずありません」

私は耕一さんの言葉を遮ってはっきりとそう言った。

「か、楓ちゃん……」

私の頭はまだ下を向いたまま、そして視線は地面に向けられていた。
そして私はそんな頭を下げた態勢を維持したまま、耕一さんに告げた。

「私、耕一さんのこと、嫌いじゃありませんから」
「な、なら……」
「でも、でも今は……」
「…………」
「少しだけ、私に時間を下さい。耕一さんがお帰りになる前に、私も結論を出
しますから……」

私には考える時間が必要だった。
いつも見るあの夢のこと、柏木家に伝わる力のこと、そして柏木楓という私のこと……。

「……わかったよ、楓ちゃん」
「耕一さん……」
「楓ちゃんが俺のこと、嫌いじゃないならそれで充分だよ。俺は楓ちゃんのそ
の言葉を信じて、ずっと待ってるからさ」

顔を上げた私に、耕一さんは微笑みながらそう言ってくれた。

耕一さんの優しい笑顔。
そしてその言葉。
『待ってるから……』
それは私の胸に響いた。

「……待っていて下さい。私も貴方のこと、待っていますから……」

私は大切な何かを告げるように、確かな口調で耕一さんに言った。

「え、あ……うん」
「じゃあ、そろそろ行かないと遅刻しますので……」
「そ、そうだね、行ってらっしゃい、楓ちゃん」
「じゃあ……」

思わず出た言葉。
それは耕一さんを惑わせた。
言わなかった方が良かったかもしれない……。

私はそんな自分の気持ちを隠す為に、耕一さんに別れを告げた。
そしてそのまま足早に立ち去る。

きっと耕一さんは私に向かって手でも振っていてくれることだろう。
でも、私は振り返らない。
今ここで耕一さんを見てしまったらきっと……。

耕一さんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
それは私の心に刻み込まれてしまったかのようだった。

セピア色をした夢が、現実という名の色に染められて行く。
おぼろげだったその表情も、今ははっきりと感じ取ることが出来る。
それは弱過ぎる私の心に、微かな鈍い痛みを伴って広がっていくのだった……。


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