夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第十六話:ささやかな疑問

「ふぅ……」

慌てて教室に飛び込むわたし。
別に遅刻ぎりぎりだったとか、そういうこともないんだけど、何だか気持ちが
落ち着かなくってのんびり来ることも出来なかった。
取り敢えずわたしは椅子を引いて自分の席に着くと、ゆっくり身体と心の両方
を休めることにした。

……でも、そんなわたしの穏やかな時間は、元気いっぱいの一声によってあっ
さりと終わっちゃったの。

「おはよ、はつねっ!!」
「あ、おはよ、沙織ちゃん。朝から元気いっぱいだね」

わたしは振り返って応える。
声の主は……やっぱり沙織ちゃんだった。
中学の時には部活の朝練とかがあったから、こうして何にもない朝っていうの
は梓お姉ちゃんみたいに体力を持て余しちゃうのかも。
わたしはそんな体力なんてないから、あんまりよくわかんないけど……。

「まあね。って初音だっていつもはあたしと似たようなもんじゃない」
「そうかなぁ?」
「そうだって。でも、今日はちょっとお疲れみたいね。どうしたの?」
「うん……ちょっと急いで来たから」
「初音が? でも、まだ急ぐような時間じゃ……」

沙織ちゃんは腕時計に目をやって言う。
でも、沙織ちゃんにわざわざ言われなくっても、まだ充分時間はあるってわた
しにもわかっていた。
するとそんな時、沙織ちゃんは何かを思い出したように慌てて声を出す。

「あっ、そうそう初音、首尾の方はどうだったのよ?」
「首尾?」

沙織ちゃんの言葉にわたしはついていけずに、小首をかしげて聞き返した。
そしてそんなわたしの反応を見た沙織ちゃんは、いかにも意味ありげな笑みを
湛えた表情でわたしを問い詰める。

「もう、とぼけんじゃないわよ。初音が今日急いできたってのも、くだんの彼
が原因なんじゃないの?」
「彼って……? えっ、もしかして耕一お兄ちゃんのこと?」

わたしは今更ながらに沙織ちゃんが言おうとしていたことに気付く。
すると沙織ちゃんは呆れたようにわたしにこう言った。

「ったく、純粋なんだかただ抜けてるだけなのか……」
「さ、沙織ちゃん、なにもそこまで言わなくっても……」

沙織ちゃんのこういう態度はいつものことだけど、やっぱりわたしはそれに振
り回されちゃう。
相手が梓お姉ちゃんなら、わたしも少しは違うんだけど……。

「あんたのその性格、絶対に人生の何割かは損してるわよ、絶対」
「ど、どうして?」
「人のことはちょっとしたことでも気がつくくせに、自分のこととなるとから
きし駄目なんだからね……」
「そうかなぁ?」
「そうよ。まあ、そんな初音だからこそ、みんなが慕ってくれるんだろうけど
ね……」

そう言う沙織ちゃんの表情は少しだけ悲しげで、わたしじゃない他の何かを見
ているような気がしてならなかった。
わたしはいつもとは違った沙織ちゃんの様子を見て、この話題を変えようと思
った。

「それでね、沙織ちゃん」
「ん、なに、初音?」
「耕一お兄ちゃんのことなんだけど……」
「そうそう、そういやその話だったわね」
「うん。来たのが夕方だったから何をしたって訳でもないんだけど、結局夕べ
は千鶴お姉ちゃんと一緒にビール飲んで酔っ払っちゃって……」
「なんだ、初日はそんなもん?」

わたしが語った想像と大きく異なる事実に拍子抜けしたのか、沙織ちゃんは残
念そうにそう言った。
でも、わたしにしてみれば何もないのが当たり前だから、表情一つ変えずにさ
らっと沙織ちゃんに述べた。

「まあね。でも、うちに来て随分リラックス出来たみたい」
「酒飲んで羽目を外したから?」
「うん」
「それってただ単に酒癖悪いだけじゃないの?」
「えっ?」
「初音、今晩は気をつけなよ。また今日も同じことの繰り返しだったら、リラ
ックスってよりもそれが日課なんだろうから」
「そ、そんな……」

わたしは沙織ちゃんの言葉に驚く。
まさかあの耕一お兄ちゃんに限ってアルコール中毒みたいなことが……。

「だから、あんたが気をつけてやんのよ。ビールを飲みそうだったら取り上げ
る。いい?」
「う、うん……」
「なによ、何だか歯切れ悪いわね」
「だって、お酒飲んでる時の耕一お兄ちゃん、楽しそうだし……」

ジト目でわたしを見る沙織ちゃんに言いにくそうにそう言うと、沙織ちゃんは
大きな声でわたしに言った。

「当たり前でしょ。酔っ払いは楽しいからお酒を飲むの。でも、楽しいだけじ
ゃないから止めようとするんじゃないの?」
「……どういうこと?」
「だーかーらー、今朝、その彼氏はどうだった?」
「あっ……」

わたしは沙織ちゃんが何を言いたいのか、ようやく悟って小さく声を上げた。
すると、そんなわたしに向かって今更のように言う。

「二日酔いでへろへろだったんじゃないの?」
「う、うん……」
「どうせ初音に彼氏の晩酌に付き合えなんて言っても無理だろうし、だったら
お酒なんて飲ませてもその彼氏が辛い思いをするだけでしょ? ならしっかり
者の初音がちゃんと止めてやんなきゃ」
「……そうだね。沙織ちゃんの言う通りかも……?」

わたしは沙織ちゃんの言葉に納得してつぶやく。
すると沙織ちゃんはそんなわたしを後押しするようにぽんと背中を叩くと力強
くこう言ってきた。

「そうだぞ、初音っ! ちゃんと気合入れていとこの彼氏をゲットしな!」
「さ、沙織ちゃん!!」

わたしは沙織ちゃんの言葉に驚愕する。
そう言えば沙織ちゃんはさっきから耕一お兄ちゃんのことを「彼氏」って言っ
てたけど……わたしはそれが沙織ちゃんの見知らぬ男の人に対する表現法だと
思って黙っていた。
でも、どうやらそうじゃなかったみたい。
沙織ちゃんは耕一お兄ちゃんのこと、わたしのボーイフレンドとして見たみた
いで……。

「何よ、今更驚いたりして?」
「だ、だって、彼氏って……」
「初音の彼氏でしょ?」
「ち、違うよ!!」
「じゃあ、何なのよ?」
「こ、耕一お兄ちゃんは……」
「お兄ちゃんは?」

改めて沙織ちゃんに言われて、わたしは耕一お兄ちゃんについて考えてみた。
客観的に見れば遠くに住んでるいとこのお兄ちゃんだけど、わたしはそれだけ
じゃ済ませたくなかった。
でも、沙織ちゃんが匂わすような関係っていう訳でもないし……。

「お兄ちゃんは……わたしの大切なお兄ちゃんだよ……」

だから、やっぱりここに落ち着いた。
本当はわたしにはいない、わたしのわたしだけのお兄ちゃん。
それが耕一お兄ちゃんだった。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
そのはずだったんだけど――

「好きじゃないの?」
「えっ?」
「だから、初音はその耕一さんのこと、好きじゃないの?」
「…………」

沙織ちゃんは真剣な目をして訊ねてきた。
しかも、お兄ちゃんのことを「耕一さん」って呼んで……。
わたしにはわかった。
沙織ちゃんがそう呼ぶことによって、耕一お兄ちゃんのことをいとこのお兄ち
ゃんじゃなく、一人の男の人として考えさせようとしていることを。
そしてわたしは思い出す。
あの朝の出来事を……。

「……顔、赤いわよ、初音」
「え、えっ!?」
「なに考えてたのよ?」

意地悪そうな瞳でわたしを見る沙織ちゃん。
でも、わたしはそんな沙織ちゃんに言っていいのかどうか迷った。

「え、えと、その……」
「耕一さんのこと、想像してたの?」
「えっ!?」
「好きなんでしょ、彼のこと。認めちゃいなさいよ、あたしは別に悪いなんて
思ったりしないから……」
「…………」
「初音っ!!」
「あ、う、うん」

わたしは沙織ちゃんにぴしゃりと名前を呼ばれて、思わずうんって言っちゃった。
すると沙織ちゃんは大きくうなずきながら力説する。

「そうそう、自分の気持ちには素直に生きるもんだよ、初音」
「さ、沙織ちゃん……」
「あんただってもう高校生なんだから、ひとりの女として見られてもおかしく
ないんだよ」
「…………」
「ファーストキスだってまだなんでしょ?」
「…………」
「まさか、もう誰かとしちゃったなんてことは……あんたに限ってないわよね?」
「そ、それは……」
「初音?」

意外な事実に近づいて、沙織ちゃんは大きく目を見開きながらわたしに顔を近
づける。
嘘なんてつけないわたしはもう観念すると、沙織ちゃんにならと思って大人し
く今朝のことを白状することにした。

「……唇と唇はまだだよ。でも……」
「いつ!? どこにしたのよ!?」

早口になる沙織ちゃん。
わたしはたじたじになりながらも、小さな声でつぶやいた。

「……今朝……おでこに……」
「今朝ぁ!? やっぱり相手はその耕一さん?」
「う、うん……おでこにちゅっ、ってされちゃった。で、わたしも……」
「初音も!?」
「う、うん。わたしが驚いてたら慌てて耕一お兄ちゃんが謝るもんだから、帳
消しにしてあげようと思ってわたしもおでこに……」
「こ、この初音がねぇ……」

驚き入る沙織ちゃん。
でも、確かに今朝のあれがわたしの男の人へのファーストキスだったかもしれ
ないけど、そういう変な意味でした訳じゃないんだし、耕一お兄ちゃんも挨拶
に近い感じでやっちゃったんだと思う。
だからわたしは沙織ちゃんに弁解するつもりでこう言った。

「で、でも変なつもりでした訳じゃないんだよ。ちょっとした弾みで……」
「日本人は弾みでキスなんかしないよ!」

言い訳しようとしたわたしを遮って、沙織ちゃんは大きな声で言った。

「えっ? で、でも……」
「大体弾みでキスするようなら、みんなそこいら中でキスしまくってると思わ
ない?」

そして今度は穏やかにわたしを諭すように沙織ちゃんは言ってくれた。

「そ、それは……そうかもしれないけど……」
「だからまあ、弾みもあったんだろうけど、本心ではやっぱりキスしたかった
んだよ。初音も、その耕一さんも……」
「耕一お兄ちゃんが?」
「そうそう。初音のことがいくらかわいい妹っていう気持ちが強かったとして
も、それだけじゃキスなんてしないって。心のどこかで好きって言う気持ちが
あるから、だからキスしてきたんだよ」
「…………」
「そして初音もいとこのお兄ちゃんって言う気持ちが大半を占めてるのかもし
れないけど、でも、一人の男として耕一さんを見ていた部分もあったから、そ
うやってキスが出来たんだよ、きっと」

沙織ちゃんがそう言った時、始業の鐘が鳴った。
そしてそれと同時に、先生が教室の中に入ってくる。

「あ、もう時間。じゃあ初音、続きは次の休み時間でね!」

沙織ちゃんはそう元気に言い残すと、自分の席へと戻っていった。
わたしは沙織ちゃんがいなくなって独りになると、教科書を用意しながら色々
と考え出した。



わたしの気持ちと耕一お兄ちゃんの気持ち。

沙織ちゃんはああ言ったけど、多分耕一お兄ちゃんにそう言う気持ちはないと
思う。わたしのことをかわいい妹として見ていてくれてはいると思うけど……。

じゃあ、わたしの気持ちは?
わたしはお兄ちゃんのこと、どう思うの?
ただのいとこのお兄ちゃん?
それとも……耕一さん?

千鶴お姉ちゃんは耕一さんって呼んでる。
梓お姉ちゃんは耕一って呼び捨てにしてる。
楓お姉ちゃんはお兄ちゃんに直接話はしないけど、わたしと話をしてた時には
耕一さんって言ってた。

でも、わたしは耕一お兄ちゃん。
千鶴お姉ちゃんはともかく、梓お姉ちゃんや楓お姉ちゃんにとっても耕一お兄
ちゃんは年上のお兄ちゃんなのに……。

わたしもいつか、耕一さんって呼ぶようになるのかな?
そして一人の男の人として見るようになって……。

そんなことを思っていると、隣の席から小さく畳まれた紙が回ってきた。

「沙織からだってさ」

わたしは何かと思ってその紙切れを広げてみる。
するとそこには――

『耕一さんが帰る前に、絶対に唇にキスしてもらうんだよ!! FROM 沙織 』

さ、沙織ちゃんてば!!

わたしの顔はまるで茹でたように熱くなる。
わざわざ手紙で伝えるほどのことでもないのに……。
わたしが視線を沙織ちゃんの席に向けると、沙織ちゃんはこっちを見てにやに
や笑ってた。
もう、わたしをおかずにして楽しんで……。

それはいつものこと。
でも、今回だけはわたしの気持ちも複雑だった。
わたしのお兄ちゃんっていう気持ちから、何だか少しずつ変わってきている。
それはまだほんのわずかな変化かもしれなかったけど、今朝のおでこのキスは
そのきっかけだったのかもしれない。

これからどうなるんだろう……?

それはわたしの気持ちに呼びかけた、わたしのささやかな疑問だった……。


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