夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第十五話:ふたつのおでこ
「あっ……」
玄関先で靴を履こうとした初音ちゃんが、突然動きを止めて小さく声を上げた。
初音ちゃんの後ろに付き従っていた俺は、何事かと思い横に回り込んで声をか
けてみる。
「どうしたの、初音ちゃん?」
「うん……梓お姉ちゃん」
「梓? どうかしたのか?」
「梓お姉ちゃんの靴、もうないから……」
「ああ……」
俺にはそれ以上何も言えなかった。
梓が突然飛び出していったのには俺にも原因があるようだったが、それにして
もそのまま学校に行ってしまうこともないだろうに……。
しかし、俺にとってはその程度の考えだったとしても、初音ちゃんにとっては
そうではなかった。
「折角耕一お兄ちゃんと三人で一緒に行けると思ってたのに……」
「初音ちゃん……」
心にわだかまりを残していた俺達。
楓ちゃんを責める訳じゃないが、楓ちゃんの一件で何故か普通に振る舞えなか
った。
特に姉妹の中でも一番そのことを気にしていたのは初音ちゃんで、何かにつけ
て周囲を解きほぐそうとしてくれていた。
この子が俺達の中でも一番年下だって言うのに……。
でも、初音ちゃんはこの柏木家の中で、自分をそのように位置付けていたらしい。
もう初音ちゃんも高校生だから子供とも言えない年頃になって来ているという
のに、かわいくて素直な末っ子を演じ続けていた。
無論初音ちゃん自身、それが完全なる演技でなく初音ちゃんの本質なのだとい
うことくらいはわかっていると思う。
しかし、そうではあっても完全なる自然体じゃなかった。
むしろ演技していた自分が本当の自分として定着してしまったと言うか……。
いい子としての初音ちゃん。
常に周囲を気遣い、笑顔を振り撒いていた。
なのに俺は……また初音ちゃんに苦労を重ねさせる。
「ごめんな、初音ちゃん。俺のせいでこんなことに……」
「えっ? 別に耕一お兄ちゃんが悪い訳じゃないよ」
「でも、梓は俺に怒って出ていったんだろう?」
「それはそうかもしれないけれど……」
俺の謝罪の言葉に、初音ちゃんは困ったような顔でうつむいてしまう。
俺自身が認めるように、今回の一件は全て俺が元凶だけど、初音ちゃんはそれ
を感じつつもそういう形にはしたくないらしい。
確かに色々言い出せば、どういう結論に達したとは言え楽しく一緒に歩くなん
て無理な話だ。
だからこそ、初音ちゃんはどうしたらいいのか手をこまねいているんだし……。
俺はそう思うと、細かいことを言うのはやめて明るく初音ちゃんにこう言った。
「よし、じゃあ梓の奴を追いかけるとしよう!」
「えっ?」
「まだ走れば間に合うだろ? いくら梓だって家を出てからも走ってないだろ
うし……」
「でも……」
「なに、朝っぱらから走りたくなんかない?」
「ううん、そうじゃないんだけど……梓お姉ちゃん、陸上部だから時々学校ま
で走っていくことがあるんだよ」
「なぬっ! 寝坊したからとかじゃなくってか!?」
俺は言いにくそうに言う初音ちゃんの言葉に驚いてしまった。
寝坊して慌てて学校までダッシュというのは俺の高校時代にも度々あったけど、
時間に余裕のある時は絶対に走ったりしなかった。
だらだらてれてれ、まさに有り余る時間をフルに活用して学校まで通っていた
ものだ。
やっぱり陸上部なんていう如何にも健全そうな部活にいるとなると、その辺の
性根とかも全く違うものになるのだろうか?
「ふふっ、梓お姉ちゃんは元気だからね」
変なリアクションの俺を見た初音ちゃんはようやく笑顔を見せてくれた。
そして俺はそんな初音ちゃんがやけに眩しく見えて、まだ二日酔いでどろりと
した感じの体調だったけれども、もう少しだけ調子に乗ってみることにした。
「元気っていうレベルの問題か? 梓の場合、もう少しなんて言ったらいいの
か、体力が無駄に余ってるって気がするけどなぁ」
「仕方ないよ。梓お姉ちゃんももう三年だから、部活って言っても実際に身体
を動かすのも少ないみたいだし、身体がうずくんじゃないかな?」
「うーん、何だか傍迷惑な話だな……体力なんて適当に少ない方がいいんだ」
「そうなの? どうして?」
「それはな、ひ弱そうにしていれば余計な仕事を押し付けられずに済むからだ。
如何にも体力余ってますって感じだと、なら丁度いいってな具合になるだろ?」
「……そういうものなのかな? でも、本当に余ってるならわたしは別に構わ
ないと思うけど……」
俺みたいに堕落しきった不良大学生とは違って、初音ちゃんは身も心も真面目
だった。
でなければこんな返事は普通返って来ないというものだ。
初音ちゃんには初音ちゃんで色々あると思うけど、それでもやっぱり初音ちゃ
んはこうであるべきだと俺には思えてならなかった。
きっとそんな風に思う俺みたいな輩がいるから、色々初音ちゃんにも苦労をか
けるんだろう。
だから俺は、こうして初音ちゃんの傍にいてあげられる間は、初音ちゃんがい
つも笑っていられるようにつとめて努力しようと思った。
「まあ、ともかく行こっか。梓を追っかけてもどうなる訳でもないし……それ
とも初音ちゃんは俺と二人っきりじゃ嫌かな?」
まだ俺と初音ちゃんは玄関先だった。
初音ちゃんは俺とのちょっとした話に夢中になって、靴を履く手が止まってい
るという感じだ。
俺は今のだらしない格好にここで借りたサンダルといういでたちだが、初音ち
ゃんは如何にも年頃の女の子らしく綺麗に制服を着こなしている。
まだ中学生でも十分通用する初音ちゃんだけれど、それゆえに健康的な感じが
していた。
そしてそんな初音ちゃんは俺のちょっとした言葉に顔を赤くして応える。
「そ、そんなことないよ、耕一お兄ちゃん」
「でも、初音ちゃんは梓がいた方がいいんだろ? やっぱりそうだよな……」
俺は初音ちゃんを騙すように、そんな気持ちなんて微塵もないにもかかわらず、
わざと沈んで見せた。
するとやさしい初音ちゃんは俺の思惑通りに慌てて俺に向かってこう言ってきた。
「梓お姉ちゃんが一緒だといいなって思ったのは事実だよ。でも、耕一お兄ち
ゃんと二人きりなのが嫌だとかそう言うんじゃなくって……」
「俺のこと、嫌いじゃない?」
「も、もちろんだよ!!」
「二人で一緒に歩いても嫌じゃない?」
「う、うん!!」
「手を繋いでも、恥ずかしくない?」
「えっ、手?」
「ううう、やっぱり初音ちゃんは……」
俺は今度は嘘泣きをして見せた。
如何にもわざとらしい演技だったけれど、初音ちゃんにはまだそこまで考えが
回らないのか、俺を慰めようと顔を覗き込むようにしてこう言った。
「わ、わたしは恥ずかしくなんかないよ。それよりもお兄ちゃんの方がわたし
なんかと一緒で恥ずかしくない?」
「恥ずかしい訳ないよ。とってもうれしいだろうなー、俺」
「ほ、ほんとに?」
「ほんとのほんとだよ」
「……じゃ、じゃあ耕一お兄ちゃんがそう言うのなら……」
初音ちゃんはほっぺたをかわいく染めながら、そっとその小さな手を差し出し
てきた。
すると俺はその手を逃さずキャッチし、態度を一変させてこう言った。
「よしっ、じゃあ行くとするか! 初音ちゃんと手を繋げるなんて幸せだなぁ、
俺」
「あ、耕一お兄ちゃん?」
俺の変貌ぶりにきょとんとする初音ちゃん。
俺はそんな初音ちゃんをよそにさっと立ち上がると、手を引っ張って初音ちゃ
んを立ち上がらせた。
「行こ。初音ちゃんもあんまりだらだらしてられないだろ?」
「え、う、うん。まだ時間はあるけど……」
「ゆっくり二人でおしゃべりでもしながら歩けばいいさ」
「それもそうだね。じゃあ行こ、耕一お兄ちゃん」
初音ちゃんはまだ釈然としない顔を見せていたけれど、それでも取り敢えず割
り切って俺と一緒に行くことにした。
二人で一緒に物々しい柏木家の門をくぐる。
するとそこにはのどかな田舎の朝の光景が目に飛び込んできた。
夕方見た景色も、また朝見ると違って見える。
俺が忘れて久しかった心地よい朝の清んだ空気が、まるで俺の身体を洗い流し
てくれるようだった。
「空気がおいしいね、耕一お兄ちゃん」
「そうだね、初音ちゃん」
俺と初音ちゃんはそろって大きく深呼吸する。
普段はかったるいだけだと思えることも、今はそうすることが自然であるかの
ように感じられた。
「…………」
深呼吸を終えた俺と初音ちゃんは、そのまま一緒に歩き始めた。
俺は一応初音ちゃんに歩調を合わせていたけれど、それでもこうして人と手を
繋いで一緒に歩くなんていう如何にも恥ずかしい行為など当然そうそうあるこ
とでもないので、ちょっと俺の歩みもぎこちなさを拭えなかった。
しかし、そんな俺に対して初音ちゃんも何も言わなかった。
初音ちゃんは結構おしゃべりが好きだし、楽しくおしゃべりしようと言って家
を出てきたのだ。
だが、現実問題として初音ちゃんは少しうつむいて口を開こうともしない。
俺はそれが少し気になって初音ちゃんに声をかけてみようと思ったのだが……
俺が行動に移るよりも先に、初音ちゃんの小さな唇が動いた。
「……ごめんね、耕一お兄ちゃん……」
「えっ、どうしたの初音ちゃん?」
「わたし、背が小さいでしょ? だからお兄ちゃんも歩きにくいと思って……」
俺はまた最初の話に戻るのではないかと危惧していたので、ほっと胸を撫で下
ろして初音ちゃんに応えた。
「なんだ、そんなことか……全然気にする必要ないよ」
「でも、お兄ちゃんとわたしとじゃ釣り合わないし……」
「どうして?」
「わたし、やっぱり子供でしょ? 千鶴お姉ちゃんみたいに大人っぽくないし……」
「初音ちゃんは初音ちゃんだろ? 千鶴さんと比較してどうこう言っても意味
ないんじゃないかな?」
俺は気落ちした初音ちゃんを元気付けようと、やさしく微笑みながらそう言っ
てあげた。
しかし初音ちゃんはそんな俺に向かってそっと言葉を返した。
「そうかもしれないけど……わたし気にしてるんだ、身長のこと」
「どうして? 俺は初音ちゃんくらいの方がかわいいと思うけど……」
「……でも、何だか今のわたしと耕一お兄ちゃん、仲のいい兄妹か親子ってい
う感じだし……」
いくらなんでもそこまでは、と俺も思ったけれど、初音ちゃんの言う通り俺達
は同年代には見えなかったかもしれない。
初音ちゃんが童顔だと言うのもあると思うけれど、でも決定的なのはその身長
差だった。
もう少し身長が近ければ、そう見えないこともないだろうに……。
とにかく客観的に見てみれば、まるで俺が初音ちゃんを遠足か何かに引率して
いるかのようだった。
そしてそんな思考の中、俺の出した答えは如何にも陳腐なものに終わった。
「……なに、身長くらいなんて初音ちゃんの年頃ならすぐ伸びるって。もしか
したらあっという間に梓や千鶴さんまで追い抜くかもよ?」
「そうかなぁ……?」
「よく言うだろ? 小さい頃背が低かった奴って、後ですっごく身長伸びるっ
て……」
「うん……」
俺がいくら慰めても、初音ちゃんは一向に元気になる様子を見せない。
これはもう何を言っても埒があかないと思った俺は、特効薬を使用することに
決めた。
「それにほら……」
ちゅっ!!
俺は立ち止まる初音ちゃんの前で身を低くすると、いきなり初音ちゃんのおで
こにキスをした。
「え、えっ……!?」
あまりに突然のことで、おでこに手をやりながらぽーっとする初音ちゃん。
俺はそんな初音ちゃんと視線の高さを合わせたままこう言った。
「男にとってこんな風にちょっと身を屈めてするキスもまたいいもんなんだよ、
初音ちゃん」
「…………」
「まあ、これは初音ちゃんを元気付ける薬だと思ってよ。そんな変な意味はな
いから……」
「…………」
「……初音ちゃん?」
俺としてはからかい半分で、初音ちゃんを困らせるか笑わせるか、とにかく今
を変えようと思ってしたことなのに、当の相手の初音ちゃんの反応は俺の予想
を大きく越えたものだった。
「あ……」
俺の呼びかけに初音ちゃんは少しだけ我を取り戻して視線を俺に向けてくれた。
そして俺は自分がやり過ぎたと思って済まなそうに謝る。
「ご、ごめん。ちょっと度が過ぎちゃったかな……?」
「えっ……?」
「ほら、俺ってお調子もんだから、ついつい悪乗りしちゃって……」
「…………」
「やっぱ嫌だよな。いくらおでことは言え、いきなりキスしてくる奴なんか……」
さっきはふざけていた。
でも、今は本気だった。
初音ちゃんを元気付けようとしてやったことが裏目に出てしまって……俺は今
更ながらに自分の愚かさを呪った。
「耕一お兄ちゃん……」
「ごめんな、初音ちゃん……」
「そんな……お兄ちゃんが謝る必要なんてないよ」
とにかくひたすら謝り続けようとした俺。
しかし頭を下げる俺に向かって、本当に微かな声で初音ちゃんは伝えてきた。
「えっ?」
初音ちゃんのその言葉に慌てて顔を上げる。
そしてその時見た初音ちゃんは、今日見た初音ちゃんの中でも一番綺麗に微笑
んでいた初音ちゃんだった。
「嫌じゃないよ、わたし」
「初音ちゃん……」
「耕一お兄ちゃんはわたしを思ってしてくれたんだもんね。違う?」
「そ、それはまぁ……」
「ふふっ、ならそれでいいじゃない」
「そ、そう?」
「そうなの!!」
「でもなぁ……」
初音ちゃんがこうして断言してくれているにもかかわらず、今度は反対に俺の
方が何故か渋った。
自分でもよくわからなかったけれど、きっとまた初音ちゃんが俺を気遣ってい
ってくれていると感じたからだ。
しかし、そんな俺に向かって初音ちゃんは元気に言った。
「なら、これでおあいこだよっ!!」
初音ちゃんはそう言うと、丁度目の前の高さにあった俺のおでこに飛びつくよ
うにキスしてきた。
「じゃあ、耕一お兄ちゃん、送ってもらうのはここまででいいから!!」
「え……」
「また学校から帰ったら遊んでね!!」
初音ちゃんは大きく手を振ると、呆然とする俺に向かって元気よく言った。
そして俺はと言うと、そんな初音ちゃんに薄ぼんやりと返事をするので精一杯
だった。
「あ、う、うん、わかったよ……初音ちゃん……」
だが、その時はもう既に初音ちゃんの後ろ姿は遠ざかろうとしていた。
俺は完全に初音ちゃんのカウンターを食らう形になって……初音ちゃんもなか
なかどうして侮れぬ、と真剣に思うのだった。
続きを読む
戻る