夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第十四話:止まらない涙
「じゃあ、わたしはそろそろ学校だから」
初音はそう言うと、身支度を済ませた自分の姿を耕一さんに見せに来た。
「あ、もうそんな時間? 結構早いんだね、初音ちゃんは」
さっきまで私が読んでいた新聞を広げながら、耕一さんが顔を上げて初音に応
える。すると梓姉さんがちょっと馬鹿にするように耕一さんに言った。
「なに呑気なこと言ってやがる。耕一みたいなお気楽大学生と違って、あたし
達は健全な高校生なんだ。このくらいの時間が普通なんだよ」
「お、おい梓……」
これくらいのことでここまでこき下ろされると、流石の耕一さんも冗談では済
まなく感じたのか、むっとした顔をして梓姉さんを見た。
そしてそんな険悪な雰囲気を察したのか、初音が慌てて耕一さんにフォローに
入った。
「でも、ちょっとだけみんなより早いんだよ、耕一お兄ちゃん。わたしと梓お
姉ちゃんの学校は遠いから……」
「そう?」
「うん。だから楓お姉ちゃんは私や梓お姉ちゃんよりもゆっくり出来るんだよ」
「なるほど……」
初音の言葉で納得したように何度もうなずく耕一さん。
そしてひとしきりうなずき終わった後、唐突にこっちを見て声をかけてきた。
「で、楓ちゃんはあとどれくらいで出るの?」
「えっ……?」
私は焦った。
朝食の時は千鶴姉さんが上手く誤魔化してくれたけれど、それでもまだみんな
忘れるような時間が経った訳でもない。
果たして私は耕一さんと面と向かって詰め寄られても、切り抜けることが出来
るんだろうか……?
「だからさ、楓ちゃんはもう少し遅いんだろ?」
「はい……」
「まあ、大したことじゃないけど、途中まで送ってあげようかと思って」
「…………」
「もちろん楓ちゃんだけじゃないよ。初音ちゃんや千鶴さんも……」
「…………」
私だけだろうがなんだろうが、それは私にとって大した問題じゃなかった。
耕一さんと一対一になってしまうと言うことが、私は妙に恐かった。
そう、今感じているこの複雑な気持ちのように……。
するとそんな時、耕一さんの背後に声がかかった。
「……おい、耕一」
「ん? なんだ、梓か。ちょっと今取り込み中なんだ。下らんことなら後で……」
あっさり梓姉さんを振り切って私との会話に戻ろうとした耕一さん。
しかし、梓姉さんは聞く耳持たずと言う感じで耕一さんにちょっと凄みのある
声で続けた。
「あたしはどうなんだ?」
「は?」
「あたしだよ、あたし」
「だから、お前がどうしたんだよ?」
「……楓と初音とそれから千鶴姉の名前まで出て……」
「…………」
「だ、だから……」
「……何が言いたいんだ、お前?」
わずかな沈黙の後、耕一さんは少し素っ気無く怪訝そうな表情でそう訊ねた。
顔を赤くしていた梓姉さん。
そんな顔を更に真っ赤にして、大声で耕一さんを怒鳴りつけた。
「こ、こっのばっかやろー!!」
そして梓姉さんはそのままどこかに走って行ってしまった。
「あ、梓お姉ちゃん!!」
驚く初音。
梓姉さんの後ろ姿を目にしながらも、どうしたらいいのかわからないのか、追
いかけることも出来なかった。
「……ったく、何なんだよ、あいつは……」
耕一さんも訳がわからずにむっとした様子でぶつぶつ呟いた。
初音にも耕一さんにもよくわからなかったけれど、私には梓姉さんの気持ちが
良くわかった。
こんなにみんなの気持ちがわかるのに、私にはどうすることもできない。
それが悔しくてたまらなかった。
「耕一お兄ちゃん?」
「あ、初音ちゃん……何?」
初音に呼びかけられて、我を取り戻した耕一さん。
そんな耕一さんに小さな声で初音はこう言った。
「わたし、そろそろ時間だから」
「あ、そうか、そうだったよね。じゃあ……」
二日酔いでまだだるそうな様子で、耕一さんはゆっくりと立ち上がった。
「さっきも楓ちゃんに言ったけど、途中まで送ってくよ」
「いいの?」
「いいっていいって。そんな大したことじゃないんだし……」
初音の前では常に明るい顔を絶やさない耕一さん。
今も上目遣いで心配そうに耕一さんを見る初音に、軽く手を振りながら応えて
いた。
「でも耕一お兄ちゃん、二日酔いで辛いんじゃ……」
「ちょっとくらい散歩した方が却っていいんだよ」
「そうなの?」
「ああ。だから初音ちゃんもそのつもりでいてよ」
「うん、じゃあ一緒に行こ!!」
純粋な初音。
耕一さんの気遣いにも心から喜ぶことが出来る。
自分のせいで耕一さんに無理をさせているんじゃないかっていう思いが解消さ
れて、その表情にも陰りが全く見られなくなった。
「よし、行くとしますか……」
こうして耕一さんは初音と一緒に私の前から姿を消した……。
「…………」
私は耕一さんがいなくなって一気に気が緩んだ。
深いため息を一回つくと、なんとなく耕一さんが放り出していってしまった新
聞を手に取り綺麗に畳み始めた。
「…………」
誰にも言えないこの想い。
独り言すらも、今の私には許されていない。
だから私は手を動かす。
何かをしていないと、このまま自分がどこかに飛んでいってしまいそうな気が
したから……。
するとそんな時、私の後ろから声がかかった。
「楓……」
「……千鶴姉さん? 何?」
私は首だけ後ろを向くと声のした方を見た。
そこにはまだ普段着のままの千鶴姉さんが立って私を見つめていた。
「昨日はちょっと耕一さんとお酒を飲んじゃったから何も言えなかったけど……」
「…………」
「一体どうしたの?」
「…………」
「楓、あなた、おかしいわよ。耕一さんをまるで避けるようにして……」
私に詰め寄ったのは耕一さんじゃなく、千鶴姉さんだった。
そして私は千鶴姉さんに何も答えることが出来ずに、ただうつむいて目を伏せた。
私ははじめからわかっていた。
梓姉さんや初音は何も言わなかったとしても、絶対に千鶴姉さんは私を放って
おいてくれたりはしないと。
だから昨日は姉さんが耕一さんと酔い潰れてしまって、正直私はほっと胸を撫
で下ろしていた。
いくら単に先延ばしになるだけとは言え、千鶴姉さんに本心を隠したまま詰め
寄られるのはやっぱり辛かったから……。
でも、千鶴姉さんはやさしかった。
私に何かあることは既に察していたから、私の態度を咎めるようなことをせず
にそっと私の心に触れようとしてくれた。
「……心配事?」
「…………」
私は首を横に振る。
言葉で答えても良かったけれど、敢えて私は口を開かなかった。
口を開いたら最後、私の自制心もあっさり崩れ落ちて全てを千鶴姉さんに打ち
明けてしまいそうな、そんな気がしたから……。
「楓……」
千鶴姉さんは、そんな私をただ黙って見つめるだけだった。
やさしい瞳。
父さんと一緒に死んでしまった母さんの瞳に良く似ていた。
ずっとずっと私達の母親役を演じてきて……そして今も、姉としてではなく母
親として私を包み込むように見つめてくれる。
姉さんにも辛いこと、悲しいことはたくさんあるっていうのに……。
私は姉さんのことをよく知りながらも何も出来ない自分を思うと、ただ謝るこ
としか出来なかった。
「ごめんなさい、千鶴姉さん……」
「そう……せめて耕一さんがいる数日間だけでも、何とかならないの……?」
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
耕一さんがここにいる時は、いつもいい気持ちでいて欲しいと思う千鶴姉さん。
お客様として、同じ柏木家の従弟として、亡くなった叔父様のたった一人の息
子として、そして一人の男性として……千鶴姉さんにとって耕一さんという存
在は沢山のものを内包していた。
だから姉さんがそう言った気持ちは痛いほどよくわかった。
そして姉さんが私に言っているのは無理なことでもなんでもなく、至って当然
のことであり、悪いのは全て私の方なのだと言うことも……。
だから私は謝る。
ただ、謝り続ける。
言ってしまえば、全てを打ち明けてしまえば簡単なことだった。
きっと姉さんはわかってくれる。
でも……でも言えない。
夢と現実は全く別のものであり、夢の中で愛し合ったからと言って現実でも二
人は結ばれなければいけないのかと言うと……そんなことは全くなかった。
私は言えない。
自分の口からは、たとえ相手が耕一さんでなくても。
いつか、いつの日か耕一さんが私のことに気付いてくれるまでは……。
すると、千鶴姉さんは軽く息をついて私にこう言ってくれた。
「もういいわ、楓」
「姉さん……」
私は顔を上げる。
千鶴姉さんはそんな私を見下ろしながら、軽く微笑んでいた。
「そんな思いつめた顔しちゃって……まるで私がいじめてるみたいじゃない」
「…………」
「耕一さんにはちゃんと私が後で言っておくから。だからあなたは気にしない
で、楓」
「で、でも……」
「いいのよ。あなたにはあなたのことがあるんだから。私としては楓にも耕一
さんと普通に接してもらいたいけど、無理強いさせることもないしね」
「…………」
「だから私に出来ることがあったらいつでも言って。私はあなたの姉さんなん
だから……」
千鶴姉さんはそう言うと、そっと私の傍に腰を下ろす。
そして私をやさしくその胸の中に包み込んでくれた。
「ね、姉さん……」
驚く私。
でも、千鶴姉さんはそんな私に小さく訊ねてきた。
「楓も見てた?」
「えっ、何を……?」
「耕一さん。さっき初音にこうしてたでしょ?」
「う、うん」
「初音、凄く嬉しそうだったわね」
「うん……」
「あれできっと、自分には耕一お兄ちゃんがいてくれるんだって思えるように
なったと思うの、あの子」
「…………」
「でも、楓には初音みたいなことは出来ない……」
「…………」
「忘れないで、楓。あなた達には耕一さんだけじゃなく、この私もいるってこ
とを……」
私は千鶴姉さんの言葉に顔を上げようとする。
でも、千鶴姉さんは私の頭を軽く撫でて、そっとまた自分の胸の中に戻した。
「私にはまだ、あなた達の全てを受け止められるほどの包容力はないかもしれ
ない。でも、相談相手にはなれなくてもこうして……」
そして私をぎゅっと抱き締める。
私はそんな抱擁から千鶴姉さんの心を感じ取って呟くように告げた。
「千鶴姉さん、私……」
「何、楓?」
やさしい声。
温かくて柔らかで……。
「……何も言えないけど、でも……」
「いいのよ、別に……」
そして私は泣いた。
千鶴姉さんは黙って私の頭を撫でてくれていた。
そんな姉さんの手が、今までの全ての辛さを洗い流すように私に涙を流させた。
泣いたって何も解決などしない。
でも、でも今ここでこうすることによって……。
私は独りじゃない。
たとえみんなに何も言えなくても、私には千鶴姉さん達がいてくれる。
私が泣きたくなった時、こうして胸を貸してくれる姉さん達が……。
私の頭を撫でるやさしい千鶴姉さんの手が、何も言えない私の罪悪感をちくり
と刺激する。
でも、それはさっきまでの痛みとは少し違っていた。
痛いはずなのに何故か不思議と苦しくなくて、それが一層私の涙に拍車をかけ
ることになった。
止まらない涙。
でも……今はこうしてこのまま泣いていたい、そう私は姉さんの胸の中で思っ
たのだった……。
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