夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第十二話:闇の感触

それは唐突に訪れた。

気がついてみるとそこは漆黒の闇。
いや、闇というものは常に光をも含んでいるはずだ。
しかし、そこは完全に何も見えず、何も聞こえず、何も感じられなかった。
そう、自らの存在すらも。

夜と闇と無は、完全なるイコールではない。
だからこそ、人は夜のしじまを独り歩むことが出来るのだ。
だが……そこは完全なる無。
真っ白な画用紙にひたすら黒の絵の具、いやペンキで塗りたくったような黒だった。

俺は不安に思う。
恐怖を感じる。
夜には星が、そして暗闇には母さんがいつもいてくれたのに、ここには何もなかった。
ただ、無が存在しているだけだった。

「…………」

俺は自分の肉体すら感じなかった。
ただ、思考だけがたゆたっているような……。

そして俺はふと気がついた。
そう、もしかしたら俺は死んでしまったのかもしれない。
だが、どうしてそんな風に……。

と、そこまで考えてはたと気がついた。

俺は今までどこにいたんだ!?

そう、俺は柏木家に来たはずだ。
しかし、あそこには俺が突然ぽっくり逝くような原因が見当たらない。
俺は……まあいい、とにかく死んでしまったんだ。
死後の世界を堪能してみるのも悪くない。

……が、俺が堪能するものなど何もなかった。
俺は俺自身を含めて、完全なる無になってしまったのだ。
よくわからない、辻褄の合わないようなことばかりだが、所詮理不尽さの塊な
のだろうと俺はあっさり割り切ることにした。

だが……その時突然、俺は全てが一変したのに気がついた。

「オマエハ無ナドデハナイ」

心に響いた声。
その内容以前に、俺は自分以外の存在に歓喜した。

「お、お前は一体!?」
「オレハオレダ」
「こ、答えになってないぞ」
「オレハオレデアリ、ソシテオマエデモアル」
「……なに訳のわからねえこと言ってやがる」
「ククク……」

少しむっとした俺に対して、奴は頭に来るような笑い声を洩らした。
それを聞いた俺は、居場所もわからない奴に怒鳴る。

「うるせぇ、黙ってろ!!」
「イイノカ、オレガダマッテモ……?」
「当たり前だ!!」
「ククク……」
「笑うんじゃねぇ!!」

俺は完全にこいつの存在に頭に来ていた。
元々そんなに短気という訳でもなく、どっちかと言うと落ち着いていると自分
でも思っていたが、何故か俺はいつもの冷静さを欠いていた。
もしかしたら、この何もない世界に来てしまったせいで、どこか心に大きな不
安を抱えているのかもしれなかった。

「…………」

奴は俺が言った通り黙った。
しかし、この世界では黙られた方が辛いということを、俺は初めて知ることが
出来た。
俺は奴に会話を求めても良かった。
しかし、俺は半ば意地にもなっていたのか、絶対に自分からは喋らないと心に
誓った。

そして時は流れる。
この我慢比べには観客などいなかった。
ここにいるのは俺。
いや、俺自身いると言えるのかどうかもわからない。
そして奴も……と、奴のことを思うと、久し振りに奴の声が聞こえた。

「ココハオレノ領域。オマエノナカノ、オマエニハドウスルコトモデキナイ場
所ダ」
「お、俺の中だって?」
「オマエハ死ンデナドイナイ。イヤ、オレガイル限リ、オマエハ死ニタクテモ
死ヌコトスラデキナイノダ。ククククク……」

如何にも全てを知った風な口を利く奴。
しかし、妙に奴の語った内容は俺の心を捉えて離さなかった。

「ダガ、マダマダココハ狭イ。モット広ゲナクテハ……ソウオモワナイカ、コ
ウイチ?」
「えっ、どうして俺の名前を!?」
「ソレハ……オレガコウイチダカラダ……」

奴の言葉に愕然とする俺。
そしてその衝撃と共に、この世界が広がって行く。
視覚が、聴覚が、五感全てが怒涛のごとく俺の中に流れ込んできた。

「!!!」

闇。
それは変わらなかった。
しかし、もはや無ではなくなっていた。
垂れ込めた闇の中に、炯々と光を放つものが見えた。
そう、それは――奴の双眸だった。

「お、お前!!」

暗い為、輪郭は定かではない。
しかし、その二つの瞳だけは、真っ赤な血の赤に輝いていたのだ。
そしてそれは色だけではない。
視覚と共に嗅覚までもが蘇り……俺に奴の匂いを運んできた。

生臭い臭い。
動物の……いや、獣の臭いだった。
そしてそれは俺の中で急速に膨れ上がる。

獣の臭い、生温かい新鮮な血の臭い。
まるで奴が今ここで獲物を貪り食っているような、そんな感じさえした。
俺はついさっきまで、奴に人間性、つまりは知性を感じていたと言うのに……。

そしてそんな獣の臭いは弱まる。
いや、弱まったんじゃない、血の臭いが強まったんだ!!
もはや奴の存在すら感じない。
そこは血の海だ。
俺はまるですがるように奴の眼、奇しくも同じ血の色をしたその眼を捜し求めた。
だが、何も見当たらない。
俺の口、俺の肺一杯に血の臭いが充満する。
そして俺は――



俺はおもむろに飛び起きると、庭に向かって顔を突き出した。
そして吐く。
ひたすら痙攣するように嘔吐を繰り返し、それは胃の内容物が空になってしま
ってからも、一向に治まる気配を見せなかった。

「うっ……」

庭に撒き散らされた俺の汚物。
普段なら目にも留めたくないものだったが、俺はそれを見て全てが夢だったこ
とを知り、吐き気を止めることが出来た。

「…………」

俺は現実を取り戻して行く。
ここは柏木邸。
俺がしばらく厄介になる場所だ。
昨日は確か千鶴さんと一緒にビールを飲んで……。

「そっか……俺、酔っ払ってたんだ……」

俺は全ての原因をここに結び付けた。
普段なら見ないような夢も、慣れない場所で羽目を外してしまったことに起因
するし、吐き気を覚えたことも納得出来る。
俺はほっとすると同時に、いきなり初日からこんなことをして……。
どうしようかと真剣に悩み始めた。

「……庭くらい、掃除しないとまずいかな……?」

詳しいことは知らないが、この広いお屋敷は庭も壮観で、どう見ても柏木四姉
妹だけでは手入れしきれないような立派な庭だった。
そんな綺麗な庭に俺は戻してしまって……

「あ、耕一、お前、吐きやがったな!!」
「あ、梓……」

俺は突然後ろからかかった声に、完全に肝を失ってしまった。

「酒を飲むなら飲むなりに、ちゃんと自分で責任を取れよな。あーあ……」
「す、すまん……」
「まあ、部屋の中にぶちまけるよか100倍マシだけどな。耕一もどうせあた
し達と違って昼間は暇なんだから、ちゃんと片付けておけよ!!」
「あ、ああ……わかったよ、梓」

俺は完全に自分が悪いのだと言うことを自覚して、大人しく梓に謝った。
梓もそんな俺を珍しそうな顔で見下ろしながらも、最後はあっけらかんとこう
言い残して去っていった。

「ったく、千鶴姉も耕一も……これだから酔っ払いは嫌いなんだよ……」

俺には反論する資格もなかった。
しかし、取り敢えず梓が俺のことを保留にしてくれたと言うこともあって、俺
は口をすすぐ為に洗面所へと足を運んだ。



「あ、おはようございます、千鶴さん」

そこには先客の千鶴さんがいた。
だが、割と二日酔いの後遺症を感じさせずに平然と挨拶した俺に対して、振り
返った千鶴さんの顔は、まさに二日酔い、まさに最悪のコンディション、と言
わんばかりに真っ青な顔をしていた。

「あ……おはようございます、耕一さん……」

微かな声。
きっと千鶴さんは頭痛も凄いに違いない。
俺は頭痛はさほどではなかったけれど、千鶴さんを気にして小さな声で話し掛けた。

「千鶴さんも二日酔い?」
「ええ……少し飲み過ぎてしまったみたいで……途中からの記憶が全然ないん
ですよ。いたたた……」

千鶴さんは眉間に手を当てながらそうこぼす。
俺はそんな千鶴さんの姿など見たこともなかったから、少し面白く思って軽く
笑みを見せた。

「すいませんね、何だか無理させちゃったみたいで……」
「いいんですよ、耕一さん。そんな大したことじゃありませんから……」
「でも、相当辛そうですよ」
「いえ……」

俺の指摘に千鶴さんは完全に否定出来ない。
俺は千鶴さんらしいと思いつつ、そっとこう告げた。

「辛かったら仕事休んじゃったらどう? 俺が看病してあげますから」
「そ、そんなことっ! って、あたた……」
「ははは……急に大声出すからだよ、千鶴さん」
「もう、耕一さんったら……じゃあ、私はこれで……」

千鶴さんは俺との朝のちょっとした会話を終えると、使っていた洗面所を俺に
明け渡してくれた。

「ふぅ……」

そして俺は独りになる。
コップの水でよく口をすすいでから、今度は並々と満たした水を一気に飲み干
した。
冷たい水道水は、口を清めると同時に渇きも癒してくれた。
俺はそれで大分心を落ち着けると、ここしばらくのことを頭の中でなぞってみた。

そして俺は驚く。
夢なんて普通すぐに忘れてしまうものなのに、そして俺も他の連中のご多分に
漏れず、今までずっとそういう感じだったというのに……。

全てが現実味を伴って蘇ってくる。
俺の耳には奴の妙にくぐもった声が。
俺の鼻には新鮮な血の臭いが。
そして俺の口の中には……この味は、今口をすすいだばかりのはずなのに、ま
さに血の味そのものだった。

「うっ……」

そして俺は再び洗面所で吐いた。
まるで血の滴る生肉を無理矢理食わされた後のように。
それこそ何度も何度も……。


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