夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第十一話:酔いどれ天使
スーツから普段着に着替える。
もう季節も夏から秋に差し掛かってきて、初めはなかなか馴染めなかったこの
スーツ姿にも大分慣れた。
「やっぱり……変に気にしない方がいいわね」
私の独り言。
少しだけおしゃれしようかと思っていたんだけど、また梓にからかわれると思
って断念した。
別に梓が勘繰るような事は何もないし、ただお客様を迎えるのにそれなりの対
応をとりたいと思っただけなんだけど、考えてみれば耕一さんも他人じゃない
のよね。
私達は耕一さんを他人として迎えるのではなく、家族に近い存在として迎えた
い訳だし、きっと耕一さんも仰々しい応対よりもそういう関係を望んでいると
思った。
そうでもなければ、叔父様の思い出の残るこの柏木家にわざわざ来るはずもな
いし……。
私はラフな格好、でもだらしなさの欠片も感じさせないような完璧な服装で自
分の部屋を後にした。
もちろんお化粧はそのまま。
落としてる時間なんてないものね……。
そして私は直接耕一さん達の待つ居間ではなく、台所へと向かった。
「…………」
運良く台所に梓の姿はなかった。
でも、見る度にむっと来る張り紙を目にしない訳には行かなかった。
『千鶴姉、入るべからず!!』
わざわざご丁寧にマジックの太文字で大きく書かれている。
当然これはまごう事無き梓の文字だった。
初めこれを目にしたときは、私も完全に頭に来てビリビリに破り捨てたんだけ
ど、梓は何度でも書いては貼り付けていた。
この張り紙が今のコピーされたものになった時、私は自分の敗北を悟った。
きっと梓の部屋にはこれのストックが大量に……。
梓の部屋に行った時に全部処分してやろうかとも思ったんだけど、イタチごっ
こに終わりそうな気がしてやめた。
それに、どう考えても私よりも梓の方が台所に行く頻度が高いんだし。
私だってそんなに料理が下手でもないと思うんだけど……でも梓は私が台所に
入ろうとする度に露骨に嫌そうな顔をして、まるで自分の聖域を踏み荒されで
もしたかのように嫌味を言う。
初音達は慣れっこになっているけど、やっぱり耕一さんにはそんなところ見ら
れたくないし……。
だから私はほっと胸をなで下ろしながら、冷蔵庫に歩み寄って中からビールの
大瓶を一本取り出した。
そして絶対に食器を割らないように細心の注意を払いながら、戸棚のコップを
取り出した。
もちろん数は二つ。
耕一さんと、それから私の分ね。
「お待たせしました、耕一さん」
私は居間に入ると耕一さんに挨拶した。
「お、千鶴さん……ビール?」
耕一さんは私の手の中のものに気付いてそう言った。
「ええ、お嫌いじゃありませんよね?」
「勿論です、千鶴さん。俺もコンパとか多いし、大学生なら酒くらい……千鶴
さんもちょっと前まで大学生だったんだからわかるでしょ?」
「ええ。まあ私の場合、そんなにありませんでしたけど……」
「千鶴さんの場合、大学もこっちだったからね。遊ぶところもそんなにないだ
ろうし……」
「そうですね。多分、お仕事を始めてからの方がお酒を飲む機会、多いかもし
れません」
気がつくと私は立ったまま耕一さんと話をしていた。
そのことに気付くと耕一さんの相向かいに座ってビールとコップをテーブルの
上に置いた。
「千鶴さんは美人だからね。きっとおじさん連中にはたまんないんだよ」
「そ、そんな……耕一さん、からかわないで下さい」
「いやいや、千鶴さんみたいな美人にお酌をしてもらえるなんて、男冥利に尽
きると思うよ。なあ、梓?」
耕一さんはそう言って隣に座る梓に話を振った。
しかし、梓のことを忘れていた私も悪かったんだけど……私が見た梓の顔は、
どう見ても不機嫌そのものだった。
「ああ、千鶴姉は美人だからな。そうだろそうだろ」
「おい、梓……どうしたんだ?」
「何でもないよ。勝手に二人でやっとくれ」
「梓……」
耕一さんも梓が怒っていることに気がついたみたい。
案外耕一さんも鈍感なところがあるみたいだから……。
まあ、私としては変に鋭いよりもずっと好感が持てるんだけど。
「…………」
梓は完全にそっぽを向いている。
今の私が何を言っても無駄だろうし、耕一さんは耕一さんで困ったような顔を
していた。
そんなどうしようかと思っていた矢先、耕一さんは梓の膨れっ面にそっとこう
言った。
「……お前だって美人だよ、梓」
えっ……?
耕一さんの囁くような言葉。
それは愛の言葉とも取れるようなものに感じられた。
「こ、耕一、お前……」
梓も私と同じ衝撃を受けたようで、振り向いて驚きの声を発した。
耕一さんは今の感じを完全に払拭すると、軽く笑ってこう梓に言った。
「梓、お前、自分の顔を鏡で見たことがあるか?」
「あ、あるに決まってるだろ?」
「だったら気にするな」
「で、でもやっぱり千鶴姉の方が……」
「俺は柏木四姉妹、全員を美人だと思うよ」
「耕一……」
「千鶴さんには千鶴さんの、梓には梓のいいところがあるさ。まあ、言うなれ
ば千鶴さんはおじさん好みの美人なだけだな」
私は一瞬、耕一さんが何を言っているのか理解できなかった。
でも、梓はそんな耕一さんの言葉に大爆笑した。
「あははは! そりゃあ傑作だよ、耕一!! 千鶴姉はオヤジ向けの美人なん
だよな!!」
そして私は梓の笑い声と共に全てを理解して行く……。
「耕一さん……そういうことをおっしゃるんですか……」
「あ、ち、千鶴さん、これは言葉の綾と言うもので……」
「知りません!!」
私は頭に来て、慌てて弁解しようとする耕一さんから顔を背けた。
耕一さんの気持ちだってわかるけど、でもあんな言い方ってないんじゃない?
「ち、千鶴さぁーん……」
「いいっていいって、あたしが千鶴姉の代わりに酌でもなんでもしてやるよ」
困り果てる耕一さん。
梓は今のこの展開に完全に機嫌をよくして耕一さんにそう言った。
でも、私にだってプライドがある。
おめおめと梓に好き勝手されてなるもんですか。
「もう……こうなったらヤケ酒です!!」
私は二人に聞こえるようにそう言うと、ビールの栓を開けて自分のグラスに並
々と注ぐと一気に飲み干した。
「ち、千鶴姉……」
「おお、いい飲みっぷりだね、千鶴さん」
驚く梓。
そして何だか感心している耕一さん。
でも、私は気にせず続けた。
「知りませんったら知りません!!」
そう言ってもう一杯。
ビールはそんなに得意って言う訳じゃないけれど、とにかく勢いで飲んだ。
「だ、大丈夫かよ、千鶴姉……」
流石に梓の態度が不安そうなものへと変わる。
まあ、梓は私がお酒を飲むところなんて滅多に見た事がないだろうから当然か
もしれないけど……。
でも、そんな梓とは対照的に耕一さんはテーブルの上の瓶を手にすると、私に
向かって楽しそうに言った。
「ささっ、千鶴さん、ぐぐっともう一杯……」
「あら、有り難う御座います、耕一さん……」
「いやいや、しばらくお世話になるお近付きということで……」
「でしたら耕一さんも……」
私はそう言ってお酌してくれた耕一さんの手からビール瓶を受け取ると、余っ
たグラスにビールを注ぎ込んだ。
「おっとと、済みません。じゃあ、いただきますね」
「お互い様ですよ、耕一さん」
「いやなに、千鶴さんみたいな美人にお酌が出来るなら不肖柏木耕一、死をも
厭いません」
「……じゃあ、一気して」
「当然ですよ。千鶴さんには負けられませんから……」
耕一さんは真上を向いてビールを喉に流し込んだ。
耕一さんも慣れていると自ら言うだけあって、なかなかいい飲みっぷりだと思
った。
「さ、耕一さん、グラスが空ですよ」
私は矢継ぎ早に耕一さんのグラスを満たす。
耕一さんもうれしそうに私の注いだビールを立て続けに飲んでくれた。
「じゃあ、今度は千鶴さんが……」
「いえ、耕一さんにお酌していただかなくても……」
「いやいや、お互い様だって言ったのは千鶴さんじゃないですか」
「そうでした? まあ、耕一さんがそうおっしゃるんでしたら……」
私はそう言うと耕一さんに向かって空になったグラスを差し出す。
まだコップにほんのビール数杯だと言うのに、私はもう酔いが回ってきていた。
「おっと、もうなくなったか。姐さん、もう一本!!」
私が持ってきたビールはもう空になったらしい。
耕一さんはご機嫌で梓に向かってそう言った。
「ね、姐さんだって!?」
「そうだよ。姐さん、早くしとくれ」
「あ、あたしに言ってるのかよ、耕一!?」
「ああ」
耕一さんも結構お酒には弱いみたい。
まだ私より飲んでいないのに、もう酔っ払っていた。
梓もそれに気がついてどう対処していいのかわからない顔をしていた。
するとそんな時、丁度よく初音がやってきて……。
「おお、初音、いいところに来た!!」
「ど、どうしたの、梓お姉ちゃん?」
すがるような目で初音を見上げる梓。
初音は何が何だか状況を把握出来ずに、困惑の色を見せた。
「駄目なんだよ、もう……」
「だ、駄目って? わかんないよ、わたし」
「耕一も千鶴姉も酔っ払いだ。何とかしてくれ」
「な、何とかって言われても……」
状況を飲み込んだ初音は、困ったように耕一さんと私を見回した。
でも、いくら眺めてみたところで初音に何か出来るはずもなかった。
「梓っ!!」
私は唐突に梓を呼び付ける。
梓は酔っ払いの私に少し退き気味になっているのか、いつもの迫力の欠片もな
かった。
「耕一さんがビールのお替わりをご所望よ!! さっさと持ってきなさい!!」
「と、こういう訳なんだよ、初音。何とかしてくれよ……」
「梓っ、急いで!!」
「と、とにかくビールだ。頼む、初音」
「わ、わかったよ、梓お姉ちゃん……」
いい子の初音は足早にビールを取りに向かった。
そして私と耕一さんはビールが来るまでの間、少し話をすることにした。
「いい子だよね、初音ちゃんって」
「そうね。ほんっと、誰かさんとは大違いで……」
私はそう言うと梓の方をちらりと見やった。
梓は私の言葉を聞いてむっとした顔をしたけど、今は何を言っても無駄だと思
ったのか、黙って文句も言わなかった。
「俺も初音ちゃんみたいな妹がいたらなぁ……」
「羨ましいですか、耕一さん?」
「うん」
「でも、もれなく梓までついてくるんですよ?」
「そうだねぇ……ちょっと考える必要があるかな?」
耕一さんもご機嫌で私に乗ってくれる。
でも、私の言葉には口を挟まなかった梓も、流石に耕一さんに言われると黙っ
てはいられなかった。
「おい、耕一!!」
「なんだい、姐さん?」
「……この酔っ払いめ」
耕一さんは完全に酔っ払っていた。
そして梓もそれを見ると、反論する愚を悟った。
「お待たせ、梓お姉ちゃん!!」
かわいい初音がビールを二本手にしてやってきた。
梓はそんな初音をまるで救世主のように迎え入れる。
「おお、初音! 早くこいつらにビールを……」
と、梓が言い終える前に既にビールは私の手の中にあった。
「ささ、耕一さん、ぐぐっと……」
「おお、済まないね、千鶴さん……」
「私にも注いで下さいね」
「もちろんだよ。千鶴さんもどんどん飲んで」
「ええ。こんなに楽しいの、私も久し振りです」
「俺もだよ。やっぱり美人と一緒に飲む酒はまた格別だねぇ……」
「ふふっ、光栄ですわ、耕一さん」
「いやいやお世辞じゃないですよ、千鶴さん」
そしてもう、私と耕一さんは完全に二人の世界に入ってしまった。
「……初音?」
唖然としながら私達を見つめる初音に、梓がそっと声をかける。
「何、梓お姉ちゃん?」
「あたし、今日わかったことがあるんだ」
「え、なに、わかったことって?」
「千鶴姉は酒癖悪い上にオヤジ受けする美人だってことと……」
「あ、梓お姉ちゃん、それって……」
梓の言葉に呆れるような呟きを洩らす初音。
しかし、梓は真剣な顔をして初音に続けた。
「そして耕一は……酒を飲むとオヤジ属性になるってことだ」
「…………」
呆れ果てて物も言えない初音。
そして完全に諦めに入っている梓。
そんな二人をよそに、私と耕一さんはビールを飲み続けた。
この二人だけの酒宴はうちにあるビールがなくなるまで続いて……。
こうして耕一さんが柏木家に来た初日の夜は更けていった。
みんながみんな、心にわだかまりを残したままに……。
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