夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第十話:夢の続き
変な感じ。
折角耕一お兄ちゃんが来てくれたって言うのに、その初日からギスギスしちゃ
った。その原因が楓お姉ちゃんにあって、わたしも何とか言ってあげるべきな
のに、どうしてか言えなかった。
多分、あの楓お姉ちゃんの瞳にあると思うんだけど……。
「楓お姉ちゃん、入るよ」
わたしは軽くドアをノックして中の楓お姉ちゃんに呼びかけた。
別にノックしないと駄目だとか、そういう関係でもないからノックなしで入っ
て良かったのかもしれないけど、やっぱりわたしたちもだいぶ大人になったん
だし、もう少しちゃんとした方がいいと思い始めてた。
でも、今日はそれだけじゃないの。
「お姉ちゃん? 聞こえてる?」
今日の楓お姉ちゃん、どこかおかしい。
ううん、今日のって言うよりも最近のお姉ちゃん。
耕一お兄ちゃんが来るのが決まってから、ずっと変だった。
まあ、わたしや千鶴お姉ちゃん、梓お姉ちゃんだっていつもと違う感じだった
んだけど、でも、わたし達のはおかしい反応じゃない。
だけど楓お姉ちゃんは……まさか本当に耕一お兄ちゃんが嫌い、なんてことは
ないよね?
「…………」
わたしが呼びかけても、中の楓お姉ちゃんから返事はなかった。
もし聞こえてるなら、わたしに入って欲しくなくても返事くらいは絶対にして
くれるだろうし……。
わたしはそう思うと少し不安に感じてドアのノブを手に取った。
「ごめんね、入るよ……」
勉強に疲れて寝ちゃってるのかもしれない。
わたしは楓お姉ちゃんを驚かせないように慎重にノブを回した。
そして――
「お姉ちゃん……」
楓お姉ちゃんは寝てなんていなかった。
ただ勉強机に向かってじっとしていた。
別にそれだけならわたしだって全然驚かなかったんだけど、楓お姉ちゃんの目
には……溢れんばかりの涙の雫が光っていたの。
「初音……」
楓お姉ちゃんはようやくわたしの存在に気がついてくれたのか、こっちを向い
て言葉を返してくれた。
でも、そんなお姉ちゃんの声は、何故か沈んだ感じに聞こえた。
「……泣いてたの、楓お姉ちゃん?」
「え? あっ……」
楓お姉ちゃんはわたしに言われて初めて自分が泣いていたことを知ったのか、
慌てて手の甲で涙を拭った。
わたしは自分が泣いていることにすら気がつかない楓お姉ちゃんのことが気に
なって、心配そうに訊ねてみた。
「どうしたの、楓お姉ちゃん? 何だか今日はおかしいよ」
「何でもないの。ごめんね初音、心配かけて……」
「別にわたしのことはいいんだけど……何か悩み事でもあるの? わたしでよ
かったら相談に乗るけど……」
わたしは心からそう思っていったんだけど、口に出してみてなんだか間抜けな
ことを言っているような気がした。
わたしみたいなのがこんな楓お姉ちゃんの相談に乗れる訳ないのに……。
「…………」
「あ、ごめんね、お姉ちゃん。別にわたしは無理にって言ったつもりじゃない
から……」
「夢……最近、どんな夢を見る、初音?」
慌てて前言を撤回しようとしたわたしに、楓お姉ちゃんは小さな声で訊ねてきた。
わたしはお姉ちゃんがしゃべろうとしてくれたことはうれしかったんだけれど、
その内容の唐突さに驚かずにはいられなかった。
「えっ、夢?」
「そう、夢……聞かせて欲しいの」
「聞かせてって……時々見るけど、でもすぐに忘れちゃうよ」
「そう……」
「ごめんね、ちゃんと答えられないで」
「いいのよ、初音。それが普通なんだから」
「お姉ちゃん……」
お姉ちゃんの質問にちゃんと答えられなかったわたし。
でも、わたしは嘘なんて言えないし、これが真実だったの。
だからわたしにはこれくらいしか言えなかったんだけど、それが原因なのか、
また楓お姉ちゃんは今にも泣きそうな顔をしていた。
「わたしでよかったら聞くよ。耕一お兄ちゃんのこと?」
「!!!」
わたしは楓お姉ちゃんがおかしい原因が、耕一お兄ちゃんにあることを知って
いた。だからそう言っちゃったんだけど、言った後で後悔した。
だって、わたしが思っていた以上に楓お姉ちゃんは反応したから……。
「お、お姉ちゃん?」
「…………」
楓お姉ちゃんは驚いた自分をすぐに引っ込めた。
でも、わたしの言葉がお姉ちゃんに衝撃を与えたことは確かだった。
わたしは自分がお姉ちゃんの心の中の大切な場所に踏み込もうとしていること
を感じつつも、お姉ちゃんを心配する気持ちには勝てずにそっと聞いてみた。
「……お姉ちゃん、耕一お兄ちゃんが嫌いなの?」
「…………」
「そんなはずないよね? 小さかった頃はあんなにみんな仲が良かったのに……」
実のところ、わたしにはそんなに耕一お兄ちゃんを含めたみんなで遊んだ記憶
が残っていない。
確かに断片的には残っているんだけど、そしてそれがとっても大切な思い出だ
ってことはわかってるんだけど、でもそんな思い出は沢山ある訳じゃなかった。
まあ、耕一お兄ちゃんは夏休みとかにちょっと遊びに来るだけだったから、そ
れも当然かもしれなかったけど、やっぱりわたしが幼すぎたのが原因だと思う。
八年前、だからわたしが小学生になったかならないかくらいまでしか耕一お兄
ちゃんとは遊べなかった。
お父さん達が死んじゃって叔父ちゃんが来てからずっと、耕一お兄ちゃんが遊
びに来ることはなかったから……。
「…………」
「……嫌い……なの?」
わたしが重ねて聞くと、楓お姉ちゃんは静かに首を横に振った。
わたしは楓お姉ちゃんが耕一お兄ちゃんのことを嫌ってるなんて思うのも嫌だ
ったから、喜びを隠せずに大きな声を出しちゃった。
「でしょ? 耕一お兄ちゃん、やさしいから当然だよね!」
「…………」
「確かに久し振りのお客さんだけど、お姉ちゃんも人見知りなんてしてないで……」
わたしは興奮に任せた自分が恥ずかしかった。
楓お姉ちゃんの表情を見たら、わたしはもう続きを口にすることが出来なくな
った。
「…………」
「……ごめんなさい、楓お姉ちゃん。わたし……」
「あなたは悪くないわ、初音」
「で、でも……」
「知らないことに罪はない……私はそう思うの」
「罪? どういうこと、楓お姉ちゃん?」
わたしは楓お姉ちゃんの言葉に衝撃を受けた。
お姉ちゃんはわたしは悪くないって言いたかったんだけど、でも、罪っていう
ほどのものでもないと思ってたから。
それに、知らないことって……。
確かにわたしはどうして楓お姉ちゃんが悩んでいるのか、はっきりとしたこと
は何も知らないけど、でも今のわたしで知らないことって言えば、そのくらい
しか思いつかなかった。
「……ごめんね、初音。気にしないで」
「気にしないでって……気にしちゃうよ、楓お姉ちゃん」
「……ごめん……お願いだから、今の私の言葉は忘れて」
「お姉ちゃん……」
お姉ちゃんの言葉は頑なだった。
わたしの侵入を許さない、そんな感じだった。
多分、その原因はわたしが「知らない」ことにあるんだと思う。
それが何なのか、よくわからないけど……でもわたしは悲しかった。
わたしが知らないということについて。
そして、固い絆で結ばれた家族なのに、心を閉ざしてしまった楓お姉ちゃんが……。
でも、わたしは何も知らないから、どうしたらいいのかわからない。
せめて楓お姉ちゃんがそのわたしが知らないことはなんなのかを教えてくれれ
ば、わたしにも何か対処のしようがあったんだけど……。
わたしはそれを、楓お姉ちゃんの言葉を求めていたけど、お姉ちゃん自身がそ
れを口にすることはない……わたしはそう感じた。
そしてわたしは自分の無力さを悟り、この部屋を後にしようと思った。
「……じゃあ、わたしは先に行くね。もうご飯だから、お姉ちゃんも後から来
て。お姉ちゃんにも何かあるかもしれないけど、でも食事の時だけは一緒じゃ
ないとやっぱり……」
「…………」
わたしはそう楓お姉ちゃんに呼びかけた。
でも、やっぱりお姉ちゃんは言葉を返してくれなかった。
わたしの子供っぽさで怒らせちゃったかな?
そう思ってまた少し悲しくなった。
わたしはそんな自分を見せまいと、黙って楓お姉ちゃんに背を向けて入り口へ
向かった。
そしてドアのノブに手をかけたその時、突然楓お姉ちゃんがこう言った。
「……初音」
「え?」
わたしはノブに手をかけたまま立ち止まる。
でも、振り向けなかった。
わたしが振り向いたら、お姉ちゃんはまた黙っちゃうような気がして……。
「……不思議な夢を見たら……その時は私に教えて」
「えっ? 不思議な夢?」
「うん」
「別に私は構わないけど……でもどうして?」
「初音に知らないことがあるように、私にも知らないことがあるの」
「…………」
「私には見ることの出来ない夢の続き……でも、初音なら……」
「わたしが? お姉ちゃんの?」
「……ごめんね、訳のわかんないこと言って……」
「い、いいけど……うん、わかった。何か夢を見たら、すぐに楓お姉ちゃんに
言うね」
「有り難う、初音……」
わたしには何がなんだかさっぱりだったけど、わたしは楓お姉ちゃんの力にな
ることが出来るかもしれない。
そんな支えのようなものが、わたしの中で生まれた。
そしてそれをしっかりと胸の中で確かめると、楓お姉ちゃんの部屋を後にした。
耕一お兄ちゃんのこと。
そして楓お姉ちゃんが見れないって言う夢の続き。
多分何かつながりがあるんだと思う。
でも、わたしにはわからない。
きっとそれはわたしが「知らない」からなんだと思う。
でも、楓お姉ちゃんが見れないのに、わたしになら、って……。
わたしは自分が何らかの可能性を秘めているような気がして、楓お姉ちゃんの
言葉を反芻してみた。
そして全てを解決するには……そう、わたしが夢を見る、それしかないと思った。
何の夢なのかわからない。
でも、何故かそれを想うだけで、わたしの心の中に不思議な感情が込み上げて
くるのだった……。
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