夏の終わり、秋のはじまり
Written by Eiji Takashima
第九話:軋む日常
「ただいまー!!」
「あ、千鶴お姉ちゃんが帰ってきた!!」
引き戸のガラガラという小気味のいい音と共に千鶴さんの声が聞こえた。
そしてそれを聞くや否や、初音ちゃんが出迎えに立ち上がる。
「さて、俺も行こうっと」
俺は隣に座る梓にわざわざ聞こえるように言うと、立ち上がって初音ちゃんの
後に続こうとした。
「しょうがないなぁ。ったく、わざわざ出迎えなくたって……」
一人取り残されそうになった梓は、ぶつくさこぼしながらも立ち上がると玄関
へと向かった。
「おかえり、千鶴お姉ちゃん!!」
初音ちゃんの元気な声。
季節は夏から秋にさしかかり、日の落ちるのも大分早くなってきた。
だからこの六時をまわった時間ともなると、もう結構薄暗くなっている。
人はやはり太陽と共に生きているのか、日没を過ぎると不思議と疲れが出てくる。
それは不健全な夜型生活に慣れてしまった俺でも同じことで、日中とは違って
薄ぼんやりとしてくるものだ。
しかし、初音ちゃんにはそんな様子は全く見られない。
一日学校に行ってきて、それで俺を迎えに行く為に歩き回ったんだから、当然
のごとく疲れているだろうに……やっぱり一番若いと言うだけでなく、初音ち
ゃんのはちきれんばかりの明るい元気さが溢れているからなのだろう。
俺はそんな初音ちゃんを羨ましく思うと共に、微笑ましく見ていた。
「おかえり、千鶴さん。お世話になります」
俺は至って普通に挨拶をした。
変に堅苦しくても嫌だし、かと言って馴れ馴れし過ぎるのもまだどうかと思っ
たからだ。
やっぱり俺は、千鶴さんを前にして緊張しているのかもしれない。
そんなたかが挨拶如き、深く考えるようなことでもないのに気にし過ぎている。
千鶴さんは憧れの女性でもあったし、俺よりも年上と言う事もあって梓や初音
ちゃんのように笑ってごまかせないようなところがある。
まあ、言うなれば敵わない相手なのだ。
でも、そんな俺の気持ちをよそに、千鶴さんも普通に応じてくれた。
「ただいま、耕一さん、初音」
千鶴さんはそう言って軽く笑顔を見せると、靴をきちんと揃えて家に上がった。
「お帰り、千鶴姉。今日は早かったんだね」
俺達よりも少し遅れて梓が千鶴さんを出迎えた。
「ええ。耕一さんが折角来るのに、残業なんてしてられないでしょう?」
千鶴さんは廊下を歩きながらさらっと梓に応える。
しかし梓はそんな千鶴さんを軽くからかうように意味ありげな笑みを浮かべな
がらこう言った。
「まあ、うちの中でも一番興奮してて落ち着きがなかったのは千鶴姉だからな。
それも当然だろ」
「あ、梓っ! 私は別に……」
「別に、なんだって?」
「あ、あなただって初音だって、耕一さんがいつ来るかいつ来るかってずっと
楽しみにしてたじゃない」
千鶴さんは梓にからかわれているとわかりながらも黙っていられなかったよう
で、顔を赤くしながら反論した。
しかし、そんな千鶴さんとは対照的に、落ち着き払った態度で梓は答えた。
「まあ、あたしは自分のことは否定しないよ。耕一が来れば色々と面白いだろ
うし……初音もそうだろ?」
「うん、耕一お兄ちゃんと遊べると思って」
初音ちゃんまで引き込んで千鶴さんをからかおうとする梓。
千鶴さんにとってはたまらない話かもしれないが、俺にとっては仲のいい姉妹
の微笑ましい光景に映って、なんとなくほのぼのとした感じになっていた。
「わ、私だって同じよ。耕一さんが来れば……」
「来ればなんだよ? まさかいい歳して初音と同じように耕一と遊ぶのを楽し
みにしていたなんて言うんじゃないだろうなぁ?」
「う……」
千鶴さんは完全に梓にやり込められてしまって、反論すら出来なくなった。
梓はそんな千鶴さんにとどめを刺そうと思ったのか、何か言おうと少し大きく
息を吸い込んだ。
しかし、その前にやはりと言うかなんと言うか、初音ちゃんが仲裁役となって
二人の間に立った。
「ほら、お姉ちゃん達もいつまでもこんなところにいないで行こ。折角梓お姉
ちゃんが腕によりをかけて作ったお料理が冷めちゃうよ」
「そうだな。俺、さっきから腹ぺこなんだよ」
「でしょでしょ? ほら、耕一お兄ちゃんもこう言ってることだし……」
俺は初音ちゃんに協力する立場に立とうとした。
千鶴さんと梓のやり取りを楽しんでいるのもいいかもしれないが、俺のせいで
この家が変な空気に包まれるようになっては申し訳ない。
変に気を遣うのも他人を主張しているみたいで嫌だったが、初音ちゃんが賛同
してくれるなら、俺も初音ちゃんのようなスタンスをとりたいと思った。
まあ、俺はどう転んでも初音ちゃんのように自然には振る舞えないかもしれな
いが……。
「そ、そうね。ほら、初音の言う通りよ、梓」
「……そうだな。飯は冷めるとまずくなる」
「梓は料理上手だから……」
「まあな。千鶴姉と比べられてもうれしくないけど」
梓はそう言いつつも、千鶴さんに料理の腕前を誉められるのは満更でもないの
か、こんな時にはあんまり見せたくないだろう笑みを洩らしていた。
そして千鶴さんもよくこうして梓をおだてているのか、如何にも慣れた感じで
微笑んでいた。
俺は何だかそれを見てこの家庭の縮図を垣間見たような、そんな気がした。
「……それより楓は?」
さっきの話は完全にけりがついたのか、自分の部屋へ向かう途中、千鶴さんは
隣の梓に訊ねた。
すると梓も完全に普通に戻ってその問いに答えた。
「ああ、楓なら宿題があるんだとさ。折角耕一が来たんだから、そんなの放っ
ておいて明日誰かに写させてもらえばいいのに……」
「楓お姉ちゃんには無理だよ。そういうの苦手だもん」
梓の言葉に初音ちゃんがその可能性を否定する。
確かに初音ちゃんの意見はもっともな気がした。
しかし、それにしてもいくら見知った俺みたいな奴とは言え、一応俺は招かれ
た客人なのだ。
それなのに楓ちゃんと来たら、俺にはちらっと顔を見せただけで全然話もせず
に、とっとと戻って自分の部屋にこもってしまった。
俺はその異常さになにかあるのではと心配せずにはいられなかった。
そしてそれは千鶴さんも同じだった。
「そう、楓が……呼んでも来ないの?」
千鶴さんは不安そうに訊ねる。
そんな千鶴さんの心配を払拭するかのように、梓は平然と答えた。
「呼んだら来るかもしれないけど、勉強の邪魔するのも悪いだろ?」
「まあ、そうかもしれないけど……」
「飯の時にはちゃんと呼ぶよ。千鶴姉は他人の心配なんてしてないで、風呂に
入って玉の肌でも磨いておくんだな!」
「あ、梓っ!!」
梓は突然千鶴さんをからかって大きな声でけらけらと笑う。
千鶴さんも意表を突かれたのか真っ赤な顔をして大声を上げた。
しかし、今のやり取りとさっきのやり取りでは大きな違いがある。
傍目に見ても、今のはごまかしに過ぎなかった。
「……わたし、楓お姉ちゃん呼んでくるね」
少しの間を置いて、初音ちゃんが小さな、しかしよく通る声でそう言った。
「じゃあよろしくね、初音」
「うん。やっぱりご飯はみんなで食べたいから……」
行こうとする初音ちゃんに千鶴さんがそっと声をかけた。
初音ちゃんは振り向くと軽く微笑んで応えた。
そして黙ったままの梓。
別に見送る必要がある訳でもないのに、何故か残された俺達三人は、初音ちゃ
んの背中をずっと見つめていた。
「なぁ、梓……?」
「何だよ、耕一?」
「……俺、来ない方が良かったか?」
わずかに抱いていた思い。
しかし、それは俺の気にし過ぎだと思い始めていたはずだった。
俺の存在自体が調和の取れたこの柏木四姉妹の均衡を崩してしまうのではない
かと、ここに来て梓や初音ちゃんと話をしてみるまではずっとそんな気がして
いたのだ。
だが、俺と話もしてくれない楓ちゃんを目の当たりにして……俺の思考は悪い
方へ悪い方へと傾いていた。
俺はその思いが強くなってしまったから梓にそっと訊ねてみたのだが、それを
聞いた梓は大きな声で怒った。
「そんな訳あるはずないだろっ!!」
「……そうか?」
「そうに決まってるじゃないか!!」
「そっか……」
興奮する梓に対して、何故か俺は冷めきっていた。
だが、梓とは反対に千鶴さんはそんな俺にそっとこう言ってくれた。
「……ごめんなさい、耕一さん……」
「千鶴さん……」
「折角耕一さんが来て下さったっていうのに、変な気持ちにさせてしまって……」
「い、いえ、そんなことはありませんよ」
「楓のこと、怒らないで下さい。多分、亡くなった賢治叔父様のことが、まだ
忘れられないんだと思います……」
「…………」
俺は元々楓ちゃんに怒ろうなどとは思っていなかった。
しかし、千鶴さんはやけに辛そうに、ここにはいない楓ちゃんをかばった。
それが単に妹に対する姉の思いやりなのかどうか……俺には兄弟がいなかった
から、その辺の気持ちは良く理解できなかった。
「楓は大人しい子ですけど、人一倍やさしい心を持ってますから……」
「俺は……別に気にしたりはしませんよ、千鶴さん」
「済みません、耕一さん……」
「楓ちゃんだって俺みたいな万年暇人とは違うんだし。だからどうでもいいこ
とに付き合うのを億劫がったとしても……」
俺はそう言いながらも、自分の言葉に無理があることを感じていた。
真面目に課題をこなす少女がこんな些細なことを億劫がるはずもない。
だが、俺はそれ以外に何も言えなかった。
俺の言葉は、ただ今の現状にピリオドを打つ為の道具でしかなかったのだ。
「……飯にしようぜ、耕一。腹、減ってんだろ?」
「そうだったな。梓ご自慢の料理、食わせてもらうことにしようか」
「じゃあ、私は部屋で着替えてきますから……」
こうして千鶴さんも自室へと消えた。
残った俺と梓はそのまま居間に向かったが、それまでの間、お互いに一言も口
を利かなかった。
やはり俺が来たせいで、何かが大きく変わってしまった。
俺のそんな思いは、胸の中でどんどんと現実のものとして色付いて行くのだった……。
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