夏の終わり、秋のはじまり

Written by Eiji Takashima

第八話:染み付いた匂い

「おや、ちーちゃん、もうお帰りかい?」

ちょっと早めの帰り支度。
重々しくてなかなか慣れない会長席から立ち上がった私に、足立さんが声をか
けてきた。

「……ええ、足立さん」

少し申し訳なく感じた。
いくら会長とは言えまだ大学を卒業したばかりの私が定時に退社するなんて……。
そんな私の思いが顔に出たのか、足立さんは気になったらしく私に訊ねてきた。

「何かあるのかい? ちーちゃんは真面目だから、いつも遅くまで残ってるだ
ろう?」
「遅くまでなんて……そんなことないですよ、足立さん」

それは事実。
足立さんは私が遅くまで残っていると言うけど、当の足立さんはもっと遅くま
で残っていることを私は知っている。
叔父様が亡くなる以前から鶴来屋を支えてきてくれた足立さん。
叔父様が亡くなって社長になってからも、今までと変わらずに仕事に励んでく
れた。

「いやいや、私が思うに、会長なんて言うのはもっと早く帰るもんだ」
「どうしてですか?」
「下の者が気を遣うだろ? 会長が残っているのに平が帰れると思うかい?」
「それもそうですね。また一つ勉強になりました、足立さん」

私は足立さんの言葉になるほどと思って、うなずいてそう言った。
すると足立さんは温かく微笑みながら言ってくれた。

「そういうところが、ちーちゃんのいいところだと思うよ」
「そ、そんな……」
「何でも素直に受け止める。ひとつの組織を動かすには大切なことだ」
「……そうですね、はい」

私も足立さんの微笑みに応えるように笑みをこぼした。

「それよりも今日は何があるんだい?」
「あ、ええ、実は耕一さんをうちに呼んだんです」
「ああ、耕一君か……確か賢治の息子の……」

足立さんは何かを思い出すようにそう呟いた。
私はそれが何なのかを知りながらも、敢えてその事には触れずに話し続けた。

「ええ。今日の夕方着くことになっているんです。だから耕一さんがいる時く
らいは、早く帰ってあげたいと思いまして……」
「そうだな。それが一番だよ」
「済みません。ですから今週と来週一杯くらいは定時に帰らせていただきたい
んですが……」

私がそう言うと、足立さんも感傷から抜け出したのか軽く笑いながらこう言っ
てくれた。

「なに、ちーちゃんはここの会長なんだ。わざわざ私に気を遣うことないよ。
なんなら耕一君のいる間、会社に来なくてもいいんだよ」
「そ、そんな……いくらなんでもそこまでは出来ませんよ、足立さん」

私は困ったように言う。
そして足立さんはそんな私を実の娘のように思ってくれるのか、やさしい眼差
しで見守ってくれた。

「……そういうところもちーちゃんらしいな。わかってるよ、ちーちゃんがそ
んな風には振る舞えないことくらい」
「足立さん……」
「でも、出来るだけ耕一君の為に時間を割いてあげるんだよ。耕一君だって実
の父親を亡くした後なんだから……」

それが私達の現実。
もう、叔父様はこの世にはいないのだ。
口にしたくなかった。
それは私も足立さんも同じ。
足立さんはこの八年ほど、父さんの後を継ぐ形で鶴来屋に入ってきた叔父様の
補佐をしてきた。
お爺様の代からずっと鶴来屋を支え続けてくれた足立さん。
だからこそ、不幸続きの柏木家に対する思いも人一倍強かった。

私達姉妹も悲しい。
耕一さんも悲しい。
でも、悲しいのは私達だけじゃない。
足立さんも同じように……。

足立さんと叔父様はよく気が合ったのか、仕事帰りに一緒にお酒を飲んでくる
ことも少なくなかった。
とは言っても足立さんも叔父様もそんなにアルコールを嗜む方じゃない。
多分、プライベートで、仕事とは離れた場所で色んなことについて語り合いた
かったんだろうと思う。
そして、その内容はきっと私達姉妹のことや、耕一さんのことも当然のごとく
含まれていたはず。
だから、足立さんにとって柏木家は家族に近いくらいの存在だったのだ。

「わかってます、足立さん。もしよかったら足立さんもうちに遊びに来て、耕
一さんに会ってあげて下さいね」
「ああ。今度の休みにでもお邪魔させてもらうことにするよ」
「じゃあ、私はこれで……お疲れ様でした」
「お疲れ様、ちーちゃん。耕一君に宜しくな」

足立さんは軽く手を振りながら私を見送ってくれた。
そして私はそんな足立さんに向かって、鶴来屋の社長でなく実の父親に対する
ようにちょっと声を投げかけた。

「足立さんも早く帰って下さいよ! なんたってもう鶴来屋の敏腕社長なんで
すから。いつまでも残ってると、みんな帰れませんよ!」
「ち、ちーちゃん!!」

私に一杯食わされたような顔をする足立さん。
そして私達を温かく見守ってくれる社員のみんなが一斉に笑い声を発した。

「こ、こらお前達、笑ってないで仕事せんか!!」
「そんなに怒ったら身体によくないですよ、足立さん! じゃあ、私はこれで!!」

私は最後に大きく手を振って事務所を後にした。
後ろからは「お疲れ様です、会長!」と言うようなみんなの声が聞こえた。
そして私の顔にはまだ笑みが残っていた。

こんなアットホームな感じの職場は、お爺様以来のものだった。
でも、それは私達柏木一族だけが作り上げてきたものではなく、足立さんの力
がとても大きかった。
仕事に対する徹底ぶりとは裏腹に、普段はとても気さくでやさしい足立さん。
足立さんがいなければ、鶴来屋はお爺様の代で終わっていたと言われるほど、
鶴来屋グループにとっては重要な人物だった。
でも、私にとっての足立さんは違う。
仕事以前に、家族のように私を包んでくれる存在だった。

足立さんは未熟な私にひとつの組織を束ねる為の知識を教えてくれ、会長とし
ての私を育ててくれた。
それが足立さんの言葉の端々にも感じ取ることが出来る。
そしてまた、足立さんがいまだ悲しみに暮れる私を慰めようとしてくれている
ことも……。

でも、私は足立さんも叔父様の死の衝撃から脱しきれていないことを知っている。
足立さんの悲しみだって、私と同じくらい強いのだろうに……。
だけど私は足立さんを慰めることが出来ない。
それよりも足立さんの慰めにすがり、更にそれだけでは足りずに耕一さんまで
も求めている。

きっと足立さんの目には、そんな私の弱い心が手に取るようにわかっていると
思う。
私はもう、ただの柏木千鶴ではなく、鶴来屋の会長「柏木千鶴」だと言うのに、
いまだに小娘の域を脱しきれない。
足立さんは笑って許してくれるけど、いつまでも足立さんにおんぶに抱っこでは……。

だから私は強くならなくちゃならない。
鶴来屋の会長として、そして柏木家の当主として……。

でも、私にそれが耐えられるの?
時々そんな思いにとらわれる。
叔父様がいた時は名義だけの会長職だったけど、今では名実共に会長であるこ
とを求められている。
そうなってからまだほんの数日間だと言うのに、その重責は私に重く圧し掛か
り、私を苦しめる。
叔父様の死だけでも、私には耐え難いことだったと言うのに……。

でも、今の私には叔父様の死を悲しむことは許されていない。
会社では会長として、そして家では家長として……。

誰かにすがりたい。
そして、思い切り泣きたい。
本当の私、素顔の柏木千鶴に戻って……。

そして私はその相手に耕一さんを選んだ。
耕一さんはまだ大学生。
私より年下だと言うのに、なぜ耕一さんなのか……?
やっぱり耕一さんと叔父様を重ねて見ているんだと思う。
叔父様はいつも、強がる私の心のうちを見透かしてしまって、そして暖かい微
笑みで包んでくれた。
私はそんな叔父様に悔しく思うこともあったけれど、でも、裸の私にされると
いうことが妙に心地よかった。
そして、これが父親と言うものなのだと……。

耕一さんは怒るかもしれない。
いくら叔父様に理由があるとは言え、叔父様の微笑みを独占していたのは私達
四姉妹だった。
そして尚、叔父様の代用品にしようとしている。
耕一さんがそれに気付いた時、私にどう振る舞うか……?

私は耕一さんに叩かれたいのかもしれない。
それで全てが吹っ切れるのかもしれない。
もう、叔父様はこの世にいないのだと……。

相反する期待が入り混じる。
でも、とにかく耕一さんに会えば全てが解決する。
私のそんな思いが心をはやらせた。



会長専用の重々しい黒塗りの国産車。
私には不似合いだったけれど、売るのももったいないと思ってこれを使い続けた。
でも、これには思い出が残っている。
お爺様の思い出、父さんの思い出、そして叔父様の思い出……。

「煙草を吸う人なんて、もういないのにね……」

車の中に染み付いた煙草の匂いが私の記憶の奥底をくすぐる。
それは暖かく懐かしいものだっただけに、私は車の窓を大きく開き、新鮮な空
気をいっぱいに取り込んだのだった……。


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